剣道の起源は韓国にあり!?Part9

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646講談社 日本の歴史07
…日本刀は律令軍政の直刀から発展したものではなく、蝦夷の蕨手刀から進化し
たものであった(石井昌国氏による)。図に示した蕨手刀から毛抜形太刀(日本
刀の原型)にいたる発展の過程をみれば一目瞭然である。
 蕨手刀の柄に毛抜形の透かしを付けた刀が毛抜形蕨手刀である。毛抜形透かし
は、指先をかけることで柄を握る力を強め、また共鉄柄(刀身と柄が一体になっ
ている刀)の弱点である斬撃時の強い衝撃を緩和し、斬撃力を向上させる効果を
もつ。この毛抜形蕨手刀は、岩手県と北海道でだけ出土しており、関東以西では
出土していない。毛抜形蕨手刀化は、俘囚の内国移配が一段落した弘仁年間
(810-824)以降、胆沢地方の蝦夷の手によって達成されたと考えられる。毛抜
形蕨手刀の蕨形の柄尻が消えて、方形の柄尻になったものが毛抜形刀である。刀
身は50センチ程度である。北海道と秋田県で一点ずつ出土しているだけであり、
秋田県のものは元慶二年(878)出羽俘囚の乱で俘囚勢力が使った刀とみられて
いる。毛抜形刀も元慶年間までに蝦夷の手で考案されたのである。
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 この毛抜形刀の刀身をさらに長くして、70センチ近くに達したものが毛抜形太
刀である。サイコの毛抜形太刀は長野県塩尻市宗賀で出土したもので、10世紀の
ものと推定されている。出土刀も神社に奉納された伝世刀もすべて関東以西であ
り、東北には一例もない。したがって、毛抜形太刀は奥羽の蝦夷や俘囚が開発し
たものではなく、毛抜形太刀をもとにして内国で開発されたものとみなされる。
毛抜形太刀は、元慶出羽俘囚の乱ののち内国に持ち込まれ、それまで蕨手刀を使
っていた武芸好きの官人や勇敢富豪層の間に普及していったものと思われる。問
題は、毛抜形刀から毛抜形太刀への飛躍が、いつ・どこで・誰によって行われた
かである。宗賀の太刀は将門の乱の時期とそう距たったものではないことから、
将門や秀郷らは毛抜形太刀で斬り合ったことが推定される。毛抜形刀から毛抜形
太刀への飛躍は、9世紀末から10世紀前半の東国の乱のなかで起こったのではな
いか。
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 騎馬個人戦において、追撃しながらの斬り合い、すれ違いざまの斬り合いで
は、刀身の長さの差が勝敗を決する。すでに毛抜形刀を使っていたはずの高望・
利仁・秀郷らは、長年にわたる群盗追撃戦の実戦経験のなかで、板東の鍛冶師た
ちに毛抜形刀の刀身の長寸化を求め、毛抜形太刀を生み出したのではないか。こ
うして毛抜形太刀は急速に普及し、衛府官人(天皇親衛隊幹部)の制式太刀とし
て採用されていった。
 毛抜形太刀の開発による疾駆斬撃戦術の高度化は、中世武士の騎馬個人戦術の
原型を作り出した。私はこれを戦術革命と呼びたい。この戦術革命によって、そ
れまで衛府で継承されてきた律令的戦術や諸国で群盗追捕に使われてきた俘囚戦
術は駆逐されたが、そもそもこの騎馬個人戦術は、俘囚たちから学び取った戦術
を高度化させたものであった。その意味で、俘囚は10世紀初めの戦術革命と武士
の成立に決定的に重要な役割を果たし、日本の歴史に大きな足跡を残したたいえ
る。しかしその役割は、ローマ帝国に傭兵として雇われていたゲルマン民族が西
ローマ帝国を滅ぼし、諸侯・騎士としてヨーロッパ中世社会に支配者として君臨
したことにくらべたら、あまりに小さい。