もうひとつ、「人格との対峙」という要素も大きな役割を果たすことがある。
前スレ990が「カタリナ・ビット=村主章枝に相当」と書いていたが、実はこの二人は
大きく違う表現をしていると思う。
村主が役に入り込んでいないというのはさもありなん。
おそらく「お客さま」云々の思い入れが強すぎるためか、入り込むことが出来ていない。
しかし、ビットは恐らく意図的に役から「抜け出て」カタリーナ・ビットという演者の人格を提示して
いる。
そして、自分の演技による表現を見せるだけでなく、表現している自分の「人体」「人格」に
目を向けさせることによって、見るものを「人格」と「人格」との「関係」に引きずり込むことに成功
している。
観客はビットを客体として見るのではなく、自分の前に現れたもう一個の主体として「関係」する。
このことによって強い緊張感や連帯感、場合によっては安心感等々がもたらされ、
また、観客の感受性や想像力も強く働き出す。
「この世」の中でのこのような「関係」による「一撃」が「生」の実感に変化をもたらす。
例えば歌舞伎役者が見得を切るのはこれに近い効果を生んでいるだろう。
このタイプの表現は
>>42の挙げたキャンデロロやサーシャ・コーエンが得意としているように見え
る。
織田信成もやっている、のかな。