http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/village/01.htm http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/village/ 中国には私たちの血筋である朝鮮族が暮す。 200万名も。
これは私たち誰もが知っている常識だ。
ではそのうち慶尚道出身はどの位で、
彼らはいつどんな理由で800kmもの遠い道へ発ったのだろうか。
また彼らはどんなに住み、山凍り水凍る異郷の地を開拓して、
最も優秀な少数民族として再生することができたのだろうか。
朝鮮族の最初の中国移住の時期は19世紀中頃と見るのが一般的だ。
自ら高句麗人の後孫だと認識している漢族もいて、清初期の頃、明を支援するために出兵して捕虜になった
朝鮮人たちの後孫たちが朴姓を継承して
村を形成している朴家村(彼らの一部は朝鮮族に民族分類されている)もあり、
元の末期に移住した星州李氏の子孫の村も今度の取材過程で発掘されたが、
彼らは既に言語などの民族性を喪失したまま漢族に同化された状態なので、除くことにする。
本格的な満州移民が始まったのは1845年、清と朝鮮が間島など辺境一帯に対する封禁政策を緩和してから、
その後1860〜1870年、咸鏡道一帯に未曽有の自然災害が繰り返され、
飢餓に喘ぐ朝鮮の農民たちが列をなして川を渡るようになる。
このような朝鮮人の間島移住は、清がロシアと結んだアイグン条約と北京条約が原因で、
黒龍江以北とウスリー川以東の地域100万平方キロを喪失し、国境を守るために辺方軍を設置して
封禁政策を解除したことでさらに活発になった。
清はさらに1866 年、豆満江以北の700里、幅45里の地を朝鮮移民たちの独占開墾区域として宣布するなどの
積極的な移民誘引政策を実施した。
これによって豆満江北の間島地域と鴨緑江の北に居住する朝鮮人の人口は、
1904年当時の不完全な統計でも10万名に達するまでになる。
慶尚道民たちの移住はこれより少し遅い19世紀後半に始まった。
日本外務省の'在満朝鮮人概況'によれば、1894年当時、満州地域に居住した朝鮮人6万5千名のうち、
原籍地が慶北である人が1300人、慶南が1200人だった。
もちろん全移住者の90%以上が咸鏡道と平安道人で、清と国境を接したこれらの2地域出身が
当時の移住行列の大部分を占めたが、それでも全移住民の3.84%が慶尚道出身だったということだ。
慶尚道出身の移住者たちの数は1904年、慶北1800人、慶南1700人と、3500人に増えるが、
この時でも既に小規模の自発的移民が大部分であったことが判る。
慶尚道出身者の本格的な満州移民は、1910年の日韓併合に前後する時期であった。
1905年、強制的に乙巳保護条約が締結された後、抗日義兵闘争が燎原の炎の如く燃え拡がったが、
日本の武力によって押えられて国さえ奪われるようになると、他の地域の愛国志士たちと同じく
慶尚道を中心に活動した愛国志士たちも活動舞台を満州に移すようになる。
彼らが草創期に抗日基地にした所は、現在の吉林省柳河県と通化県一帯。
安東出身の石州・李相龍先生も当時、この隊列のリーダーとして 活動した。
彼は1911年2月、柳河県に到着して李始栄、李会栄、李東寧などと共に抗日団体・耕学社を設立する一方、
新興武官学校も建てた。母国の農民たちを募集、荒れ地を開墾しながら壮健な者たちを選んで
軍事教育をさせるなど長期的な独立運動に備えたのだ。
このような抗日志士たちと共に日本の弾圧と経済収奪を避けて移住する人も増えた。
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/village/17.htm "朝鮮人は二鬼子!" 漢族ら恐怖の略奪
日本敗走の後、着た服まで奪われて
藁束かぶった避難民たち追われる
行列では暴行恐れて顔に炭塗り
