空に君臨し、人々を押し潰さんばかりに圧迫する暴慢な太陽も夕刻にはようやくその圧力を緩め、
地平線上に活動の残滓を残すばかりとなる。暴君の圧政から解放された人々は自由な一時を謳歌
するように街へ繰り出し始めていた。だが、太陽が姿を消しても解放されず、職場に囚われたまま
の虜囚達に外に出る権利は、ない。
「お先に失礼しま〜す」
「でしゅでしゅ」
keyの開発室に明るい声が響く。しのり〜とみらくる☆みきぽんは自分のタイム・カードを機械に
挿入し、退社時間を記録した。
「じゃぁ麻枝君、ちゃんと遅刻した分だけ残業するのよ」
「するんでしゅよ」
机に張り付き、ディスプレイを眺めながらキーボードを叩きつづける麻枝准に、二人はそう呼びか
けた。麻枝は椅子に座ったまま、腹立たしそうに二人を見遣り、吐き捨てるように応える。
「はいはい、分かってますよ。お仕事サボったツケはちゃんと支払いますよ。二人ともお疲れさん。
また明日な」
「明日は遅刻しないようにね」
「したらダメでしゅよ」
そんな言葉を残して、二人は退出した。これで麻枝を除いて皆、今日の職務を終えたことになる。
紅色の夕陽が窓から差し込み、開発室を染め上げる。所狭しと置かれたPCとそれらを連結する
ネットワーク・ケーブルが織り成す無機質な開発室だが、夕陽の紅とのコントラストが奇妙に
叙情的な景観を成していた。麻枝は黙々と独りディスプレイに向かい、作業を進めている。
「結局最後まで残ってるのはいつも俺かよ……まぁ来るのが一番遅かったから文句言えないか」
キーボードを叩きながら、独り呟いた。企画・脚本・音楽の三足のわらじをはく麻枝の抱える仕事
は必然的に大量なものになる。余暇を楽しむことに興味の無い麻枝にとっては取り立てて過酷な
環境でもなかったが、それが楽しいばかりの仕事でもないことは確かだった。
未練がましく地平線に張り付いていた太陽も既に姿を消し、空には右半身を切り取られた月が
輝いていた。自然の光を失えば、視界を保証するのは蛍光灯の光だけだ。
麻枝はようやく作業に一区切りを付け、PCの電源を落とした。椅子から立ち上がり、大きく背伸び
をする。夕食には丁度いい時間だった。
扉を開け、廊下へと出る。ジーンズのポケットから鍵入れを取り出し、その一つを鍵穴に挿入し、
施錠した。
「麻枝君、仕事終わった?」
「おわっ」
背後から突然呼びかけられ、麻枝は反射的に叫んでいた。瞬間的に激しくなった動悸を抑えながら、
振り返る。
「なんだ、いたるか……どうしたんだ? 忘れ物でもしたのか?」
樋上いたるは首を振り、麻枝の言葉を否定する。
「そうじゃないんだけど。ところで、麻枝君は今日も家に帰らないの?」
「あぁ、面倒くさいしな。今から夕飯を買いに行くところだ」
「またコンビニのお弁当?」
「まだ全てのメニューを食い尽くしていないからな。新しいのが発売されてるかもしれないし」
「ねぇ麻枝君。そんな食事ばっかりだと体壊すよ。もうちょっと食べ物にも気を遣わないと」
心配そうに言ういたるを見て、麻枝は頭をぼりぼりと掻く。
「でもいいもん食う金もないしなぁ……自炊するのも何だかなぁ」
「だったら、私が作るよ。それならいいでしょ?」
「はい?」
突然の提案に驚きを隠せない麻枝の目の前で、いたるは笑顔で両手をぽんと合わせる。
「私もお金あんまり持ってないし、ご馳走はできないけど、コンビニのお弁当よりは体にいいと思うよ」
「う〜む、でもわざわざお前にそんなことをしてもらうのは申し訳が立たないな」
「そんな遠慮しなくってもいいから。こんな食生活ばっかりしてると、いつか倒れちゃうよ」
「確かにそれもそうだな。よし、お願いするか」
「うん、じゃあ私の家に行こう」
そう言って、いたるは麻枝の手を引いて歩き出した。
「……で、結局作るのは俺なのかっ!」
