「待ち合わせは駅前、午後五時…。」
駅前の壁に寄りかかったまま、詠美は腕時計を見てそうつぶやきました。
いつものダウンジャケットにスカート、ブーツまでは同じですが…今日は控えめに口紅を引き、
ほのかにコロンまで振りかけています。いずれもコンビニで買ってきたお遊び程度のものですが、
それでも詠美にとっては初めての、そして精一杯のおめかしです。
なぜなら今日はホワイトデー。男の子が意中の女の子に対し、想いを込めたプレゼントを
贈る日です。しょせんは新興の行事であり文化ですが、この日の訪れを心待ちにしていた
女性は、その胸の内が期待か不安かは別にして数多いことでしょう。もちろん詠美も
そのひとりです。
それでも、夕べ和樹がかけてきた電話のおかげで、彼女の胸の内はすっかりバラ色に
染まっていました。
…会いたいというだけでなく、ちゃんとホワイトデーについても触れてくれた…
そのことが、詠美の乙女心をいつもよりずっとワクワクさせています。壁に寄りかかったまま
ソワソワと辺りを見回したり、ふとうつむいたかと思うとニンマリ微笑んだり、安堵するように
溜息を吐いては鈍色の空を見上げたり…。逸る気持ちは詠美を落ち着かせません。
「待ち合わせは駅前、午後五時…ふみゅう…」
夕べの約束を自問自答するように、詠美はもう一度腕時計を見てつぶやきました。
ちなみに腕時計が示している時刻は午後四時三十分。これで詠美は三十分も駅前で
ソワソワしていることになります。
平然たる遅刻癖はなりを潜めたようですが、それでも苛立ちを隠そうともせずに唇を
噛み締め、不満げにうなられては待ち合わせている相手もたまったものではありません。
「…やっぱり早く来てやがったか。」
「ひゃああっ!!」
再び駅前の広場に視線を向けたとき、そちらとは正反対の場所から声をかけられ…
詠美は驚きのあまり、思わず悲鳴をあげてしまいました。振り向いた改札口からは、
いつものジャケットを羽織った和樹が苦笑半分で歩み寄ってきます。
「…びっ、ビックリしたじゃないっ!バカッ!バカポチッ!!」
「いてっ!ちょ、痛いって!落ち着けよっ!!」
緊張していた矢先に肝を冷やしたため、やおら逆上した詠美は文句を浴びせながら
和樹の胸をポカポカ叩き始めました。それでも和樹は後ろ手になったまま、半ベソで
取り乱す詠美の好きなようにさせてあげます。
「はぁ、はぁ、はぁ…ど、どこから出てくるのよっ!!他人をむかつかせることに生きがいを
みいだしてる、むかつきにんげんこくほーっ!!」
「とうとう人間国宝かよ。いいか詠美、オレはちゃんと約束に間に合うように出掛けてたんだ!
それでちょうど今電車から降りてきたとこなんだよっ!それが悪いかっ!?」
「わ、悪くはないけどっ…な、なによ…後ろになに持ってるのよぉ…?」
極めつけともいえる侮辱を浴びせられて頭に来たのか、さすがの和樹もいつにない
厳しい口調と表情で詠美に言い返します。
詠美も和樹に非がないことは解っているので、一瞬たじろぎましたが…悪あがきは
何気ないタイミングで中断してしまいました。じょていとしての威厳保持よりも、彼の背後で
揺れた何かに対する好奇心が上回ったのです。ちょこちょこ回り込んでは和樹の背後を
覗き見ようとしますが、その動きはまるで、じゃれてまとわりつく子犬のようです。
それで和樹も観念して、ついには詠美の目の前にそれを差し出しました。
「花…」
「…これを持って待ってるオレをお前が見つけて、見たことねーようなかわいい顔して
駆け寄ってくる…なんてのを想像してたんだがな。」
「うわぁ…きれい…」
「…まぁ、結果は一緒だったか。」
和樹が差し出したものは、優しい彩りを赤いリボンで結わえた花束でした。
白いマーガレット、淡い紫とピンクのスイートピー、そして黄色いガーベラ…。花に興味が
ない者であったとしても、きっとその目にはかわいらしく映るに違いありません。二人の
横を通り過ぎてゆくサラリーマンや学生達も、一瞬この花束に視線を向けてゆくほどです。
実際、詠美もそれほど花には興味を持っていません。こみパの会場でファンから花束を
もらったときも、どうせならお菓子がいいのに…などと失礼なことを考えていたりするくらい
なのです。
それでもこうして、想いを寄せている男性から花を差し出されると…感動もひとしおでした。