黒龍江省に暮す朝鮮族の原籍地は慶尚道が大部分だ。
そのうちでも五常市と尚志市周辺は慶尚道出身の朝鮮族の密集度が特に高い。
それでここではよく慶尚道人が苗を植えたという冗談も言われる。
咸鏡道の人々が先に獲得した吉林省や平安道出身者の数が多い遼寧省の地域を脱し、
水と土地、そして故郷が同じ人々が住む所を捜し、内陸へ深く移住した結果だ。
しばらくして、彼は老人二人がいた、と村の中央にいる成ピルオクさん (77)の家に案内した。
朴さんの家に比べれば現代式の屋敷みたいな(?)成さんの家には釜山の亀浦が故郷である成さんと一緒に
全羅南道の潭陽が故郷であるチョン・パンニョさん(82)が韓国から来たという我々を待っていた。
チョンさんは延辺大の副総長を務めたチョン・パンリョン先生(1931〜2001)の姉だと自己紹介した。
チョン・パンリョン先生は'故郷を去って50年'という本を発行し、
故郷である全羅南道潭陽から満州へ移住して経験した家族史を世の中に残し、
記者も今度の取材旅行中にその本を読んだ。おかげで今再びお婆さんの話を聞かせていただく必要がない。
成さんは13歳だった1940年、満州に移住した。
満拓が黒龍江省延寿県の山里を開拓するために釜山の亀浦と金海一帯で募集した
貧しい農民300戸のうちに小作人をしていた彼女の父親が含まれていたのだ。
"日本の奴らが集落を三つ作って人々を分配したんです。木と雑草だけが生い茂る荒野で、
雑草を抜いて種籾を撒いたら、根も生えずどんどん枯れます。 5年の間、凶作で米は全く出来なかったです。"
そんな状況でも、食べるものもお金ももない農民たちは逃げることができなかった。
父親は小作人だった亀浦がまだマシだったと地団太踏んで後悔した。
豆、トウモロコシ、塩など満拓の配給と草の根、木の皮にて延命しながら堪える惨めな生活が続き、
今度は腸チフスが流行し、全住民の3分の1が死んで行った。1945年の事だった。
その渦中に光復を迎え、責任者たちは中国人の服を着て逃げだしてしまった。
朝鮮人を二鬼子(二番目の日本人)と呼んで敵愾心を現わす漢族の復讐が恐ろしかったのだ。
予想どおり、ぼろを着て力無い可哀相な朝鮮農民だけが住む村にも、
朝鮮人を日本人と同一視する漢族土匪たちの略奪が行われた。
彼らは夜中に村に入って来て婦女子たちが着ていた服類まで奪った。
服といっても5年前、彼らが朝鮮から入って来る時に着て来た古ぼけたものだったが、
彼らの暴力と欲望は限りがなかった。
耐え切れなかった人々が一人二人と散り始め、
300人位だけが残るようになると、農民たちは議論のあげく、住む場所を求めて一緒に去ることで合意した。
麻袋を着て、それすらもない人は藁束をかけて、
女達は襲われるのが恐ろしくて顔に炭を塗った化け物みたいな形相をして、
人々は朝陽を経てその年9月1日、河東に到着した。
河東には当時1千戸余りの朝鮮人が満拓が開拓した農場で農業をしていた。
周辺の山里の朝鮮農民たちが河東に集まったのは、同じ血縁者がより多くいる所を尋ねればお互いに意志も通じ、
生活も開けるのではないかという考えからであった。
しかし成さんの家族など、延寿県から群がって来た農民たちが力を合わせた時、河東の朝鮮農民も不安に震えていた。
秋の収穫をしなければならない時期だったが、原野には黄金色に熟した稲がそのまま立っていた。
明日どうなるかも知れない状況で、秋の収穫をする意欲も出せなかったのだ。
土質が良くて水も良い、中国最高の米生産"京畿米も顔色無しだね"
科学農業に早くから目覚めて…精米所で種子技術を提供、契約栽培。
韓国の米価と互角… 種もみ盗もうとした日本人、恥を晒す
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/village/19.htm 自然災害も少なく、人的資源も優秀という長所を民楽は備えている。
農業専門家がいることで分かるように、この里人たちは早くから科学農業に目覚めた。
