Leaf&Key仮想戦記〜永遠の遁走曲篇〜

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299七月の静穏
「あ、あぁ〜体がア・ツ・イ〜、って男が悶えても気色悪いだけじゃーっ!」
 いつものように自分で自分にツッコミを入れながら、麻枝准は仮眠室のベッドから飛び起きた。
確かに部屋は酷く暑かった。大阪の夏は非常に蒸し、熱帯夜が途切れることなく続く。ビルが
林立し、アスファルトで完全に舗装されつくした大阪の街並みは暑気を放散することもできずに、
暑さに喘いでいた。

 麻枝がkeyの仮眠室で寝泊りするようになってからかなりの月日が経つ。家に帰る間も惜しい
とばかりに『AIR』の製作に没頭していた時期から逆算すると、既に一年以上になっていた。最早
仮眠室は麻枝の第二の生活空間だった。

「やけに暑いと思ったら、もう太陽が昇ってるぞ……」
 窓越しに見た東の空に、太陽が丁度目線の高さまで昇っていた。雲のない青空の中、太陽は
じりじりと街を歩く人々の身を焦がしている。今日も暑くなりそうだった。
「うぅむ、こう暑くっては眠ることもできんな。仕方がない。朝食食って、歯磨いて、髭剃って、
ビッグ済ませて会社に行くかぁ……まぁ、通勤時間三十秒なんだがな。八時四十五分に開発室に
間に合えばいいんだから楽なもんだ」
 そう言いながら、仮眠室の壁に立て掛けられた時計の針に目をやる。
「えぇと、今は九時十分かぁ……出社時間まで後マイナス三十五分あるから、朝食にモーニング
ティー付けて、日経読んで最新の経済情勢に目を通して、朝シャンして体から男の爽やかなフェロモン
を放たせながら会社に出られるな。世界を股に掛けるヤングエグゼクティブもびっくりのナイスガイ
だよな、俺って」
 ベッドから立ち上がり、大きく背伸びをした。余裕のある朝の一時は、一日の充実を約束するかの
ような心地好さに溢れている。だがそれは、あくまで時間に余裕がある時に限定される。
「あれ?」
 麻枝は強烈な違和感を抱いた。今の状況はおかしい。自分の知らない間に何か不穏な事象が展開
されている。違和感の正体を探る。すぐ目の前にその実体は存在していた。
「マイナス? マイナスですと?」
 愕然と時計の針を見詰め直す。
 無情にも短針は九時の方向を過ぎ、麻枝が見事に寝過ごした事実を告げていた。
300七月の静穏:2001/07/08(日) 21:05
「遅れてすいませんっ!」
 叫びながら、ドアを開ける。既に開発室ではスタッフ達が日常の業務に取り掛かっており、部屋に
飛び込んできた麻枝に視線を向ける者は一人もいなかった。皆の集中を妨げる事はない。そう考えた
麻枝はできるだけ物音を立てないように自分の机へと向かった。私語の交わされる事のない開発室の
緊張感が心地好い。
「何だ。俺が遅刻した事、誰も気付いてないのかな?」
 スタッフ達の反応の無さに、思わず呟いた。
「なわけないでしょ」
「やはりそうか、しのり〜」
 ディスプレイから目を離さずに、しのり〜は麻枝に言う。
「あんたが遅刻するのなんて日常茶飯事だから、何も言わないだけよ」
