法華経は聖書のパクリだった

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1トーマス
☆如来寿量品

『自分の死後、この教えを、ひろく全宇宙にひろめてくれ』という。それをきいて、よその仏国土・・・地球以外の世界という想定だね・・・からきたおおぜいの菩薩たちが、『もしお許しがあれは自分たちが、この娑婆世界で法華経を宣布しましょう』という。すると釈迦は『自分の死後、この地球上で宣教する者は、前々から用意してある』と答える。そのとたんに、今までに一度も見かけたことのない無数の菩薩たちが、地下からぞくぞくと現われてくる。釈迦はその菩薩たちを指さして、『彼らこそ、この地球上の人びとに法華経の真髄を伝えるために大昔から特別に私が育ててきた者たちである』と紹介する。それまで、自分たちだけが仏弟子だと思っていた連中が、ビックリして釈迦にたずねる。『この菩薩たちはどう見てもお釈迦様がお生まれになるずっと前から、修行を重ねてきたとしか思えないような風格の人たちばかりなのに、この世でお教えをはじめられてから40年ほどしかたっていないお釈迦様が、こんな菩薩たちをお弟子だといわれるのは、まるで25歳の青年が、100歳の老人をわが子だというようなものではありませんか・・・』とね、・・・そこで釈迦は『私は40年前に悟りを開いて仏陀になったのではない。じつは、数えきれない年月の以前から、仏陀なのだ』と答える。

☆ヨハネ福音書

「・・・『もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう』とイエスがいう。それを聞いたユダヤ人たちが、『自分の教えを守る者は永遠の命を得られるなどと高言するあなたは、われわれの先祖のアブラハムよりも、えらいつもりなのか』とつめよる。するとイエスは、『あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見てよろこんだ』と答える。そこでユダヤ人たちはいよいよあきれて『あなたはまだ50歳にもならないのにアブラハムを見たのか』と嘲笑すると、イエスは平然として、『アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのだ』と宣言した・・・と、福音書には書いてある(ヨハネ8-51以下)・・・この、『自分はこの世の初めから存在するのだ』というのはイエスの、父なる神と一体であるという実体験であって、自分の言動は、父なる神の言動と同じなのだ。このことが理解できる者は永遠の命を得られるが、父と予が親子であると同時に完全に一身同体だということの意味がわからない者は永遠の命を得ることができないのだ・・・と、ユダヤ人の群集に向かって、イエスはくどくどと説明しているんだ

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6258/j-0030-seisyo-butten.html

2トーマス :2000/10/09(月) 05:10
そこで、もう一度、福音書と法華経を比較してみるとだね、福音書では、『アブラハムの生まれる前からわたしはいるのである』と言っているだけだが、法華経では『我、仏を得てよりこのかた、経たるところの諸(もろもろ)の劫数(こうしゅ)、無量百千万億載阿僧祇(無量の年月)なり。常に法を説いて無数億の衆生を教化して仏道に入らしむ』(妙法蓮華経如来寿量品)と言っている。ところが釈迦の弟子たちにしてもユダヤ人たちにしても、現在、生き身の釈迦、生き身のイエスを目の前にして、その意味が、どうにも理解できなかった。ユダヤ人たちは『あなたはまだ50歳にもならないのに・・・』と言うし、釈迦の弟子たちは『たとえぱ少壮の人、年始めて25なる云々』という。・・・・・・これはたまたま表現が似ているだけじゃないんだ。両方を細かに調べていけばいくほど、言わんとしていることが、まったく同じだ、とわかってくる」

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6258/j-0030-seisyo-butten.html
3トーマス :2000/10/09(月) 05:12
「この問題ではこの桃棲じいさんにもすくなからず強烈な思い出があるんだ。もう、50〜60年前だけれども、その当時、法華経の研究では学僧の中でも指折りの大家で、・・・君も、きっと知ってる名前のはずだが、やっぱり誰というのははばかっておくよ・・・その大先生とたまたま個人的に会う機会があった。・・・そのとき、なにげなく日ごろの疑問を聞いてみたんだ。『法華経のなかに、福音書の文章と酷似しているところがありますが・・・』って、ところが、その先生、それまでじつに機嫌よく応待してくれていたのだが、その瞬間、ほとんど顔色が変わってね、ものすごい早口でどなったんだ。『それは偶然の一致です!』って・・・あの剣幕には驚いたよ。こっちは、わけがわからないままで恐縮しきって、それでもなんとか話題を換えることができたんだが・・・・・・あとになって考えても、どうにもふしぎなんだ。だってそうだろう?『似たところがありますね』と言っただけで、従地涌出品とも如来寿量品とも言ったわけじゃない、ヨハネと言ったわけでもないのに、どうして『それは偶然の一致です』と断定できるんだ?」

