ぴんぽーん…
「はいはーい…よう、詠美!こないだは悪かったな。」
「今日はちゃんといたわね、めんどーポチき!」
「さっそくその名前…まぁいいか、あがれよ。」
「言われなくてもあがるわよ、ここはあたしのべっそうだもんね!」
「勝手に別荘にすんじゃねーよ。」
先日の書き置き通り、詠美は和樹の家に遊びに来ました。
書き置きを見たようで、和樹もちゃんと部屋にいてくれました。それだけでも詠美は
ご機嫌で、ますます活き活きとしてきます。和樹の部屋に上がると決まって口にする
原稿の催促も、今日は口にしようとしません。
「寒かったろ。ほれ、紅茶。砂糖とかハチミツは適当に入れな。」
「え?今日は紅茶なの…?」
無遠慮にベッドに腰掛けていた詠美の前に、和樹はすっかり彼女専用となったカップを
差し出しました。それを受け取りながらも、詠美はその香り立つ琥珀色をきょとんと
見つめて問いかけます。
「ああ、甘いものばっかだと、ちょっとアレだろ?」
「あ、そっか…って、だ、誰もまだあんたにチョコレートあげるって言ってないじゃないっ!!」
「え?オレはいつもホットチョコばっかだと、糖分の取りすぎで身体に悪い…ってつもりで
言ったんだけどなぁ?どういう意味かな?その反論は…?」
「ふ…ふみゅうん…」
「ま、いいけどね?とりあえずいつもの通り、打ち合わせから始めるか。」
意地悪な微笑を浮かべた和樹に揚げ足を取られ、詠美はカップを両手で捧げ持ったまま、
真っ赤になってうつむいてしまいました。せっかく紅茶の香気がほこほこと顔を湿らせて
くるのに、堪能できるほどの余裕はたちまち無くなってしまいます。
やがて二人はお茶をおかわりしつつ、いつものようにこみパの打ち合わせ。
そしてたわいもないおしゃべりとやり取り。楽しい時間はあっという間に
過ぎてゆきます。
「あ、忘れるとこだった!え、えっと…今日はポチきにごほーびをかし
したげるっ。」
突然詠美は棒読みそのものの口調となり、誇らしげに胸を張りました。
舞い上がったりしないよう、努めて意識の外に追いやっていたため…
詠美は本気で今日の目的を忘れてしまうところでした。右手がウエスト
ポーチに触れなければ、きっとこのまま家路に就いていたかもしれません。
「…ご褒美は貸すもんじゃねえだろ?」
「かし!かししたげるって言った!!いちいちむかつく〜!!」
「はいはい、下賜でございますか。有り難き幸せにございます、詠美ちゃんさま。」
「…なんかまだ気にくわないけど…はい、これ…」
少し憮然として口許をとがらせながらも、詠美はポーチから小さな箱を
取り出し、ぶっきらぼうな手つきで和樹に差し出しました。
それはきれいにラッピングされた、一目でそれとわかるプレゼント。
今日の詠美の目的。
「…開けていいか?」
「う、うん…」
問いかけても、詠美は視線を合わそうとしませんが…それでも和樹は
からかったりすることなく、丁寧に包装を解いてゆきます。
果たして中から現れたのは、珍しくもない既製品の板チョコ。
手作りが欲しかったとわがままを言うつもりは、和樹にはありません。
コンビニかどこかで、一生懸命になって店員にバレンタイン包装をお願いする詠美の
姿を想像したら…それだけで普段よりずっと優しくなれるような気になってきます。
「バレンタインの…ってことで、いいんだよな?」
「うん…」
「へへへ、サンキュー。さっそく食っていいか?」
「うん…」
和樹は嬉しそうに表情を緩めたまま、さっそく銀紙を破いてチョコをかじりました。
そんな和樹を見つめることもできず、詠美は代わりにどこか部屋の隅を見つめたまま
生返事を繰り返します。
ふと、視界に小さな本棚が入ってきて…視線がその本棚の上に置かれている小物に
集まりました。本棚の上には電話機や鏡、メモ用紙などが置かれているのですが、
その小物…手の平サイズの立方体…は美しい包装紙とリボンで飾られていて一際目立っています。
「ね、ねえ…あれ、なに…?」
「ん?ああ、今朝瑞希がくれたヤツだよ。適当に作ったなんていうけど、あいつも
毎年マメだよなぁ。」
答えは想像できましたが、詠美は尋ねずにいられませんでした。
そして、その想像しえた答えを和樹は何気ない口調で答えました。
作った…?ま、毎年…?