「酷い言い草だな……」
「でもあんた、そんなに遅刻してたら減給されるんじゃないの? 査定悪くされてない?」
「あぁ……これ以上遅刻したら、俺が会社に金を払わなきゃいけなくなるな」
「はぁ……」
 ため息をつきながら、しのり〜は椅子を回して麻枝のいる方へ向き直る。
「あんた、会社に寝泊りしてるんでしょ。どうやってそんなに遅刻できるのよ」
「う〜む、何故か寝坊してしまうんだよな。目覚ましも役に立たないし」
「目覚ましを三十個くらい用意してから寝ればいいんじゃない?」
「それが朝になると一斉に鳴り始めるのか……一個一個止めている内に遅刻しそうだぞ」
「それなら体に電極差し込んで、朝になったら自動的に高圧電流を流すってのはどう?」
「二度と目覚める事ができないような気がするな」
「ダメか……誰かに起こしてもらうってのが無難な線かしらね、やっぱり」 
301七月の静穏:2001/07/08(日) 21:06
「そうだな、誰か毎朝俺を起こしに来てくれればいい。と言う訳で、しのり〜、お前に任せる。毎朝の
さわやかな目覚めを演出してくれ。制服はみきぽんにメイド服を作ってもらうから安心だ」
「何であたしがあんたのメイドにならなあかんのじゃっ!」
 だげしっ!
 しのり〜の踵が鋭く麻枝の足を踏みつけた。
「ぐわっ、足を踏む事はないだろ。踏む事は」
「あんたが変な事を言うからでしょっ。大体あたしには無理よ。あんたを毎朝起こすなんて」
「そうか? 毎日三十分前には会社に来てるじゃないか。そのついでに起こしてくれよ」
「嫌よ、あんたの裸の寝姿なんて見たくないもの」
「普段から女の子の裸に色塗って仕事しているくせに、今更清純派ぶることもないだろ。なぁ頼むよ。
パンツはちゃんとはいて寝るからさ」
「そういう問題じゃないのよ。いたるにでも頼みなさいよ、そういう事は」
 そう言って、しのり〜は樋上いたるの机の方角を顎で指した。麻枝もその方角へ視線を向ける。
いたるは原画の作業に集中しており、麻枝達の会話は耳に届いていない様子だった。
「う〜む、いたるに頼むのはちょっと嫌だな。何だか悪い気がする」
「いたるには遠慮するけど、あたしだったら構わないの?」
「いや、そういう事じゃないんだが、何だかな。まぁいいや、自分で何とか起きるように努力するよ」
 そう言いながら、麻枝はしのり〜の元を離れ自分の机へと向かう。
「はぁ……」
 その麻枝の背中を見ながらしのり〜は机の上で頬杖をつき、ため息を洩らした。
302七月の静穏:2001/07/08(日) 21:09
 エアー・コンディショナーの稼動音をバックに、キーボードを叩く音がリズム良く開発室に響く。
『AIR』のコンシューマー機への移植作業も無事終了し、ようやく『AIR』絡みの作業から解放された
keyスタッフ達は停滞していた新作の開発にようやく本格的に取り掛かっていた。
『KANON』、『AIR』を経てkeyのブランド名は既に確立されていた。業界屈指の購買層を持つkeyの次回作
の商業的成功は初めから保証されていると言っても過言ではない。勝つ事の決まっている戦いである。
 対抗できるブランドの存在しない現状では。

