◆◇後期フッサール思想の根本問題◆◇

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175研究者1
昨日風邪を患ったようでイマイチ調子が悪いのですが、
論争(?)も順調に経過中のようですので、基本的な事柄に
限定してお応えしますね。なんかいつもそんなこと言っているような。

>死刑囚さん

まず、すべてを論ずる以前に、私のレスをきちんと読んで下さいね。

>オレの「好意的」にも限度があるぞ

荒らし煽りの蟠居する中で、「好意」などには興味ありません。
そんなものは早く捨てるべきです。

>つまり間主観とは、「他我を触媒とした主観」のことだ。
>もっと簡単に言えば、「他我というフィルターを有した主観」のこった。

恥ずかしい言い方はよして下さい。フッサールが相互主観性でそんなこと
を考えていたのなら、彼の思考は高校生レベルを越えてはいなかった、
ということになりますね。高校生レベルなのは貴方だけで結構です。
第一、貴方は「超越論的相互主観性」と「事実的相互主観性」との区別も
無視しているではありませんか。これが生活世界の問題と錯綜してくる
ところを全然考慮していないじゃありませんか。
それで私に相互主観性の蘊奥を語ろうとするなんて、私だったら
恥ずかしくてビルから飛び降りるかも知れませんよ。

貴方の哀れさ丸出しの意見には答える気力も起こりませんが、
答えないと文句を言われるかも知れないので、一応答えておきましょう。
まず、貴方の書き方から判断する限り、それは通俗的以前に、
万人の常識を反映したものに過ぎません。

他の「われ」を「触媒」にした「主観」。この辺り説明不足で意味不明です。
他我に触れられることで何故「主観」などというものが直接に得られるのか。
「他我というフィルター」を有することにより、何故「主観」が生ずるのか。

この辺りの問題を無視して、いきなり相互主観性の議論に持っていくところが、
貴方の中学生ぶりを余念なく発揮しているのです。
相互主観性の問題は、「ここから」生ずるものなのです。
貴方は問題以前の我々の常識を尤もらしく反芻したに過ぎず、その意味で
朝三暮四という言葉が最も適切なのです。

>君は誤読するのが趣味みたいだから、いちおー解説しておく。
>もちろん「自己意識と他者意識が不可分」であるのはあたりまえ。
>というよりは、他我を妥当して初めて自己意識が可能になる。
>客観世界の妥当も、他我の妥当があって初めて可能になる。
>「自己」と「主観」をごっちゃにするなよ。

まず、「誤読」に関しては、貴方の説明が舌足らずで、その上文章が
中学生並みに下手だということが主要な原因です。私に非はありません。

>というよりは、他我を妥当して初めて自己意識が可能になる。

あのう・・・。そんな常識的なことを言わんがために引用した言葉じゃ
ありません。その「妥当になる」過程はどうなりますか。それが
そもそも相互主観性の問題でしょう。私はその「問題」を提示したかっただけ。
それを「誤読」した貴方の方に問題があるのですよ。
それから「自己」と「主観」というのは別物ですが、貴方が両者をどのくらい
厳密に使い分けているのか教えて下さいね。というのも、フッサールはその辺り
さほど気にしていないからです。
176研究者1:2001/06/01(金) 13:52
それから「内在-超越論的-超越」の問題に関しては、貴方は明らかに
中期の図式の見かけだけに囚われ、これをまったく理解しようとしませんね。
そんなに難しかったですか。いい子だからそんなに駄々を捏ねないで、
素直に私の文章を読み、私の指定した箇所を読んで下さいね。

でも、貴方がこんなこと

>「内在的─超越論的─超越的」という馬鹿げた図式など出てこないのは

を言っている限りでは、馬鹿に教え諭すような状況ですね。
こんな図式をストレートにフッサール自身が指示する筈がないでしょう。
フッサールの文章の行間を読まないと駄目なんですよ。
国語の先生にそう言われませんでしたか。

それから、貴方の「デカルト的省察」に対する加藤君並みの理解を論難しなければ
なりません。まずですね、

「考えられる意味のすべて、考えられる存在のすべては、それが内在的であれ超越的であれ、
意味と存在とを構成するものとしての超越論的主観性の場の中に入って来る」

という箇所。フッサール自身がはっきりと、「内在」「超越」は、両者ともに「超越論的」
主観性の構成(これはつまり「超越論的」構成)に関係すると述べています。

更に、

「両者(内在と超越)は本質的に互いに連関しており、本質的に連関しているものはまた
具体的にも一つであり、超越論的主観性という唯一の絶対的てありながら具体的なものにおいて、
一つとなっている」

という箇所。ここではっきりとフッサールが、「内在」と「超越」とをジョイントするものとしての、
或いはそこにおいて「超越」と「内在」とが「本質的に連関する」ところの、「超越論的場」を
想定しています。皆さん、これではっきりしましたね、死刑囚さんが何も理解していないことを。
ここでフッサールは、はっきりと両者を本質的に連関させる第三の契機としての、
「超越論的なもの」を想定しています。
177研究者1:2001/06/01(金) 13:53
続けて、

「超越論的主観性が、可能な意味からなる全体であるとすれば、その外部というのはまさに
無意味である。更に言えば、どのような無意味も意味の一つの様態であって、見通すことが
できるということのなかで無意味性をもっているのだ。」

と言います。ここで Unsinn と言われているのは、超越論的主観性というものを無視して、
内在と超越とを連関させることは無意味である、ということです。つまり、両者の間には、
必ず「超越論的なもの」が第三項として介入せねばならない、という主張であります。
つまり、「超越論的」という契機がなくなってしまえば、「内在-超越」という関係は
意味を持たなくなる、ということです。だからフッサールにとっては、

「内在的-超越論的-超越的」

という図式のみが、超越論的認識論で有効になるのです。
つまり、超越論的主観性の介入しない、「内在-超越」という伝統的認識論の構図では、
そもそも認識論自体が成り立たないという主張です。

死刑囚さん、分かりましたか?
フッサールの字面ばかり読んでいるだけでは駄目ですよ。

>概念を説明しているんだなんて糞みたいな言い訳はするなよ

そんな言い訳誰がするんですか(笑)?
私はむしろ、ここまで完膚なまでに叩きのめされた貴方のその後の行動の方が心配です。
最初に大きく出過ぎましたね。学部生だからと言って舐めてたんですかね。
まあ、私が大学生なら、貴方は高校生なので、人生はまだまだこれからですよ。

>「内在的─超越論的─超越的」なんて馬鹿げた図式を捏造して、
>理解を惑わしていることなんだから

上の詳細なフッサール解釈を私が提示した限りは、もう何を言っても悪あがきにしかなりませんよ。
貴方がフッサールの超越論的哲学を根底から理解していないことはすでに暴露されましたから。

>現象学は難解だと、伝統的に思われているが、これはまったくの不当

痛いですね(笑)。分かってない奴に限ってそんなことを言うんです。

>それを通俗的と言いたければ言えばいいが、それなら、いったい哲学とは
>何なんだ?

こういうのを俗に「逃げ」と言います(笑)。いきなり一般論を持ち出して話題をすりかえる
テクニックです。


はい。長かったけど、これで死刑囚さんもいい加減に懲りるでしょう。