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飛虎将軍廟:
西暦2001年6月29日
於 台南市 午後3時頃〜4時頃
台湾論の中の話でどうしても行きたかったので行きました。
台南車站よりタクシーを利用、服務員の人に「飛虎将軍廟」と書いた紙を示していくら
ぐらいかかるかを訪ねたら160左右と書いてくれた。
車番はV9−090、王さんという運ちゃん(台湾語で運転手さんです)
駅前ロータリーより成功路−西門路三段−北安路−安通路五段−義安路、同安路と交わる所の
向かいの右手が「飛虎将軍廟」。かなり立派な廟。廟の階段上がった所の椅子に私と同年代ぐらいの
男性が二人座っておられました。そのうちの一人の方に入ってもよいか訪ねました。良いとのことで
廟のなかを拝見しました。
1995.7.26 六条有康親王さまが来台されたときのお写真が壁に数枚飾られていました。
それを見ていると先ほどの男性が机の上の電話でどこかに電話していました。名簿があるので
記名してくださいとのことで折角遠くより参ったので記念に記名させて頂きました。
宮様のお写真の反対側にある菊池健造氏の書を書き写す。などしている内にお年を召した男性が現れ、
名簿を見て、「大阪ですか」(もちろん日本語)と言い、日本の方はよく来られますとのこと。
前回の来訪は6/21で少し間が空いているが観光コースになる場合などはバスでたくさんの日本人が
来られるらしい。名刺をいただいた「呉金魁」さん。昭和三年生まれ。日本時代の方。
台南と高雄の間にある「岡山」の第61海軍工廠の工員をされていた。当時数千人受験し、五−六〇〇人
しか合格しなかったとのこと。0戦の整備などをされていた。
ここに祀られている「飛虎」こと「杉浦茂峰」氏について訪ねると直接の面識はないそうである。
その日(航空戦のあった日1944.10.12)は呉さんは岡山の工廠にいつものように出勤したところ、
朝8時頃、空襲警報があった。通常は長くても1時間もしないうちに解除されるのはずなので
いつものように防空壕へ入っていた。入ってしばらくすると機銃掃射の音が外でし始めたので
外へ出て皆で観戦。ボッと火がついたかと思うと白い煙を吐いて落ちていく飛行機が見えた。
呉さんには活動写真のように思えた。落ちたのは全部アメリカの飛行機と思い、皆で落ちるたびに
声を上げて喜んだ。
空中戦が終わると工廠に近づいた敵機は爆弾を投下し始めたので全員防空壕へ戻った。
近くに落ちたので激しく揺れた、格納庫も焼夷弾でやられ燃えた。防空訓練はしていたが
いざ実際の空襲では余り役に立たず、手動ポンプでは燃えさかる炎に立ち向かうことも出来ず、
格納庫は燃えるに任す状態だった。
夕方、安南(今、飛虎将軍廟がある集落)へもどると0戦の残骸が落ちていた。後でわかったことだが
その日、米軍機で落ちたのはグラマン一機のみであとは日本機であった。
戦後二十数年経ち、呉さんのおじさんが、養魚場を作った。
そのころは今のように温度管理などは出来なかったので夜な夜な池を良く見回ったとのこと。
夜の養魚場の堤に白い姿をした飛行兵をおじさんが見たとのこと。近づくと消える。
たびたび続くものなので村の保生大帝にお伺いを建てたところ、
日本兵の霊を静めるために廟を建てるべきとおお告げがあったので今の場所に1971年、
前身の廟を建立した。大半の費用は呉さんのおじさんが負担した。今でも飛虎将軍廟には
その前の廟の写真があるが数坪しかない小さなお堂といった感じです。
当時は近くは田圃ばかりで現在横を通っている同安路ができたときに現在の大きな廟に建て替えた。
折角来たのだからお参りしなさいとのこと。線香を上げ、中華式のお祈りを見よう見まねでしました。
呉さんが「写真を見ましたか」と言われたので「見てません」と言うと、神棚?の杉浦氏の写真を
見せて頂けた。この写真は水戸にお住まいの杉浦氏のお姉さまより頂いたもので全部で4枚ある。
ご神体は中央に大きいの左右に小さいのが一体づつある。集落の人の祝い事に貸し出すことがあるので
3つもあるのだそうだ。もちろん貸し出すのは小さいもの。
表の炉で紙の束を燃やし杉浦氏の冥福を祈った。運ちゃんを待たせてあるので
名残惜しいが呉さんとお別れだ。やさしい語り口で「また、おいでなさい」と言われたので
深く頭を下げてお別れした。周囲は夕刻の茜色に染まった時間。また、行きたいです。