 麻枝は自分の机に向かい、次回作に使用する音楽の製作に勤しんでいた。シナリオ・ライターとして
キャリアを積んで来た麻枝であったが、音楽担当としての経験も着実に重ねていた。自分専用のPCの
ディスプレイに映し出された音の波形と睨みあいながら、己の中にイメージされた音色を現実の音波
として具体化させる。テキストの形でイメージを焼き付けるシナリオ執筆とは異なる能力を必要とする作業
だった。
 麻枝はディスプレイから目を離し、椅子の背もたれに体重を掛けた。目をつぶり、まぶたを指で押さえる。
「なかなかいい音が出ないなぁ」
 コンピュータを用いて音楽を製作する際には、音源そのものを作らなければならない場合もある。
自分のイメージする通りの音色を作り出すとなれば尚更である。今、麻枝は自分の意に適った音の
データを作る事が出来ずに困惑していた。
「折戸さんにデータを貸してもらうかぁ」
 椅子から立ち上がり、周囲を見回す。相変わらず静かな開発室内で、黙々とスタッフは作業を進めて
いた。
「あれ? 折戸さん今日来てないのかな?」
 折戸伸治の机は無人だった。麻枝は折戸の机に近づき、様子を調べる。綺麗に整理整頓された机に折戸
の人となりがよく表れているように思えた。
303七月の静穏:2001/07/08(日) 21:09
「麻枝さん、どうしました?」
 折戸の机の前で立ちすくむ麻枝の背中で声がした。
「データを貸してもらおうと思ったんだけど、今日は折戸さん来てないのかな?」
 麻枝は振り向いて声の主に応える。そこには涼元悠一が大量の資料を両手に抱えて立っていた。
「確かに先日出張されましたが、今日はもう大阪に戻って来られているはずですけど」
「そうか……変だな。何の連絡も無しに」
「麻枝さんにも何も伝えられていないんですか?」
「あぁ、俺に連絡せずに休むような人でもないし、涼元さんも知らないのか?」
 涼元は僅かに眉をひそめて考え込む。
「えぇ……私は何も知らされていません。申し訳ありません」
 頭を下げる涼元に、麻枝は慌てた。
「いや、別に涼元さんが謝る事じゃない」
「ですが……確かに妙ですね。折戸さんが理由も無しに休むとは考えにくいです。もしかしたら、何か
あったのではないでしょうか?」
 不安に顔を曇らせる涼元に、麻枝は罪悪感を抱いた。『AIR』の移植作業において外部との折衝を行なった
のは主に涼元だった。麻枝はそういった駆け引きに関しては全く無能である。涼元がいなければ移植作業
でkey側の意向は殆んど通る事はなかっただろう。様々な業界で叩き上げられてきた涼元だからこそ、巧み
な交渉術でkey側の意向を移植会社に認めさせる事ができたのである。
 だが、そんな事をさせるために涼元はkeyに来たのではなかったはずだ。シナリオ・ライターとして物語
を創るために涼元はkeyにいるのだ。その涼元に自分の不得手な交渉を押し付けてしまった事に、麻枝は
負い目を持っていた。
304七月の静穏:2001/07/08(日) 21:10
(こんな事をさせるために、俺はこの人にkeyに入ってもらった訳じゃない)
 心中を押し隠し、麻枝は努めて明るい口調で涼元に言った。
「まぁ、風邪でも引いたんだろう。余り心配しなくっても大丈夫ですよ」
「えぇ……そうですね」
 涼元は穏やかに応えた。ほっとした様子で表情を緩めた麻枝に、涼元は言葉を続ける。
「ところで麻枝さん、音楽データが無いんでしたら戸越さんに頼めばいいのではないでしょうか。あの方は
確か折戸さんとデータを共有しておられるはずですよ」
「そうだな。戸越君に頼む事にするよ」
 そう言って麻枝は開発室を見回し、戸越まごめの姿を探した。戸越は自分の机に向かって作業に没頭して
いる様子だった。

「おーい、戸越君。ちょっとデータ見せて欲しいんだけど……」
 そう呼びかけようとした麻枝の前で、戸越は叫び声を上げた。
「ぐわーっ! 『AIR』の掲示板に『高校生です、よろしくお願いします』とか書き込むなーっ!
オフィシャルの掲示板でコピーの話すんなーっ! お前ら、うちの掲示板を潰そうとしてるだろ?
ファンのふりして嫌がらせしてるだろ? こんな掲示板管理、もうやってられるかーっ! ムキーッ!」

「……」
「どうでした? 戸越さんがデータを持っておられましたか?」
「いや……それどころじゃないみたいだった」
「ウキーッ!」
 開発室に戸越の悲痛な叫びが響き渡る。その様子を見て、涼元もため息まじりに麻枝に応えた。
「……確かに、そうみたいですね」
 空の頂点に登りつめた太陽にできる事は、沈み行く事だけだ。かって目指した空は、届いてしまえば
もう上には進めない。今、その絶頂期を謳歌するkeyの進む道は果たしてどこに向かっているのだろうか。
 答えられる者など誰もいなかった。