「ごめんなさい……」
いたるの自宅の台所で、麻枝はボールの中の卵をかき混ぜていた。目の前のガスコンロの上には無惨に
も焦げ付いた鍋が煙を立てている。まな板にはでたらめな形状をした人参の切れ端が転がっていた。
さっきまでいたるが着ていたエプロンを代わりに身に付けた麻枝は愚痴っぽく呟く。
「ったく、料理できないんだったら最初っからそう言えよな」
「でも、それだと麻枝君が……」
卵をかき混ぜ終えた麻枝は次に野菜を切り刻んでいる。手際よく包丁を動かしながら、いたるに言った。
「俺に料理作って欲しいんだったら、まわりくどいことせずにはっきり言えばいいんだよ」
「それだと意味無いよ……」
「訳の分からんことを言う奴だな、お前も。料理なんてもんは、作れる奴が作ればいいんだよ。下手に
料理なんかして、手に怪我でもしたら大変だろうが」
火を掛けて油をなじませた鍋に下ごしらえを済ませた野菜を放り込む。
「お前、卵焼きは甘いのと辛いの、どっちがいい?」
居場所がないように立ちつくしているいたるに背を向けたまま、麻枝は質問する。
「え? 甘い方がいいかな」
「そうか」
計量カップを取り、しょう油とだし汁の分量を調整する。
「甘口にしたいからって、砂糖をドカドカ入れるのは良くないんだ。くどくなりすぎるからな。
しょう油とだし汁とのバランスで味を整える。卵そのものの甘さを引き出すのが大事だ」
「そうなんだ」
「卵とだし汁の比率は一対一がベストと言われているが、それだと焼くのが難しくなるから初めの
うちはだし汁は少なめにした方がいいぞ」
話しながらも、淀みなく手は動いていた。卵焼き器に卵液を流し込み、焼けた頃合いを見計らって
くるくると巻いていく。
「すごい……」
手際よく料理を作る麻枝の背中を、いたるは殆んど放心して眺めていた。
テーブルの上には麻枝が作った料理が所狭しと並んでいた。和食を基調としたその取り合わせは
地味ではあるが決して彩りに欠けている訳ではない。むしろ派手に過ぎない色彩で統一された食卓
は見る者の心を落ち着かせた。
「ほら、さっさと座って冷めない内に食え」
焼き上げた卵焼きを皿に盛り付けながら、麻枝はいたるに言う。それを聞いたいたるは椅子に座
って麻枝を待った。麻枝も食卓につき、料理の前で手を合わせる。
「それじゃ、いただきます」
「……いただきます」
いたるは遠慮がちに卵焼きを箸で取り、口に運ぶ。テストの結果を待つ子供のように、麻枝はじっと
その様子を見詰めていた。卵焼きを口に含んだいたるは左手を口元に置き、黙り込んでいる。
「……どうした?」
麻枝の心が不安で揺れる。卵焼きを飲み込んだいたるは唖然としたように麻枝を見た。
「すごくおいしい……どうやったらこんなの作れるの?」
「わはは、そうだろう。何せこの俺が作ったものだからな」
安堵に肩の力の抜けた麻枝は、それを悟られないように努めて胸を張り応える。
「でも、こんなに麻枝君が料理が上手だなんて知らなかったな。すごいよね」
感心しきった口調のいたるから麻枝は目線を反らす。天井を向きながら、答えた。
「料理はガキの頃から毎日作っていたからな。自然に上手くもなるさ」
「自分でご飯作ってたの?」
「あぁ、親が仕事忙しくって家に余りいなかったから、家事全般は俺の担当だった。
掃除、洗濯もお手のものだ。裁縫もかなりのものだぞ。手編みのセーターくらいなら縫える」
「本当?」
「流石に最近はそんな事しないけどな。でも専業主夫コンテストが主催されれば、上位に
入賞できる自信はあるぞ。マイホーム准と呼んでくれ」
「……でも、それだったら自炊したらいいじゃない? どうしていつも外食なの?」
不思議に思い、いたるは聞いた。確かにおかしな話だった。自炊する方が遥かに効率がいい
のは誰にでも分かる事だ。麻枝は一瞬考え込んだが、さっきと同じ口調ですぐに答えた。
