>>63 近世前期と後期とでは抱え相撲の位置づけに大きな変化がありますが、
後期については、まず例外なく非武士階層の出身でしょう(ちゃんと
調べたわけではないので、反例が出てくれば改めますが)。
近世の相撲は、武芸ではなく専門化された観賞用の技芸として認識され、
相撲取の社会的地位は低く、一般には雑芸能民と同様の扱いであり、
大名抱えの相撲取でも、家中における格づけはかなり低いものでした。
例外的な厚遇を以て処したといわれる雲州松平家の場合でさえ、
抱えの相撲取は「御水主」といって、舟の漕ぎ手や上乗(水先案内)、
そして付随的に諸雑芸を職掌とする、職制の最下層に位置づけられる
セクションに編入されていました。松江城下に用意された住居(御舟屋)
の絵図(十八世紀末)が現存しています(個人蔵・島根県立博物館寄託)
が、雷電や鳴滝など江戸相撲の人気力士にあてがわれたのも、他の
「御水主」たちと同様、三間四方(九坪)の長屋にすぎません。
そうした境遇からの上昇を図るべく、将軍の上覧を企画したり、相撲節に
仮託した「故実」をもって荘厳する、また京都の公家である五条家への
接近を図るなど、相撲の権威づけに関係者はいろいろと腐心したわけですね。
その甲斐あってか、十九世紀後半には大名抱えでない相撲取についても
浪人者に準じた扱いがされることもあったようです(文政年間に、相撲取の
扱いをめぐる大名と奉行との問答を記録した面白い史料が残っており、
高埜利彦さんが論文「相撲年寄」で紹介しておられます)が、武士の子弟が
相撲取になるというのは、普通には考えにくいことであったと思います。
弓馬や剣などの武芸とは異なり、相撲が家中の士に奨励され、抱え相撲
の職掌として相撲の指南が求められたという事例を、私は寡聞にして
知りません。尤も、個々に見れば、幕末の横綱力士陣幕が西郷隆盛と戯れに
相撲をとった、などという事例などあるようですが。