日顕さんのご本尊

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465full
>>386
電波男殿

私の発言を誰かに利用されたようですがいかの引用を罰の参照にされたし。
もっとも私は創価学会の誤った罰論に反対しますが。

大般涅盤經巻第五
北涼三藏曇無讖譯梵
劉宋沙門慧嚴慧觀同謝靈運再治
四相品第七之下
「鎖杖罰受諸苦毒夫解脱中無如是事無有負債猶如長者多有財寶無量億數勢力自在不負」

大般涅盤經巻第十一
北涼三藏曇無讖譯梵
劉宋沙門慧嚴慧觀同謝靈運再治
聖行品第十九之上
「當云何答世尊若下苦中生樂想者未見有人當受千罰初一下時已生樂想若不生者云何説言於下
苦中而生樂想佛告迦葉如是如是如汝所説以是 義故無有樂想何以故猶如彼人當受千罰受一下
已即得脱者是人爾時便生樂想是故當知於無樂中妄生樂想迦葉言世尊彼人不以一下生於樂想
以得脱故而生樂想迦葉是故我昔爲釋摩男説」
466full:01/09/13 01:47
弘決3-3體相章
止觀輔行傳弘決卷第三之三。唐毘陵沙門湛然述。二明境智離合者。
初釋諦中。先總次別。 先總序諸經者。諸經論諦離合不同。今以不同通約四教。
三藏下。即別約四教。於中初明二三離合者。初明但二無三。次菩薩下。
寄人判諦。初文是俗。從後心下。即是眞也。是故始終但有二諦。言令煩惱脂銷等者。
大論云。此菩薩雖有上妙五欲不生貪著。以有無常等觀故。譬如有王。
有一大臣自覆藏罪。王欲罰罪。語言。若得無脂肥羊當赦汝罪。大臣有智繋一羊養以水草。
日日三時以狼怖之。羊雖得養肥而無脂。王問。云何得爾
467full:01/09/13 01:48
P:259c
不修如失尾。病不修如失牙。豈更至死
則如失頭。以老病時猶自寛者。可有差期。
死事不奢自知無冀。如阿輸柯王等者。大論
二十云。阿育王宮常供六萬羅漢。王阿輸柯
是育王弟。毎見衆僧受王供養。便云何得
而常受供。王言。雖受常觀無常。何暇貪染。
弟常不信。王欲調之密遣人教檀登王位。
王便候得而問之言。國二主耶。即欲誅罰。

止觀輔行傳弘決卷第五之一。[次惡欲下表惡欲生。如竊
爲惡求私輕罰恕免官刑。故云求受。見
此相已願今身償不惡道受。此善惡相來
已復來。即是惡生善滅之相。言四更者明
數來不已。盡去聲呼。有人以第一第四平
聲呼。第二第三去聲呼。甚失甚失。此中皆須
口決等者。用道智法眼方可判他。若闕自
力亦須憑教。如無文據仰推先達。凡情輒
判誤累後生。故再誡云愼之勤之。謂愼勿
謬判。勤加自行保重所受。]

妙法蓮華經文句卷第九上。天台智者大師説。123b[譬説亦二。一不與珠譬。譬昔未
曾顯説。二與珠譬。譬今日得聞二譬各有開合。不與珠譬爲六。一威伏諸國。二小王
不順。三起兵往罰。]

釋籖3七番7會異
法華玄義釋籤卷第三。
832a
[有徳者賞義同生善。背叛者罰義同斷惡。君臣道合似第一義]
468電波男Ψ(´д`)Ψ:01/09/13 02:15
>>full
却下します。
まず文献を扱う際の初歩的手続きが間違っています。
「仏教には根本的に罰が概念として是認されているか」との問いかけに
最初の涅槃経を覗いたものが中国撰述です。天台のものはすでに道教や
中国の土着神秘主義の影響を受け、中国ナイズされきっていて、資料と
しての価値がありません。

