PCゲームって面白くない! その3

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869名無しさんの野望
スクエア関係者さんへ。

今、あなたがたが直面している問題(日本のゲーム業界の閉塞性・マンネリなど)
について、高橋源一郎さんという作家が、ドラクエ2と3を例に挙げて文章を書
いています。これはまさに、現在のスクエア(具体的にはFFシリーズが)が抱え
ている問題なのではと思いました。以下、長文ですが該当箇所を分割して引用し
ます(段落が1つしかなく読みづらいのは原文のままの引用のせいです)。よろ
しければ、この文章へのご意見を賜りたいです。


「『ドラゴン・クエストIII』、物語は勝利したか」
(高橋源一郎『文学がこんなにわかっていいかしら』福武文庫、303ページから)


 さてそういうわけで「ドラクエ」はこのゲームのうちのロールプレイングゲー
ムと称するところの、まあ主人公がゲームの進行とともに成長し最終の目的であ
る魔王を打倒するというよくあるタイプなのだが、この本来はお子様向きであっ
た一ファミコンゲームがゲームの主人公そのままに成長しつづけ、ついには三百
万本とかいう空前絶後のセールスを記録しようとするに至った理由はなにかとい
うことで、格好の話題を見つけたマスコミ・ジャーナリズムはあれこれと詮索し
ているのだが、「ドラクエI」、「ドラクエII」、「ドラクエIII」と、人生の相
当の時間をかれらと付き合い血と汗と涙をながしてきた高橋としては、ここは極
めてオーソドックスにゲームそのものにその理由を見出したいのである。なるほ
ど、「ドラクエI」は深い感動をよんだにちがいないし、また「ドラクエII」も
一つのゲームというカテゴリーを越えた反響をよんだし、「ドラクエIII」に至っ
ては本来、ファミリーコンピューターに対して侮蔑の意識を持ってしかるべきパ
ーソナルコンピューターの製作者や愛好者までが、全面的な賛意を表するという
異常事態にたちいったのであった。そんな絶賛のなかで、いまはまだ表面にはは
っきりとした形では現れてこないものの、真の「ドラクエ」愛好者ともいうべき、
「ドラクエI」から「ドラクエIII」へとひとしれず成長していった無名のゲーマ
ーたちの中にひろがっている呟きは、「ドラクエIII」はほんとうにおもしろいの
だろうか、という世界が凍るフレーズなのだ。もちろん、そんなゲーマーたちも、
いわゆるひとつのゲームを楽しむという点においては「ドラクエIII」を十分にも
十ニ分にも十四分にも楽しんだことだけは間違いないし、実際にその作品の空間
を経過していく時間の濃密さにおいて、どんなゲームも、いやどんなジャンルの
作品もかなわないと断言するだろう、だがそれでもやはり、「ドラクエIII」はほ
んとうに面白いのだろうかという禁断のフレーズが、心の奥底からふつふつとわ
きあがってくるのを否定することはできないのだ。そしてそんなゲーマーたちは、
この根源的な疑問に、すこしずつ明確な形を与えようとしている。例えば、青山
の某蕎麦屋で「ドラクエIII」はこの世の物と思えぬほど素晴らしいと褒め称えて
いる高橋の知り合いのどちらもいわゆるコンピューター業界のプロの二人に向か
って、「わたしはIもIIもやったし、一年間、待ちに待ってIIIもやったけど、は
っきり言ってIIIは面白くなかった」と語りかけた蕎麦屋の女将が、「だって、シ
ドーは恐かったけど、ぞーまは恐くなかったよ」と呟いたように。そうだ、「ド
ラクエII」のクライマックス、最後の戦いで我々の前に悪の化身シドーが登場し
たあの身の毛もよだつような恐怖は「ドラクエIII」のクライマックス、ゾーマに
はなかったのである。あのシドーの恐怖は、言ってみれば、理不尽な、生理的な、
本能的な恐怖だったのだ。ゲーマーたちはディスプレイにシドーが登場した時、
文字通り、鳥肌をたてたのである。確かに、「ドラクエIII」は完璧なゲームかも
しれない。そのバランス、そのシナリオの精密さ、シーンからシーンへの移行の
滑らかさ、壷を心得たユーモア、決してゲーマーを飽きさせないストーリー展開、
どれをとっても前例のない高みに達していることは格闘した全てのゲーマーたち
が認めるとおりであろう。

