少年は少女を思っていた。
少女は少年を思っていた。
別れることなどないと思っていた。
けれど、少年の中にはいつかもう一つの世界が生まれていた。
それは打ち寄せる波のようにゆっくりと日常を侵食していく。
少年の存在はゆらぎ、薄らぎ、やがて――
この世界から消えていった。
手を伸ばしても届かなかった。
少女はいつまでも待ちつづける。
消えてしまった少年を。
そんな――埒もない幻想。
「朝ー、朝だよー」
僕は茜を優しく揺り起こす。
「朝ご飯食べて搾乳するよー」
言いながら、今日も硬く張っている胸に手をやる。
とたんに殺気を感じた。
「…痛いです、浩平」
「おはよう」
僕は飛びのきながらスマイルを浮かべる。
「眠いのかい? 寝ていてもいいよ、んふん?」
「いいえ。せっかく張った母乳、搾らないともったいないです」
茜は気だるそうに起き上がる。
「浩平。用意…してきます」
寝ぼけ眼でてとてとと歩いていく茜。
見送って、僕はそっとため息をつく。
「飛べない翼に、意味はあるんだろうか」
浩平、というのは、僕の名ではない。
僕の親友の名だ。
そして、茜のかつての恋人の名だ。
茜を置き去りにして別の世界に旅立った――。
振られたんだ、君は。
けれど茜はそれを認めなかった。
彼女の目には、今も彼の姿が映っているのだ。
僕では、なく。
「…浩平?」
思いにふけるうち、茜が傍に寄り添っていた。
そして、いつものように問いかける。
「みさおは?」
「う、うん…」
僕は空っぽのベビーベッドに目をやった。
「よく眠っているよ」
「…そう」
彼が消えたあの日以来、彼女の世界は現実から乖離していった。
僕を浩平と呼んだ。
いもしない娘を、みさおと呼んだ。
彼女は幻想の三人家族に安住していた。
過酷な現実に耐えられなかったのだ。
それでいい、と僕は思っている。
憂いを秘めた横顔。
なだらかな乳房に流れる金色の髪。
「…何ですか、浩平?」
僕はいつか、茜に見とれていたようだった。
「何でもないよ」
「そう…」
他に何も望みはしない。
この美しい少女が幸せでいられるなら。
僕は喜んでみちる…じゃなかった、折原浩平になろう。
それでよかった。