>>205 ぎゃらりいさま
「いちご姫さんはある人間がなにか有意味な行為(と他人から見えること)をしているときに、
自由だろうが非自由(?)だろうがそこに何らかの「意志」といった余計なものを想定すること自体が無意味だ、という主張なのでしょうか?」
「意志」が何らかの<出来事もしくは持続>として想定される事自体が無意味だ、という主張です。「意志」はある行為を行為者が自ら欲して行ったという事を表す副詞的な表現であり、名詞とその対象という構造で考えてはいけない、と考えます。
ある行為の意志が存在者でありかつそれが伴われる事無しには行為は意志的であり得ないしたら、<東京から大阪へ行く>という行為が意志的である為には<東京から大阪へ行く意志>が行き始めてから辿りつくまで存在していなければならない。(ある一時点で<意志>すればよいのだとしたら、その後意志を放棄したのに非意志的に行った場合と、最後まで意志的に行った場合の区別が失われる。)従って、意志は(ある特定の瞬間に生起する)出来事ではない。
しかるに、東京から大阪に至るまでの間、常に意志を表象的に抱いていられる訳ではない(たとえば名古屋・京都間に列車で昼寝をした時の事を考えてみよ)。仮に、意志が表象されるような出来事や持続であれば、その間は非意志的に移動した事になる。しかし、その間も含め、その行為者は<東京から大阪に意志的に移動した>のであり、東京から名古屋までと京都から大阪までのみ意志的に残りは非意志的に移動した訳ではない。従って、意志は表象されている当の出来事や持続ではない。
だが、だからといって意志は表象されていない持続でもない。というのは、もし持続であれば、それは行為者本人が特権的に認識できるかあるいは第三者が観察により認識できねばならない。しかし、仮に第三者的に観察によってのみ認識されえるならば、自らの行為が意志によるのかいなかを、行為者は必ずしも知らず、またその認識を誤る事があり得る(意志的と思ったがそうではなかった、またその逆)、という受け入れ難い帰結を招く。対して、行為者が特権的に知り得るのに、それが表象で無いとして、かつそれが持続であるとしても、それがいかなる持続であるか想定し難い。それ故、意志はそもそも出来事でも持続でもないのだ、と考えざるを得無い。
>>205 「日常的な意味で拘束や強制(例えば銀行強盗に銃を突きつけられて仕方なく金を渡すとか)がない行為(自分でコップの水を飲むとか)を「自由な行為」としていると理解して良いでしょうか?」
そうです。日常的な意味で拘束や強制がない行為を<自由な行為>と見なします。
(但し、その大部分が、行為者は問われた時に「斯く斯くの意志によって」「しかじかの意図で」なした、と説明できる事を要する、と考えますが。)
「(1)の論点と絡みますが、「意志」を想定せずにそうした「自由」な行為が可能になる根拠は何なのでしょうか?」
私たちが、他者や状況のあるものが行為を齎していると<みなす>場合には「自由で無い」それ以外は「自由な」行為と呼ぶ、という言語習慣を採用している以上に、何らかの根拠がある訳ではありません。(但し、上記の付記同様、「自由な」行為において、人がその行為に意図・意志を付与・説明出来ない事が多々あるならば、そのような習慣は存続し難いでしょうが。言い換えれば、習慣とこの特性が<現に>折り合っている事が、「自由」概念を存立させ続けている(理由ではなく)原因なのです。)
「もし意志や意図のようなものを想定しないならコップの水を飲む、という行為も実は身体の生理的必要に身体が「強制」された反応という見方もできると思いますが」
出来るが、我々の言語習慣は現にそういう見方を採用していない、という事だ、と考えます。
>>206 「たとえばその「自由な」身体の行為と、風にのってそよぐ木の葉の運動(これはふつう「木の葉の自由な行為」とは 呼ばない筈です)を区別するものは何でしょうか?」
我々の言語習慣がそれを区別している、という事につきます。但し、この「言語習慣」には(狭義の言語の外部である)諸慣習も含みます。具体的には、我々は、木の葉に責任を問いその動きを罰しはしないが、人の身体における行為は人に責任を問い彼/女を罰する、という違いがあることです。
(なお、中世ヨーロッパでは虫や鳥を裁判にかけ罰する例があったそうです。その場合には、虫や鳥は自由な意志による行為ができる存在として扱われていた(それ故事実そのような存在であった)という事になるでしょう。