他の村にはない農民協会という自発的な組職を結成、お互いに技術を交流し、共同で研究を行い、
品質の良い米をより多く生産しようとする努力を怠っていない。
権さんは過去数十年間の気象状況まできちんと記録しているほどだ。
4〜5年前からは農薬や化学肥料を使わない有機農法を導入、他の所と差別化している。
有機農法を取り入れるようになったのには村の精米所が大きな役割をした。
ここでは村の精米所が個人に種と技術を提供し、秋に米を買い取る契約栽培方式の農業が成り立っており、
精米所の影響力がある方だ。
それで中国市場でも環境に優しい農産物への需要が増えるということに気付いた村の精米所が、
農民に有機農法で米作りをすることを要求、新しい農業革命が可能になった。
このような努力の末、民楽米は品質を認められ、
隣にある安家鎮の漢族が作った米よりは一斤(500g)当たり10〜15銭高い。
一般の米価格がおよそ1元余りであることを勘案すれば、差は実に大きい。
農民の科学農業マインドを鼓舞している村の精米所は、全部で5つ。
日本人の投資した精米所が一つあり、残りは皆、漢族が投資した精米所だ。
これらの中では契約栽培した最高品質の米を加工した後、
真空包装して一般の米よりおよそ6倍も高い、
一斤当り6元で市場に出して人気を呼んでいる精米所もある。
米一斤に6元なら、これは殆ど韓国の米価に肉薄する水準だ。
この米は主に北京、上海などの大都市で贈り物用に売られている。
韓国へも輸出される五常(民楽)米は、国際的にも名声を得ており、
去年には日本人の農業専門家がここに来て種もみを盗もうとて見つかり、
恥をかく事もあったと皇甫郷長は誇る。
彼は韓国にこの米を持って行き、韓国の友人たちにご飯を作ってやると、
誰もが'これは間違いなく京畿米'という判定を下していたと言って笑う。
とにかく五常米は彼らの執拗な説明を待つまでもなく、
牡丹江寧安市の 水米、慶安米などと共に中国最高の米という名声を博していることだけは間違いない。
それに今年から中国中央政府が黒龍江省など農業を主要産業とするいくつかの地域に限り、
農業税を廃止して、補助金を与える政策を導入、今後は農業もやるに値するようになったと彼らは付け加える。
あの川が村を開いた
5月、田植えの季節にも氷…毎年、用水確保に奔走
'嫩江'に全てを投資、揚水施設を備え、富農に…
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/village/23.htm チチハルは黒龍江省では省都であるハルピンの次に大きな都市で、嫩江の下流に位置している。
このチチハルの市内には嫩江を間に置いて南北で向かい合いながら
お互いを'南朝鮮'、'北朝鮮'と呼ぶ二つの村がある。
時には激しく競争し、時には暖かく交流したりする二つの村には、
慶尚道出身の朝鮮族とその子孫たちが暮らしている。
面白いのは、ここでも南朝鮮が北朝鮮に比べて人口が多く、経済力も優れているということ。
体育大会をしても大部分は南朝鮮が勝つというのも南北韓の状況と似ている。
永川市が故郷である方書記は、まだ先祖たちの故郷には行って見たことがないと、家の話から始めた。
彼は温陽方氏27世で、朝鮮族としては珍しく系図も納めている。
彼の家は慶尚道出身の中ではとても早い時期に満州へ移住したケースに属する。
清の末期である1910年代に、遼寧省桓仁市には既に彼の家を含め、千戸余りの慶尚道の人々が移住していた。
つまり今では平安道の人々が集中的に集まって住んでいる桓仁市の朝鮮族居住地域も、
実は慶尚道の人々が開拓したということである。
方さん一家は桓仁から黒龍江省甘南県、龍江県等を経てこの村に入って来た。
自発的に移住した方書記一家と違い、大部分の明星村の住民たちは、満拓が組織した開拓団に属し、
北満州らに移住した農民の子孫たちだ。チチハルから遠くない泰来、龍江、甘南などは、
日本が1936〜38年頃、大規模な開拓団を組織した所で、そこからかなり多くの住民が後に明星村に移って来た。
