日本が「世界に誇れるもの」って何でしょう?

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385名波さん@イタリアで失敗
1.われわれ黒人は日本に最大の敬意を払う■

 全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを
見守っている。

 1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すこ
とのないよう、国際連盟創設のための議論が進められていた。
米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平
等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。

 日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち
寄った時には、「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロ
ー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあ
らゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、と嘆
願書を出した。自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役を
するというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に
嘆願したのである。

 われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問
題」について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬
意を払うものである。

 全米黒人新聞協会が発表したコメントである。人種差別に苦
しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の
仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていた。
[1@`p71-76]

 しかし、本誌52号[a]で紹介したように、日本の提案は16
カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領
ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられ
た。ウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、米国南
部や西部の議員たちの反対で、批准されるはずのない事を知っ
ていたのだ。

 アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人
もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。

386名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:17
2.茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている■

 アメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったの
は、日露戦争の時であった。白人の大国に、有色人種の小国が
独立をかけて、果敢な戦いを挑んでいる、と彼らは見た。

 米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人
解放運動の指導者W・E・B・デュボイスは、ヨーロッパに
よる支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっも高い国
として、日本を支持した。

 日本が勝てば、やがて「アジア人のためのアジア」を声高に
叫ぶ日が来るだろう。それは、彼らの母なる大地アフリカに同
じような声がこだまする前兆となる、と米国黒人の指導者たち
は考えた。黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次の
ような社説を掲載した。

 東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちの
めし続けている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人
にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入
れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、
もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに
今突き崩されようとしている。

 日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、という
ヨーロッパ人による世界侵略の近代史で生まれた神話を事実と
して否定してみせたのである。[1@`p53-66]

387名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:18
3.黒人と日系移民の「連帯意識と共感的理解」■

 1920年代に本格化したアメリカへの日系移民に対して、黒人
たちは温かく接した。「フィラデルフィア・トリビューン」紙
は、次のように述べた。黒人たちは日本人を心から尊敬してい
る。同じ『抑圧された民族』であるのもかかわらず、「自分た
ちのために一生懸命努力する」日本人の態度は見習うべきもの
である、と。

 カリフォルニアのオークランドでは、黒人発行の新聞に日系
人がよく広告を出した。「ミカド・クリーニング」、「大阪シ
ルク工業」等々。逆に日系人の新聞には、黒人への差別やリン
チを非難する記事がたびたび登場した。

 ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったこ
とについて、「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように
述べている。

 ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日
系人の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本
当に喜ばしい限りである。同じ人種の医者に診てもらうこ
とができる安心を患者は得ることができるのだから。

 黒人を差別しない日本人というイメージは、このようなメデ
ィアを通じて、またたく間に西海岸に広まった。「連帯意識と
共感的理解」、この言葉が両者のつながりを示すのによく用い
られた。[1@`p82-89]
388名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:18
■4.日本人を救え■

 1923年の関東大震災の報に接したある黒人は「シカゴ・ディ
フェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人
こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書
し、それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始め
た。

 たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくて
いつ出すというのか。

 同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していった。
万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇
に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。

 「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジ
ャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工
業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、
震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打
撃を受けた、と分析した。日本人は「それまでの白人優位の神
話を崩した生き証人」だったからだという。[1@`p82-86]

389名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:19
5.日本のエチオピア支援■

 1936年のイタリアによるエチオピア侵略に対して、アメリカ
の黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」とし
て支援しようとした。アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、
日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事は、アメリカ
の黒人たちの心を動かした。

 「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、
「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけに
はいかない」「エチオピアの同胞を助けるためには、いつでも
何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」と明言した
ことを伝えている。

 「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、
エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の
提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じた。

 そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハ
イレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇
族・黒田雅子女史の結婚の計画であった。これは実現には至ら
なかったが、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せてい
た証拠であった。シカゴ・ディフェンダー紙は「海を越えた二
人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じた。
[1@`p96-103]
390名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:20
6.日本での「忘れがたい経験」■

 1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、満州に1週間、中
国に10日間、日本に2週間滞在して、「ピッツバーグ・クリ
ア」紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載した。

 デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に、
「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、さも当然であるか
のように、彼の前に割り込んだ。

 ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、デュボ
イスへの対応を続けた。勘定がすべて終わると、彼はデュボイ
スに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かま
しいアメリカ女性の方を向いたのだった。フロント係の毅然と
した態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世
界の幕開けを予感させた。

「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個
人を、日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。日本人は、
われわれ1200万人のアメリカ黒人が「同じ有色人種で
あり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」こ
とを、心から理解してくれているのだ。[1@`p109-118]

 さらに、この旅で、デュボイスは日本人と中国人との違いを
悟った。上海での出来事だった。デュボイスの目の前で4歳く
らいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、どくよ
うに言った。すると、大人たちはみな、あわてて道をあけた。
これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。

 上海、この「世界一大きな国の世界一立派な都市は、なぜか
白人の国によって支配され、統治されている。」それに対して、
日本は、「有色人種による、有色人種の、有色人種のための
国」である。
391名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:21
7.日本人と戦う理由はない■

 日米戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。「人種問題
はひとまず置いておいて母国のために戦おう」という意見から、
「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」、さらには「黒人を差
別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」という意
見まで。

 デュボイスは、人種戦争という観点から捉え、「アメリカが
日本人の権利を認めてさえいれば、戦争は起こらなかったはず
だ」とした。

 黒人たちは、白人が日本人を「イエロー・バスタード(黄色
い嫌な奴)」、「イエロー・モンキー(黄色い猿)」「リト
ル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと蔑称をさ
かんに使うことに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけた。

 アメリカは日本兵の残虐行為を理由に、「未開人」という日
本人イメージを広めようとやっきになっていた。それに対して、
「ピッツバーグ・クリア」紙は、ビスマーク沖での海戦で、ア
メリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、波間に漂っていた多
くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした、本土爆撃ではわざわ
ざ人の多く住んでいる場所を選んで、大人から赤ん坊まで無差
別に殺した、さらに「広島と長崎に原爆が落とされた時、何万
という人間が一瞬にして殺された。これを残忍と言わずして、
何を残忍と言おう」と主張した。

 軍隊の中でさえ差別に苦しめられていた黒人兵たちにとって、
白人のために、同じ有色人種である日本人と戦わなければなら
ない理由は見いだせなかった。ある黒人部隊の白人指揮官は、
隊の95%は戦う気力がまったくない、と判断を下した。黒人
兵の間では、やりきれない気持ちがこんなジョークを生んだ。

 墓石にはこう刻んでくれ。白人を守ろうと、黄色人種と
戦って命を落とした黒人、ここに眠ると。[
392名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:21
■8.日系人強制収容を黙って見過ごすのか?■

 大戦中、日系移民は、米国の市民権を持っている人々までも、
強制収容所に入れられた。米国の黒人は大きな衝撃を受けた。

 第一に、日系アメリカ人だけが収容され、ドイツ系もイタリ
ア系も収容されなかったのは、あきらかに人種偏見のせいでは
ないか、という点。第二に、アメリカの市民権を持っている日
系人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可
能性がある、という点であった。

 11万5千人もの人々(日系人)が、一度にアメリカ人
としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過
ごすというのか。

 ロサンゼルス・トリビューン紙のコラムニストが全米黒人向
上協会に呼びかけ、協会の代表はそれを受けて、次のような決
議文を提出した。

 われわれは人種や肌の色によって差別され、アメリカ人
としての当然の権利を侵害されることには断固として反対
していかねばならない。

 戦後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人
を歓迎し、温かく迎えた。彼らは、日系人のために仕事を探し
たり、教会に招いたりしてくれた。[1@`p140-152]

393名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:22
9.歴史上、日本人が持ち得たもっとも、親しい友人■

 [1]の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次
のように我々日本人に呼びかけている。

 歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それが
アメリカ黒人だった。・・・この本を読んでいただければ、
日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返
したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、
心から理解してもらえるはずである。

 かつて、黒人から同じ有色人種として敬われていた日本
人。そんな日本人が、今ふたたび、その尊厳と親愛の念を
取り戻せることを、私は心から祈って止まない。おごりの
ない、謙虚な日本人−それが私の願いである。[1@`p26]

394名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:23
1.有島生馬が描いた一放の絵■

 東京墨田区にある東京都復興記念館には、有島生馬が描いた一
枚の絵が掲げられている。どす黒い煙が上がる暗い色調の中で傷
ついた人々がうごめき、地面には多くの死体が横たわり、キャン
バスの右脇には一台の車が停車。その側に双眼鏡を手にした山本
権兵衛首相が描かれている。

