詠美は今日もまた、退屈で憂鬱なままに一日を過ごしてしまいました。
時刻はもう午後十時。暦はもう弥生にまで差し掛かったというのに、寒気はいまだにしつこく
居座り続けています。
「…最近あたし、なにやってんだろ…」
パジャマに着替えた詠美はファンヒーターの電源を落とすと、気怠く独り言をつぶやきながら
ベッドに上がりました。そしていつものように、冬ごもりするクマよろしくノソノソと布団の中に
潜り込んでゆきます。
テレビはつまらないし、インターネットは刺激不足だし…大好きだったマンガにすら、今は
書く気が湧いてきません。気が付いたら朝で、気が付いたらお昼を食べていて、そして
気が付いたらもう床に就く時間…。一日一日の充実感が感じられなくなっています。
「はぁ…つまんない…つまんないよ…せっかくの時間、もったいないよ…」
リモコンで明かりを消してから、詠美はいたたまれなくなって枕に愚痴をこぼしました。
先生方の多大な協力もあり、詠美もどうにかこうにか高校を卒業できることになりました。
来年度からは私立の短大に通学することも決まっています。
それまでの時間…まだ高校生でいられる時間を浪費していることが、詠美にはたまらなく
もどかしく感じられるのです。それはもちろん毎晩のように思い悩んでいることなのですが、
どうすればこの貴重な時間を有意義に使えるか、答えはいっこうに見つかりません。
「かずき…」
そして、今夜もまた…詠美はその苦悶の果てに愛しい男の名を呼びました。耐えきれない
苦悶を打開してくれるのは、やはり彼しかいないのです。
…会いたい…和樹に会いたい…
その想いは夜毎に強くなってきています。まだ真っ直ぐに顔を見ることができないかも
しれないけど、それでも会いたくて…おしゃべりしたくて…
いえ、おしゃべりをしなくても構わないのです。マンガを描いていようと、テレビを観ていようと、
雑誌を眺めていようと、あるいはうたたねしていようと…とにかく和樹に会って、彼の側に
いたいのでした。一時間でも…一分でも…一秒でも長く…
それでも…まだ電話すらかける勇気が…
プルルルルッ…プルルルルッ…
「あっ…」
臆病になっている自分に心中で言い訳した矢先、やけに大きく電話のベルが鳴りました。
とはいえその電話は家の電話であり、詠美の携帯ではありません。
布団の中から頭だけを突き出した詠美の耳に、やがて階下から詠美のお母さんの声が
聞こえてきました。次いでお父さんが応対に代わったことからも、どうやら電話の相手は
お父さんの仕事先の方のようです。
「バカッ…バカバカッ…電話くらいしてきなさいよっ…!!」
詠美は再び布団の中に潜り込むと、自分のことを棚に上げて憤慨しました。膝を抱える
ように小さく縮こまり、唇を噛み締めて失望に耐えます。
♪びりりーりー、りりりりーりり、りぃりりー…
「あっ…け、ケータイ…」
ふとどこからか『スモーキン・ビリー』のイントロが聞こえてきたような気がして、詠美は
耳を澄ましました。たちまちそれが自分の携帯の着メロであることを思い出すと、詠美は
慌てて布団をはね除けて机の前に立ちました。
「あ…あっ、あっ…!」
震える手で充電器から携帯を取り上げ、発信相手を確認して…詠美は震える声をたちまち
歓喜で上擦らせました。
ディスプレイにははっきりと、『千堂和樹』と表示してあったのです。
「もっ、もしもしっ!?」
「あ…詠美か?」
「…う、うん…」
携帯から聞こえてきたのは、紛れもなく和樹の声でした。詠美は感激のままに、ひとつ
憎まれ口でも叩いてやろうと思ったのですが…どことない違和感に気付いて返事を
寄こすだけにとどめました。
なぜなら今まで通りの和樹だと、
『よぉ、オレ。和樹。』
が、携帯にかけてきたときの決まり文句だったからです。詠美の携帯だというのに、わざわざ
相手を確かめる必要などありません。きっと彼も久しぶりの電話に勝手を忘れているのでしょう。
「あ…なんだ、今時間、大丈夫か…?」
「う、うん…」
こんな気遣いすら、詠美は長い間聞いていません。あらためて和樹のよそよそしさを実感し、
寂しさに胸が詰まります。まるで、もう何年も会っていないような…それどころか和樹が遠い
外国から国際電話でもかけてきているような気にすらなってきます。
「最近…どうしてた?」
「…特に、なんにも…部屋でぼーっとしてたり…」
「そっか、退屈してたんだ?」
「うん…」
電話の向こうの和樹は色々と話題を振ってきますが、それでも詠美は言葉少なになって
しまいます。
詠美は言葉を慎重に選びすぎているのでした。自分では気付いていませんが、彼女もまた
和樹に負けないだけよそよそしくなっているのです。
色々言いたいことや聞きたいこと、今度のこみパの打ち合わせ、それにわがままを言って
困らせたりもしたいのに…どれから切り出せばいいのか見当が付きません。そのうえ、
こうした躊躇が無愛想に取られてしまうのではないか…機嫌を損ねてしまうのではないか…
と焦りばかりが募り、結局言葉は喉の奥で霧散してゆくのです。
このたまらない悪循環に、詠美は携帯を耳に当てたまま深くうつむいてしまいました。
机の前で立ち尽くしたまま、気分はまるで厳しく叱責されているかのようです。
…そんな…そんなっ、そんなあっ…いや、せっかく…せっかくなのにぃ…
「詠美、どうした?詠美っ?」
「え…?あ、な、なんでもない…」
