601 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2001/04/23(月) 14:12 大作ちゃん600番取ったな!
602 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/04/23(月) 22:46
シーメンズクラブて、PIRAとかのShopじゃないんだって。 だから、PADIも処分できないらしい。 なので、イントラを個別に処分するみたいだが、それでも 別なイントラを雇えば同じ。 実に頭いいシステム。 なので、こんど処分されるシーメンズクラブのイントラが、 今度のPJに載るかもしれないが、それでも実態は変わらない のだろうなぁ。
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/04/24(火) 05:25
沖縄のタウン誌のマリナーズの広告でCカード9800円てあるけど、ほんとにそれだけで取れるのかな?
604 :
エホちゃん :2001/04/24(火) 10:12
1)初期のラッセルと再臨派の影響 現在のものみの塔協会の基礎を作り上げたのはチャールズ・テイズ・ラッセル (1852-1916) である。彼はアメリカ、ペンシルバニア州アレゲーニー(現在のピッツバーグの一部)に生まれた。彼は最初長老派教会の家庭に育てられた伝統的なクリスチャンであったが、後に組合派教会に変わった。彼は父の経営する男性服装店の事業に若い時から参加し、家業は繁盛していたと言われる。その彼が教会を嫌って独立の宗教運動に走った動機の一つに、教会で教えられた「罪人に対する永遠の地獄の責め苦」の恐怖に耐えられなかったことが上げられている。いったん16歳で教会を離れるが、まもなく再臨派(アドベンティスト)の運動に強く惹かれていった。その当時、再臨派はキリストの再臨の年を様々に設定してそれを告げ回っていた。またその当時の19世紀の後半にはいわゆる千年王国 (millenium) の信奉者が他の宗派にも多数いた。彼がその後、現在のエホバの証人の教義の基礎となるものを作り上げるわけだが、その根底にはこの当時の再臨派の教義と見方が大きく影響しているのである。 1876年、24歳のラッセルは再臨派の指導者ネルソン・バーバーと提携し1874年にキリストは「見えない形で」再臨したという教義をうちだした。1877年、彼はバーバーと共著という形で「三つの世界」という本を出版している。これは実際にはラッセルが資金を出し実際の執筆はバーバーが行ったものだが、その内容は聖書、特にヨハネの黙示録を使って込み入った年代計算を繰り返し、最終結論として1873年はアダムが神によって創造されてからちょうど6000年目にあたり1874年から新しい千年期の7000年目に入った、これはキリストが再臨してこの世を再建する時である、というものであった。更にバーバーは後のエホバの証人の教義の中核となる1914年を、「異邦人の時」(ルカ21:24)の終わりとして初めて設定した。確かに今のエホバの証人の教義とは微妙な違いがあるが(現在のエホバの証人の教義は1914年こそがキリストの「目に見えない形」での再臨の年であり「異邦人の時」はこの年に始まったとする)、「目に見えない形の再臨」そして1914年という、現在のエホバの証人の教義の中核となるものは、この19世紀後半の再臨派(アドベンティスト)の指導者の打ち出した新しい教義に大きく影響されていたことは特筆に値するであろう。 2)ラッセルの独立とものみの塔宗教の芽生え しかしこのラッセルとバーバーの二人の連携も長続きはしなかった。キリストの贖罪に関する教義の違いからこの二人は袖を分かつことになる。ラッセルはバーバーの発行していた「朝の先ぶれ」(Herald of the Morning) を全面的に資金援助していたが、1879年、ラッセルは新たに自分の主宰する雑誌「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」(Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence) を創刊した。これこそが現在まで続く「ものみの塔」誌の始まりなのである。この二人はその後お互いの読者を自分の雑誌に引き込むため、昔の友は今日の敵よろしくお互いの非難をくりひろげることになる。 興味深いことは、このものみの塔宗教の揺籃期に、その創始者のラッセルは自分の宗教が将来において大きく拡大した組織になって続いていくことを考えていなかったことが、彼の書いたものに示されていることである。当時のラッセルの関心は身近に迫ったこの世の終わりと、自分たちを含む14万4千人(黙示録7章、14章)が霊的な存在として神に取り上げられる(テサロニケ第一4:17)ことにあり、その先のことまで計画していた様子はうかがえない。 しかしこのことが起こると予想された1881年が何事もなく過ぎ去る頃から、ラッセルの態度は徐々に変化していく。1882年、彼は三位一体を否定する教義を前面に打ち出し、再臨派を含む既存のキリスト教教派から完全に訣別する。1880年代は彼の宗教の成長期であった。おびただしい数の本、雑誌が出版され、伝道活動は広範に広がっていった。ラッセルはラッセル牧師と呼ばれ、彼の主著である6冊の「聖書研究」は1886年から1904年までに次々と出版された。そして1884年、現在の「ものみの塔聖書冊子協会」の前身である「ペンシルバニアものみの塔聖書冊子協会」が法人組織として確立され、ここに組織化された宗教としてのものみの塔宗教の基礎が確立されたのである。精力的なラッセルの伝道活動は実を結び信者の数は着実に増え続けた。
そろそろ強制退会信者を炙り出そうぜ。 でてこい祖チン野郎!
606 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/04/24(火) 16:14
強精大会心者と強制退会信者って別人だったの? 匿名掲示板はわけわかんねーよ。