村の開拓当時の話が出たついでに、老人会館を訪ねてもう少し沢山の話を聞く事にした。
朴ドス老人会長(74)など10人余りの老人は、久しぶりに昔の話が出来るというので取材陣を歓迎してくれた。
"あの両班主人が龍江で、また甘南で暮して見て、住むに値する所がなく、
あちこち移住先を探しながらこちらへ来たのです。"
朴会長は李チョンボさん(71)を指差しながら、言葉を続ける。60年、59歳で亡くなった李さんの親・李ヨンキ翁は、
50年、共同墓地と畑がとぎれとぎれにあった明星村の敷地を捜し出した後、甘南から14戸を呼び入れた。
当時、甘南は土地が不毛で油分がなかっただけでなく、教育施設もないなど住むに値する所ではなかった。
李さんらは小屋のような家を建てて住みながら、この地で土地を切り開き始めた。
埋まった墓が多くて、地を掘るだけで骨が出たりする原野を、大まかに掘り起こした後には、
嫩江の水をすくい上げる揚水場を建てた。
しかし政府から借金をして設置した機械が故障して、最初の年は農業が出来ず、
二年目は水害に会って再び農業を台無しにされるなど、村の開拓初期は悪戦苦闘の連続だった。
北緯43度線が通る明星村は、当然寒い地方。その寒さのため経験した先祖の苦労は筆舌に尽くし難いと、
方書記も言い添える。今は地球温暖化のおかげ(?)で、
冬の寒さもかなり和らいだが、その時は零下35度は普通だった。
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/village/09.htm "ここからあそこまでトラックターで家を11軒も潰したんです。あの光景は見応えがありました。
"今思い出しても痛快なのか、李ヨサム村長(55)の声には迫力があふれる。
吉林省 梅河口市 山城鎮 華豊村。2千坪余りになるか。
珍しくも村の南側真ん中に菜園と言うにはとても大きな畑がある。
ここがまさに11軒の家をトラクターで潰して作った畑だ。
この村長は今、まともな家を潰してしまった事情を記者に説明しているところだ。
通常の朝鮮族村と同じく、漢族たちが'家主が家を守ってくれと言って来た'などのいろいろな口実を設けて、
空き家に入って来て暮し始めた。
朝鮮族村が漢族村に比べてきれいで、土地も良いなどのさまざまな環境が優れているため、
どこに行っても朝鮮族村に入って来ようとする漢族は多い。
'このままでは華豊村が漢族の土地になる'と言う危機意識を感じたこの村長は、
たまりかねて2002年、村の住民と一緒に漢族たちに話を持ちかけた後、
彼らが住む家を初めからトラクターで押してしまった。
"どこからでも私たちの街に漢族たちが入って来る。問答無用です。
"漢族が絶対多数である中国でどうしてそんな事が可能なのかと思うが、
その後にもこの村長達には何事もなかった。
彼はその事を韓国人に誇れることが、とても気持ちが良いらしい。
"家は個人所有だが、家がなくなっただけのことで、その土地はまた村の所有になるのです。
そんな家だけ潰してしまえば、問題がすべて解決されるということです。
"私たち一行としてはすっきりとは理解出来ない、初めて聞く論理だが、民族のアイデンティティを守るために
そんな無理な事さえやってのけた里人たちの勇気に自然に痛快な気分になる。
血縁というものはどうにもならない。
記者までも損得抜きで、いつの間にか華豊村の人の味方になってしまう。
この村長の話が続く間、'まったく!' 'ひどい!' 'それで、どうしました?'などの
感嘆詞が記者の口からし全に飛び出してしまう。まるで久し振りに楽しい昔話を聞くような気持ちだ。
新らしく生まれた土地は、議論のあげく老人協会の所有に決まった。
その畑から出る収入は老人協会の暮しに大切に使われている。
急に住む家を奪われてしまった漢族は、その後、この村長と党書記の家の前に箪笥と布団などを積み上げ、
'ここで暮す'とふんばったりしたが、すぐに諦めて村を去った。
