語れ■(表現力)  芸術性について2■死ぬまで

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45氷上の名無しさん
これだけの定義で芸術の全体をカバーできるのかどうかは心許ない。
また、芸術とそれ以外の分野との境界もはっきりしない。
「実感」をもたらすことのできる強い「現前する力」が芸術を特徴づけている、くらいかな。
それでも「ニューヨークテロの時にツインタワーの下に居合わせた体験のもたらす一撃」との
違いは?などと問われればはっきり答えられる自信はないなw

こういった「一撃」という作用を持つ表現にはいろいろな形態があり得ると思う。
ある程度以上強烈な「美」もそうだろうし、人生全体を覆うような「投げやりさ」が芸術を
成立させることすらあるだろう。

話をフィギュアスケートに絡めていくと、キャンバスでも楽器でもなく「人体」による表現だという
点が特にフィギュアスケートに特徴的な要素だ。氷上の慣性運動という点も特徴的だが。
「人体」はそれ自体が人間の「生」にとって大きな意味を持っている。
なにしろ大抵の人間は「人体」が消滅すれば「生」もおしまいという意識を持って生きている。
「この世」と接するには「人体」を通じて接するほかない。
ましてや「性」とか「苦痛」などという大問題もある。

例えば「理想の人体」。
おそらくフィギュアスケートや大抵の舞踊、芝居等においては「理想の人体」を模倣することが
芸術表現の一翼を担っている。
身体の各部分が生命に満ちて自由に動き、個々の動きが絶妙に連携して目の覚めるような
躍動あるいは静謐を湛えて自在に動く。
浅田真央やジャンプ以外のサーシャ・コーエン、伊藤みどりの体幹部、アレクサンドル・アブト、
小塚崇彦のスケーティング、ヤグディンやプルシェンコの精密さや躍動感もかな。
「理想の人体」はおそらく「人間が理想の人体を持って生きる理想の世界」を想起させたりも
するだろう。そして、「理想の人体をもたず理想でない世界を生きる私」とか。
その結果、自分の今生きているこの「生」の実感はいや増すことになる。