182 :
夏房:
日曜の公園を埋め尽くした薄桃色の雲霞が、季節を告げる暖かな南風を受けてさざめいていた。
今年の桜は、例年になく美しい。ソメイヨシノとサトザクラに覆われた公園を行き交う人々の顔には、一様に幸福と充足の色が見てとれた。穏やかな春の一日が、ゆっくりと流れていく。
華やかなこの場にあって、祐一がよりいっそうその歓びを感じるのには、ひとつ理由があった。生まれて初めて、彼は守るべき存在を見つけていた。桜のアーチが掛かった公園の遊歩道から、隣を歩く一人の女性へと視線を転じる。ともすれば周囲の霞に消えゆくようなピンク色のカーディガンを肩に掛け、ふくらみだしたおなかをかばうようにして歩く彼女は、見つめる視線に気づいたのか、寄り添うように彼の腕を取り、たおやかに微笑んだ。
「なんだか……不思議な感じですね」
穏やかに、柔らかに、優しく紡ぎ出される栞の声。
「初めて祐一さんと出会ったとき、わたし死ぬつもりだったのに……」
「………」
祐一は言葉の真意を測りかねていた。栞とともに乗り越えてきた道。それは決して平坦なものではなかった。
二人で交わした、公園での約束……。
互いの思いを確かめ合った、誕生日の夜……。
栞のいない、抜け殻のような日々……。
今でもふいに、あのときの切ない気持ちがよみがえってくるときがある。慈しみながら栞と体を重ねるときですら、祐一は腕の中の少女が消えてしまうのではないかという恐怖感に、常に苛まれ続けてきた。それは祐一自身が望んで背負った、あの日々のくびきの痕。一生消えることのない、心の奥の悲しい記憶。
だが今は、雪の少女は消えることなく祐一の目の前にいる。誓ったのだ。俺はこれから先ずっと、栞の隣に立っている、と……。
「あの……、その……何か変なことを言おうって訳じゃなくて……。えと、実は夕べ、お姉ちゃんに言われたんです。『この前まで生きるか死ぬかって状態だった子が、もうお母さんになるなんてね』って。わたし、祐一さんから大切なことを教えてもらいました。誰かを愛することで、人は強くなれるんです。そしてその強さが、奇跡を起こすチカラになる……。そのことを、おなかの赤ちゃんにも伝えてあげないといけませんね」
遠くで花見客の笑い声が上がった。包み込むような陽光は、二人の周囲で軽やかなロンドを奏ではじめる。
183 :
夏房:2001/08/14(火) 15:55
「結婚……しようか?」
「え?」
不意に投げかけられた祐一の言葉に、栞は一瞬驚きの声を上げる。
「入籍して、一緒に暮らそう。お金もないし、頼り甲斐もないかもしれないけど、これから頑張っていこうと思ってるから。産まれてくる子どもと、目の前にいる大切な人と、何より俺自身のために、……栞を、この幸せを守りたいんだ……」
「………」
栞は俯き、口に手を当て静かにふるえていた。
やがて、審判を待つような面持ちの祐一に、栞は紅潮した頬と、そこに広がる満面の笑みを向けた。
「はいっ、もとよりそのつもりですから。お姉ちゃんが言ってました。『責任取って貰いなさい』って」
祐一は、頷く栞の肩を抱き、澄み渡った春の空に視線を転じた。薄い綿雲が、ゆっくりと水色の海を滑っていく。季節は巡り、人々はそれに急かされるように歩み続ける。
「そうだ、アイスクリーム屋を始めよう。栞の生態と実益を兼ねてて、なかなかの名案だろ?」
「わ、祐一さんっ、そんな表現しないでくださいー」
「じゃあ、カレー屋にしよう。最高のスパイスを集めて、火を噴くくらい辛いカレーを作ろうな」
「うー……せっかくいい雰囲気だったのに、どうしていつもそうなんですかっ?」
栞が小さな頬をぷぅっとふくらませる。
「いや……つい、な」
照れくさそうに鼻をかく祐一に、栞はゆっくりと顔を近づけた。そして自分の唇を、静かに祐一のそれと重ね合わせる。
「祐一さんは非道いことを言ったので、お礼はこれだけです」
熱くなった二人の耳朶を撫でる潮風は、もうかすかに、初夏の香りを含んでいた。