(空が近いな、ここは)
吸い込まれそうな夜空を天の川が流れる。澄んだ空気の下では星空はこれほどにまで綺麗
なものであることを、折戸はここに来て初めて知った。久弥を追ってこの海辺の田舎町へ
やってきてから、もう一週間になる。久弥を連れ戻すために連日説得を試みていたが、久弥
は首を縦に振らなかった。その態度は頑なで、まるで復帰することを恐れているかのよう
だった。
「もう、終わったことです」
淡々と呟かれた久弥の言葉を、折戸は信じていなかった。折戸と久弥の付き合いはかなり
古い。Tacticsに就職し、麻枝達と出会うより前から二人には交流があった。昔の久弥を知る
者にとって、今の状況は明らかに不自然だった。久弥は本質的には非常に勝気である。
他人の下風に立つことを嫌い、自分の信念を徹底して貫く強固な自我の持ち主だ。
今、麻枝にkeyを任せ自らは消えようとするなど考えられない行為だった。成功する可能性が
ある限りそれを追い続け、シナリオ・ライターとして作品を創り続けるはずである。
例えkeyにいられなくなっても、筆を折ることはないだろう。どん底から這い上がろうとする男だ、
折戸はそう信じている。
夜の砂浜は静かで、繰り返し打ち寄せる波の音だけが折戸の耳に届く。折戸も、折戸の目の前
に立つ久弥も言葉を発することなく波の音に耳をそばだてていた。
(これが、最後のチャンスだ。今日久弥を説得できなければ、もう諦めよう)
そう、折戸は決意を固めた。
「明日帰るつもりだ。流石にこれ以上仕事を放っておく訳にもいかないしな」
「そうですよ、一週間もこんなところでぶらぶらして。皆、絶対心配してますよ」
(お前のことは心配じゃないのかよ)
折戸は内心毒づいた。だがそれは自分に対して向けた罵りの言葉でもある。一度は自分も久弥を
切り捨てようとしたからだ。今こうして久弥を連れ戻そうとしているのは、その罪悪感から逃れ
たいがためではない、とは決して言い切れないからだ。
「明日には俺は大阪に戻る。お前にもう会うこともない。お前がいなくなってしばらくの間は
色々騒ぐ奴らがいるかもしれないが、浮き沈みの激しい世界だ。すぐにお前の名前も出てこなく
なるだろうよ」
「……そうでしょうね」
俯いて応える久弥に、折戸は叩き付けるように言葉をぶつける。
「俺はな、お前と一緒に仕事ができて本当に良かったと思ってるよ。確かにムチャクチャな発注も
してくれたがな。それでもお前の書くシナリオに俺の音楽を乗せられたことを誇りに思っている」
「僕も、折戸さんには感謝しています」
打ち寄せる波の音がひときわ大きくなったような気がした。
「俺は音楽屋だから、シナリオも企画も分からない。だがな、お前のシナリオの凄さくらいは理解
できるつもりだ。お前がいなかったら、keyなんてとっくに潰れていたはずだ。麻枝だってそれは
絶対に分かっている。『AIR』は初めて麻枝がお前抜きで作った作品だったが、お前の力が要らなく
なった訳じゃない。あいつはな、怖かったんだよ。お前がいなければ何もできない、と思われるの
がな」
そこまで一気に言うと、折戸は天を仰いだ。左半身だけの月が温もりの無い光を夜空に放つ。
宝石のような星をちりばめた空の中で、月は音も無く寂しそうに輝いていた。
「麻枝は立派にやり遂げたじゃないですか。僕がいなくっても、もう大丈夫ですよ」
何度も聞かされた言葉だ。その言葉に秘められた思いは痛切なまでに理解できる。理解できる
からこそ、折戸は憤りを抱かずにはいられなかった。
「お前はそうやって自分を卑下しているつもりなんだろうがな、本当は逃げてるんだよ」
「僕が……逃げてるって言うんですか」
久弥は顔をわずかにしかめ、折戸を鋭い視線で見据えた。折戸はそれを真正面で受け止め、
逆に強く睨み返す。
「そうだよ、お前は逃げ出したんだ。麻枝からな」
久弥の視線がさらに鋭くなる。折戸はひるむことなく言葉を続けた。
「もっとはっきり言ってやろうか。お前は麻枝に嫉妬していたんだ。そして麻枝から離れれば嫉妬
で自己嫌悪に陥ることもない、って思ったんだよ」
「……僕は麻枝達の助けになりたかっただけだったんだ。本当にただ、それだけだったんだ」
「そうやって献身的に尽くしていれば、いつかいたるが振り向いてくれるとでも思っていたのか?」
「彼女は関係ない!」
久弥の叫びが夏の生ぬるい空気を切り裂いた。折戸はそれを聞くと嘲るような笑みを浮かべる。
「ずっと不思議に思っていたんだよ。お前がいつも優等生面しているのをな。あの女に牙抜かれた
