早稲田文学3月号の鎌田の下劣な東批判

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73>早稲田文学
早稲田文学3月号の鎌田哲哉氏による東浩紀批判、読みました。
全体的な感想はある一部分を除いて、このスレを立てた>>1氏と似たようなものでした。
その感想を鎌田氏の文章に即して、述べてみたいと思います。長文になりますが失礼します。

鎌田氏による、「古名」、「固有名」をめぐる、東のデリダ論への批判は、おそらく妥当でしょう。
しかし、そこから導き出された東氏の研究態度への疑義がそのまま、
氏の最近の「不潔」な「素行」の下部構造として規定され、「東浩紀的なもの」として、批判の根拠となることについては疑問です。

まず、鎌田氏は、人間がものを書く−読むというプロセスにおいて、
どのようにでも書ける、もしくはどのようにでも読めてしまうという事実を、忘却、とまでは言えないものの、捨象してます。
いかように読もうとも、自身の鏡像的なものしか読み出しえないという、
東氏自身が法月綸太郎との対談でも語った、感情移入のトリックには何の言及もされていません。
しかし、この問題はまた、根源的には鎌田氏によるデリダ論への批判とも関連してきます。
それゆえ、人間はそれらから自由になることはできず、暫定的なかたちであっても、それらを捨象することは、妥当でしょう。
ただし、そうした批判は東のデリダ論の不徹底さ、及び、研究態度への疑義としてのみ有効かつ、有益だったのではないでしょうか。
鎌田氏の批判が@書く−読むという行為の原理的な問題を捨象したこと、のみならず、
Aデリダ論の文脈を無視し、B約3年というタイムスパンさえも無視し、
そのまま、C感受するしかないと思われる東氏の人格の描き出しに直結する、妥当性に関しては、甚だ疑問というしかありません。

( なお、これは完全に蛇足ですが、
鎌田氏によって、指摘されている、東氏の「自意識過剰ぶり」は、ことアニメに関する発言に絞ってみれば、
「クイック・ジャパン」のインタビューや、「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」に「うる星やつら」論を書いていた頃と比べると
きれいに脱却されたように感受します。すべての言い訳を控え、じつに堂々としたものと感じられます。
もちろん、東氏はアニメに関することのみならず、そのような文体で書くと言明しているわけですが、
こうしたことを言明するということ自体に、この問題の複雑な側面が示されています。)
74つづき:2001/02/14(水) 00:34
とは言ったものの、鎌田氏の論理展開が、東氏の最近の「駄文」の批判
⇒その原因調査的なものとしての東氏が強く持つ「東浩紀的なもの」の提示、という形をとっていることを考慮すれば、
その最近の東氏の文章に対する批判が、当を得たものである限り、取り立てて問題はないのでしょう。

しかし実際は、「遠い」「近い」の単語の意味にのみ拘泥し、東氏の文章の固有の文脈をまったく無視、歪曲して、矛盾であると非難したり、
(実際は何の矛盾もない。この点に関しては東浩紀スレッドpart2の、136、140で詳述。140は言葉足らずの観もありますが、
「(浅田・柄谷両氏にとっての)遠い他者は、自分たちの鏡像で埋められていった」という点に注意を喚起します。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=972580475  )
また、「誤状況論」において、東氏が浅田氏の本質的な批判に答えず、浅田氏を攻撃(?)していることに関して、
@本質的であるがゆえに、東vs浅田という、批評家同士の抗争に回収されることを回避するため触れなかった、
A「誤状況論」という狭いスペースでのエッセイ風の文章で取り上げるにはふさわしくないと判断した、
というような可能性には何の考慮も払わず、直線的に、これを東の不潔な行いと断定したりしています。
こうした無理解、恣意的な読みは、明らかに、はじめに東の人格批判ありき、の態度が導いている結果で、到底首肯できるものではないうえ、
鎌田氏の言う「相手を言い負かそうとする痙攣的な執着」を、他ならぬこの文章から感じてしまうとしても、仕方のないように思えます。
75つづき:2001/02/14(水) 00:35
さて、極端にヒステリー化された東イメージから発せられた東批判は、どういった結果を生んだのでしょうか。
「東浩紀的なるもの」という、「批評」におけるより一般的な問題を鎌田氏は指摘したつもりでも、結局は、
東浩紀、浅田彰、そして鎌田哲哉という、批評家のイメージをより過剰にヒステリー化することにしか貢献しなかったのではないでしょうか。
鎌田氏自身が最も、その「東浩紀的なるもの」の罠に嵌められているにもかかわらず、そうした事態の裁定者のように振舞っています。
それを如実に物語るのが、東氏の浅田・柄谷尊敬発言に対する、理解不能な鎌田氏の批判です。
浅田・柄谷両氏の強い影響下で仕事をはじめた東氏にとって、そうした彼ら自身を批判した文章だからこそ、
決して彼らの業績を全否定しているわけではないと、注意を促す意味でも、至極当然のこととは思えないでしょうか。
東氏が浅田・柄谷両氏を未だ尊敬していると発言したからといって、彼の批判の妥当性を吟味・再批判することには何の障害ももたらしません。
むしろ、鎌田氏の方が彼らの業績をその批評家自身のイメージに不必要に還元する態度をとっているとしか思えません。
その挙句、東氏を「土人」呼ばわりし、中傷していることからは、もはや一分とも首肯できるものはそこにはなく、
(魯迅の逸話は、鎌田氏の「感想」と称する中傷の正当性に対する何の根拠にもなっていないということに留意すべきです。)
ヒステリー化の泥沼に足をすくわれたこの文芸評論家の名前に、「下劣さ」という印象を過剰に染み込ませるのみとなっています。

なお、鎌田氏のこの文章にも、東氏の仕事に対する真摯な批判となりえた個所がいくつか存在します。
(上述の「4」の大部分や、p91の上段部、等々・・・)
しかし、それらは批評家同士と読者の間で、激しい転移を引き起こすためのフック、もしくはプロレスの決め技のように扱われます。
もちろん、原理的なレベルでは、批評家の業績と批評家自身のイメージとの関係は簡単に割り切れるものではありません。
それにしても、このような文章や、読者に、そのことに対するジレンマすら見られないというのはどういうことでしょう。
もし、このような文章が、痛烈な東批判などともてはやされ、
東氏が現在行っている仕事に対して、より漸近的で、真摯な批判を入れようとする人間がほとんどあらわれず、
狭い「論壇」内での批評家同士の抗争に、批評家自身が自家中毒的に関わる限り、
東氏本人も告白したのと同じように、
言論界に対しては絶望しか感じないという感想を読者が持ったとしても、それは仕方がないことです。