934 :
待った名無しさん:2007/06/03(日) 23:39:49
時代ごとに名選手、名力士っているんだと思うよ。
例えば沢村栄治が今の球界で10勝できなかったとしても
彼が創世期のプロ野球で超一流選手だったことに変わりない。
相撲も同じでそれぞれの時代がそれぞれの第一人者を
決めるのであって、他の時代の第一人者と比べることは
あまり意味がないと思うよ。
昭和50年代は北の湖が第一人者であり、
60年代は千代の富士が第一人者であって
平成は貴乃花、朝青龍だった。
それ以上でも以下でもないと思う。
千代の富士は小錦を途中からカモにしていましたが、何か?
失礼。ここは輪湖時代について語る場でした。
936 :
待った名無しさん:2007/06/03(日) 23:43:51
>>928 まぁ晩年は対若乃花さえ攻め切れなくてスタミナ切れしてたからガップリじゃ勝ち目は薄いだろうな。
でもそれがどうしたの?別にガップリの四つ相撲だけで輪湖時代を評価してるわけじゃないし。
色々な名脇役も居て今なんかよりも様々な攻防があったからこそ皆評価してるわけで。
938 :
待った名無しさん:2007/06/03(日) 23:47:08
今の時代は正直評価していない、曙貴丸時代には名脇役も多く非常に
見ごたえがある相撲が多かった。曙と貴乃花の相撲、貴乃花と武蔵丸の
相撲にかつてなかった攻防があり余りのレベルの高さに呆然とする
好角家も多かった。
939 :
若島津ファン元前頭一 ◆JBztyHjzFI :2007/06/03(日) 23:48:31
>>929 晩年であるが、北の湖と小錦・北尾が実現。
小錦には一発でもっていかれ、北尾には寄りきれず投げられてしまった。
大型力士との戦いはまともにはできないかもしれない。
しかし、高見山に北の湖は動きで翻弄していたり、がっぷりで転がすのもあった。
高見山は充分な四つにはなってないけど
940 :
待った名無しさん:2007/06/03(日) 23:49:47
千代の富士は小錦を正面から寄り切ったりしてたのか?
ハワイ勢を正面から攻めることのできる力士は存在しない、貴乃花は
あくまでも例外。貴乃花の場合は自らの命と引き換えに地獄の釜の上を
常に歩く覚悟で臨んでいた、毎日が命のやり取りでそれだけの覚悟があったから
こそハワイ勢に対抗できた。千代の富士は基本的に圧力をかわすことで
小錦に勝っていただけ、貴乃花とはとても同列に語れない。
>>939 北の湖は「輪湖時代」限定で語ってあげないとさすがにかわいそう。
942 :
待った名無しさん:2007/06/03(日) 23:51:24
>>931 あと55年春の栃赤城も大関挑戦と言われていたな
(2ケタで昇進と場所前の記事→6-9で失敗)
本当に若三杉・魁傑の同時大関昇進以降は大関にチャレンジする力士すら少なかった
943 :
待った名無しさん:2007/06/03(日) 23:51:47
なんかおかしなのが紛れてきたけどスルーしときましょ。
944 :
若島津ファン元前頭一 ◆JBztyHjzFI :2007/06/03(日) 23:53:02
輪湖時代の千代の富士と小錦が対戦したら、肩を脱白していただろうね。
この時代の良さは、トップだけではなく脇役の充実していた時代。
その脇役にいかに取りこぼさないのか重要だった。
苦手力士を乗り越えれば最終決戦みたいな感じだったし。
945 :
待った名無しさん:2007/06/03(日) 23:53:48
輪島と北の湖は輪湖時代では最強の力士、それでいいだろう。曙貴丸時代では
通用しない、それは周知の事実。それは曙貴丸時代が高レベルであり
強豪が揃っていたのであり輪島や北の湖が弱いわけではない、実際朝青龍や
白鵬には通用しそうだしな。
946 :
若島津ファン元前頭一 ◆JBztyHjzFI :2007/06/03(日) 23:58:51
>>942 栃赤城もありましたね。平幕で10勝だったために場合によってはというような
記憶だったと思います。
でも、ここがピークで足首とかおかしくなって残念な結果に。
入れ替わるように隆の里と千代の富士が一気に出てきた。
輪湖時代をリアルタイムで経験されている方に伺いたいのですが、
隆の里や千代の富士は現役力士で例えると、どの程度の期待度だったのですか?
私が知っている中で大関以上になった力士のうち、霧島を除く全員が
少なくとも幕下時代から末は大関、横綱という大器とみなされていたように感じるのですが、
隆の里や千代の富士もそんな感じだったのでしょうか?