のか? 『麻枝君の助けになってあげてね』とでもお願いされたのか?」
「違うっ!」
「麻枝もおかしな奴だよ。何だってあの女にいつまでも拘るんだ? お前ら二人揃って、いたる
にたらし込まれたのか? 虫も殺せないような顔して、大した女だよな。稀代のシナリオ・ライ
ター二人をくわえ込んじまったんだからな」
「黙れ!」
「お前はそうやっていたるをかばうがな、無駄だよ。前にも言っただろ? 麻枝といたるは今じゃ
元の鞘だってな。お前の思いなんて、絶対に届きはしないんだよ。あいつらはお前のことなんか、
すっかり忘れちまってるんだからな。世界は二人のために、ってやつだ。想像してみろよ、俺達が
こうしている時に、あいつらが一体何やってるかを。麻枝の上に乗っかって、自分から腰振ってる
かもな。『うぐぅ』って泣き声上げながらな!」
「黙れと言ってるだろうが!!」
久弥の両腕が伸び、折戸の胸倉を掴んだ。そのまま乱暴に引き寄せ、吊り上げる。腕を交差させ、
服の生地で喉を締め上げた。折戸の首に血管が苦しそうに浮かび上がり、血の気が引いていく。
「どうした? 何をためらっているんだ?」
締め上げられ、気道を半ば塞がれた苦しい息の中、折戸は口を動かす。怒りに震える久弥の両腕
から力が抜けていくのが次第に容易になっていく呼吸で分かった。折戸は胸倉を掴んでいる久弥
の手を強引に引き剥がす。抵抗せず、引き剥がされた両腕を力無く下げた久弥を苛立たしげに睨んだ。
「お前がその気になれば、二分で俺を半殺しにできるだろうが。惚れた女を侮辱されて、お前は
黙っているような男だったのか?」
頭を垂れたまま、久弥は言い返さない。その有様に折戸は激昂した。
「この、腑抜け野郎がっ!」
拳を握り締め、思い切り久弥の頬げたを殴り飛ばす。久弥はそれをかわそうともせず、真正面から
折戸の拳を受けた。大きく体勢を崩し、砂浜に仰向けに倒れこんだ久弥を折戸は見下ろす。口元から
流れる血を拭いもせずに、久弥は上半身だけを起こした。
「折戸さん……彼女はそんな人じゃないです。それだけは、本当です」
切れた唇から途切れ途切れに言葉を洩らす。海から吹く生暖かい風が潮の匂いを乗せ、久弥の顔を
撫でた。
「……分かってるよ。あいつが本当に俺の言うような女だったら、お前がここまでするはずないからな」
潮風を背中で感じながら、折戸は言った。腰を下ろし、久弥と視線を同じくする。
「なぁ、久弥。お前はもっと自分勝手になっていい。もっと無茶苦茶やってみろ。いい加減優等生の
皮被るのは止めろ。もう麻枝に遠慮することも、いたるに気を遣う必要もないんだからな」
「そんなことができると思いますか? 僕は麻枝とは違うんだ」
「できるさ。お前は自分で気がついていないだけだ。麻枝やいたるがいなくっても、お前の才能は
通用する。お前は月じゃない。自分で輝けるんだよ」
久しぶりの続きだぁ。有難うございます。
速く続きが読みたいんだよもん。頑張って下さい応援してます。>書き手の方々
「それにな、久弥。お前が復帰することは麻枝にとっても必要なことなんだ」
「え?」
理解できない様子で久弥は顔を上げる。今の自分が復帰しても、麻枝達の助けになることはもう
絶対にない、と思っていたからだ。
「今keyに対抗できるブランドはどこにもない。麻枝は業界の頂点に立っているんだ。今の麻枝には
追いつくべき目標も、追い越さなければならない相手もいない。追われる立場なんだ、あいつは」
「確かに、そうでしょうね」
「その世界のトップに立つ人間に掛かるプレッシャーは並大抵のものじゃない。成功して当たり前、
失敗したら今まで築き上げてきたものを全て否定される。どうしても守りに入ってしまうんだ。
麻枝が守りに入って、力を出し切れると思うか?」
「絶対無理です。向いてません」
久弥は即座に答えた。折戸も頷き、言葉を続ける。
「麻枝は乗り越える目標があってこそ、力を発揮できるタイプだ。だがもう今はその目標がない。
だから麻枝と拮抗した存在が必要なんだ。keyに対抗できる人間がいれば、麻枝はそれに打ち勝つ、
という目標が持てる」
「僕にその目標になれ、と言うんですか?」
久弥は立ち上がり、尻についた砂を払いながら言う。力強く頷く折戸の姿を雲の隙間から姿を見せた
月の光が照らした。口元にこびりついた血を拭い取りながら、久弥は折戸に言う。
「できると……思いますか? この、僕に」
「あぁ、できるさ。昔を思い出せ。あの頃に戻ったと思えばいいんだ」
