Leaf&Key仮想戦記〜永遠の遁走曲篇〜

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308涙の雫
下川は帰り支度を整え、散らかった社長室を後にした。
廊下へのドアを開けると、熱気がムッと押し寄せる。
7月を迎えたばかりというのに、大阪は既に真夏にも引けを取らない蒸し暑い夜だった。
エレベーターに差し掛かるが、通り過ぎる。
クーラーが利いているのは分かっているが、なんとなく密閉された空間に身を置きたくない気分だった。

既に暗くなった開発室の前を通ると、ぽおっとした淡い明かりが目に止まった。
誰かがディスプレイの電源を落とさずに帰ったのだろうかと開発室に入ると、そこには見慣れた男が何処か遠い目をしながらデ

ィスプレイを見つめていた。
「青紫。何で一人で残って居るんだ? 残業しても手当てなんかでないぞ」
「いえ、ぼーっとしてただけです。社長もあがりですか? お疲れさまでした」
ディスプレイには、削除された筈の掲示板のログ。
「何てもの残してるんだ…。さっさと帰って寝ろ。そんなログ削除してからな」
「そうですね…。お疲れさまです社長」
だが、青紫は動こうとしない。ディスプレイの明かりだけが二人の顔を照らし、ゆっくりと時間は過ぎていった。

「社長…。僕ね、昨日笹を買ってきて飾ったんですよ」
ポツリ、と青紫が呟いた。
「七夕の笹か。そういえば、毎年お前が買ってくれていたな。しかし、それなら会社に持ってくれば良かったものを…」
「そう思ったんですけどね。でも、見て貰う人が居ないと笹も寂しいだろうと思って、家の近所の公園に立ててきましたよ。
 社長も、お帰りになっちゃってましたしね。
 …昔は、みんなして飾り付けたものなんですけどね。近頃みんな終業するとすぐ帰っちゃって…
 こういう行事に興味なくなっちゃったんですかね? みんな、風流じゃないなぁ」
そう言うと、青紫は寂しそうに顔を俯け笑った。
「それで、見に来た子供たちに混じって僕も短冊に願い事も書いたんです。ホント真剣に。1時間ぐらい掛かっちゃいました。
 何か気に入らなくて、書いては捨てて書いては捨てて…って。いい年して馬鹿みたいに」
309涙の雫:2001/07/09(月) 02:57
「そうか? 凄くお前らしい気がするが」
穏やかな眼差しで青紫を見つめながら、下川はそう返す。
「…そうですか? そんな言葉が返ってくるとは想像してなかったです…
 『そんな下らない時間を過ごすくらいならシナリオ書けっ!』だと思ったんですけどね。明日は雨ですかね?」
笑いながら顔を上げた。涙と鼻水まみれになった顔。
「でね、なんて書いたと思います? 1時間も考えたのに凄く下らない願いなんですよ。
 『みんなで一緒に、凄いゲームを作れますように』
 あはは、笑っちゃいません? 昔から自分でみんなの足引っ張っておいて。みんなで一緒にだって…
 馬鹿みたいだ。いや、馬鹿ですよね。ははは…、はは…。…ひぐっ」
再び俯く。
そんな青紫の俯いた背中を見つめながら、静かに下川は語りかけた。
「…気にしすぎなんだよ。お前はいつも。
 いつも気にし過ぎて、悩んで、心に傷を付けて、その傷を治せないままにそのまま次の作品に取り掛かる。
 そんな状態で、良い作品が出来る筈が無いんだ」
下川は、ふと昔の事を思い出す。
高橋が青紫を連れて来た当初、こんな冴えない男に頼んで何が出来るのだろうと疑ったものだった。
しかし、そんな考えはすぐ覆された。痕における的確なシナリオ補佐、多数のバグ発見など功績は多大だった。
もう一度の発売延期を踏み止まれた一因は確実に青紫にあった。
だから、欲が出てしまったのだ。下川はシナリオ締め切り直前に、高橋を通じてシナリオを一本発注した。
困惑していた青紫を無理矢理説得して。

無事発売した後、社長室に憔悴しきった顔の青紫が頭を下げに来た時は本当に驚いた。
思えば、この時既に心には直らない深い傷が一本走っていたのかもしれない。

しゃくり上げることも少なくなり、少し落ち着いたと考えた下川はハンカチを差し出しながら声を掛けた。
「少しは落ち着いたか? これ使え」
「…はい。ありがとうございます。みっともない所見せてすいません」
小さな声で青紫が答える。
「そうか。なら行こか」
青紫の右手を引っ張りつつ、開発室の出口に向かう下川。
「ちょっ…、何処へ行くんですか?」
下川は答えない。
310涙の雫:2001/07/09(月) 02:58
目的地はすぐ近くだった。

「社長室…、ですか?」
鍵を開け、扉を開く下川。
そこには。
「…笹じゃないですか。どうしてこんな所に…」
よく見ると、しっかり飾り付けされていた。そして床には色とりどりの紙屑。
青紫には、ちっとも状況が飲み込めなかった。
「丁度すれ違ったんだよ。笹買った帰りにお前を見かけた。お前は気づかなかったみたいだけど似たような事してたんだな」
下川は無邪気に笑う。
「…これ、一人でやったんですか…?」
「ああ。でも、やっぱりお前が一番器用やな。俺が作るとわっかとかギザギザやしな」
「…………」
そして、下川は自分の引き出しを開けると、短冊を取り出し青紫に渡した。
なんの事か分からずキョトンとする青紫。
「あの…、なんですか?」
「アホ。短冊の願い事はな人に言ったら叶わないとか言うやろ。もう一度書けや。
 こんなゴージャスな飾りなんやから、一日くらいまけてくれるやろ」

青紫の顔を、つぅっと一筋の涙の雫が伝っていた。
「はぁ? 何で泣くんや?」
「すいません。なんか良く分からないんですけど…」
「そうか。しかし、よう枯れへんの。顔の方は腫れぼったい目になってなかなかの間抜け顔やで。そろそろ泣くの止めとけ。
「はい。すいません…」
「…っと、そうや。後で片付け手伝ってくれな。明日客来るのすっかり忘れてて、かなりやばいんやわ」
「…はい、喜んで」

その日社長室から明かりが消える事はなく、何時までも途切れず笑い声だけ響いていた。