剣道の起源は韓国にあり!?Part9

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644講談社 日本の歴史07
 蝦夷騎馬戦術と政府軍の騎兵戦術との違いをよく示しているのが、蝦夷戦士の
蕨手刀と政府軍兵士の直刀である。蕨手刀は蝦夷勢力の拠点岩手県胆沢地方にも
っとも濃密に分布し、蝦夷塚と呼ばれる積石塚古墳から州土する。蕨手刀の名前
は、柄の先が蕨の形をしているところからつけられたものであるが、その特徴
は、真っ直ぐな刀身に対して柄が外側に反っている「柄反り」にある。反りの機
能は、馬を疾駆させながら相手に斬りかかるとき、強烈な衝撃に対する反動を消
し去り、弧線を描いて深く切り込めるところにある。刀身と柄が一体の共鉄柄
も、熱した鋼を急冷して硬度を高める焼き入れも、強烈な衝撃に耐えさせるため
の技法である(石井昌国氏による)。騎馬個人戦は、弓矢での騎射戦で始まり刀
での斬り合い、組み討ちを経て、勝者が敗者の首を掻き切ることで終了する。弓
矢で相手に致命傷を与えることは困難で、すれ違いざまの、あるいは追い抜きざ
まの斬り合いで勝敗は決まる。柄反りの斬撃力と共鉄柄の強度は、疾駆する馬上
での激しい斬り合いに耐え、折れる心配はない。一方、政府軍の直刀の柄は細い
茎に取り付けられている。疾駆しながらの斬撃では反動を吸収できず、衝撃で柄
元から折れるおそれがあり、疾駆させながら斬り合うことは困難である。疾駆し
ながら戦える蕨手刀と、馬を止めないと戦えない直刀の戦術的格差は比較になら
ない。蝦夷騎馬戦士の強さの秘密は、疾駆斬撃戦を可能にする蕨手刀にあったの
である。
645講談社 日本の歴史07:2001/06/19(火) 20:31 ID:2OzNMhio
 この蝦夷の蕨手刀が関東以西で四十数例報告されているが(八木光則氏によ
る)、それは俘囚たちが持ち込んだものである。貞観11年(869)の新羅海賊の
とき動員された俘囚たちは、一以当千の英雄的戦いぶりだったと賞賛された。移
配されて半世紀以上たっても、俘囚たちは蝦夷の戦術を継承し続けていたのであ
る。受領によって保障された生活と狩猟特権を利用した武芸訓練がそれを可能に
した。群盗海賊追捕に招募された俘囚たちは、彼等が得意とする疾駆斬撃戦術に
よって、勇敢に戦ったのである。
 群盗海賊追捕において、おそらく受領やその子弟・従者、あるいは勇敢富豪層
は、俘囚とともに戦うことによって彼らの戦術を学び取っていった。それに伴
い、蕨手刀は武芸好きの官人や勇敢富豪層の間に次第に普及していく。こうして
俘囚は、国内に騎馬個人戦術・疾駆斬撃戦術を持ち込んだ。武士はこの戦術の忠
実な継承者なのである。