和樹も悪意があったわけではないのでしょうが、それでも詠美の胸の奥には
彼が口にしたフレーズが重苦しく響き渡ります。不安にも似たプレッシャーで
心がさざめくと、たちまち胸苦しさが喉元まで迫ってきました。小さな唇を
噛み締めても、その取り乱してしまいそうな焦燥は押し殺せそうにありません。
「あ…あ、あのな詠美、手作りはアイツの趣味なんだよ!義理だって言って、
誰にでも配って歩いてんだから!もちろんオレにも義理だって…」
「あっ、あたしはほんめーだからっ!!」
詠美の反応を見て取った和樹は慌ててフォローを入れましたが…その言葉に
弾かれるように、彼女はベッドから立ち上がって叫びました。叫んでしまってから、
自分が何を口走ったのか気付き…愕然として再びベッドに座り込んでしまいます。
「詠美…」
「あ…し、したぼくを大事にできないやつは、したぼくを仕えさせる権利なんて
無いっていうじゃない…?だからあたしのは…手作りじゃないけど、ほんめい…」
和樹は座布団から立ち上がると、詠美の横に並んで腰を下ろしました。そっと
左手で肩を抱くと、詠美は気丈にも顔を上げ、支離滅裂な言い繕いを始めます。
それでも、普段通りの不敵な笑顔は…『ほんめい』という単語を口にした途端、
しおしおなはにかみ顔になってしまいました。そらした瞳は今にも泣き出しそう
なくらいに潤み、頬は湯気が出そうなくらいに真っ赤です。
「…バカだな、詠美は…なに瑞希なんかと張り合おうとしてんだよ。」
「どっ…どうせあたしじゃ勝負になんないわよっ!!あっちはあんたとの付き合いも
長いし、髪も長いし、胸だって大きいし、それにチョコだって手作りだしっ…!!」
「ホントにバカだな、詠美はっ…」
「ぐっ…!!」
打ちひしがれた詠美はぽろぽろ涙をこぼし、さらに逆上しようと息継ぎ
しましたが…そうするよりわずかに早く和樹は動いていました。
激情に見開かれた詠美の視界に和樹の顔が大写しになり、そして…
ちゅっ…
「んんんっ…!!」
角度を付けて、互いの唇が重なり合ったのも束の間…詠美は背後から
ベッドに倒れ込んでしまいます。
和樹の重み。和樹の体温。和樹の鼓動。和樹の鼻先。そして、和樹の柔らかみ…。
「ん…んっ、んふうぅ…」
それらを冷静に分析して、今自分がどういう状況にあるのかを悟ってから…
詠美は両目をしばたかせ、鼻から深ぁく息を漏らしました。鼻息をかけてしまった
恥ずかしさと、ぴっちり覆われた唇の心地よさで、もうクラクラ目が回りそうです。
ちゅむ、みゅ、みゅっ…ちゅ、ぱっ…
和樹は優しくついばんで詠美をリードしていましたが、やがて二人の
お気に入りの角度を見つけ出すと、そのまましばらく密着を維持し…
お互いがキスに馴染むのを確認してから、そっと唇を離しました。
「…今の、本命チョコのお礼だからなっ。」
和樹は見つめ合うでもなく早口でそう告げると、そそくさとベッドに
座り直してそっぽを向きました。詠美と違い、和樹はそれなりにキス慣れ
しているようですが…それでも彼なりに照れているのは誰の目にも明らか
でしょう。
「はふ、はふ、はふ、はふ…う、うみゅう…」
ファーストキスの甘酸っぱい余韻と、チョコレートの苦味…。それらを
過敏な薄膜に残された詠美は、陶然としたままで深呼吸を繰り返すのみです。
すっかり胸がいっぱいで、甘ったるい溜息はいつまで経っても止まって
くれませんでした。