Leaf&Key仮想戦記〜永遠の遁走曲篇〜

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244六月の海
 所々に錆を浮かべた線路をきしませて、古びた電車が走っていた。天井に備え付けられた扇風機
が首を回転させ、閉じ込められた車内の空気をかき混ぜている。車内は閑散としており、乗客は
片手の指で数えられるほどしかいなかった。
 窓越しに外を眺めれば、そこは一面の海だった。陽光を浴び、透き通るように輝く海原は遮るもの
もなく水平線まで続く。定規で引いたような水平線が、海と空を分けていた。

 電車が急に速度を緩めた。慣性力に体が前につんのめる。海と砂浜しかなかった外の景色に、
まばらな人家が混じってきていた。なおも電車はブレーキを掛け続け、やがて静かな音を立てて
駅のプラット・ホームに停車した。扉を自分の手で開け、ホームに降り立った。

 駅を出るとそこは寂れた商店街の目の前だった。うだるような暑気が体を包み込み、空高く昇った
太陽から降り注ぐ陽光が顔を焼く。凶暴なまでに己の存在を主張する六月の太陽は、充分に夏の太陽
だった。手をかざして見上げた青空の中、風にたなびく雲が白い尾を残して流れている。
 雲の尾を掴むように一羽の鳥が翼をはばたかせ、空を舞っていた。

「……ったく。本当にこんなところにいるのか? あのアホは」
 まるで目の前に罵る相手が存在するかのように、折戸伸治は毒づいた。この商店街は町の中心だろうに、
人の影も殆んど見えない。道路を走る車の姿などどこにもなく、舗装されたコンクリートの上を空気が
ゆらめいていた。

