藤田さん言うところの「一度に大量殺戮を行った原爆への忌避感、嫌悪感」
「二度と核爆弾を使用した大量殺戮を起こしてはならない」「平和への願い」
「核の恐ろしさ、愚かさを世界に向けてアピール」には同意できます。
だけど、というか、ゆえに、なぜランディのあの新聞記事に共感できるか
わかりません。
とりあえず死者の霊を弔うだけではいけない、とおっしゃいますが、式典の
少なくとも一部は霊を弔う鎮魂のために割かれるのはよいのですよね……?
献花の際に流される曲が「本当に鎮痛で暗くて恐ろし」いからというだけで
「時代とズレているのだ」と断じるランディは、やはりピント外れでは。
ランディの文章のどこに、「原爆への忌避感、嫌悪感」「平和への願い」
ひいては、自分の文章で「核の恐ろしさ、愚かさを世界に向けてアピール」する
気概が感じられますか? このようなことは、式典批判だけすれば読み手に
伝わるなどというものではまったくないでしょう。
さらに唯一誉めているのは、実際に何を話したか読者には具体的にわからない
「長崎の女の子」の「愛について話した」「愛の物語として再生」で、むしろ
悲惨な話はもうやめよう、ととってもおかしくない主張です。
だいたいランディは、昨年の式典のコラムでも「水に流す」云々で、原爆二世の
怒りを買った人ですからね。それに答えるコラムでも、そういうつもりではない
泣き寝入りを強制するものではないなどの釈明もなく、私は所詮当事者じゃないと
延々泣き言を繰り返した人です。
さらに、カンボジアのコラムでは、「恨みを削ぎ落として、事実だけ伝えること」
を目指している人です。当事者以外の者として、ランディ本人が「恨みを削ぎ
落として、事実だけ伝える」のを目指すのはよいと思います。(その評価軸で
他人の語る原爆についてを批評されると問題かもしれませんが)。
しかし「原爆への忌避感、嫌悪感」「核の恐ろしさ、愚かさ」が語り継がれる
ことを願う者に、その語り手として期待するべき文章家ではないと思います。
http://www.melma.com/mag/26/m00001926/a00000077.html