「……しばらく考えさせて下さい。今はまだ、どうすればいいのか分からない」
久弥の言葉に、折戸は微笑んで応えた。
「あぁ、慌てて結論を出すことはないさ。自分のことは自分で決めるもんだからな。ゆっくり考えろ」
折戸にはもう何も言うことはなかった。伝えたいことは全て伝えたつもりだ。例え久弥が戻らなく
とも、最早悔いはなかった。だが、一つだけやらなければならないことが残っていた。
「おい久弥。俺を殴れ」
久弥のいる方向へ振り向き、言う。久弥は折戸が何を言っているのか分からない様子で立ち尽くして
いた。
「さっきのお返しだ。俺の方から喧嘩売っておいて、俺だけ殴りっぱなしってのは不公平だ。だから
一発、俺を殴れ」
「いいですよ、そんな」
「俺の気が済まない。だからほら、さっさとやれ」
そう言って、折戸は久弥の目の前に自分の顔を突き出す。久弥は困惑した表情を隠し切れなかった。
躊躇する久弥に、折戸は苛立って声を荒げる。
「さっさとしてくれよ。俺は明日早いんだよ」
「え、えぇ……」
恐る恐る左の拳を握り、折戸の頬げたへと拳を向ける。
「待ったぁっ!」
折戸の鋭い叫びが空気を震わせた。久弥の左拳がぴたりと折戸の目の前で止まる。
「手加減無しだ。手を抜いたらもう一回やってもらうぞ。思いっきりやれ」
折戸の言葉に久弥は呆れたようにため息をついた。久弥は大きく息を吐いて、今度は右の拳を堅く
握り締める。折戸はそれを見ると満足げに頷き、腰を入れて体勢を固めた。久弥の体がわずかに沈んだ
かと思うや否や、右腕がすさまじい疾さで折戸の顎めがめて突き上げられる。殆んど地面すれすれの
低位置から右拳が砂を巻いて振り上げられた。地面から突風が吹き上がってくるような錯覚を折戸が
覚えたその瞬間、久弥の右拳が折戸の顎を捕らえ、そのまま打ち抜く。骨と骨の激突する乾いた
音が砂浜に響いた。
ありったけの打ち上げ花火を頭の中で爆発させたらこんな風になるのだろうか、そんなことを思い
ながら、折戸は自分の体が宙を舞っているのを感じた。
(お前……それ、やりすぎ……)
火花の飛び散る頭の中で、それが折戸の覚えている最後の思考となった。
青空の中心で太陽が貫くような光を放っている。刺々しいまでの陽光の圧力を頭上に感じながら、
折戸は駅前の商店街に立っていた。青黒いあざを浮かべた顎を手の平でさする。昨日殴られた顎の
腫れは未だに引かず、ずきずきと痛みが走った。
「ったく……手加減無しだと言っても程度があるだろう。まぁ、まだ本気じゃぁないんだろうが」
独り呟くと、腕時計の盤面を見た。駅舎の壁に取り付けられた時刻表に記された時刻と腕時計
のそれとを見比べる。一日に数本しか出ない電車の発車時刻にまではあと数十分を残していた。
潮風が吹いて、足元の砂埃が舞い上がる。夏の太陽から身を隠しもせずに折戸は立ち尽くした。
目の前の景色が蜃気楼のようにゆらめいて見える。自動車の排気音も人々の話し声もない真昼の
商店街にセミの鳴き声だけが絶え間なく響いていた。
もう一度腕時計の盤面を見る。さっき見た時よりも長針が半周ほど進んでいた。もうすぐ電車が
ホームに滑り込んでくるだろう。その電車に乗らなければ、大阪に戻ることはできない。
折戸は周囲を見回した。商店街の風景は何ら変わるところのない閑散さを保ち続けている。人
の姿はどこにも見えなかった。
小さくため息をついて、目を閉じた。そのまましばらく動こうとはしなかったが、やがて顔を
上げる。
「よし、行くか」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、折戸は改札口の方へと振り向いた。無人の改札を越え、
ホームで電車の到着を待とうとする。
声が聞こえた気がした。折戸はばっと振り返り、その先を見る。
人の姿などどこにも見えない商店街の風景は、夏の暑さでゆらゆらとゆらめき、はっきりと
した描像を結ばない。動くものの何も無い、時間の止まった風景の中、駆け寄ってくる人の姿
が逃げ水で歪められた視界の先に浮かぶ。捉えた映像は次第に大きくなり、やがてその詳細を
明確にする。表情が分かる程にまで折戸に近づいたその男の顔には、揺らぐ事の無い決意が
あった。今一度過酷の中にその身を投じ、己の全てを燃やし尽くすことを選んだ決意だった。
その決意に向けて、再起を誓う久弥のその決意に向けて、折戸は短く激励の言葉を送る。
「行くぞ。長い間待たせやがって」
暑い夏が始まった。