戦場シム 「Operation FlashPoint」 vol.11

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800名無しさんの野望
いいかみんな聞いてくれ。上の議論もあるし、この時期戦争について考えた。

疑問:人間が殺し合う悲惨な戦場の再現に興奮する事は不謹慎で恥ずべき事か
    (これはOFPだけに限らず、戦争映画、戦争小説等多くに共通する問題)

回答:NO。不謹慎ではない。

理由:なぜなら、そうしたものを見た時、我々が興奮し、声援を送るのは、一人一人の兵士が、
つまりある人間が、自分の周りに突然出現した戦場と言う過酷な環境の中で、どうやって生き
抜き、そして死力を尽くして自分を殺そうとする敵とどのように戦うか、という事にあるからだ。
誤解を恐れず言えば、戦場は巨大なサッカー場であり、兵士はサッカー選手だ。彼らは負ければ
死ぬ。死は人間にとって最大のリスクであり、リスクを背負った賭けほど人間を興奮させるものは無い。
戦う事を愛するのは、人間の欠点であると同時に美徳でもある。
なぜなら全ての戦いは、突き詰めれば実は自分との戦いであるから。(=克己心)

戦争というのは、国のレベルで起きる非常にスケールの大きい現象だ。だから、それを一面だけ
で判断する事は出来ない。つまり、兵士たちの実際に戦う戦場における戦争と、将軍や政治家
達の机の上での観念的戦争とは、厳密に分けなければならない。
嫌悪すべきはそうした観念的戦争であって、兵士たちではない。そしてもちろん、我々は観念的
戦争には何ら魅力を感じない。司令部の戦略図の上でだけ進行する戦争映画は存在しない。
そこには何の物語も、人間の潜在的能力の限りを尽くした戦いもないからだ。
(続く)
801800の続き:2001/08/10(金) 03:08
繰り返しになるが、我々は戦場を愛するのであって、戦争を愛するのではない。
しかしもちろんここには矛盾がある。過去に存在した実際の戦場は、政治家及び将軍達の行う
戦争の結果として生じた場であり、またそこには純粋に兵士だけがいたわけではなく、多くの
民間人、非戦闘員も居合わせた。それによって多くの罪の無い民間人が戦闘に巻き込まれ、
数限りない不幸が起きてしまった。つまり、兵士が戦士として戦うのみである事を許されず、
時には虐殺者となり、時には無意味に虐殺されるものとならざるを得なかった。

だからさらに付け足さねばならない、我々は、実際の戦場よりもずっと架空の戦場を愛する。
兵士が戦士としてのみ存在できる、架空の戦場を。
そしてそれは、戦いを愛する人間の本質(=克己心)から来る欲求の、奇妙な一形態にすぎない
のだ。

みなさんはどうでしょうか?