「自分で自分の食べる分だけの食事を作るのって、気が滅入るんだよ。いくら手間と暇を掛けて
美味しい料理を作っても、それを食べるのは俺だから、嬉しくも何ともない」
「そんなものなのかな?」
「人それぞれだと思うけどな。俺の場合は必要に迫られて身に付けたものだったから、料理
が楽しい訳じゃない。金が掛かって、不味くって、体に悪いのは分かってるんだけどな。
でも他人が俺のために作ってくれる料理の方が何となく嬉しい」
その言葉を聞いたいたるは俯いて、黙り込んでしまった。唐突な沈黙が空間を支配する。
「どうした?」
怪訝に思った麻枝は下を向いたままのいたるに声を掛ける。目線をテーブルに落としたまま、
いたるは応えた。
「変なこと聞いちゃったかな? 私」
「ん? 別にどうってこともないぞ。単なる事実だしな。それに、料理できないよりは、できる
方がいいに決まっている」
「確かにそうだけど……」
申し訳なさそうに俯くいたるを麻枝は不思議に思った。機嫌を悪くしているように見える。
理由が分からない事が、麻枝の疑念に拍車を掛けた。
「うーん、でもこの料理の腕を活かさないのは重大な損失かもしれないな。そうだいたる。
お前の昼飯を俺に作らせてくれないか?」
フォローのつもりで、そう言う。
「え?」
驚いた表情で、ようやく顔を上げた。
「どうせいつも外食なんだろ。俺が代わりに弁当を作ってきてやる。値段も特別優待価格だ」
「でも、それだと麻枝君が大変でしょう?」
「いや、全然構わないんだ。実は最近寝過ごすことが多くってな。弁当作るためには早起きしなきゃ
いけないから、自然と寝坊しなくなるだろ? それに寝坊して困るのが俺だけじゃなくなるから、
緊張感を持続できる」
「でもさっき、麻枝君料理するの好きじゃないって……」
「人の食べる分を作るのは好きだぞ。何と言うか、張り合いが出る。頑張って美味しい物を作ろう、
って気になるんだ」
麻枝は実際嬉しそうに、そう言う。いたるはしばらくの間考え込んでいたが、やがて遠慮がち
に答えた。
「じゃあ、お願いしようかな」
「よし、契約成立だ。明日は無理だけど、あさってからは作ってくるぞ。食べたい物があったら、
遠慮なくリクエストしてくれ」
「……うん」
「あ、そうだ。これだけは守って欲しい事がある」
「え、何?」
麻枝の表情が急に真剣なものに変わる。
「弁当を俺が作った、ってことを誰にも言わないでくれ。特にしのり〜とみきぽんには何があっても
絶対に他言無用だ」
「どうして?」
何故そんな事を言うのか、いたるにはその意味が分からなかった。
「メタクソに馬鹿にされるからだ。特にしのり〜はやばい。危険すぎる。さらに、確実に二人の分も
作らされることになるだろう。そうなってしまったら折戸さん達男スタッフにも作らないと不公平にな
ってしまう。嫌だぞ、keyの給食当番になるのは」
もしそんなことになってしまったら悲惨である。
次回作のスタッフ・ロールは企画・脚本ではなく『ご飯係:麻枝准』とクレジットされたり、
他社の人に名刺を渡す時に「keyの飯炊き兄さんをやっている麻枝と申します。よろしければ
そちらでも一度お試しになりませんか?」と自己紹介したり、
『今明かされる幻のメニュー! keyの食卓へようこそ』などというタイトルのレシピ集を
執筆し、コミック・マーケットでいたるのサークルに委託販売してもらったりするのだろう。
それはいくらなんでも悲しすぎた。
給食当番になるのはシナリオ・ライターをクビになってからでいい。
「だから、絶対にばらさないでくれ。もし、しのり〜達に聞かれたら『自分で作った』と答えて
おけ」
「うん、分かった」
「頼んだぞ」
夕食を終えた麻枝はいたるの部屋の座布団に腰を下ろして、天井をぼうっと眺めていた。備え付け
