春日王のお尻って、

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1待った名無しさん
2待った名無しさん:2005/04/26(火) 19:50:42
”プニッ”っと突付いてみたい
3待った名無しさん:2005/04/26(火) 20:04:12
チョンは市ね
4待った名無しさん:2005/04/26(火) 20:23:12
itchiichimitenaishi
5待った名無しさん:2005/04/27(水) 00:12:04
>>3
日帝鬼子は死ね
6待った名無しさん:2005/04/27(水) 00:17:26
いつだったか春日王の廻しが揺るんで締めなおしていたとき
廻しがガバガバになりすぎていてお尻の割れ目がTVに映ってしまったことがあった。
7待った名無しさん:2005/04/27(水) 00:19:00
>>6
不逞鮮人は死ね
日帝鬼子ありがとう
日本は帝國
朝鮮は大清国属
8待った名無しさん:2005/04/27(水) 00:20:30
訂正>>5不逞鮮人死ね
>>6スマン
9待った名無しさん:2005/04/27(水) 00:21:41
不逞鮮人のケツの話
>>●ナムムの家 第69号 (2002/4) 「日本から謝罪を受けるまで・・・死んでもデモするぞ、死んでも」
ttp://yeoseong.korea-htr.com/nanumu/n70.htm
そこで出会った朴玉蓮(パク・オンニョン)ハルモニは、過ぎた10年の歳月をこのように語った。
 はじめてハルモニに出会った時、たずねもしないのに、すぐに「私はラバウルにいたのよ」と、話をはじめた。
おそらく証言を聞きにきたものとみなしたとようだ。ハルモニは、22歳で無理やりに「慰安婦」として連れて行かれ、地獄のような4年を過ごした。
 「あの時、16歳から30歳まで、みんな連行され、ソウル駅で娘達がいらいらしていたが、泣き声がソウル駅から外に漏れ聞こえた。」
 そのようにして連れて行かれたところが、南太平洋のラバウル。軍人を少ないときで日に20人、多い日は30人を超えた。いつも下は痛く、
ぼってりと腫れていた。やっとここを抜け出した。しばらくして、故国に帰る途中、船が難破し、死ぬ思いをしながらも峠を越えて、
また、ラバウルに引き返した。今でもあの時、死の峠をともに越えた友だち懐かしい。
そのように苦労して、夢に見た故国に奇跡的に生きて帰り着いたのは1944年。オモニにさえ何も言えなかった。
●元日本軍「慰安婦」のハルモニたち(ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/3716/nanum_10/nanum_11/nanum_40.html
朴玉蓮ハルモニ(パク=オンリョン)83歳−(2001年1月現在)
●太平洋戦争地図、略年表(ttp://www.meigaku.ac.jp/kokusai/png/23.html
1942年1月23日 日本陸軍南海支隊がラバウルに上陸・占領

1918年生まれの朴玉蓮さんは、22歳(1940年)のときソウルからラバウルに行ったらしいんだけど、
日本軍がラバウルに上陸したのは1942年1月23日なんだよね。
朴玉蓮さんは連行された1940年からラバウルに上陸した1942年1月23日の間どこで何してたんだ?
ついでにいうと、船が難破した場所ってどこだ?峠を越えてラバウルに引き返したとあるけど、ラバウルのあるニューブリテン島
付近で難破したのかな?

10待った名無しさん:2005/04/27(水) 00:23:17
日本軍のラバウル上陸1942年・・朴さんがラバウルに行ったのは1941年
朴さんは夫によって紹介所にに売られた
 
1919年全羅北道茂朱にて生まれる。
16歳のとき貧しい家に嫁に行き、逃げてきた後、18歳のとき再婚し、夫がひどい虐待をし、息子を奪い、紹介所に彼女を売ってしまった。
1941年、22歳のとき南太平洋最大の激戦地であったパプア・ニューギニアのラバウルにて日本軍「性奴隷」生活が始まった。
ttp://www.galleryfish.com/exhibition/2004_08_11_jp.htm
(ページの下のほうに載っている 矢嶋宰氏の紹介のあと )
<吉田清治が自身の慰安婦狩り証言について、「フィクション」だったと認めた事実に関して>
吉田氏はその後、秦氏との電話会見にも応じ、「人権屋に利用された私が悪かった」と、反省の弁をほのめかしていた
とのことです。(*「諸君!」1998年11月号 秦郁彦 「『空想虚言症』の記憶にさいなまれる『朝日新聞』」より)
当の吉田氏は、一時、右翼や旧軍人からの脅しやいやがらせで、知人宅に身を寄せたこともあったというが、
「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。デッチ上げといわれても構いません。
私の役目はもう終わったのですから」
確かに、日本の謝罪外交を定着させた吉田氏の”役目”は終わったといっていいだろう。
ちなみに、吉田氏の履歴には不明な点が多いが、昭和22年4月の下関市議選に共産党から立候補。僅か129票の
得票で落選している。この人、機を見るに敏だけの人生のようなのだ。
(*「週刊新潮」1995年1月5日号「『慰安婦強制連行』問題をデッチ上げた変な日本人」 から抜粋)
ttp://www.tamanegiya.com/jyuugunniannfu.html

11朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた :2005/04/27(水) 00:24:49
朝鮮人は、その場その場で最強の存在に対して服従する。
日本軍への協力者が続出するのは、朝鮮では単なる自然現象。

明から清に主人を替えた後の朝鮮人はじつにおとなしく、清の軍隊召集に馳せ参じ、
2回の羅禅(ロシア)遠征と明の征伐に従軍した。父として明を敬っていたはずなのに、
新しい父を迎えた途端、明に対して残酷無情な態度を取った。3回にわたる明征伐では、
朝鮮軍は満州人を驚嘆させるほど明人を虐殺した。満州八旗軍は軍紀正しい軍隊であったが、
盟友のモンゴル八旗軍の朝鮮蹂躙には、かなり悩まされていたが、朝鮮軍が満州人の軍門に
下り清軍に召集されると、今度は朝鮮軍が旧宗主国の明征伐を通して漢人への凄まじい
虐殺と略奪を行ったのだ。清の将軍である龍骨大が率いた、明征伐についての朝鮮兵行状の
記録には次のようなものがある。「韓兵ことに虐殺を極めたり。漢民号呼して曰く、天朝
朝鮮において何の仇があろうか。その恩に背いて、ここに至るかと…」

明は300年近く朝鮮を保護し、李氏朝鮮は宗主国である明から国号を下賜された。しかし、
いざ明が弱勢になると、朝鮮はすぐさま清に乗り換えて逆に明を逆襲し、明人を虐殺した
日韓合邦後、満州でもっとも暴れたのは朝鮮人である。万宝山事件は、朝鮮人と中国人の
水をめぐる争いから起こり、朝鮮半島における中国人虐殺にまで発展した。満州では、
朝鮮人は「二鬼子」として中国人から恐れられ嫌われていた
ttp://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/rekisi1.htm
(恒屋益服著「朝鮮開化史」博文館、明治34年)
12待った名無しさん:2005/04/27(水) 00:36:18
日本は合法的に韓国を併合していたため、韓国に対して国家賠償をする立場に
なかった。そのため、日韓基本条約本文においては、賠償について一切触れら
れていない。
日韓基本条約に付随する経済協力協定によって経済協力金を以下のように支払
った。
* 3億ドル    無償協力(1965年)
* 2億ドル       円有償協力(1965年)
* 3億ドル以上 民間借款(1965年)
なお、当時の韓国の国家予算は3.5億ドル程度であった。
1971年の対日民間請求権申告に関する法律及び1972年の対日民間請求権補償に
関する法律によって、軍人・軍属・労務者として召集・徴集された者の中の死
亡した遺族あてに補償金としてあてられたが、終戦後に死亡した者の遺族、傷
痍軍人、被曝者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らは
補償対象にならなかった上、総額は約91億8000万ウォン(約58億円)と無償協
力金3億ドル(約1080億円)の僅か5.4%に過ぎず、協力金の大部分は道路やダ
ム・工場の建設など国づくりに投資されたと言われている。なお、条約では個
人の賠償請求権の無効が確認されている。
(上記注『漢江の奇跡』)対日民間請求権補償に関する法律は1982年に廃止さ
れた。
1949年、韓国政府は日本に対して、対日賠償要求を連合軍総合司令部に出した。
その内容は「21億ドル(当時)プラス各種現物返還」であった。大蔵省財政史
室編『昭和財政史。終戦から講和まで』東洋経済新報社によると、日本が朝鮮
半島においてきた財産や資産は、軍事用資産を除き計53億ドルであった。イン
ドがイギリスから独立した際に、イギリス人がインドに持っていった個人資産
が個人に返された前例を適用し、日本が朝鮮に残した資産が賠償要求額を上回
っていたため双方の請求権を相殺し、経済協力金を支払ったのである。
13待った名無しさん
また韓国人がらみのスレか