千葉市長選・千葉県知事選(パート3)

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川上紀一(千葉県知事在任 1975〜1981)政権のとき、
南部の富浦町 http://www.awa.or.jp/home/tomiura/
出身である彼が策定した「三バカ査定」があります。

1.「南房総創造発展計画」
2.「上総新研究開発都市構想」
3.「リニアパーク構想」

の三つ。 どれも、南部オンリーの、露骨なまでの南部への利益誘導政策でした。

川上紀一が「5000万円念書事件(1981年)」で失脚・辞任した後釜に知事に就任した直後の沼田武(千葉県知事在任 1981〜2001)は、そのあまりのひどさに 1.「南房総創造発展計画」、3.「リニアパーク構想」を中止しましたが

1981年知事選において「川上県政の継承」を公約に掲げていたため 南部勢力に噛み付かれてしまい、そのために

2.「上総新研究開発都市構想」を継承(現-「かずさアカデミアパーク」)する妥協策ということで 「千葉新産業三角構想」 http://www.pref.chiba.jp/outline/big-pj-j.html
を1983年6月に策定するハメになった、という経緯があります。

だから、農村部が都市部を支配し搾取するという大問題の根源は 川上政権の露骨なまでの南部への利益誘導政策の開始にあるわけです。
さらに言いますと、戦後の千葉県政は 市川出身の川島正次郎(1890生〜1970没)と鴨川出身の水田三喜男(1905生〜1976没)の二人の二頭政治にほかなりませんでした。 古代ローマの「第一回三頭政治」「第二回三頭政治」を思い起こしてください。

第三代知事の加納久朗(任1962〜1963)は川島派です。 彼は旧華族出身のキャリア銀行員だった老紳士でしたが、急逝しました。

第四代知事の友納武人(任1963〜1975)も川島派です。 健康保険に関する法律を書いたエリート厚生官僚チームの出身で、「開発大明神」というあだ名を持っています。 「千葉県中興の祖」。

第五代知事の川上紀一(任1975〜1981)は水田派です。

ここで注目していただきたいのは、川島の死(1970年)の五年後に知事が川島派から水田派に移っていることです。 ここで二頭政治は崩壊したわけですね。 そして、水田の死(1976年)の五年後に、川上は「五千万円念書事件」によって失脚しています。 つまり、それぞれの後ろ盾を失うことで権力を失っていったわけです。

何がいいたいかというと、湾岸大開発を川島と水田の二頭時代に推進し、川島の死後の水田一頭時代はそれに南部大開発が加わり(このころに「県北と県南の地域格差」が声高に叫び始められた)、水田の死後は誰も統率するもののいない湾岸大開発と南部大開発の惰性が支配しているのだ、ということです。
湾岸大開発には三井不動産が資本投下をしたことで知られていて、このころは、いわば「三井不動産=千葉県合同企業体」という関係でした。

川島も水田もこの世から去ったあと、三井不動産は傲慢になりはじめ、浦安のテーマパーク構想から三井不動産は撤退しようとしていました。 しかし、時の川上知事が契約違反だと強硬姿勢を取ったことで、今日のディズニーランドは開業したわけです。

三井不動産は、もはや川島も水田も後ろ盾としていない川上に煮え湯を飲まされたことにそうとう憎悪の念を抱いたらしく、その報復措置こそが「五千万円念書事件」だったと言われています。

では、第六代知事の沼田武(任1975〜1981)とは何者だったのか? わたしは、先にも述べた「誰も統率するもののいない湾岸大開発と南部大開発の惰性」に支配され、そして、自らの統治領域を「三井不動産=千葉県合同企業体」から「三井不動産の子会社・千葉県」へと転落を與儀なくされた男、と考えています。

ちなみに悪名高い企業庁は、かつては千葉県の三井不動産との渉外部であり、今は三井不動産の千葉県管理の作業部なのである、と考えれば見えやすくなると思います。

今は亡き、しかし、今も化けて出てくる、二人の亡霊。 彼らの履歴の現在における二人を影響を見定めることが、千葉県分析のポイントです。