「私の悩みを解決したいというより、 みんながどう生きてるのか知りた
んです。」と言いながら、全く他者に同意せず、自分の主張しか繰り返
さないという1の独善性。 事態のややこしさは、1の発言の中に原因
がある(私は悪い人間だから、というあたり、少し自覚が生まれつつあ
るのか、とも思うが)。
>哲学における「努力」を定義できるということは
>哲学とは何かがはっきりしてるということ。
これがすでに不可思議な解釈である。何かがはっきりしないから努力
する必要が生まれるのであって、哲学とは何かがはっきりしていたら
そもそも哲学を巡って論争は起こらない。だいたい「私は「独断」を哲学
と言っているのではないのです」と言っておきながら、1は独断を回避す
る努力をしていない。他者の哲学を知ろうとしないし、他者の哲学に傾
ける耳を持っていない。
結局態度の問題、つまり「真理」に少しでも近づこうとする意志が現れ
ているかどうかである。努力によって真理に近づけたかどうかが問題
なのではない。1には真理に近づこう、つまり他者の哲学を学び自分
の誤謬を削ぎとろうとする努力をしていない。
「どれを欠いても哲学とは言えない。 」 というのはそういう意味で読む
べきである。つまり定義ではなく、哲学者たろうとする者がとってきた
態度のことである。「馬鹿な一般庶民に何がわかる?」 とでも言うのか
?という文が1の努力に対する忌避をよく表している。つまり、かなり素
朴な仕方で、哲学者と一般庶民を分割し、一般庶民には哲学が無いの
か?といっているのだ。だが事態は同じで、一般庶民でも真摯に哲学
しようと思うものは、あらゆる努力をするものである。自ら哲学し、過去
の哲学を学んで自らの哲学を常に相対化する努力を。1はまずもって
「自分を相対化する」という努力をせず、自分の主張を繰り返すばかり
である。「無知の知」を理解しようとしない、まさに「似非哲学者」。
そもそも1は、哲学を学ぶこと=「哲学者を信奉すること」という極めて
不思議な解釈を行っている。これが1の拒絶の非常に分かりやすい例
だ。哲学を学ぶ必要性は、過去の哲学を知ることによって、自らの哲学
を相対化すること、つまり自らを客観視することである。そのような「努
力」を欠いた上で、1は「独断的な」しかたで、馬鹿な一般庶民に何がわ
かると言うのですか? などと言うのだ。一般庶民だろうが哲学者だろう
が、努力は等しく必要だというのに。
1の偏りは「大学でやる哲学は真の哲学ではない」という点によく現れ
ている。あたかも大学で哲学を学ぶ、あるいは教える事をすれば、皆
擬似哲学者になってしまうかのように。
事実はこれに反して、ヘーゲルもハイデガーもフーコーも大学教授を
職業としていたし、哲学科の学生として勉強したり膨大な量の思索と
読書をこなした。「彼等は誰一人として哲学者ではない!」とでも言う
のならば別だが。つまり哲学する者か否かをきめるのは「自分で哲学
をやるか学問として哲学をやるか」にあるのではない。世の人に「哲学
者」と呼ばれるにふさわしいだけのことを果たして自分はやったかど
うか?この一点にある。
1は素朴に「自分で哲学をやる人間」と「学問として哲学をやる人間」
で分けて、前者が真の哲学で後者は似非哲学だとする。しかし、この
断定そのものが1の独善独断を明確に表している。自分で哲学をする
努力、学問として哲学をする努力(それによって自らの哲学を客観視
できる)、どちらを欠いても似非哲学に陥る危険性が常に付きまとう。
1は自分を客観視するための努力をひたすらに回避する。しかし、努
力を怠る者が哲学者と呼ばれたことは無いのは歴史をみれば明らか
だ。
誰でも多少なりとも自分の思想(哲学)を持っている。しかし最初から
完璧な哲学を持っている人間はいない。多くの誤謬、偏見、自己中心
的考え方を含んでいる。これらは自分で気付くことは非常に難しい。
自分の匂いは自分では気付きにくいのと同じで、自分の思い込みを
自分で気付くということはそう簡単ではない。
その時必要なのは、自分の観点を相対化してみることだ。哲学は「どう
でもいいこと」を考え、全てを疑ってみることだとすれば、その中には、
「自分の哲学」すらも含まれなければならない。
1の根本的な矛盾は、哲学とは自己破壊的で全てを疑うことであると
言いながら、自らの哲学が疑いにかけられることを極端に拒否してい
ることにある。
自分の哲学を相対化するには、他者の哲学を知り、他者の哲学と比
較するしかない。学問として哲学をやる努力、読書をこなす努力の必
要性はここにこそある。それは過去の哲学を知り、自分の哲学を相対
化し、自分の哲学に住み着く誤謬や思い込みをできるかぎり排除する
努力である。自己の思索の努力は当然必要である。しかしそれだけで
は偏りを含んだ哲学でしかない。似非哲学である。
いまこそ
>>4にお答えしよう。
>私の真の姿を忌憚なく教えてください。
>私は恐ろしく(本当におそろしいほど)自己中な人間だと思います。
>違いますか?
明らかに1は自己中心的な考えかたの持ち主である。ただし、違った
意味で。それは、1が自分が世界の中心という世界からは抜け出せな
いと言いながら、一方で自分の哲学観を相対化(客観視)しようという
努力をしようとしないという意味である。つまり他者の哲学が1の世界
観に入りこむ余地が無い。他の哲学者の考え方を学びもせず、したが
って自らの哲学の誤謬や偏見の危険性を見出すことができない。
自己中心の世界観に悩みながら、自らの手で自己中心の世界観を築
いているという、この矛盾。
西洋の「哲学者」を信奉し、イデオロギーとしてしか学ばないのも似非哲学者
だ(1は「知識人」と言ったか?)。しかし、自分を客観視する努力を何かに
つけていい訳をし怠る人間も似非哲学者である。
努力はいくらしてもし足りないものだろう。「自分の哲学は他の哲学に比べる
とまだ未熟だ」ということさえわきまえておけば。努力はいわば真理へ向かう
態度の表明である。しかも表明であるだけでなく、自分の哲学を客観視する契
機を生み、独善的な似非哲学に陥る危険性を絶えず拭い去ってくれる。この真
理へ向かう態度、自己を客観視するための努力こそが最も必要ではないだろう
か。こういうことを理解しようともせず、安易に自分が見下されているという
感情から、安易に「なぜ努力できるのかといえば、その人にとって真理が「自
分は頭がいい」からではないですか?」などという途方も無い解釈もしてしま
う。
はっきり言おう、他の人間の「頭が良く」1の頭が悪いのではない。真摯に哲
学しようとする者は労力を惜しまずあらゆる努力をする(自分の哲学が完璧で
はないということを理解しているから)。しかし1は自分の哲学が誤謬を含ん
でいるかどうかということを知る努力を回避しているだけなのだ。