途中まで苦しんでいた両力士が何かきっかけをつかんで、一気に強くなった(霧島型)
ようにも見えるのですが、輪湖時代の両力士についての感想をお願いします。
948 :
947:2007/06/04(月) 00:06:27
ちなみに私がリアルタイムで知っている
大関昇進は若島津が最初、
横綱昇進は隆の里が最初です。
949 :
若島津ファン元前頭一 ◆JBztyHjzFI :2007/06/04(月) 00:13:23
隆の里
応援するようになったのは昭和56年頃
それまでは、攻めが遅いし技もなかった。そこまで期待されてなかったような
気がする。大関・横綱と当たっても、期待をしてなかった。
(またがっぷりなられて負けるんでしょという目で見てた)
>>947 あなたの言う通り、二人とも「化けた」タイプ。
隆の里は昔から稽古場横綱と言われていて、地力は認められていたのだが、
立ち合いの踏み込みの甘さと腰高と糖尿病のため、三役は勤まっても大関以上は・・・と見られていた。
千代の富士は根性・度胸と運動神経の良さでは20歳で入幕した頃から注目されていた。
だが軽量とやたらに振り回したがる雑な相撲と脱臼癖のおかげで「いいものは持っているけど過度の期待は禁物」っていう扱われ方だったな。
面白いことに二人とも本格的なブレイクは昭和55年名古屋場所と見事に一致している。
951 :
待った名無しさん:2007/06/04(月) 00:20:10
>>947 >途中まで苦しんでいた両力士が何かきっかけをつかんで、一気に強くなった
それでFAだと思うけど千代に関していえば54年3月の播竜山戦で右肩までも脱臼したことが
小さい身体に見合わない相撲を改める、
つまり上位に昇っていく決定的なターニング・ポイントだったんじゃないかと。
それまでは派手に投げたり吊ったりして人気はあったけどとても上位に上がっていく器ではなかった。
隆の里も平幕中位をウロウロしてて糖尿で体重も増えず
こちらも大関候補として期待されては居なかったと思う。
でもその糖尿を克服して行く過程でウェイト・トレを取り入れ
身体も逞しくなり千代の天敵ということからきっかけを掴んでいった印象かな。
952 :
待った名無しさん:2007/06/04(月) 00:31:35
>>947 隆の里は若いときから稽古場では滅法強いと言われていたよ。
若乃花Uが昭和53年横綱になったとき『俺のライバルは今でも隆の里だ』と言っていた。
本場所では北の湖、輪島にカモにされていたので、この言葉信じられなかったけどw
あと昭和55年ごろ大相撲ダイジェストに旭国が来たとき、『隆の里は右四つになったら
メチャクチャ強い、横綱並みだ』とも言っていた。
千代の富士に関しては北の湖の述懐を週刊誌で読んだことがあるけど、若い下のころは
「とにかく足腰のバネが抜群でしぶとい」という印象だったそうだ。
北の湖が千代の富士のことを力をつけてきたな感じたのは昭和56年夏の相星決戦からだそうだ。
千代の富士初優勝のときはそれほど強いとは感じなかったと平成4年1月放送のNHKBSの特番で言っていた。
953 :
947:2007/06/04(月) 00:36:42
>>949-952 さすがに皆様、詳しいですね。
こういう印象というものは、リアルタイムで見ていないと分からないものなので、ありがたいです。
お礼は早めにと思ったので、ここでレスを入れますが、
まだ何かイメージの湧く情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、
レスをお待ちしております。
954 :
待った名無しさん:2007/06/04(月) 00:44:56
隆の里は一緒に入門して早々と出世した
一つ年下の若乃花が衰えるのと相反して
どんどん力を付けていった印象。
若乃花が輪湖のライバルだったのに対し
隆の里は千代の富士のライバルだね。
>>952 確かに隆の里の若い頃は本場所の相撲はぎこちなかったね。
俺も若乃花Uの言葉は聞いたことあるが、同期生で入門して自分だけが出世して情けで言っているのかと思った。
見る側にとって951さんが言っているように千代の富士キラーとして頭角を現してきた56年頃から注目され出した。
筋トレで凄い筋肉を付け、体重も150kgを超えてガップリ四つで千代の富士を再三苦しめたからね。
隆の里が衰えたあと、北天佑が千代の富士の対抗馬になると思ったけど、期待外れで千代の富士の独走になった。
956 :
待った名無しさん:2007/06/04(月) 00:59:55
今は全然言われないけど、58年名古屋〜59年初まで千代の富士と隆の里は
4場所連続千秋楽結びで相星決戦をやった。
向坂アナウンサーが「千隆時代と言いましょうか、千代隆時代と言いましょうか」
と言ったのを思い出すw
北若時代同様幻ですな。
でも隆の里の左上手、右で差し手を返すという型は完璧だったね。
もの凄い怪力で右は廻しを引かなくても相手を吊り上げることも出来た。
ガキの頃に必死で見てたけど、前後の文脈もわからないまま食い入るように
見てたこの時代はおれにとって宝。
北の湖は気の毒だな、ゲストが来るたびに稀に負けた相撲ばかり放映されて。
同時代で見てるからこそ、「あの北の湖が〜」って物語として印象深いわけ