 この絵は言うまでもなく関東大震災を描いたものだが、山本首
相の傍らに白い夏服を着た外国紳士と赤い服の小さな女の子が立
っている。いったいこの二人は何者であろうか。有島生馬は誰を
描いたのだろう。じつはこの疑問を解明していくとき、近代日本
の知られざる横顔が見えてくる。

 周知の通り、大正12年9月1日、関東一帯を襲ったマグニチ
ュード7.9の巨大な地震は未曾有の被害をもたらした。とくに
東京・横浜の被害は目を覆うばかりで、全壊したり焼失した家屋
は約50万戸、死者・行方不明者は10万人を超え、その他の被
災者は約240万人以上にものぼったという。この大震災の二ュ
ースは世界各国に報道され、諸外国から援助の手が差し伸べられ
ることになるが、群を抜く支援活動を見せたのがべルギーだった。

 9月3日に報せを受けたべルギー本国では、5日には「日本人
救済べルギー国内委員会」が結成されて活動を開始。上智大学教
授の磯見辰典氏によれば、「音楽会、講演会、バザー、さらに
『日本の日』が各地で催された。・・・新聞はもとより、カトリ
ック教会もこのキャンぺーンに積極的に参加した。この活動の結
果、約264万2千フランを集めて日本に贈ったが、これはアメ
リカ、イギリスに次ぐ多額の援助金となった」(「文芸春秋1997
年4月)という。

 このときべルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と
題する日本への支援を訴えた文書を見ると、9年前の第一次世界
大戦の際、ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して数々の
援助を尽くしてくれた日本人への賛辞が述べられ、べルギーの元
兵士はこのときの恩義を今こそ日本に返そうではないかという趣
旨が書かれているのである。

 これがべルギーが関東大震災に見舞われた日本に惜しみなく最
大級の援助を施した歴史的背景にほかならない。ではわが国は第
一次世界大戦中のべルギーにどのような支援をしていたのだろう
か。

395名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:24
2.苦難のべルギーを支援した大正日本■

 周知のように第一次世界大戦に際してロシアおよびフランスと
戦うことになったドイツは、フランスを一気に叩くためにべルギ
ー領内を通過して攻め入ろうとした。当然、永世中立を標榜する
べルギーはドイツ軍の無法に対して立ち上がったが、圧倒的優位
を誇るドイツ軍の前に国内は蹂躙されていった。それでも、当時
の国王アルべール一世は、フランス国境のフェルヌに近い寒村に
踏み止まって抵抗を続けた。

 こうした連日の報道に接した日本人は、勇敢に戦い続けるべル
ギー国民を激励するために支援活動に立ち上がる。朝日新聞社長
村山龍平は「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも親しく陣中に
在はして将卒と共に惨苦を嘗め給へる白耳義皇帝アルバート陛下
の勇武を欣仰」(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)して、愛
蔵の日本刀一振りを口ンドン駐在の特派員杉村楚人冠を通じて献
上している。

 かくして日本国内の新聞各紙をはじめ雑誌その他の刊行物を通
じて、苦衷に立つべルギーへの支援活動が日本国内で熱烈に展開
されていく。わが国の近代史に際立つ光彩を放っている史実であ
る。

 前述したごとくべルギーが関東大震災に見舞われた日本にあら
ん限りの援助を尽くした背景には、あらまし以上のような史実が
あったからなのである。

 そのことを有島生馬は熟知していたに違いない。だからこそ、
当時両国の間に立って奔走した日本駐在べルギー大使バッソンピ
エール男爵とその姪を、日本支援の象徴としてキャンバスに描い
たのである。

396名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:24
3.虐殺事件の嘘を暴いたべルギー公使■

 そもそもべルギーと日本との本格的な交流は、1866年の日本国
白耳義国修好通商及び航海条約の調印に始まるが、とりわけ明治
26年から43年のあいだ日本公使を務めたアルべール・ダネタ
ンが、敢然として明治日本の名誉を守った史実も特筆にあたいす
るものである。

 例えば日清戦争での日本軍による旅順港占領の際に、無事の住
民に対する虐殺が行われたとする記事が諸外国の新聞に報道され
たことがある。ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗り出
し、結局米国記者によって捏造された「虐殺事件」がまぼろしだ
ったことを突き止め、べルギー本国政府に対して注意を促す次の
ような報告書を提出している。