(続く)
870869:2001/05/12(土) 06:03
では「ドラクエIII」のなにが我々に疑問を感じさせたのか。それはまず第一に、
その完璧さなのであった。なるほど、「ドラクエIII」は決して我々を飽きさせ
たりはしない。だが、それは同時に我々を限界にまでひきずりこめないというこ
となのだ。「ドラクエII」は決して完璧なゲームではなかったし、バランスがと
れているとも言い難かった。それは既に発売当時から、ゲーマーたちにとっては
周知の事実であり、一切の展望を失い意味もなく怪物どもを退治するだけのデッ
ド・ロックにぶつかったり、複雑怪奇な迷路の中をあてどなくさまよったりする
ことは、こういったゲームにはありがちなことであるから別段不思議がることは
ないし、またその程度が尋常ではないといったこともままあることだから、それ
を「ドラクエ」の特性にあげることはできないにしても、とにかく「ドラクエII」
にはある枠を外れた、どこかあの世じみた放埒な部分が確かに存在していて、心
底疲れはて、あげくのはてに「くそ! やってらんない」と叫びながらも、不死
鳥のごとく、半ば無意識でコントローラーを握りしめAボタンとBボタンを押し
つづけるうちに、いつしか生と死の間をくぐりぬけ、超えることなどできないよ
うに見えた壁を越えている自分を発見したことが何度もあったのだ。「ドラクエ
III」は完璧さを身につけるために、「ドラクエII」のこの過剰さを放棄したの
だ。だから「ドラクエIII」を旅する我々は、もはや無意味さに悩むことはない。
「ドラクエII」から過剰さを追放するために、製作者がとった方法は、その隙間
を「物語」で充填することだったのである。我々はここまで来てついに「物語」
に出会う。「ついに」と言うべきなのか、「やはり」と言うべきなのか、どんな
言葉がこの事態に相応しいのか、我々にはわからない。「ドラクエIII」は魔物を
退治する単純なロールプレイングゲームに、「母と子」の、また「父と子」の、
また「男と女」の「物語」を書き加えた。それは、なんとわかりやすく、なんと
よどみなくながれる「物語」であろう。不可解なものや恐怖は追放され、こう言
ってはなんなのだが、なんの苦労もなく、身をまかせさえすれば「ドラクエIII」
は自動的にクライマックスまで我々を拉致し、運びさってくれるのである。だが、
我々が「ドラクエ」に求めていたのは「物語」だったのだろうか。確かに「ドラ
クエIII」にとって、「ドラクエIII」をいろどる数々の「物語」は、その本質的
な構成部分ではなく、完璧なゲームバランス、万人が読むことのできる書物とし
ての「ドラクエ」に必要なアクセサリーであったかもしれない。だが、それでも
この「物語」というサーヴィスは我々を疲れさせる。それは「ドラクエII」の疲
労が、クライマックスで爆発的に解消させられる、言ってみれば筋肉性の疲労で
あったのに比べ、もっとくすぶるような、曖昧な、後に残る、合成甘味料のよう
な疲労なのだ。「ドラクエI」から「ドラクエII」へと移り変わっていく過程は、
自然成長性とでも呼ぶべき過程だったのかもしれず、その中で「ドラクエ」は製
作者の思惑をも超えたゲームに変貌した。それは、我々の無意識をどこかで解放
し、そのことによって百万単位の「読者」を生み出したものである。だが「ドラ
クエII」から「ドラクエIII」への過程は、すでに生み出した「読者」へ拝跪する
過程だったのだろうか。自らが生み出した「読者」のために、「万人に開かれた
ゲーム」という幻想が生まれた瞬間から「物語」の導入は不可避であった。「ド
ラクエIII」は名工たちによって磨き上げられた最高のエンターテイメントであ
る。だが、それはスピルバーグの善意のエンターテイメントがそうであるように、
そのサーヴィスによって我々をどこまでも軽い疲労へとおとしこむのだ。だから、
我々はこういわねばならない。我々に必要なのは「善意」にみちた(それが「悪
意」でもほとんど変わりはないのだが)「物語」ではなく、底が抜け、その抜け
た底から冷たい風が吹き上がる「ゲーム」そのものだ、と。(終わり)