で。
確かに、あの時代は北の湖にたった一回勝ったことが勲章だっただろうからね。
大徹が初めて向正面に座ったときに、
「思い出の一番は?」と聞かれて、千代の富士に勝った一番を挙げたとき、
時代が変わった(そういう力士が親方になる時代になった)のを感じた。
960 :
待った名無しさん:2007/06/04(月) 18:17:05
千代の富士ー隆の里戦は立合いが勝負だった。
隆の里が頭を下げ左前ミツを取った場合、殆ど隆の里の勝ちだった。
例え途中で上手を切られても、身体を密着して取り吊り上げた。
逆に隆の里が頭を上げ左に大きく上手を取りに行くと千代の富士に懐に飛び込まれ、
左前ミツを引き付けられ、上手も下手も取れないで一方的に負けていた。
このパターンは57年九州場所から最後の対戦の60年名古屋場所まで続いた。
>>957 59年初場所、千代の富士(2敗)ー隆の里(2敗)の相星決戦。、
隆の里は立ち合い頭から当たり左上手を浅く取り、右も差して充分、
千代の富士に廻しを与えない。千代の富士は左から何とかおっつけ、
上手を手を掛けようとしたその瞬間、隆の里は上手一本、下手は
引かずにグイと吊り上げ高々と正面に吊り出して圧勝した。
勝った隆の里の談話「先場所負けたので何としても雪辱したかった。」
負けた千代の富士の談話「凄い怪力だ。さすがポパイだね(完敗して苦笑い)」
いつまでが輪湖時代?
例のテキストだと昭和55年九州場所になっている
いわゆるウルフフィーバーの直前で輪島最後の優勝
963 :
待った名無しさん:2007/06/05(火) 01:07:59
三杉磯も一回だけ北の湖に勝ったな
あと飛騨乃花なんかも確かそう
北の湖に一回だけ勝った力士
龍虎(49.9) 大峩(50.7) 三杉磯(54.9) 蔵玉錦(56.9) 飛騨乃花(56.11)
若の富士(57.5) 騏ノ嵐(57.9) 陣岳(59.9) 小錦(59.11) 北尾(59.11) 多賀竜(60.1)
参考
板井(不戦勝のみ1, 59.9)
965 :
待った名無しさん:2007/06/05(火) 08:57:40
>>962 昭和55年九州場所の輪島優勝は北の湖の援護射撃が大きカター
966 :
待った名無しさん:2007/06/05(火) 09:14:14
>>965 昭和55年九州場所千秋楽
優勝決定の一番(輪島14回目の優勝を北の湖がプレゼント)
輪島(押し倒し)貴ノ花
決定戦もあり得るということで期待が持たれた結びまでの 2番の相撲。
まずは輪島の登場。
貴ノ花は突っ張って右へ飛んだ。
輪島は鋭い踏み込みで対処、貴ノ花の動きについていき右筈左挟みつけで
行司溜まりに吹っ飛ばす圧勝である。
北の湖(寄り切り)若乃花
一方、若乃花は北の湖と対戦、左四つで若乃花が右上手投げを打つと北の湖が
残して上手を取る。但しこれは一重。
暫し動かず、北の湖が寄ると若乃花は下手投げで堪えて動きが止まる。
さらに北の湖が向正面に寄れば若乃花は下手投げで応酬したが、この瞬間北の湖は
一重だった上手を取り直して充分。
若乃花は遂に起きてしまった。
北の湖は胸を合わせて正面に寄り進み、寄り切った。
若乃花は死闘に敗れ 2敗、輪島の優勝が決まった。
967 :
待った名無しさん:2007/06/05(火) 17:42:45
>>966 当時輪島ファンだった俺は北の湖の援護射撃が嬉しかった。
輪島は当時下位の力士には滅法強く安定感があったが、横綱陣に弱く、
三重ノ海に8連敗、北の湖に5連敗、若乃花に5連敗だった。
北の湖には13日目勝って連敗を止めたが、14日目若乃花戦は同じパターンで負けた。
千秋楽、この日の輪島の気合は凄まじく、仮に決定戦があっても勝ったと思うが、
一抹の不安があったので、本割で北の湖が勝ったときは彼に本当に感謝したよw
このスレも1000に近くなったので、ここで話題に載っていない増位山太志郎について
昭和42年初場所初土俵で、北の湖と同期生。三保ヶ関部屋。父も元大関増位山大志郎。
昭和54年11月関脇で11勝4敗、翌55年初場所12勝3敗で大関に昇進、本人いわく
「最初で最後」のワンチャンスを見事ものにして、史上初の親子大関が実現した。
しかし大関昇進後は、終盤まで優勝を争う大きな活躍は一度もなく最高の成績でも
10勝止まりに終わり、大関在位わずか7場所で引退。
得意は右で廻しを取って引きづるような上手投げ・左右の内掛け・内無双・肩透かしを
始めとする多彩な技を繰り出した。
多彩な趣味の持主で絵は二科展入選の常連、レコードも数枚リリースし、ヒット作の
「そんな夕子にほれました」は130万枚の大ヒットを記録した。
969 :
待った名無しさん:2007/06/05(火) 23:39:28
増位山といえば伝家の宝刀内掛けだなw
あと相撲より歌が上手かったこと
「そんな女のひとりごと〜♪」
輪島と若乃花Uにはなかなか勝てなかったな
この人こそ、最弱大関の最たる存在だと思うね。
輪湖時代の汚点とも言える。
輪湖も曙貴も横綱のレベルはともに高いけど、
大関のレベルは曙貴>輪湖であるのは確かだね。
972 :
待った名無しさん:2007/06/06(水) 00:02:06
輪島の晩年は結構増位山にひっくり返されてなかったっけ?