詠美はうっとりと見惚れたまま、あどけない美少女の笑顔を何の気取りもてらいもなく
和樹に見せてしまいます。当の和樹も詠美の反応に愛しさを抑えきれず、ついつられて
微笑を浮かべてしまいました。
「これ…あたしに…?」
「ああ、ホワイトデーのプレゼント。」
「…あ、ありがと…わぁ、なんかすごい…わたし、花なんてもらうの生まれて初めて…。
ほ、ほら、ホワイトデーって普通、キャンディーとかホワイトチョコとかじゃない…あたしも
そう思ってたから…だから…わぁ、ホントに嬉しい…」
詠美はその花束を受け取ると、しおらしく謝辞を述べてから感動を言葉にしました。
微かに上擦った饒舌ぶりは聞いていてかわいらしいことこの上ありませんが、以前
花束を渡したことのあるファンが聞いたら激怒するのは間違いないでしょう。詠美らしいと
いえばそれまでですが、さすがにこれは失礼です。
「…そっか、やっぱり食い物の方がよかったか。悪い悪い、返してくれ。」
「だっ、誰もそんなこと言ってないじゃないっ!やだ、もうこれはあたしのっ!!」
「キャンディーとかホワイトチョコが欲しかったのかぁ、失敗したなぁ。詠美ももう高校卒業
だから、花なんか贈ってもいいかなぁなんて思ったオレがバカだったよ。」
「そっ、そんなこと思ってないーっ!し、したぼくのくせにっ、いじわるーっ!!」
わざとらしいほどの動作で頭を掻きながら、和樹は先程手渡した花束を取り返そうと
します。それが先程の理不尽な仕打ちに対するささやかな仕返しであることは、悪ガキの
ように無邪気な笑顔を見れば誰でもわかるでしょう。
しかし詠美は真っ赤になって否定しながら、花束を大事そうに抱え込んで和樹の手から
逃げ回ります。本音を言えば、食べられるものも欲しいと思っていた矢先だけに…心の中を
覗かれたのかと、狼狽えた冷や汗で背中が冷たくなってきました。もはや和樹のわざとらしい
独語からも、彼の真意を見抜くことができません。キッと涙目で睨み付けながら、いつもの
ように苛立ちをぶつけます。
「はははははっ、心配すんなって。食べられるヤツもちゃんと用意してあるって。」
「…な、なんかあらためてそう言われると、もっとむかつく〜!!」
「なんだよ、むかつくってのは…結局、食べられるヤツはいらねえのか?」
「ぐっ…くっ…ふ、ふみゅうん…」
「じょ、冗談だよ!なにも泣くことねーだろっ!?ああもう…わかったわかった!
オレが悪かったよっ!!」
いじめ抜かれた詠美は両手で花束を抱き締めながら、とうとうベソをかき始めました。
和樹は慌てて彼女の肩を抱き寄せ、かいぐりしながら必死になだめます。
日も暮れて、空は鈍色。
今にもまた雪が降ってきそうな気配で、冷え冷えとした街並みもどこか鈍色に見えるのでした。
「…花持ってても、結局はオレんちに来るのな。」
「あっ、あんただってダメって言わなかったじゃないっ!他人のせいにするなんて、
したぼくのくせにちょおナマイキ〜!」
「はいはい、詠美ちゃんさまのおっしゃるとおりです…しかし、花瓶なんて気のきいたもの
あったかなぁ…」
二人は夕食をとることもなく、そのまま和樹のマンションに来てしまいました。
お互いなんやかんや言いながらも、無意識に二人きりの時間を望んでいるのです。
二人きりという、互いのことしか考えなくていい甘やかな時間を…。
同じように甘やかなホットチョコを早く楽しもうと、二人が小走りに階段を駆け上がり、
角を曲がったところで…部屋の前で呼び鈴を押していたひとりの女性と目が合いました。
「瑞希…」
「あ、和樹…」
「た…高瀬、さん…」
ブラウンのオーバー姿で、髪をサイドポニーテールに結わえた女性は高瀬瑞希。
三人ともそれなりに面識はあるというのに…それぞれで名を呼び合った瞬間、詠美は
張りつめた空気で呼吸を詰まらせました。思わず後ずさり、和樹の背後に隠れるように
しながらそっと彼の左腕にすがりつきます。
そのまま音もなく、一秒、二秒、三秒…怖いくらいにゆっくりと時間が過ぎ去ってゆきますが、
三人の視線は吸い込まれたかのようにそれることがありません。
…なんで…なんであたし、怖いんだろ…なにが、怖いんだろ…
言いようもない不安を胸いっぱいに覚え、詠美の小さなあごは微かに震えてくるのでした。
以上です。続きはまた後日。
しかし、ちゃんさまの誕生日までもう一週間ないんだよなぁ…。
ネタ考えとかなきゃ(w