「せっかくなのに、とか…お前どうしたんだよ、泣いてんのか?」
「う、ううん…そんなわけないでしょ…」
どうやら先程の焦りは涙声になっていたようです。詠美は和樹に小さなウソをつくと、
見られていないのをいいことに右手でぐしぐし目元を拭いました。電話でよかった、と胸を
撫で下ろせば少しだけ気分が落ち着いてきます。
「…電話って、上手くできてるよな。」
「え…えっ?ええっ!?」
「な、何を驚いてんだよ?」
「べっ、別になんでもないわよっ…いちいちうるさいっ…」
突然和樹が切り出してきた言葉に、詠美は目元を拭ったことすら気取られたのかと一瞬
狼狽えましたが…どうやらそうではないようです。慌てて否定すると、いつものような憎まれ口が
自然と飛び出てきました。
「で、急になに?電話が上手くできてるなんて…。そりゃあぶんめーのりきってやつだから、
上手くできててとーぜんじゃない。」
「そりゃそうなんだが…オレ今布団に入ったまま電話してんだけどさぁ…」
「なっ、なにそれ!?それがあたしに電話する態度っ!?」
「なんだ、お前は違うのか?だったらお前も布団の中入れよ。風邪引くぞ?」
和樹の言葉に詠美は面食らいましたが、それでも確かにファンヒーターはすでに止めて
しまったので、もう室内は冷え込んできています。すでに裸足の足元は寒くてなりません。
そこで詠美は右手を思いきりのばし、そおっと布団をまくりながらベッドに上がりました。
「ぎょ、行儀悪う〜っ…あんたの育ちがわかるわね…」
「…とかいってるけど、受話器の向こうから布団の音が聞こえるぞ?」
「いっ、いちいちうるさい〜!!むかつくむかつく〜っ!!」
和樹の揚げ足取りを大声で怒鳴りつけながら、詠美は急いで布団の中に潜り込みました。
これである程度衣擦れはごまかせたはずです。携帯の向こうからは人の悪い笑い声が
聞こえてきますが、もう気にしないことにしました。
「で、何なのよっ…?」
「だからさ、電話って…おしゃべりに専念するしかないから、なんだかんだでおしゃべりが
弾むようになってんだよな。現にほら…さっきまでの詠美と全然違う。」
「あ…あっ、あたしは変わってなんかいないわよっ…」
「まぁそれはいいんだけど…でも…やっぱり電話じゃ物足りないよな。」
「え…?」
一旦和樹が言葉を区切ったので、詠美も小さな相槌をひとつ、彼の続きを待ちます。
「耳元で声が聞こえるけど、こんな小声でも言葉が伝わるけど…それでも遠い感じがするよな。
やっぱりおしゃべりするんなら、相手と一緒にいたほうが断然いいって思う。」
「う、うん…」
「…そこで、でもねぇんだけど…詠美お前、明日…時間あるか?」
「えっ…?」
「デートってわけじゃねーけど…なんだ、どっかメシでも食いにいこうぜ?ほら、今度のこみパの
打ち合わせもまだやってないしさ。」
その言葉は、今までに聞いたこともない雰囲気を伴って詠美の耳に届いてきました。
…明日、和樹と会える…か、和樹と会えるっ…
だからこそ…その誘いかけがゆっくり意識に浸透してきたところで、詠美は恋患いの甘酸っぱい
溜息を漏らしたのです。携帯を押し当てたままの左耳には、微かなノイズを押し退けて狂おしく
耳鳴りが響いてきました。歓喜と焦燥のあまり、両脚は今すぐ部屋から飛び出ようとして、
ピクンッと動いたほどです。
「どうだ…?やっぱりまだ、この間のこと…」
「いっ、いいわよっ…たまにはしたぼくの願いも叶えてあげるわっ…。そうね、駅前に十時って
ことでどう?な、なんならもっと早くても平気だけど…」
「メシ食いにって言ってるのに、十時でも早いと思うんだが…まぁいいや、十時に駅前だな。
わかったぜ。詠美…どうもサンキューな。」
「あ…う、うん…」
詠美ははしゃいだ気持ちを見透かされないよう、努めてじょていらしく振る舞いましたが…
和樹の謝辞への返答は、恋するひとりの女の子のものになってしまいました。それでも
自尊心が野暮に騒ぎ立ててくることもなく、むしろあれだけ重苦しく詰まっていた胸が
ワクワクと逸ってきます。
「じゃあ…今夜は明日に備えてもう寝ようぜ。突然悪かったな。」
「な、なにを今さら…遠慮なんてしないでよ…」
「ははは、そうだな。じゃあ詠美、最後にちょっと静かにしてよぉく聞け…」
「え、な、なに…?」
ちゅっ…
「あっ…あっ、あんたっ、何考えてんのよっ!!電話でそんな、そんなっ…」
「あははははっ!じゃあな、おやすみっ。」
携帯から聞こえてきた微かな音に、詠美はボッ…と音立てるくらい身体中を熱くしました。
こみ上げる照れくささに任せて、詠美は大声で怒鳴り散らしますが…和樹は悪びれる風もなく、
さっさと電話を切ってしまいます。あとには憤慨を白けさせるように、プーッ、プーッ…と
信号音が繰り返されるのみです。
ふぅ…
置いてきぼりをくらった詠美は小さく溜息をひとつ、携帯をオフにしました。やがてディスプレイから
明かりが消え、布団の中は真っ暗になってしまいます。
「おやすみ、かずき…ありがとう…」
暗闇とぬくもりの中でそうつぶやくと、詠美は携帯にそっと唇を押し当て、そのまま愛おしむように
パジャマの胸元に押し抱きました。今夜は充電させることなく、抱いて眠るつもりのようです。
…ひさびさに、あたしのカレンダーが進む…
退屈からの解放を予感した詠美はうっとりと布団に頬摺りし、明日を待つためにまぶたを
閉ざしたのでした。