られた蛍光灯から発せられる白い光が網膜を刺激する。目を閉じると台所から水洗いの音が聞こえて
きた。いたるが食器を洗っている音だ。後片付けをしようとしたのだが、そこまでさせるのは悪い、
といたるが制したために麻枝は無為を持て余していた。
(……落ち着かない、そうだ家捜しでもしよう)
カーペットに這いつくばり、ベッドの下に手を差し入れる。隙間が狭いため、肘までしか入らなか
った。肘を軸にして腕を動かして手探りで探索する。
「ちょっと麻枝君、何やってるの!」
頭上から怒鳴り声が響いた。這いつくばり、腕を差し入れた体勢のまま麻枝は言葉を返す。
「いや、食べ残しのお菓子とか謎の木の実とか入ってないかな、って思って」
「私はリスじゃないよっ! 早くほら、出て!」
いたるに肩を掴まれ、強引に引っ張り出された。呆れ果てた様子でいたるはため息をつく。
「どうして、私の家に来る人は部屋を漁りたがるのかなぁ……」
麻枝は悪びれた様子もなく、胸についた糸くずを手で払っている。
「ほら、コーヒー煎れたから、テーブルに戻ろうよ」
そう言いながら手を引っ張って、麻枝をテーブルに連れて行った。
綺麗に後片付けされたテーブルの上に置かれたコーヒー・カップから湯気が立ち昇っている。
カップを口元に運び、麻枝は黒色の液体を口につけた。コーヒー特有の苦味が味蕾を刺激する。
飲んだばかりのコーヒーの温かさが胃の辺りでぼんやりと漂っていた。
「こういう風にのんびりするのも、たまにはいいもんだな」
呟くような麻枝の言葉に、いたるも同意する。
「ずっと働き詰めだったもんね。急に移植の話も出たし」
「あれで結構スケジュールが狂ったな。まぁ元々うちのスケジュールなんて、あってないような
ものだけどな」
「これからはちゃんと管理の面も考えていかないと駄目だよね。もう昔とは違うんだから」
「あぁ、急に大きくなりすぎた所があるからな。今までと同じやり方では無理だろう」
「色々考えていかないといけないよね……」
そこで言葉を区切ったいたるに、麻枝も言葉は返さなかった。台所の蛇口から滴り落ちる水滴と
規則正しい時計の針の音だけが部屋に響く。二人は静かにこれからのことを考えていた。
コーヒーはもう冷め始めていて、湯気も立ってはいない。麻枝は残りのコーヒーを一気に飲み干
し、空っぽになったコーヒー・カップをソーサーの上に置いた。
「なぁ、いたる」
ぽつりと語り掛けられた麻枝の言葉が、いたるを何故か不安にさせた。
「何?」
「お前は、俺のところからいなくなったりしないよな」
(……って、一体何を言ってるんだ、俺はっ!)
とんでもなく不適切な発言をしてしまったように思え、麻枝は顔を真っ赤にした。
「わ、悪い。変なこと言っちまった。忘れてくれ」
いたたまれなくなり、椅子から立ち上がった。助けを求めるかのように、時計を見る。
「も、もう遅いから帰るよ。明日も早いしな」
そのまま逃げるように玄関へと向かう。靴を履き、扉を開けようとした麻枝の背中から声がした。
「麻枝君、おかしなこと言ってるよ」
その言葉にむっとした麻枝は振り返って言い返そうとする。
「だからさっき言っただろっ。変な事言っちまった、って……」
言い返そうとして、途中で言葉に詰まった。振り返ったそこには、真剣な面持ちで麻枝を見詰め、
いたるが立っていた。
「あの時約束したのは麻枝君の方だよ。ずっと一緒にいるって、そう約束したのは」
そう言って、いたるは微笑んだ。それを聞いた麻枝も笑顔で言い返す。
「あぁ、そうだ。そうだったな」
「うん、そうだよ」
麻枝は再びいたるに背中を向け、扉を開け直す。蒸し暑い外気が玄関口に流れ込んだ。
べたついた空気が肌にへばりつく。外気に身を晒し、麻枝はドアノブを握ったまま、言う。
「じゃ、また明日。おやすみ」
「おやすみなさい」
それを聞き終えると、麻枝は静かに扉を閉じた。