このような騒ぎの末、華豊村は純粋な朝鮮族村を固守することができるようになり、
漢族たちはこの村への無断移住をあきらめた。
4年連続の豊作、穀物生産が5000億トン突破―中国
11月17日13時1分配信 Record China
2007年11月16日、農業部は2007年の穀物生産量が5000億トンを突破、2000年
以来最高の水準になると発表した。農業部によると今年は4年連続となる豊
作が見込まれるという。特に米・小麦は収穫量だけでなく、品質の改善も進
んでいる。
主要作物以外でも各種農畜産物の生産拡大が進められている。秋冬野菜の耕
作面積は約870万ヘクタールと前年比約17万ヘクタールの増加となった。養豚
では繁殖用の雌豚への補助金制作が実施され、生産量は回復しつつある。
【 その他の写真 】
近年、豚肉・食用油を中心に高騰が続いている食料価格だが、豊作により
物価の安定、下落が期待される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071117-00000005-rcdc-cn
中国「世界第2の大国」として認知!民間調査による大国ランキング―フラン
ス
11月14日16時7分配信
2007年10月、フランスのハリスインタラクティブ社はドイツ・フランス・
スペイン・イタリア・イギリス・アメリカで民間調査を実施、世界の大国
ランキングを策定したところ、中国がアメリカに次ぐ第2位にランクインし
た。
同調査はフランスのテレビ局フランス24とアメリカ紙インターナショナル
・ヘラルド・トリビューンの依頼によるもの。各国の16歳から64歳までの
6645人の回答を集めた。ほとんどの回答者が世界最強の国家としてアメリ
カを挙げた。
意外だったのはアメリカに次ぐ第2位に中国の名が挙げられたこと。フラ
ンスで93%、アメリカで90%、ドイツとイギリスで87%と大多数の回答者
が中国を2位に挙げている。3位はロシア、4位はイギリスとなっている。
(翻訳・編集/KT)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071114-00000014-rcdc-cn
4年連続の豊作、穀物生産が5000億トン突破―中国
11月17日13時1分配信 Record China
2007年11月16日、農業部は2007年の穀物生産量が5000億トンを突破、2000年
以来最高の水準になると発表した。農業部によると今年は4年連続となる豊
作が見込まれるという。特に米・小麦は収穫量だけでなく、品質の改善も進
んでいる。
主要作物以外でも各種農畜産物の生産拡大が進められている。秋冬野菜の耕
作面積は約870万ヘクタールと前年比約17万ヘクタールの増加となった。養豚
では繁殖用の雌豚への補助金制作が実施され、生産量は回復しつつある。
【 その他の写真 】
近年、豚肉・食用油を中心に高騰が続いている食料価格だが、豊作により
物価の安定、下落が期待される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071117-00000005-rcdc-cn
中国の資源獲得外交が成功、年100万ガロンの原油輸入に合意―ベネズエラ
11月17日12時1分配信 Record China
2007年11月16日、ベネズエラは中国とのエネルギー領域の共同計画協議に合
意した。計画では2010年に年50万ガロン、2012年には100万ガロンの原油を
中国に輸出するという。
ベネズエラの石油相・石油公社総裁のラファエル・ラミレス氏によると、
中国とベネズエラは合資により運輸企業を設立、仲介業者を通さずに原油
を直接中国にまで輸送する計画だという。また、中国がベネズエラに石油
精製工場を建設する計画も持ち上がっている。【 その他の写真 】
今回の協議では原油輸出以外に、中国石油集団(ペドロチャイナ)とベネ
