現象学の基本

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155考える名無しさん
とりあえず「イデーンT」だけを問題にするなら、デカルトとフッサールの相違は、やはりノエシスーノエマの相関にあるのでは?
デカルトの場合、自我のみを疑い得ないものとして確保し、他を切り捨てたために、自我だけがぽっかりと浮かんでしまった。それが、デカルトの実体主義と言われる所以の一つ。
他方フッサールは、自我の意識作用のみを確保するのではなく、その対象(あんまりこの言葉は使いたくないのだが)も、つまりノエマも確保する。
つまり、デカルトにおいて世界は切り捨てられ、心理学的実体しか残存しないが、フッサールの場合、世界はその実在性に関する保留を受けながらも、主題とされうるのである。

ちなみに、フッサール自身が断りを入れているように、こうした問題設定は時間の問題を抽象した上での話である。
どうやって整合的に時間を現象学の中に組み込むかについて、フッサールは死ぬまで頭を悩ますことになる。
156考える名無しさん:2001/01/20(土) 05:30
付け加えておくと、上のデカルト解釈はフッサールの立場から見た、教科書的なデカルト理解であることを付言しておく。
デカルトにはデカルトの言い分があるだろう。
157155・156:2001/01/20(土) 05:48
それで、154さんの後半部分に関しては、現象学はあくまで本質学だということを持ち出せばいいのかな・・・
でも、問題意識の深いところでは、もっと別な所に・・・