ドーキンス「利己的な遺伝子」スレッド

このエントリーをはてなブックマークに追加
124名無しゲノムのクローンさん
>>122
>本当は生物の挙動は利己的遺伝子とかとは全然関係ないのに、
>何かしらの要因が働いている結果、二次的に利己的遺伝子で
>説明できるように見えてるだけかもしれない。

この発言から私が感じる違和感は、
「天体の運動は天体間に万有引力が働いていることで説明できる」
というのと同じレベルで「生物の進化は利己的遺伝子の力で説明できる」
とドーキンス派が主張していて、その点をあなたが批判しようとして
いるように聞こえる事です。
実証主義なのは結構なんですが、進化という現象には
「利己的遺伝子の力」みたいな「原因」があるわけではありません。
生物の進化という一見複雑怪奇に見える現象の枝葉を払ったらその中心に
一貫して流れている遺伝子保存という現象があっただけです。
これを、法則として捉えようとするのであれば
「自分自身を後世に残すのに他より有利であったものが残る」
つまりダーウィンの頃から唱えられている「適者生存」という
「論理的に」当たり前の事しか言っていないのであって、
原因となるような力があるわけではないのです。
 (力というのはもちろん比喩です。遺伝子を利己性の強化に向かわせて
  いる何かの存在を可能性としてあなたは想定しているようなので
  それを力と呼んでみました。)
進化は論理的な現象なので「物理的原因」を探そうとしても無駄です。
(ところで論理的と理論的の区別はつきますよね)
論理の妥当性は論理で評価できる。
125通りすがり:2000/11/05(日) 11:30
専門家でない方々に誤解してほしくないのですが,「利己的遺伝子」というのはドーキンスが非専門家に進化の概念を伝えるために用いたスローガンでしかないということです.

>>124
この発言は「利己的遺伝子」を正当にとらえた発言で,私も同意します.たしかに「利己的遺伝子」の概念は自然淘汰に基づく進化観から演繹的に出てきますから,どんな状況でもそれは必ず作用するもののはずです.自然淘汰による進化を受け入れる以上,そこに疑いの予知はありません.

しかし多くの場合,それは以下のように勘違いされている可能性があります.私はそこを踏まえて>>107のように発言しました.「利己的遺伝子」とは安直に「血縁であれば全面協力」といことを意味するわけではありません.そのあたりが,この「利己的遺伝子」というスローガンが勘違いされやすいところかもしれません.

実際の研究者は,少なくとも専門的な話題の中では「利己的遺伝子」という言葉は全く使いません.その代わりに「(血縁度に基づく)包括適応度」という言葉を用います.血縁度は,遺伝的分析によって数値として測定できます.包括適応度も(実際の測定はむつかしいかもしれませんが)定量的に定義できる数値です.これらに基づいて進化を議論するのです.単に「利己的遺伝子」という言葉を概念的に振り回しているのではありません.

利他行動の進化についていえば,利他行動に伴うコストが大きかったり得られる利益が小さいなら,いかに血縁関係が高くても利他行動は進化しません.(正統ドーキンス流に言えば「利己性に反するから進化しない」といったところでしょうか).そして,もしもそれが主要な要因でないとしたら,進化を決める(「利己的遺伝子」にのっとった?)他の要因が存在するはずです.その実際を行動生態学者たちは血眼になって調べているのです.

しかし,多くの場合「『利己的遺伝子』によると,血縁がすべての進化を決めて,血縁者はとにかく助けあう」と勘違いされているかもしれません.どうしてもそのあたりがセンセーショナルになってしましますから.実際には,ドーキンスが意味するのはもう少し冷静な議論だと思います.
126通りすがり:2000/11/05(日) 11:32
>>107 (=>>122)

「パラメータ次第でなんでも説明できてしまう」というのには,私も部分的に同意します(上で見たコストと利益の関係なんかそれを体現しているかもしれませんね).しかし,そのパラメータの実際の値を決定するために研究者は日夜研究をしているのであり,それこそが私が>>109で発言した「作業仮説の検証」ということの意味です.

全ての科学は,ある意味そのように進でいるのだということを理解してほしいのです.ある現象を説明できる道筋は当初はたくさんあります.しかし仮説を立てながらその道筋を一つずつ検証し,可能性(パラメータを含む)を絞りこんで現象の事実に迫っていくのです.(もちろん限界もありますが).

システムの「パラメータ依存性」をもって「不確かだ」と言ってしまうなら,すべての科学は存在しえません.そこを理解してもらいたいのです.

また,現象に近づくのに(方法論的あるいは必然的な)限界があったとしても,現象自体が存在していることは事実であり,そこに何らかの法則性は存在する可能性は否定できずません.上記の限界が,その法則性についての演繹的予測を放棄する理由にはなりません.