残酷さについて語る前に、我々の人生がいかなるものか
まず、考えてみたい。
と言ってもそんなにおおげさなことじゃない。
我々の人生はどのようにしてスタートするのか考えてみるのだ。
たいていの人間は前世の記憶はなく、3、4歳のころ、
気がついたら生きていた、というのが通常だろう。
荒っぽい言い方だが、親が勝手に我々を産み育てて
我々は誰にも産んでくれと頼んでいないのに、
気がついたら、人間としての人生をスタートしており、
成人になるといろいろ義務を負わされることになる。
冷静に考えてみると、自分は自分の自由意志で産まれてきた
わけじゃないから、存命中にいかなる義務をも負わされるいわれはない
と言ってもいいようにも思える。
だが、この主張が許されるのは思春期までだ。
大人になってからこんなことを言ったら真性のドキュソだ。
しかし、実は大人になってもこのドキュソな主張は正当化される
可能性もあるように思える。
大人になったら今のこのパラドックスというか、理不尽さはどうやって
解決されるかというと、大人としての義務を負わされる前に、
親や、家族や、社会などから生きることについての肯定感をもたらすだけの
恩恵や権利を与えられる、という条件のもとでのみ解決される。
これも、荒っぽい言い方だが、要はこの理不尽さは論理的に解決される
というよりは、ほかのみんなもそうやって生きているから、あるいは、
大人としての義務はあるものの、まあまあ、人生は楽しいから
という、言いようによっては曖昧な解決で済まされている。
なので、これらの恩恵や権利が受けられなかった者は上で述べた
真性ドキュソな反抗を世界に対してなし得るであろう。
このような真性ドキュソはいったいどうすればいいのか?
その一つの解決策は宗教だろう。
世界のすべてに見捨てられてもその世界の外側にある宗教がその者を
救ってくれれば、その者は生きていけるだろう。
しかし、非常に困難ではあるのだが、もう一つ方法がある。
それが、イニシエーションを受ける、ということだ。
世界に見捨てられ、宗教にもすがれない者は、上で述べたような、この世界の
恐らく本質的な残酷性に直面することになる。
重要なことは、実はこの世界は本質的には誰にとっても残酷だ、
ということだ。
真性ドキュソは運悪く、というか、運良くというか、たまたま
この残酷さに直面することになる。
それ以外の通常人は現存する世界から応分の恩恵を受けて
そのような残酷さに直面しないで済んでいるに過ぎない。
そして、この残酷さに直面し、理不尽だと感じながら、
どんな報いも得られないかもしれないと思いつつ、
自らの自由意志で自分の責任を果たそうと努めてみよう
と殊勝にも考えたとしよう。
そうすると、しばらくするとイニシエーションを
受けることができるかもしれない。
もし、運良くイニシエーションが受けられれば、
今度はまったく逆の現象が起こる。
その本質的な残酷性が実はその本質的な神の恩寵
とでも言うべきものに変容する!!
世界の残酷さと自らが一体となることで
実はそれが恩寵であったと感じるようになるのだ!
正直なところ、これはイニシエーション後の私の実感でもある。
ただ残念なことはこの真性ドキュソが必ずしもイニシエーションを受ける
だけの条件を備えていないことの方が多いだろう、ということだ。
だから、やっぱり宗教が大事だということになる。
そうだ。
>>389と
>>390はイニシエーション後の私の人生に対する姿勢を
あらわしているよ。
世界は残酷だと思いつつ、同時に、世界は自分に恩寵を与えてくれる
と、なぜか思えるのだ。
残酷、非情なことに直面してもそれと同じだけ、いやそれ以上に
世界は私を祝福してくれている、となぜか思えるのだ。
別に自己満足でも、気が狂ったわけでもないのだが。
付け加えると、
だから、私はたまに残酷なことを他人に平気で言えたりするのだ。
そうだったのか。
いま初めて気がついた(藁)
>>422にもう少しだけ追加したい。
具体的に言えば、100コ不幸な、嫌なことがあっても、
1コ幸福な、いいことがあれば自分は世界一の果報者
となぜか思えてしまうのだ。
もちろん、その100コの嫌なことと1コのいいことを
天秤にかければ100コの方がはるかに大きい場合でも
そのように、純粋に1つの幸せな状態に対して
最高の幸福感を味わうことができるのだ。
100コの嫌なことを忘れ、1つの幸せな状態を
喜ぶことができるのだ。
ただの脳天気と言われればそれまでだが。
しかし、これは事実なのである。