あと三重の海昇進後1年余りの4横綱時代も直接対決で殆ど勝てなくなってしまった
973 :
待った名無しさん:2007/06/06(水) 00:05:31
北の湖が横綱になってしばらく使ってた化粧まわしは
師匠の先代増位山が横綱になったら巻こうとしていたものなんだよね
974 :
待った名無しさん:2007/06/06(水) 00:34:40
>>972 輪島と増位山は28ー7で輪島が断然勝ち越しているが、晩年のS55年に増位山が3勝している。
特に55年初の外掛けと秋の内掛けは、それまで食っていなかったのに食ってしまったw
輪島は増位山戦は自ら右四つに行き、吊り上げて勝つのが多かった。
特に50年秋から54年九州まで17連勝してカモにしていた。
975 :
待った名無しさん:2007/06/06(水) 00:45:28
輪島が一番多く吊り出しで勝った力士が多分増位山。
次が貴ノ花かな。
976 :
待った名無しさん:2007/06/06(水) 01:14:56
この時代は吊り出しってけっこう多かったよね。
ちなみに例示の増位山は良く吊られていたような希ガス。
今は吊られて両足バタバタさせるシーンなんて全然見なくなった…
つり出しといえば、蜂矢
978 :
待った名無しさん:2007/06/06(水) 02:06:04
>>971 大関はともかく、
北の湖や輪島と電波や曙さんと一緒にしないでください
大迷惑です。
979 :
待った名無しさん:2007/06/06(水) 09:35:54
増位山は若乃花Uにも3勝22敗と分が悪かった。
若三杉が大関になった昭和52年春から17連敗し、引退するまで勝てなかった。
つまり大関取りの55年初まで輪島、若乃花Uに共に17連敗していたわけだ。
増位山が引退のとき『印象に残っているのは55年初の輪島を外掛けで破った相撲』
と言っていたが、優勝もしていないし、これしか殊勲の星はないような気がする。
大鵬、北の冨士、輪島、北の湖と思い出の相撲が沢山ある貴ノ花とは段違いだな。
あと、増位山は昭和52年の第1回大相撲トーナメントの1回戦で北の湖と当たっている。
左四つ増位山が上手を取り頭を付けて寄ったが、土俵際北の湖に右上手を取られ、
高々と吊り出された。地力の違いを感じたねw
北の湖とは同部屋だったが、二人は申し合いの稽古は殆どしなかったらしい。
当時の三保ヶ関親方も二人の性格や地力の違いを理解して、無理なことは言わなかったようだ。
981 :
待った名無しさん:2007/06/06(水) 10:08:27
増位山といえば吊りのえじき。
上記にあるように輪島に吊られまくってたし
貴ノ花にも同様だった。
今思い返しても増位山が大関というのはピンとこないなぁ。
非力で軽量の増位山が吊り出しの標的になってたのはしょうがないね
同じ軽量でも貴ノ花は力が強かったから吊ったり吊られたりしてたけど
増位山は前に出る圧力も弱かったしまさか大関になるとは思わなかったけど
内がけのキレは本物だったな。あと肩透かしや切り返しとかね
増位山の弟子は肥後ノ海、濱ノ嶋、白之波、里山と技が切れる力士が多いのはそのせい?
しかし「吊りのえじき」と聞くと、アフリカで肉食獣のえじきになるレイヨウのことを思い浮かべて、可愛くなっちゃうね。