ズエラ企業の合資による石油開発企業の設立、採掘技術の供与も合意され
た。また、両国は共同で60億ドル(約6660億円)規模のファンドを設立、
ベネズエラ国内への投資を実施するという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071117-00000004-rcdc-cn
朝鮮の民間療法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%B0%91%E9%96%93%E7%99%82%E6%B3%95 6・7年経った洗濯棒の両端を削って焼き煎じて飲む(洗濯棒に霊的な信仰がある)
十二・三歳の童の小便を服する
胎児を野菜と共に煮込み食べる(儒教文化の影響)
人胎(胎盤)の血を竹刀で切ってごま油と煮混ぜて食べる
人胎を丸薬をし丸呑みする
長男の胎盤を煎じて三回飲む(胎盤食は大陸では現在も行われている)
人肉のかゆを食べる(凌遅刑に処せられた罪人の死体が販売されていた)
頭上を焼く(灸の一種である)
美人の経水を飲む(現代の美人とは価値基準が違うので注意が必要である)
犬の糞水を1日二三回服用
農家にて永年使用せし小便溜の桶を煎じて飲ませる(排泄物に神秘性を感じる風潮の影響)
解熱剤として野人乾水(大便を水で溶いた物)を飲用する(李氏朝鮮時代・中宗)
竹筒に焼酒(焼酎)を入れ、注ぎ口を蝋で塞ぎ、便壺の中で半年間漬け込む。
便壺から取り出し竹筒をよく洗い、中の酒を飲用に用いる。半年以上の服用が理想的。
小便を肌に塗り込む、特に小児の小便を重用する(小児の小便はきれいであると考えられていた)
カイコの糞を食べる
馬糞を食べる(馬の精力にあやかった呪術的意味合いが濃い)
参考資料 今村鞆『朝鮮風俗集』斯道舘 その他
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/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ _/ ○ ○ \_ / アジア文明の母体は古代韓国ニダ
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r──| l \
/ ̄ ̄ ̄ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、.
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【韓国歴史】 古代韓国文明がアジア文明の母体〜日・中の源流は韓国人〜『アジア理想主義』[11/17]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1195475761/
「あなたは中国人か?日本人か?」TV局キャスターがブログで告発、NYが呆れるマナーの悪さは…[11/19]
2007年11月18日、北京テレビのキャスターが、ニューヨーク旅行中に出会った中国人旅行客のマナーの
悪さを自身のブログに写真付で掲載し、話題になっている。
現場はニューヨーク市のウォール街。ここには有名な雄牛のブロンズ像がある。金運上昇の象徴とされる
この雄牛像を見たある中国人旅行グループは大はしゃぎ、男女問わずに我先にと牛の背に乗って記念写真
を撮り、周囲の人々からあきれられていたという。
おまけに「あなたは中国人か?日本人か?」との問いかけに、堂々と「中国人だ!」と答え、悪びれる様子も
なかったらしい。その他の旅行客は雄牛像に近づくことさえできず、遠巻きにこの騒ぎを見ていることしかでき
なかったという。近くの清掃作業員は、この場所で働いて2年になるが、牛の背に乗る旅行客を見たのは初め
てだ、と話していたそうだ。(翻訳・編集/BA)
http://www.recordchina.co.jp/group/g12970.html
台湾断交に見る韓国の非道