「ねぇ、あの人ちょっと格好良くない?」
「本当だ、向こう側から来た人かな、やっぱ?」
 高校生らしき制服を着た二人の娘が折戸の姿を遠巻きに眺めながら騒いでいた。自分に向けられている
視線に気付いた折戸は彼女達の方に顔を向け、まっすぐに歩み寄っていった。
「わぁっ、こっちに来るよっ」
「どうしよ、どうしよっ」
 どこまでも彼女達は騒がしい。
「ねぇ君達。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 彼女達の側に近づくと、折戸はそう語り掛けた。
245六月の海:2001/06/22(金) 19:35
「は、はいっ。何ですか?」
 髪を短く切り揃えた少女が少し上ずった声で応えた。折戸は穏やかな口調でその少女に問う。
「最近ね、この町に若い男がやってこなかった? 丁度俺くらいの年の奴なんだけど」
「え? すいません、ちょっと……」
 予習していなかった数学の問題を当てられた時のように、少女は口ごもった。
「ほら、一月前くらいに来た人がいるじゃない。あの家に今居候している男の人が」
 もう一人の少女が助け舟を出す。折戸の質問を受けた少女とは対照的な長い髪が後ろで束ねられ、
風に揺れていた。
「それ、ちょっと詳しい話を聞かせてくれないか?」
 少しだけ語気を強め、折戸は長髪の少女に質問をした。少女は自信なさげな様子だったが、それでも
はっきりと答えを返してきた。
「はい……一月くらい前のことなんですけど、向こう側から男の人がやってきたんです。あなたと
同じように電車に乗って、この駅で降りて。この町に来る人なんて年に一人いるかいないかだから、
どうしても目立つんです」
「そうそう、本当に目立ってたよね。あんな人、ここには絶対いないもん」
 会話に割り込んできたショートカットの少女をむっとした様子で睨むと、長髪の少女は再び折戸
に話し掛けた。
「それで今はここの漁業組合に雇ってもらって、漁師の見習いをやっているみたいです。普段は絶対に
見習いなんて取らないんですけど」
 その言葉に折戸は違和感を覚えた。折戸の知る彼のイメージと、体一つで生業を立てる海の男のイメージ
とが滑らかに接続しない。彼にはとても向いていないように思うと同時に、実に彼らしい職業であるように
も思える。
 視線を地面に落し、折戸はしばらく頭の中を整理していた。視線の先にあるコンクリートの舗装路を
ほこりが風に吹かれて舞っていた。空高くから照りつける陽光が直接に首筋を焼くのが感じられた。
「ねぇ、それで今そいつにはどこに行けば会えるのかな?」
 折戸は顔を上げ、少女達に再び語り掛けた。折戸に見蕩れていた少女達は突然の質問に我に返り、
慌てて答える。
「は、はい。多分夕方に港に行けば会えると思います。この時期は漁も日帰りですから」
「ありがとう」
 細い腕を陽光に晒した夏服の少女達に、折戸は笑顔で礼を言った。
246六月の海:2001/06/22(金) 19:39
 初夏の太陽はいつまでも水平線に張り付き、滲んだ光を放ち続けている。遮る雲もなく空は赤く染まり、
明日の空も晴天の青空であることを予言していた。さざなみに揺れる海面が金色に輝き、折戸は眩しく
て目を開けていられなかった。細めた目が海の向こうに浮かぶ小さな影を捉えた。
影は次第に大きさを増している。やがて小さな影はそれが漁船であることが確認できる程の大きさになり、
規則正しいエンジンの鼓動音が折戸の耳に届いた。
 夕陽に照らされた漁船は港口をゆっくりと通過し、岸壁に停泊した。エンジンの鼓動が止み、船べり
から男達が荷を下ろし始めている。折戸は停泊している漁船に駆け寄り、作業をしている男達の中に
探している男がいるかどうかを調べた。日に焼け、赤銅色の肌をした男達は愉快そうに談笑しながら
今日の漁獲を岸壁に降ろしている。よく響く声で笑い合う男達の会話は、折戸にもはっきりと聞こえた。
247六月の海:2001/06/22(金) 19:39
「今日も大漁だったな。俺も長い間この仕事やってるが、こんなに大漁が続くのは初めてだな」
「あ、そうなんですか?」
「おうよ、直さんはまだ日が浅いから分からねぇだろうが、こんなにいつも上手くいくもんじゃねぇ。
つぅか、直さんが来てからはずっと大漁だな。きっとあんたは海に好かれてるんだよ」
「海に好かれているかどうかなんて分かるもんですかね……」
「いやいや、あんたは海に向いているよ。仕事覚えも早いし、体も頑丈だ。すぐに一人前になれるさ」
「違いねぇ、向こう側で何やってたかは知らないが、たいしたもんだ」
 楽しげに喋り合っている男達の中に、折戸のよく知っている顔があった。はるばる遠路を越え、この
地まで探しに来たその男の姿を見つけると折戸は走りより、船に飛び乗った。
「おいてめぇ! 何のつもりだ!」
 船乗りでもない者を許可無く船に乗せる訳にはいかない。船員の中でも特に気性の荒そうな若い男
が折戸の前に立ちはだかった。
「お前になんか用はない、どけ」
 折戸は若者を無視し、押しのけようとした。若者は額に血管を浮かび上がらせ、今にも殴りかかり
そうな形相を呈している。一触即発の雰囲気が、船べりを包んだ。
「やっと見つけたぞ、久弥!」
 折戸の大きな声が緊張を破った。船員達の間に動揺が見られる。突然の闖入者の叫びに、気を
呑まれていた。漁船の長とおぼしき初老の男が折戸に近づいてきた。長年太陽と潮風に晒され続けた
黒い顔は皺だらけで、実年齢より老けて見える。だが体中から発散される威圧感に、折戸は自然とたじろいだ。
248六月の海:2001/06/22(金) 19:43
「あんた、向こう側から来たんだろう。誰を探しに来たのかは知らないが、ここにはあんたの探して
いる人はいないよ。向こう側の名前はここでは通用しない」
 明るい口調で初老の男が言う。
「何を訳の分からないことを言ってるんだ。そこに久弥はいるじゃないか。おい! 急に連絡取れなく
なったと思ったらこんな所で何やってるんだ!」
 勢い込んで言い返す折戸を初老の男は睨みつけた。
「あんた、ここにくる人間はここにくるなりの事情があるんだよ。それを考えてやりもせずに一方的
