「風の音が…」
ジタンがトランス化した際の魔法風の音を聞きつけたシナは、それをルビィに伝えようとして、
そこで言葉を切った。いや、切らざるを得なかった。シナの左胸から、鋭い切っ先が覗いていた。
「な…?」
刃が再び体内に引き戻されると同時に、己の身に起こった事への疑問の声と、おびただしい鮮血を
口腔から溢れさせつつ、シナはその場にくずおれた。
トランスによって拡大した聴覚は、壁の向こうのシナの心音をジタンに伝え、その正確な位置を
教えていたのだ。そして、同様に増幅された筋力と練達の技、加えて猫の爪の鋭利な刃が一点に
組み合わされた時、相手に悟られる事なく、特殊合金製のパラメキア内壁を音も無く貫くという
魔技が実現したのである。
「シナッッッ!」
一呼吸置いて、胸の傷口から間欠泉のように噴出する血潮で周囲を真紅に染めつつ、ズルズルと
壁にもたれるように倒れ行くシナを見て、ルビィが驚愕と恐怖の入り混じった叫びを上げた。
そのほんの僅かな隙を、全神経を周囲に張り巡らせていたミコトは見逃さなかった。
突如すぐ背後の空間に魔力が集中するのを感じて、ルビィの背中に冷たいものが走る。
冷静な判断などでではなく、ほとんど動物的な反射で飛び退いた瞬間、ほんの一瞬前まで
自分が立っていた空間を、鋭い高音を立てつつ鎌鼬が通り抜けていった。それが激突した壁に
巨大なひびが入るのを見て、ルビィの額に冷や汗が浮かんだ。
「フ…フフフ…そう、機会を窺っていたという訳なの。惜しかったわね…失敗よ。でも、
次の機会はもう無いわ。今、ここで死になさい!」
怒りと恐怖で震える声で斬鉄剣を抜刀したルビィに、ミコトはいつもの冷たい声で告げた。
「…私は失敗などしていない。貴女が鎌鼬を回避するのも、こうして私の話を聞くのも、すべて
私の、いいえ、私たちの計算の内…」
「計算?」
ルビィの顔に困惑の色が浮かび、その動きが止まった瞬間、先程の鎌鼬による衝撃で半ばまで
破壊された壁を突き破り、一陣の風がルビィに襲いかかる。言うまでもなく、ジタンであった。
自分が囚われているという状況を察したジタンが、何らかの救出行動を起す事を予測し、如何なる
タイミングで、また如何なる方法でそれが行われても即座に対応できるように神経を集中していた
ミコトと、自分が行動を起せば、ミコトが即座に次の自分の行動を助けるのに適切な対応をする
だろうと確信していたジタン。ゾディアックブレイブの二人とミコトの壮絶な戦いが残した
残留魔力によって未だ思念による会話が不可能な状況にあって、百万言を尽くす事をも上回る
相互理解と信頼が、言葉で意思を伝える以上の効果をあげたのだった。
「くっ!」
トランスが解除される際のほんの僅かな隙をついて、一気に十メートル程も後方に飛び退るルビィに、
ジタンは「ほう」と感心したような声をあげた。
「あの状況での攻撃を、腕一本で済ませるとはね…。流石にカイナッツォを倒しただけの事はある」
その言葉通り、ルビィの左腕は肩の付け根から斬り飛ばされ、滝のような勢いで血が流れ落ちていた。
「さてどうする、ルビィ? 相棒のシナは既に始末してやった。人質のミコトも自由になった。
そしてお前自身もその傷では、勝機はあるまい。今すぐ降伏すれば、昔のよしみだ。命だけは
助けてやってもいいんだぜ?」
多量の出血で白蝋と化したルビィの口元に、嘲笑うような冷たい笑いが浮かんだ。
「やはり甘いわね、ジタン…。そんな無駄口を叩いている暇があれば、さっさと止めを刺せば
良かったものを!」
ルビィがそう言うのと同時に、肩の傷口から何かが凄まじい勢いで飛び出した。
「何っ!」
数メートルに及ぶ長さで、鞭のようにしなやかに空を切るそれは、なんとルビィの血管であった。
ゾディアックブレイブと化した時、そのような特異な体質に変化したに違いなかった。
新たな武器として襲いかかってくると見えた血管鞭は、ジタンが飛び退るのと同時に突然軌道を変え、
切り落とされた腕に絡みつくと、反対の手元に引き寄せた。その変幻自在ぶりからして、ルビィは
血管鞭を手足のように自在に操れるらしかった。