「なあ、俺達本当にこれで良かったのかな?」
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うわぁぁーん…… うわぁぁーん…… うわぁぁーん……
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汗は焼けゆくアスファルトの上に落下しては染みを残し、消えてゆく。
陽炎に揺らぐ大気はじっとりと湿気を帯び、気怠い蝉の声が辺りに反響を繰り返す。
「そうだよ、お兄ちゃん」
それだけ口にして、そっと初音ちゃんが体を絡めてきた。
優しく、柔らかく、それでいて仄かに冷たいその手を俺はそっと握ってみる。
「これで、良かったんだよ」
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俺は、徐々にこの世界から音が消えてゆくのを感じていた。
止まない耳鳴りがノイズのように耳の奥で蠢き、
やがてそれは増殖して俺達を包み込む透明な隔壁に姿を変える。
耳についていたはずの蝉の声もいつの間にか何処かに消え、
ただ俺の知覚は初音ちゃんの匂いだけに支配された。
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それは、酷く暑い夏の一日だった。
いつのまにか、三年の時が流れていた。
いつしか人々はあの狂った殺戮の宴のことを忘れ、また新しい感興に溺れている。
その時間の流れは俺達の中にも確実に訪れ、ゆっくりと世界を書き換えていった。
「おはよう、耕一さん」
「おはよう」
穏やかな光が辺りを包み込んでいる。
朝の何気ない挨拶、こんな所にも俺は変化を感じる。
「今日から休暇なんでしょ?会社」
千鶴さんは、すると一寸しょげたような表情を見せた。
「ほら、一応私会長ですし、顔だけは出しておかないと、、、」
「ほら、みんなそろそろ休みだしさ、みんなでピクニックにでも行こうと思ったんだけど」
少し困ったように胸の前で指をもじもじさせる、
千鶴さんの可愛い癖を眺めながら俺は一寸した感傷に浸っていた。
三年経つ内、まだ子供だと思ってた初音ちゃん達は大学に上がったし
---初音ちゃんは相変わらず俺を「お兄ちゃん」と呼んでくれるけど---
おかげで俺は毎朝みんなとのんびり朝飯にありつける。
そう、俺はこの家に戻ってきていた。
相変わらず千鶴さんの作る料理は絶望的な破壊力を誇るし、
楓ちゃんもとりわけ多弁になったとか梓が急におしとやかになったとか、
そういう変化はなかった。
それでも、俺達を取り巻く空気は緩やかに流れ、確かに俺達は変わっていた。
一緒に変わってゆくうちはその変化に気がつくことはないだろうけど。
「あ、お兄ちゃん!」
「お、初音ちゃん。おはよう」
何時の間に後ろに立っていたのか、
初音ちゃんが歩みを遅めていた千鶴さんの代わりに入ってきた。
「どうしたの?まだ眠いの?」
痕の癒えた初音ちゃんは、それでも、昔とはほんのちょっと違う笑顔を浮かべて……
いや。
もう、昔のことは忘れよう。
俺は、日の光を背に微笑む初音ちゃんの姿を正視することが出来なかった。
「いやさ、みんなもうそろそろ休みだろ?どっか遊びに行こうかと思ってさ」
ぱああっ、、、と初音ちゃんの顔が笑顔で一杯になる。
「じゃあお兄ちゃん、夜、星でも見に行こうよ?」
男は、独りさざ波の音に耳を傾けながらギターを奏でていた。
小さな壺と、一抱えはある写真を胸に抱いて。
柳川だった。
あれから、毎日彼はこの海岸まで足を運んでいた。
「なあ、最近おまえ丸くなったんじゃないか?」
よく、同僚や長瀬にそう言われるようになっている。
以前のように文字通りの仕事の鬼になることもなかった彼は、確かにそう見えた。
しかし、彼らには真実が見えていなかった。
彼に刻み込まれた痕は既に埋めがたいものに変わっていたということに
彼らは気がつかなかった。気がつこうともしなかった。
ただ、職場の人間が少し変わった、
結局彼らの日常にとって他人の出来事とはその程度のものに過ぎなかったのだ。
彼を切り刻んでゆく時の流れにさえ気がつかなかった人々に
その痛みを知れというほうが無理なのかもしれなかったが、
彼らは結局分かり合うことの出来ない他人に過ぎない。
その代わり、彼は最愛の友の残したギターを日々操り続けた。
それまで音楽に関心がなかったとはいえ、寝ても覚めても僅かな時間さえ有れば
打ち込む内彼の指から奏でられるメロディは形を成し、美しく、
それでいて得も言われぬ悲しい旋律を湛えるようになった。
「貴之……」
曲が終わりを迎えると誰にともなく呟き、また一から弾き始める。
貴之がいつも少し誇らしげに弾いていた「Le Ciel」。
亡き友の張りのある声を思い浮かべながら、丁寧に奏でてゆく。
……流れ落ちる真っ白な……
……君の頬に口づけを……
……僕がここに居続けることは出来ないのに……
ふと、指を止める。
「駄目だ、、、」
握りしめた弦がきりきりと手に食い込んでゆく。
「俺には……もう、おまえのようには……」
打ち寄せる波は、何処までも続いてゆくかのような彼の足跡をそっと包み隠していった。
星が空から降ってきた。
「綺麗ですね、、、」
少し肌寒い空の下、千鶴さんが体を寄せてきた。あとは、何も言わない。
夜のピクニックに足を運んできていた俺達は、
ただ空を覆い尽くすような一面の星空に圧倒されていた。
またこういう景色をみんなで見れるようになった。
それだけで俺は胸の奥が熱くなっていくのを感じていた。
何気ない日常だけど、そんな中で確かな絆を感じる、そんな、、、
「ほら、お茶にしよーぜ」
しかしこいつは何かね、周りの空気というものが読めないんだろうか…
「食いしんぼ」
「なにぃっ?!」
「お姉ちゃんっっ、それ、私の髪の毛だよぉ〜」
振りかぶりポットをつかんだつもりが初音ちゃんのアンテナをつかんでいた。
途端に動揺を顔に出す梓、見ていて飽きない。
「……綺麗……」
誰ともなく自然口数が少なくなっていく。
吐息は冷たい風の中、白く、ふわりと虚空に舞い上がり、消えてゆく。
しんしん、しんんしんと音をたてながら冷たくなる空気は俺達の肌を刺すけど、
暖かなベールが俺達を包んでいた。
見えない、それでいて確かな何かで俺達は繋がっている。
言葉はいらない。
ただ、こうして星の降るに任せるままで時間が流れてゆくのを感じていればいい。
「っくしょん!」
初音ちゃんが可愛いくしゃみをあげる。
18にもなればもう「女」だろうか、可愛いなんていったら悪いかもしれないけど、可愛いんだから仕方がない。
「はい、初音ちゃん」
「あひがとう、おにひちゃん〜」
風邪気味なのだろうか、コートを渡すと少し鼻声で嬉しそうな笑顔が返ってきた。
いつか見たことのあるそれは、まだ初音ちゃんが小さな女の子だった頃に
見せたのと同じように幸せそうな笑顔。
それを、優しく気遣う梓。
いつの間にか寝息を立てている楓ちゃん。
何も言わないけれど優しい眼差しで三人を見守る千鶴さん。
もしかすると、俺が感じているほどには世界は変化していないのかもしれない。