はふぅ…
暖かい布団の中にすっぽり潜り込んで、詠美は深ぁく溜息を吐きます。
結局あれから詠美は一言も話すことができず、帰るね…とだけ告げて和樹の部屋を
後にしました。気まずい雰囲気は互いの言葉をも押さえつけてしまうのでしょう。
和樹も引き留めることはしませんでした。
帰宅してからも、ぽおっ…となったままの胸は落ち着くことなく、詠美はひたすら
機械的に身支度を整えて床に就きました。病気知らずの愛娘が生返事しか寄こさない
ことに、両親はひどく心配したのですが…さすがにマンガひとすじの詠美が恋患いに
かかっているなど想像もしなかったに違いありません。
「あたし…キス、しちゃった…か、和樹に…キスされちゃったぁ…」
まぶたを閉ざしても、ちっちゃな唇はいまだに繊細な感触を呼び戻してきます。
詠美はゴロリと寝返りを打ち、両手で胸の真ん中を押さえながら猫撫で声でつぶやき
ました。せつない溜息に乗せられた独り言はしかし、キスした実感を深めるばかりで
なんの慰めにもなりません。
「ふみゅうん…ふみゅうん…」
ごろり…ごろり…ごろり…
ファーストキスの余韻が胸を締め付けてきて、どうにも眠れない詠美は何度も何度も
寝返りを打ちます。狂おしくのたうつうちに、身体はぽかぽかと熱くなってきて…
清潔なパジャマはすっかり汗ばんできました。
「はふ…はふ…はふ…かずき…かずきぃ…」
ぎゅううっ…
詠美は真っ暗な布団の中、うっすらと涙目を開いて愛しい男の名を呼びました。
両手はもがくように毛布を掻き集め、両脚もそれに絡みついてゆきます。
普段詠美は毛布にくるまって寒さを凌いでいるのですが、今夜は立場が逆です。
日頃のお礼とばかりにきつく抱き締め、火照る頬で繰り返し抱擁を捧げます。
毛布を抱き締めているとはいえ、その上からはフカフカの羽毛布団がかけられて
いますから寒いということは少しもありません。
「ん、んっ…はぁっ、はぁっ、はぁっ…んんっ…」
やがて詠美は頬摺りに飽き足らなくなり、突っ伏すようにして毛布に唇を
押し当てました。そして、和樹の顔を…和樹の重みを…和樹のぬくもりを…
和樹との感触を思い起こしつつ、ファーストキスの余韻をなぞってゆきます。
熱く湿った吐息が顔に跳ね返ってきますが、そんなことは少しも気になりません。
…でも…かずきって、キスしたことあるの…?すごく上手だったけど…
ひとしきり想いの丈を毛布にぶつけてから、詠美はふと疑問を抱きました。
目の前に見えている幸福が後一歩のところで手に入らない状況というものは、人間の
心をひどく焦らせ、そして不安にさせるものです。詠美もまた同様で、たちまち彼女の
かわいらしい胸の奥は杞憂に苛まれてきました。
…すごい落ち着いてて、気持ちいいキスの仕方、全部わかってるみたいで…
…まるで…付き合ってる人がいるみたいで…
「高瀬、さん…?」
きゅんっ…と胸が締め付けられるのと同時に、詠美はある女性の名をつぶやきました。
先程も和樹自身からフォローがあったにもかかわらず、詠美にはどうしても彼らが
ひどくお似合いのカップルに思えて…急に寂しさがこみ上げてきます。
「いや…そんなのいや…かずきは…かずきはあたしのしたぼくなんだからぁ…誰にも
取られたくないよぉ…取られたくないよぉ…!」
そう涙声で駄々をこねると、詠美はきつくきつく毛布を抱き締めました。華奢な両手も、
ほっそりとした両脚も…強い独占欲に駆られて微震するほどに力が込められてゆきます。
「好き…好きなんだから…あたし、かずきのこと好きなんだから…!どこの誰よりも、
ちょおちょお大好きなんだからあっ!かずき…かずきぃ…!」
詠美は毛布に唇を押し当てたまま…それこそ和樹に口移しするかのように告白を
重ねました。会おうと思えばいつでも会える相手なのに、もう恋しくて恋しくてならず、
せつない涙は止まってくれません。
詠美の机の上では、充電中の携帯電話がLEDをほのかに赤く光らせています。
その小さな灯火を見れば、即座に胸をなだめる術にも気付くはずですが…今の詠美には
しがみついた毛布から離れるだけの勇気も残っていないのでした。