鶏はなぜその飛翔能力を喪失したのか
それは、ひとえに人間の家畜となることに甘んじたからに他ならない。
一見すると家畜になることは鶏にとって不利益な事のように思われる
しかしながら、「ニワトリ」という種の観点からすれば
その判断は極めて合理的であったことがうかがい知れる。
すなわち、人間に対して自らの卵を提供することと引き換えに
「自分」という固体の生存ひいては種の保存の確証を得ているわけである。
無論、これは雌の場合の話であって
雄の場合は儚くも肉片となり人間の胃袋に納まる運命にあるわけだが
いずれにしても人間自身が鶏を生存のための糧としているのだから
「ニワトリ」という種は人間によって保存されるわけである。
つまり、鶏は捕食者から逃れるための飛翔能力―生存のための手段―を
人間の家畜になることに転換したのである。
だが、本当にそれで良いのか?
確かに、養鶏場の狭苦しいゲージの中でひたすら卵を産み続けることは
「ニワトリ」という種にとってはプラスに作用するかもしれない。
だが、「鶏」すなわち各々の固体にとってはどうなのか?
彼らは、本当に卵を産み続けるだけの一生に満足しているのか?
私は、ここで高らかに提唱したい。
鶏たちよ。いまこそ大空に帰するとき。
さあ、養鶏場から脱して、再び翼を取り戻せ―――。