また、しかもご紹介中の「罰」の概念は「人が人に与える罰」であり、
「刑法罰」に近いものです。自業自得ではありません。殺人罪で逮捕
され死刑になったとしてもそれは「罰」であって、本当の自業自得は
別のところにあります。(涅槃経、天台のもの両方)

漢文が読めるのですか?
恥をかきますよ。
469full:01/09/13 02:20
却下されてしまっては話が進まないのですが、南本涅槃と天台大師を仏教ではないとされるお立場なのですね?
>「仏教には根本的に罰が概念として是認されているか」との問いかけに
最初の涅槃経を覗いたものが中国撰述です

哲學板でたびたびお見かけしてましたが。私は仏典を含めて仏教と認識しております。
ことに天台大師が否定されては話が進みません。

>漢文が読めるのですか?

多少ですが恥は承知の上。
470full:01/09/13 02:23
>本当の自業自得は別のところにあります。

意味深長ですね。お説伺いたい。
それはカルマなのか仏天の賞罰なのかは疑問です。
471電波男Ψ(´д`)Ψ:01/09/13 02:23
読解力があるのですか?涅槃経は除くと言ってるでしょ。
天台が釈尊の三法印などの基本的立場を継承した仏教で
あるかどうかは今は置いておきましょう。

それ以前の問題です。内容的に「人が人に与える刑罰」です。
仏法として自分に帰ってくる「自業自得」ではありません。
その説明は先ほどの殺人罪が例になります。
472full:01/09/13 02:26
469訂正します。
南本涅槃は同意いただけるようです。読み違えました。失礼をお詫びします。
473電波男Ψ(´д`)Ψ:01/09/13 02:27
カルマとはkarman,√kR(作る)という動詞語根から形容詞化されて
作られた「おこない(業)」(行為とその結果の総称)です。

つまり、「自らつくりし業のむくいは自らに得る」ということです。
決して「罰」ではありません。「罰」とは基本的に他者が与えるも
のです。勘違いしないで下さい。
474full:01/09/13 02:36
>それ以前の問題です。内容的に「人が人に与える刑罰」です。
仏法として自分に帰ってくる「自業自得」ではありません。
その説明は先ほどの殺人罪が例になります。

功徳の賛嘆を自己の益とする自利利他の立場からは、功徳があるものには比例して罰が存在するのは2元的に現代仏教の基礎と思われます。
原始經典と相異があるかと言われると私も修学中のみですから将来に譲っていただくとして、「自業自得」を認めるのならば>>386の十把一絡げな「仏罰総否定」は考え物だと思います。
カルマの点からは、戒の話が出ていましたが攝善法戒に菩薩界の基本を含むと根本清浄戒の基本はアビダルマに帰結します。
天台法門では真善清浄戒を第九識に数えますが要は自己の行いが果報に結びつくと言うことでしょう。

此等を踏まえた上で、法界の運行を仏の命の用きと見たときは罰の作用が現れることもあるはずです。
なぜなら上記のように功徳に類推されるものとしての存在です。刑法的罰も認めて良いのではないでしょうか。
475full:01/09/13 02:38
でももう寝ます。
476電波男Ψ(´д`)Ψ:01/09/13 02:51
大きな間違いを犯しています。菩薩戒とてアビダルマの解釈の域を出ていない
といったらどうします?

功徳との対比としての「罰」の概念が現代仏教の基本だと言うのなら
それはカルトですよ。功徳とは善業が将来、良い結果を自身の身にもた
らす種子として心に染み込んだ状態をいうのです。

では仏が与える罰とは何ですか?ご本尊を不敬すると頭が八つに裂ける
のですか?そんなもの仏教じゃなくて、カルト以前の迷信です。

人が人を罰するのが仏罰だと言うのなら司法は大変な場になりますよ。
裁判官が仏さんですか?はぁ。

それと仏の命の働きって何?そんなもの存在しません。それは釈尊が
大否定したウパニシャッドの考え方です。天台などの本覚思想はその
ような大間違いを犯すから仏教ではないと批判されるのです。

それと弟九識の捕らえ方を天台は間違えています。それにいたる前提
を捉えきれていないのです。認識論も大間違いですしね。