江戸前の世界 〜 仕込みにこだわる職人列伝

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21名無し@アガリドゾー(゚∀゚)ノ旦
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/fukagawa.htm
1952年(昭和27年)2月21日、川俣軍司は、茨城県鹿島郡波崎(はさき)町太田に生まれた。
波崎は、西は利根川、東は太平洋に挟まれた細長い町である。県境の利根川を渡ると千葉県の銚子市がある。
父親は東京の下町育ちだったが、戦後、ここで漁師になった。蜆(しじみ)採り専門だった。
軍司には、兄と姉2人と弟がいたが、長姉が幼児のとき死亡している。軍司が生まれた頃、一家は経済的に
最悪であり、母乳が足りないため、重湯で育てられた
1958年(昭和33年)4月、町立太田小学校に入学。軍司の成績は5段階評価で「2」が多く、
「3」が少しだった。授業中はほとんど発言せず、話しかけられても笑うだけの気の弱い児童で、
友達が少なかった
1964年(昭和39年)4月、波崎第3中学校に入学。軍司はここでも目立たない生徒だった。
クラブ活動は園芸部で温和しい。あだ名は「ニタリスト」で、中2のとき先生にニタニタ笑いを
注意されて、教室でいつまでもポロポロと涙をこぼした
1967年(昭和42年)3月、中学校を卒業。この頃の高校進学率は90%を超えていて、
波崎第3中学校の卒業生140人のうち、ほとんどが新設の波崎高校へ進み、就職するのは10人前後だった。
軍司は波崎高校には、なんとか入れそうなので、父親が進学を勧めたが、軍司は「父ちゃんが
こんなに困っているのに、自分だけ上の学校に行くわけにはいがねぇ」と言って、進学しなかった。
「俺は学問するより、手に職をつけたい。やっぱり東京へ出て、板前になる」
3月末、軍司は銚子大橋をバスで渡り、銚子駅から東京行きの集団就職列車に乗った。
軍司が住み込みで働くことになった店は築地6丁目にある、すし店だった。
ここは本店だが、他に銀座に支店があった。
名が珍しいせいもあり、もっぱら「軍司」「軍ちゃん」と呼ばれ、
本人は「はい」「はい」と素直だった。
軍司は目立って器用ではなかったが、手先はまあまあだった。
すし職人が一人前になるには、修行期間が必要だった。[洗いもの ]に半年、[ 出前、河岸上げ ]に
半年後から1年、1年半後から[ごはん炊き ]、4年目から[ 花板 ]の助手として
[下板 ]として、[ のり巻き ]をやらせてもらい、早ければ5年目から[花板 ]となる。
1970年(昭和45年)夏、軍司は酔って近所の「築地大映」のスチール写真展示の
ガラスを割り築地署に連行された。理由は「市川雷蔵が気に入らない」というものだった。
10月、軍司は就職して3年半で、ようやく[のり巻き ]の段階に入り[ 下板 ]として、
休日以外は休まずに、真面目に働いていたが、半年前に、板前見習いとして住み込みで
働くようになった同い年の後輩と折り合いが悪く、店を辞めてしまった。この後輩は
少年院を仮退院中の身であった。
次に就職したのは、新聞広告を見て応募した、江戸川区小岩のすし店だった。
軍司はここでも真面目に働いたが、3ヶ月後に解雇させられた。それは、軍司が刺青を
入れたからであった。
店の板前に、背中に刺青を入れた者がいて、軍司は「兄貴」と呼んで慕って、羨ましくて
しかたなかった。「兄貴」と呼ばれた板前は刺青を入れるのを止めさせようとしたが、
軍司がどうしても彫りたいと言ってきかない。築地の店で働いていたとき、少年院帰りが
刺青を入れていて、ヤクザっぽく振る舞って、軍司をいじめた。そのことがあったのだろう。
軍司は念願かなって、腕に刺青を入れることができた。
解雇の理由は、刺青だけではなく、客に勧められた酒で酔った挙句、客にからみ、
それで刺青をちらつかせたりしたからであった。
その後、東京周辺のすし店を転々として、短いときは数日で辞めさせられた。
1971年(昭和46年)2月、19歳になった軍司は、波崎町の実家に帰り、
銚子市内のすし店で働きながら、自動車教習所に通い、4月に普通乗用車免許を取得した