260 :
武田研究家:
今週の『逆説の日本史』より
>突撃力にまさる武田騎馬隊
井沢氏は本当に、ダメだね。
「武田騎馬隊」なんてものは、無い。
後の方では
>もちろん武田軍というのは、前にも述べたように純然たる騎兵ではなく
>歩兵も混じっていますが、その中核は騎兵です。
とも書いているが、呆れるばかりである。
以前井沢板でも書いたことだが、軍役を調べるなら、武田軍における
騎馬武者の割合は一割ほどであるし、しかも歩兵との混成部隊である
から、馬に乗っていても歩兵が走るより早く走らせて部下を置き去り
にするようなことはしないのである。
また、例え騎馬武者身分の者であっても、いざ戦闘と言う時には
馬を降りて徒歩で戦うのが戦国時代の一般的なやり方であった。
これはフロイスの『日本史』にも書かれているし、『甲陽軍鑑』に
ある武田の軍法にも記されている。(続く)
261 :
武田研究家:2001/05/28(月) 23:57
『甲陽軍鑑』では三方ヶ原のような開けた土地でさえいきなり馬で
乗り掛かるような事はしなかった、長篠は馬を乗り回せるような
場所ではない、と書いているし、また「一備のうち七、八人だけが
馬に乗りあとは馬を後に引いて戦った」とも言っている。
これは『信長公記』に「三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り
懸り来る。関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓
を打つて懸り来る。……」とあるのとも一致する。
つまり、「井沢流」に言うならば、「その当時に一般的であった
事は書かれない」のであり、小幡信貞の部隊だけが騎乗したまま
攻めて来たと書かれた事は「逆説的に」武田軍の大部分が
常識の通り、馬を降りて戦った事を示している。
そしてまた、特筆された小幡信貞の部隊でさえ、騎馬武者は全体の
ほんの一部なのであって、井沢氏の言うような「騎兵隊」とは
かけ離れたものであることは、重要である。(続く)
262 :
武田研究家:2001/05/28(月) 23:58
以上の事から、武田軍=騎馬軍団の如き「妄想」が誤りである
事は明らかなのだが、井沢氏の「妄言」はこれにとどまらない。
今週の『逆説の日本史』より、
> ところが、その私にして、この間初めてもう一つの
>「コロンブスの卵」を発見した。もちろん、この長篠の
>合戦に関することだ。
>(中略)
>なぜなら、火縄銃の轟音だけで馬は暴れ出し、ちょうど
>竹崎季長の馬のように乗り手を振り落とそうとしますから。
>(中略)
> もう一つの不思議は、ではなぜ今までこんな簡単な
>ことに誰も気が付かなかったかということだろう。
これにはもう何と言って良いのやら。
本当に「誰も」その程度の事に気付かなかった、自分だけが
気付いたと考えているのだろうか。(続く)
263 :
武田研究家:2001/05/28(月) 23:58
誰でも手に入れ易い本として、学研のムックあたりを
見てみるとどうだろうか。
『歴史群像シリーズ6・風林火山』には既に、
>私は思う。馬防柵に向かって疾駆して行った
>武田方騎馬武者たちのある者は、間断ない鉄砲の発射音と
>ワンワンたる谺、そして連吾川の流れの輝きと
>銃口から発する閃光に驚愕して疾走をためらい、
>あるいは狂奔する馬たちによって隊形を乱し、
>馬首を立てなおそうとする隙に狙撃されて
>斃れたのではなかったか、と。
との記述がある。このムックの初版が1988年であるから、
井沢氏は13年遅れの自称「新発見」に自惚れている
ということになる。哀れな事である。(続く)
264 :
武田研究家:2001/05/28(月) 23:59
さて、上で紹介した文章であるが、基本的に
「武田軍は鉄砲を軽視していた」という前提で書かれた
文章であることに留意しておいてもらいたい。
つまり、「武田軍は鉄砲を軽視していたのだから、
当然、武田軍の馬は鉄砲に慣れていなかった」という
発想なのである。
しかし、これは誤りなのである。
『勝山記』という非常に信頼性の高い当時の寺の記録に
よると、信玄は1555年の段階で信濃の旭山城になんと
300挺もの鉄砲を送り込んでいるし、その後も軍役状で
鉄砲の重要性を説いていたりもする。
また、1568年からの駿河侵攻にあたっては
紀州の根来衆を雇っていた形跡があり、
鉄砲の使用に非常に気を遣っていたと考えて
まず間違い無いのである。(続く)
265 :
七郎:2001/05/29(火) 00:43
別のスレで、「ドクターブギさん」を間違えて「ドクター溥儀さん」とかいてしまいました。
この場を借りてお詫びします。_(_^_)_。
266 :
武田研究家:2001/05/29(火) 01:02
さて、またもや今週の『逆説の日本史』より。
>実は、長篠の合戦に際し信長は岐阜から出撃している
>のだが、岐阜―長篠(正式には愛知県設楽原)の行軍に
>一週間以上もかかっている。これは一日は無理でも
>二、三日もあれば充分に到達する距離であり、時間が
>かかり過ぎなのだ。
果たしてこれは本当か?『信長公記』から信長の行軍の
行程を見てみよう。
五月十三日 信長、岐阜を出発。その日の内に熱田到着。
五月十四日 三河の岡崎に到着。
五月十五日 移動せず。そのまま岡崎に逗留。
五月十六日 牛久保に逗留。
五月十七日 野田に布陣。
五月十八日 設楽原に布陣、柵の構築開始。
どう見ても「行軍」には一週間もかかってはいない。
井沢氏は一体何を読んだのか……(続く)
267 :
武田研究家:2001/05/29(火) 01:04
さて、信長の移動の仕方を見てみると、始めの二日は
長距離を一気に移動している。そして、一日の休息。
ここまでは合戦に際し疲労が残っていたのでは
都合が悪いから休息を入れたと考えられる。
しかし、その後は進撃速度が非常に鈍っている。
これはなぜか。
また、十八日には長篠に到着していながら、敢えて
武田軍から遠い場所で待機しており、武田側が
出てくるのを待っている。これはなぜか。
明確な答えは未だ出されていない。
そこで、従来の私のスタイルとは異なるが、
敢えて私見を書かせてもらいたいと思う。
(続く)
268 :
武田研究家:2001/05/29(火) 01:04
以下は私見であって「史実」ではないかもしれないが、
一応、井沢氏に対する私の見解として述べておく。
信長は長篠合戦に際し、通常の兵力の動員とは別に、
参戦しない諸将に鉄砲隊の供出を求めており、
それは例えば、細川藤孝から百挺、筒井順慶から
五十挺、といった具合である。(これは史実)
しかし、この臨時に動員された鉄砲隊は行軍の
足並みが揃わなかったようで、分かっている限りでは、
細川藤孝の送った鉄砲隊は合戦の前日、二十日に
やっと長篠に到着したほどであった。
つまり、鉄砲隊の動員はかなりギリギリで、しかも
山城や大和など遠方からやって来たので、本隊との
合流が遅れたのである。
鉄砲を主武器として武田軍と戦おうとした信長にとって、
鉄砲隊が到着する前に武田軍に近付き過ぎるのは
愚の骨頂であったはずだ。
だから、行軍の後半はゆっくりと行軍して鉄砲隊の
到着を待っていたのではなかろうか。