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6258/j-0030-seisyo-butten.html
4トーマス :2000/10/09(月) 05:16
「『はじめに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった』という名文句・・・誰でも知ってるヨハネ福音書の書き出しだが。この〈言〉・・・ギリシャ語のロゴスね、これはいろいろの意味あいで、新約のいろんな所にでてくるけれども(使徒行伝11-22噂、15-6問題、18-23決算、ペテロ第1、3-15弁解等々)、なぜかここでは、とくに、〈この世のはじめから神と一身同体であるイエス〉を指している。そのうえ、この〈言〉は〈光〉という別名を持っているんだ(1-4、8-12、12-35以下、参照)。・・・そしてこの〈光〉、すなわちイエスについての証しをするために登場する人物が、例の洗者ヨハネ・・・・ところが面白いことに、法華経の場合も、釈迦の眉間から一条の光明が発射して、全世界を照らすところから、物語がはじまる。しかしそれが、なにを意味しているのかが、わからなくて、凡人たちが不思議がっていると、そこへ、洗者ヨハネと同じ役目の文殊菩薩が現われて、『この光明はこれから釈迦が最高の真理を万人に説きあかす前兆なのだ』と解説する。・・・つまりヨハネによる福音書も法華経も、救世主の出現を暗示する場面が発端になっている、それなら、クライマックスは? となれば〈ヨハネ福音書〉は最後の晩さんで、イエスが、あの長い別れの説教をするところ(13章〜17章)と言っていいだろう。・・・ところが法華経はこれまた釈遡が、この世を去るにあたって、最後に伝える奥義だということになっている(序品、見宝塔品)。しかも福音書では、イエスがいよいよ最後の説教をはじめようという直前に、いきなり、あの裏切り者といわれるユダが、席を立って行ってしまうし(ヨハネ13-30)、法華経のほうも、釈迦の説法がはじまる間ぎわに、『増上漫の弟子』五千人がなんの断りもなく突然立ちあがって出て行く(方便品、ヨハネ第一の手紙2-19も参照)。・・・それはさておき、どの福音書にも、『イエスは、直弟子には天国の奥義を伝えたが、一般大衆には譬えでしか語らなかった』ということが、例外なく出てくる(マタイ16、マルコ4、ルカ8-9、ヨハネ16-25)。ところが法華経では・・・釈迦が弟子たちに向かって、過去45年間、真実の奥義を語らなかった理由として、彼らの理解力が熟していなかったから、あらゆる讐え話によって説かなければならなかったのだ、ということを懇切に説明する(方便品)。ではイエスの奥義とは、なになのか? ・・・イエス(子)と、神(父)とが、一つであるように、この世のすべてのものが神と一つになること(ヨハネ17-11,21,22,23)だと言っているし一方、法華経では釈迦が、『われ、もと誓願を立て、一切の衆生をして我の如く等しくして、異ることなからしめんと欲せり』(方便品)と説いている」

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6258/j-0030-seisyo-butten.html

5特撮オタ :2000/10/09(月) 05:24
釈迦(日蓮正宗では釈尊):紀元前1000−950年頃の人物
新約聖書:キリスト生誕後の行動記録(紀元後の話)

コメント:時代考証のミス。逝ってよし!!
6トーマス :2000/10/09(月) 05:34
「そもそも大乗仏教なるものが、仏教の中の一派として台頭してきたのは紀元前一世紀だとも、あるいは紀元後一世紀だともいわれているが、ともかくそのころに、それまでの仏教とははなはだしく変わった教義を説く教団が、忽然として現われた・・・ということはいまや否定できないんだよ」

「突然というのは、面白いね」

「大乗の経典は大体、般若経系のものが一ばん早くて、それから維摩経、法華経、華厳経などが現われて、少しおくれてから無量寿経や阿弥陀経などが、まとめあげられた・・・といわれている。成立した時期が一ぱん古い般若経などは、紀元前一世紀までさかのぼる・・・という意見が、もっとも有力のようだ。・・・しかしね、いわゆる初期の大乗経典の中には紀元50年ごろから書きはじめられた・・・と推定されるものが、意外に多い・・・」