「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行
為は、新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によ
って多分に誇張されたものであった。私はそこに居合わせたフ
ランス武官ラブリ子爵に会ったが、彼は私にこう断言した。殺
された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたと
いうのは真実ではないと。旅順港占領の数日前にほとんどの住
民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであっ
た」(磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・べルギー関係
史』)

 こうした史実はほんの一例にすぎないが、いずれにせよ、日本
に対する偏向や捏造の記事を次々に修正し、公平な情報を送信し
て列国の誤った対日観を是正したべルギー公使アルべ−ル・ダネ
タンを知己とした明治日本の幸福を思わざるを得ない。

 ダネタンは特命全権公使のまま日本の地で死去、雑司ケ谷墓地
にこの日本の名誉を守った恩人の墓が立っている。

397名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:26
1.ポーランドからのメッセージ■

 平成11年8月に、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年
少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団はヘンリク・サドスキさ
ん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。

 20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。
シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条
件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行
き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてく
れたことを忘れません。……(合唱団は)私たちの感謝に
満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、あ
りがとう。

 サドスキさんはさらに「一番大事にしている物を皇室に渡し
て」と救出当時の写真を託した。「孤児収容所を慰問した皇后
陛下(貞明皇后)に抱き締めてもらったことが忘れられない」
と話したという。[1]

 20世紀の初めの孤児救出とは、どのような出来事だったの
だろうか?
398名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:26
2.せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたい■

 シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
ド人がいたといわれる。

 その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
て、「ポーランド救済委員会」が組織された。

 しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請するこ
とを決定した。

399名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:27
■3.日本赤十字社の決断■

 救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日
し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請
した。

 女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ
ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も
ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え
れば、驚くべき即断であった。

 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、
決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス
トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年
7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に
は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
日した。

 合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療
や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ
り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児
たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと
考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン
ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

400名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:28
■4.手厚い保護■

 日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を
受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし
て以下を挙げている。

 ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯
消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入
れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人
の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ
たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま
って悔しかったこと、、、

 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同
情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音
楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に
招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を
絶たなかった。

 腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若
い看護婦は、病の伝染から殉職している。

 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ
れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た
ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ
ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾
度も撫でながら、健やかに育つように、と話された
401名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:28
■5.「アリガトウ」と「君が代」斉唱■

 このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも
哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り
戻した。

 日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ
も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人
々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親
身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗
船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト
ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
表した。

 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念
の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈
りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。

 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ
ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの
頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

402名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:29
6.シベリア孤児の組織「極東青年会」■

 こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウ
コフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、
シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となっ
た。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設け
られ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと
いう。

 極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問
した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒
野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された
時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺
理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐
在代理公使となっていたのである。

 これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な
交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全
館員が出席して応援し、また資金援助もした。

403名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:29
7.日本大使館が庇護したレジスタンス活動■

 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、
イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運
動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ
部隊と愛称された。

 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤
児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加
し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ
キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数
のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院
は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を
兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た
ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。

 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを
大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま
した」といって直ちに引き上げた。

 当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日
本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、
この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく
庇護したのである。
404名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:30
8.長年の感謝の気持ちをお伝えできれば■

 95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に
招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激
しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつ
いた。

 私は生きている間にもう、一度日本に行くことが生涯の
夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。
しかしもうそれは叶えられません。

 しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、
這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小
さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に
私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残す
ことはありません。

と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日
本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがき
を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今ま
で肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。

 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれ
たお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せ
あった。
405名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:30
■9.われわれは何時までも恩を忘れない国民である■

 シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹
介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。
そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題
した礼状の中で次のように述べている。

 日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種であ
る。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に
存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児
童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてく
れた以上、われわれポーランド人は肝に緒じてその恩を忘
れることはない。・・・

 われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福
な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自
分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一
度や二度ではない。しばしばあった。・・・

 ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわ
れは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告
げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれ
たことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られてい
る。・・・
406名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:31
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持
っていることを伝えしたい。

■10.大和心とポーランド魂■

「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震
災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに
招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。

 世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男
の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く
と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ
てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ
クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は
不憫で涙が止まらなかった、という。

 震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤
児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、
「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた
ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救
済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。
407名波さん@イタリアで失敗:2001/02/09(金) 06:31
4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人
一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年
前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち
を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返
しをしたのである。