>>114 >ダイジェストな知識って無い方がましですよ<美術を論じる時は。
ダイジェストな知識ならずしてどのように自分の言葉とすればよいのでしょうか。
著書を読破したとしましょう。
そのあとに残るのは「共感→実感」を得られた部分の
言葉や論述内容のダイジェストじゃないんでしょうか?
そもそも引用・参照するのには提唱者の著書や全意図を汲まなければならない
のでしょうか?それを強制する行為は創造行為を閉塞させるもので
あると言って良いでしょう。>>>(注)
また、ダイジェストな理解のほかに何があり得ますか?
全文暗記でしょうか。
「レインマン」の暗記能力亢進の自閉症患者など様の能力を持って
いなければ無理ですよね。
というかいるすさんも御指摘の通り「現象学的還元」が
あなたの「自分の言葉」で語られていません。
それなくしては話が進まない、ということですよ?
大事なのは「実感を伴った理解」ではないですか?
その「実感」の部分であるといえる言語記号のシニフィエ(意味内容)の理解
が重要であるのは当然のことだと思います。
説明できないのならばあなたは「現象学的還元」の言語記号(シニフィアン)と
周辺をただ「知っている」だけ、とみなされますが。どうでしょうか。
「実感を伴った理解」あってこそ「自分の言葉」として語ることが
できるようになる、ということはお分かりでしょうか?
(↑すごく当たり前のことだよね、、、)
手前勝手で恣意的なシニフィエで語ろうとするならそれこそ分裂病ですよ。
真性の分裂病なのでしょうか?まあ程度にもよるでしょうが。
(差別的な意識はありません。むしろ興味あるし、自分の中にも多少
そのようなきらいはありますので)
どうなのですか?>cattさん