に向こう側のルールを振りかざすのは感心できんな」
「何だと?」
 剣呑な雰囲気が二人の間に生じる。初老の男の体は服の上からも鋼のような筋肉が盛り上がっている
のが分かる。長年海の上で生き抜いてきたことをその体が何よりも雄弁に語っていた。
「折戸さん、こんな所で妙なことはしないで下さい」
 船員の中から、一人の若い男が姿を現した。男は二人の間に入ると、まず初老の男に謝罪した。
「すいません、僕の知り合いなんです。この人はわざわざここまで探しに来てくれたんです」
「そうか……あんたの知り合いなのか。あんたはまだここに来て日が浅いからな。連れ戻しにくる
者もいるだろう」
 目の前の男の姿を折戸はまじまじと見詰めていた。かなり日に焼け、精悍な容貌をしてはいたが
よく知った久弥本人そのものだった。久弥は折戸の方へ体を向け、言った。
「折戸さん、今は話はできません。夜まで待ってください」
「……あぁ、分かったよ」
 素直に応じると、折戸は船べりを離れ、港に飛び移った。
249六月の海:2001/06/22(金) 19:43
 素足で立っていることもできないほどに昼間は太陽に焼かれる砂浜も、夜になれば僅かに
熱の残滓を感じるばかりだった。砂浜に波が打ち寄せる。寄せては返し、返しては寄せる波の声だけ
が繰り返し砂浜に響いていた。
 排気ガスに遮られることもなく、地上の明かりにかき消されることもない海辺の小さな港町の
夜空は、宝石箱をひっくり返したようにきらめいていた。
(空をこうして見ることなんて、最近あったかな?)
 折戸は漠然とそんなことを考えていた。砂浜に独り待つ折戸の体に潮風が吹き付ける。海の匂い
が鼻をくすぐった。
「すいません、お待たせしました」
 背中から聞こえる声の主に、折戸は振り向いた。
「随分と上手くやっているみたいじゃないか。お前に漁師の適性があったなんてはじめて知ったぞ」
「仕事もせずにブラブラしているのが嫌だっただけなんですけどね。皆いい人ですし、結構楽しく
やっていますよ」
「まぁ、エロゲー作るよりはよっぽど堅気の仕事だ。再就職先としては悪くないかもな」
「そうかも知れませんね」
 淡々と答える久弥に、折戸は苛立ちを隠せなかった。久弥が忘れ去られた過去の人として姿を消し、
この辺境の地で生涯を終えることは、折戸には認めがたい不遇に思えた。
「なぁ……keyに戻って来いとは言わない。でも、もう一度だけでいい。ゲームを作ってみないか?
まだ終わりじゃないだろう?」
 切々とした折戸の言葉が久弥に伝えられた。
「別に構わないんです、いつ終わりが来ても。夢を見ていたようなものでしたから、初めから」 
 久弥はどこまでも静かに言葉を返す。
「どうしてだ? やりたい事がまだあるんだったらやればいいじゃないか。他の連中に何言われた
って構うものか。人手が足りないんだったら集めればいい。俺だっていくらでも力を貸す。
麻枝達がどうこう言うようだったらkeyを出て、お前と一緒に新しくチームを組んだっていい」
 きっぱりとそう言い切った。
250六月の海:2001/06/22(金) 19:44
「冗談でもそんな事は言わないで下さい。折戸さんはkeyに必要な人です。あなたがいないとkeyは
絶対に潰れます」
 久弥は慌てて折戸の暴言を諌めた。だが吐き捨てるように、折戸は答えた。
「潰れちまえばいいんだよ」
「折戸さん!」
「お前こそ分かってるのか? 俺達がお前にしたことを」
 叫ぶような折戸の口調に、久弥は思わず後退した。
「俺達のしたことは、ただの使い捨てだ。利用できる間は利用して、名前が売れたらもう用済み
扱いだ。そんなにkeyが大事だったのか? そんなことをしなければ守れないようなkeyだったら、
いっそ潰れたほうがいい。シナリオが揃っているからお前は不要だ、というんだったら俺も同じだ。
麻枝と戸越がいるんだから、音楽も俺無しで充分いけるはずだ」
 折戸は自分の言葉にかえって激していた。叩き付けるように、憤りの言葉を重ねた。
「麻枝といたるは今じゃまるで元鞘だ。お前のことなんか話題にも登りやしない。初めから
お前なんかいなかったみたいにな」
 まるで胃の奥に溜まった苦い汁を嘔吐するかのようだった。だが、それを聞いた久弥は笑顔さえ
浮かべて折戸に向かって答えた。
「それで、いいじゃないですか」
 その言葉に折戸は愕然とせざるを得なかった。力が抜け、張り合いをなくしてしまいそう
だった。その言葉が正に久弥の真情であることが瞬時に伝わってきたからである。
 事実、折戸の話は久弥を安堵させていた。
 麻枝といたるはもう大丈夫だ、と信じてはいる。だが、自分の目で直接その様子を確認する
ことができない以上、やはりどこか心に残る不安を完全には払拭できなかった。今、折戸に
よって自分の判断が間違ってはいなかったことを知らされ、久弥は満足だった。
 久弥のことを忘れ去ったような二人の振る舞いがまた良かった。覚悟の上での行動だったが、
自分が消えたことが二人の関係に影を落としては本末転倒である。自分がkeyにとって
不要なだけではなく、却って害を及ぼしているようなことがあれば、それこそ自分を許せない。
 忘れられ、初めから存在しなかった者とされることは正に久弥の願いだった。
 それを叶えてくれている麻枝達の優しさが心に沁みた。涙が出るほどに嬉しかった。
251六月の海:2001/06/22(金) 19:47
 だが、折戸にはそんな久弥の心情は理解できないだろう。理解していれば今ここにいるはずが
なかった。
「何だよ、それ。何でお前がそこまでしなきゃいけないんだ。そこまでする理由が一体どこ
にあるんだよ?」
 声を荒げ、久弥に詰め寄った。一瞬久弥は考え込むような表情を見せたが、すぐに笑顔に戻り
穏やかに答えた。
「理由なんて無いです。僕がそうしたかったからそうする、それだけのことです」
 反論したかったが、できなかった。久弥が何を求め、何にすがっていたかが分かるからだ。
「馬鹿だよ、お前は」
 辛うじて、それだけが言えた。月が空高く浮かび、夜の天球を回転していた。重力に引き寄せられ、
きしみ声を上げながら回る月の音が聞こえてくるようで、やけに耳障りだった。