http://members.at.infoseek.co.jp/konrot/rekisi26.htm かつて台湾と韓国は極めて友好的な国家であった(現状からは考えることすら出来ないが)。
台湾も韓国も「反共」という共通理念を持ち、日本と韓国の間のような「支配・被支配」の関係が無かったことも起因しているだろう。
ところが、現在に至っての台韓関係は「日韓」とは比べ者にならないほどの酷さである。
即ち、韓国人の台湾に対する脅迫まがいの行為やいじめなど、
およそ近代国家としては考えられないほどの非礼と犯罪的行為を韓国は台湾に致してきたのである。
1972年、日本は中国との国交正常化を図るため台湾との断交を行った。
この時、「旧友への裏切り行為だ」と当時の韓国メディアは一斉に日本を批判した。
ところが、その韓国自身も1992年に中韓国交樹立を図るに際し、日本同様台湾との断交を行ったのである。
この中韓国交樹立の直前に台湾政府も韓国が台湾と断絶するのではないかと察し、
韓国政府と幾度となく交渉を行ってきたが韓国側の答えは「断交などあり得ない」であった。
ちなみに、日本は台湾との断交に際しても政府間レベルでの協議を続け、
台湾側と断交後の政治的交流が途絶されても民間交流は続けるとの約束を行い、実際にその約束を両国は履行してきた。
これに対し、韓国は全くの「不意打ち」「だまし討ち」で台湾との断交に踏み切り、
このときの韓国メディアの論調は「台湾を捨て、中国と友好関係を結ぶことは我が国(韓国)に絶大なる利益をもたらす」
「我が国(韓国)の見事な作戦により台湾にその意図を察知されずに断交が行われた」等、普通の近代国家なら恥ずかしくてとても書けないような恥知らずな記事を誇らしげに掲載していたのである。
台湾の老害・李登輝は韓国の金大中先生の生涯を見習えよ
http://www.youtube.com/watch?v=yJK2jnW6jmQ 若い時の金大中先生は恰好好いな。魅力あふれる青年政治家だったんだな。
http://www.youtube.com/watch?v=h4veI9fqbeQ&feature=related 不屈の精神をもった民主化の闘士、ノーベル平和賞受賞者、初の南北首脳会談の実現、民主政権としての大統領、
滞在中の日本から拉致殺害されそうになった金大中事件と、国葬の大きさからしても、
いかに金大中という政治家が世界的にも、尊敬されているかということだと思う。
私が金大中という政治家の偉大さを初めて知ったのは、95年に政界復帰して、その年に、News Weekで特集してあった記事を読んだことがはじめてだった。
当時まだ学生で、韓国の政治情勢がいかに複雑かを知らず、軍事独裁政権の韓国で、民主化を求めて、政治活動を続けたことで、
二度も暗殺されそうになり、また死刑判決を受けて投獄され、それでもなお、不屈の精神で戻ってきた金大中先生。
隣国に、こんなすごい政治家がいたんだなと、News Weekの特集をよんで、大いに衝撃を受けたものだ。
ノーベル平和賞の受賞にあたっては、金でかったんだろとか、南北首脳会談を過剰評価すべきでないとか、いろんな中傷がつきまとったが、
私は、金大中という人は、まさにノーベル平和賞にふさわしい人だったと思う。
軍事独裁国家の韓国を、民主主義のリーダーとして近代化に導き、そしてアジア有数の経済大国への道筋をつけたのは彼だ。
軍事独裁政権の当時、東京のパレスホテルでKCIA(韓国の諜報部隊)に拉致され、殺害されそうになった金大中先生は、
海にほうりこまれて、殺されそうになる寸前で、アメリカと、日本の自衛隊の連携で一命をとりとめる。
そのときに金大中先生が日本語で残した有名な言葉が、
「暗闇の中でもなお、明日の光を信じ、 地獄の中でもなお、神の存在を疑わない」である。なんという崇高な精神の持つ主だろうか。
そのような偉人だからこそ、韓国を軍事独裁国家から、民主主義国家へと移行するリーダーとなりえたのだろう。