>>383,384(NAMっ子さん)
<価値論>を本気でやると認識論までも含む話になりますが、図式的には
<経済的価値> <ヘーゲル論理学>
使用価値 − 実在(質、量、限度)
交換価値 − 現象と本質(根拠)
価値本体 − 現実性(実体)
と対応づけることができます。使用価値(有用性→稀少性→価値標準)は
価値の実在的な基礎であり、価値の現象形態としての交換価値における
形式規定(価値形態)に対する質料として、自然的な限界をなしている。
現象する価値としての交換価値(商品)は、現存在する価値根拠としての
価値自体(貨幣)において、まさに自然的実体性(物自体)を獲得するが、
価値の運動(価値法則)はその実体が社会関係の総体であることを云々。
>価値とは他人にとっての使用価値(自分にとっての無使用価値)であって、
それは使用価値(有用性)が無関心な量として現れる、つまり財の余剰の
場合です。稀少性としての価値は有用性に対してその限度を設定する。
>価値概念は他人との使用価値の交換(商品交換の原型)を自明の前提に
>している。
およそ概念は実在と本質の統一ですから、価値概念とは、価値の本質を
商品交換における自己同一性として把握し、それが実在的有用物において
現象し、価値法則として展開される必然性を捉えることです。それは近代に
なってマルクスによって初めて成し遂げられた。しかし、価値概念の対象
(つまり有用物)は交換が行われる以前から実在したわけです。
>だが、狩猟採集民は自己消費のために主に財(富)の獲得をするのであって、
>交換に出すためにそうするのではありません。
まったくその通り。そこでは富(有用性)と価値が即自的に統一されている。
>他人にとっての使用価値(交換財)ではありません。
他人というのが共同体内部の他者を指す場合には、交換は無かった。
交換は所有における他者を前提する。
>>383,384(NAMっ子さん)(つづき)
>ゆえに、狩猟採集民の"労働"は価値生産的ではないでしょう。
価値は有用物の生産と共に"形成"されるのです。それが現実的になるため
には、一定の社会構成体が必要です。しかし、即自性としての価値形成労
働、ということは常に反省的、本質的認識の対象として真です。
>遠近法的倒錯の所産でしょう。
かって○経において、「『資本論』冒頭に現れる単純商品は歴史的に実在し
たか?」という議論があったのと同様の誤解です。それは本質論的な歴史認
識(即自ー向自的発展概念)を経験的な歴史認識と混同する議論です。
>財の交換のないところに価値概念はありません。
価値概念の対象は価値本体であり、交換価値(現象)に止まらない。
>リカードの考えであって、マルクスの考えではありません。
アダム・スミスも漠然と考え、マルクスはその必然性を明らかにしたのです。
>マルクスの考えは交換が成立したとき初めて、あたかも交換された二つの財
>の間に共通の実体=抽象的労働が遡及的に見いだされるという考え
やはりそういう誤解が出ますね。それは<実体>概念に対する無理解です。
実体(Substance)とは通常、自然的実体として、物質のように対象の基体
をなす存在として思念されますが、本来現実における偶有性の総体として、
現実の現実性を言います。それは常に事象の生起の終りにおいて、その本体
的な存在として事象の否定性において自己を現すもの、という過去的な存在
です。そして、いわゆる労働価値説(労働が価値の実体であるという説)に
おける労働は決して自然的実体としての労働(投下労働)ではなく、社会的
実体としての労働(社会の再生産のための必要労働)をいうのであり、それ
が価値なる物象的形態において転倒的に自然的実体(物自体)として現れて
いるということです。それは決して主観的なものではなく、客観的です。
>それは交換行為の事後的に発見される「仮象」でしょう。
そうなると、価値とは<主観的なあるもの>となってしまう。(誤解された)労働
価値説を否定するのは構わないが、マルクスにそれを負わせるのはNGです。