韓国マスコミ今日のホームラン!!4

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661名無しさん@お腹いっぱい
4月6日朝日新聞夕刊
特集・地球時代の歴史教科書・下

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君島和彦・東京学芸大学教授(東アジア近代史)
 45年、栃木県生まれ。東京教育大学大学院博士課程修了。77年に東京学芸大大学講師となり、93年から教授。著書に『教科書の思想』編著に『日本と韓国の歴史教科書を読む視点』など。
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「外国の問題」でない韓国--認識の差知り埋める努力を

 「17世紀以前の古い寺院や仏像が、韓国にはほとんどないんですよ」。この春休みに参加したソウル私立大国史学科の「古蹟踏査」で、何カ所かの寺院をめぐった後、その説明を受けた日本の学生達は言葉を失った。「壬辰倭乱」。すなわち秀吉の朝鮮侵略によって失われたのだ。韓国の学生が、日本の学生を責めるようなことはなかった。しかし、過去の事実を身近に感じながら生活する韓国の学生と、衝撃を受ける日本の学生のギャップをどのようにして埋めたらいいのだろうか。日韓の歴史認識の差は、植民地支配など近現代に限ったことではない。
662名無しさん@お腹いっぱい : 2001/04/06(金) 21:16 ID:A1EbA/jc
 その旅から戻ったソウルの西大門独立公園では、「日本の歴史教科書わい曲糾弾のための市民更新」に出会った。市民団体が呼びかけた集まりだった。かつての教科書をめぐる運動が、政府の意を受けたものだったのとは大きな違いだ。そばにある植民地化の弾圧を再現した刑務所跡の展示館は、見物の人でにぎわっていた。日本の教科書問題を、「外国の問題」として見過ごすことができない歴史がそこにはある。
 ソウル市立大の先生たちと歴史教科書を題材にシンポジウムをはじめて5年になった。日本の歴史教科書の近現代史部分の検討を主目的に90年代初頭に行った日韓合同歴史教科書研究会を発展させ、先史時代から現代までを対象に両国の教科書を検討してきた。
663名無しさん@お腹いっぱい : 2001/04/06(金) 21:17 ID:A1EbA/jc
●陥りやすい主観的解釈
 先史時代についての日本の教科書は日本列島内に限ってしか記述がない。古代では韓国の教科書には日本への文化伝播もしくは施恵という面が強調されている。自分にとってはごく当然のことが、相手にとっては当然ではないことに驚かされる。
 中世なら『元寇』だ。韓国では『東征』という。元に侵略された高麗は30年余にわたり抵抗を続けた末に敗北し、日本への侵略に動員された--韓国では対元関係史という視点から見るのが一般的だ。高麗の抵抗が、結果として日本に現の侵略を退ける機会を与えたとの見方が韓国にはある。
 この分野を担当した李益柱教授は「過去の敵対的な事件を中心素材とする対外関係史で陥りやすいのは、自国中心の主観的な解釈の可能性だ。東アジアの国際秩序を説明する枠組みを作り出し、その中で高麗-日本関係を説明できるようにしなくてはいけない」と指摘したうえで、「最も重要なのは統制を景気に両国の関係がどのように変化し、またそれが日本人の韓国感にいかなる影響を与えたかだ」と問題を提起した。
664名無しさん@お腹いっぱい : 2001/04/06(金) 21:17 ID:A1EbA/jc
●理解深める謙虚な目
自国市を自己反省的に見直すことは、言うは易し行うは難しである。特に韓国は国定教科書のうえ、初の試みであり、注目を集め、厳しい視点もある。しかし、韓国の研究者・教育者の姿勢は冷静で謙虚だった。相互の謙虚なまなざしこそが、理解と信頼を深めてくれると信じるようになった。
 現在さらに作業を一歩進め、各時代で同一テーマについて、双方で高校生を想定した教科書的文案を作成し検討している。
 歴史的事実の確認は、歴史研究の問題であるが、相互討論によって更なる研究の進化を要求されることに気づく。歴史研究と歴史教育は不可分の関係にあるが、教材研究と教育的配慮はどうあるべきか、また研究の不十分な側面や弱点も指摘されざるを得ない。
665名無しさん@お腹いっぱい : 2001/04/06(金) 21:18 ID:A1EbA/jc
 元寇における高麗の立場の主張のように、双方の立場の違いが歴史認識の差を生む。しかしこのことは共通認識への前段階である。現在は認識の差を確認する作業をしているともいえる。
 このシンポジウムで双方は「国家」を代表しているわけではないのに、「韓国側」「日本側」と言ってしまう。国民国家を超えた相互認識を求める必要性や重要性は理解しつつも、現実に国家があり「国民」であってしまうなかで、相手の歴史認識を検討するには、国家の枠を即座に取り払ってしまうことは困難である。特に歴史教育・歴史教科書を素材にする場合、国家・ナショナリズムの問題を避けて通ることはできない。むしろその制約の中で、国家を意識しつつ認識の差を確認し、そこから共通の歴史認識への活路を探ってみたいと試行錯誤している。