「、その時代になにか画期的なことが起こったのか?」

「そこで例の、福音書との関係が問題になる・・・」

「ということは誰か、紀元50年ごろか、それより前に、キリスト教をインドに持ってきた人間が、いるんだな?」
7トーマス :2000/10/09(月) 05:35
「ここで、もう一度、シリア教会の開祖といわれている、十二使徒の一人のトマスに登場してもらわなけれぱならない。彼は〈ヨハネによる福音書〉の終わりにちかいところで、(20-24〜29)〈疑いぶかいトマス〉として書かれているのが最後で、それ以降は、新約聖書のどこにも姿を現わさない。ところが、シリア教会には、〈トマス行伝〉という文書が伝わっていて、トマスが、イエスの死後、インドに渡って伝導して殉教したことが、くわしく物語られている。そのあらすじはイエスの死後、使徒たちが集まって、くじびきで各自の伝導さぎをきめた。トマスは、インド方面をうけもつことになる。たまたまそこへ、グンダファルというインドの王様から、『宮殿を建てる技師を探してきてくれ』と頬まれたという、貿易商人が現われる。その機会を利用して、トマスは大胆にも、建築家になりすまして、グンダファル王の国へ出かけて行く。王様は西の国からはるばるやってきたトマスを信用して、莫大な費用を前渡しする。ところがトマスは、それをことごとく王様の名で貧しい者に分配してしまった。王様はあとでそれを知って激怒して、トマスを死刑にしょうとしたとき、急病で死んだ王様の弟が、息を吹きかえしたと思うと、意外な話をした。『自分が天国へ行ったら素晴らしい宮殿があったので、そこに住みたいと望んだところ、これはグンダファル王が建てた宮殿だから、ほかの者を住まわせるわけにいかない』と断られた、というんだ。その話を聞いて翻然と悟った王様は、心からトマスに帰依したので、その国はすべてイエスの教えに従うようになった。そこでトマスは、さらにインド全土に布教しようと旅をつづけ、最後にマツダイという王の国で殉教した・・・大体、こんな話なのだが、欧米のキリスト教関係者は、今日でもほとんどが、『これは非キリスト教徒(たとえばグノーシス派の人間か、マニ教徒など)がつくりあけたフィクションであって、その時期にインドでキリスト教が布教された事実はありえない』と断言する。・・・ところがね、パキスタン北部のペシャワール地方で発見された碑文や、いろんなところから出てきた貨幣などからわかったことは、紀元19年ごろから45年ごろにかけて、インドの北西都のタキシラを首府として、ガンダーラや、アフガニスタンのカブールあたりに君臨していた。ハルティア系の王様の名が、ゴンドファレスで、貨幣などに彫られているインド名はグトファラだった。・・・」

8トーマス :2000/10/09(月) 05:38
「ところがね、一方では終始一貫、トマスのインド布教を事実だと主張している人たちが、今日でもインドにおおぜい、いるんだよ・・・インド西南のはずれにマラバル海岸というところがあるね、あの、ケララ州、・・・住民の25パーセントがクリスチャンで、これはインド全体のクリスチャンの3分の1にあたるそうだ。といっても、ここの多くは、カトリックでもない、プロテスタントでもない、といえばすぐ、それとお察しの、いわゆるシリア教会。・・・現在では西方シリア教会と結びついているけれども、本来は西だの東だのという区別があったわけではない。彼らとしては、『自分たちは、そんな区別よりはるか以前の、イエスが死んだ直後からの、トマスの直系だ』と確信しているわけだ。それで『聖トマスの教会』と自称しているのを、なぜかヨーロッパのキリスト教関係者は、もっぱら潮笑酌な意味で〈マラバルのクリスチャン〉とよぶ」

9トーマス :2000/10/09(月) 05:40
「マラバル海岸に、トマスの足あとは、あるんだろう?」

「『トマスはマラパル海岸に、七つの教会を建てた』と言ってるんだ、そして現在、彼らの教会の本部があるコッタヤムは、その中の一つだ、と」

「トマスの殉教も、そこか?」

「いや、そのころのマラパル海岸には、かなり大きなディアスポラ(ユダヤ人の居留民地)があったはずだから、むしろトマスは大歓迎されたのではないか、と思う。なぜかというと、その当時、マラバル海岸にコショウや綿布を買い付けるアレクサンドリアの貿易商が、殺到していたから、その中にはユダヤ人ぱかりではなく、例のサマリアびとも、相当にいたはずだ。なにしろ一時は、ローマの守備兵さえ駐屯していたことがあるくらいだから、ギリシャ語やアラム語も流通していたようだ・・・となれば、トマスがこの地方で、短時日の間に大ぜいの信者を誕生させて、その子孫がいまも残っている・・・という可能性は、考えられないことではない・・・」

「トマスはマラバル地方で伝導に成功して、さらに移動したのか」

「いわゆるマラバルのクリスチャンの伝承では、トマスはそれから、インド大陸の南端を迂回して、東のベンガル湾に出て、今日のマドラス市の南都にあるミラブルという所まで行った。そこの王様に殺されたのが、紀元53年ということになっている。そこに現在でも、トマスゆかりのサントメという地名や、殉教した山だという〈聖トマス山〉というのもあって、〈聖トマスの教会〉にとっての、大切な聖地になっている」