天才・三島由紀夫

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1名無しさん@お腹いっぱい。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:26:45 ID:uy5wp4wl
ウワーッと両手で顔をおほつて、その指のあひだから、こはごはながめて「イヤだア」とかなんとか言つて
ゐる手合ひを野次馬といふ。
私に対する否定的意見は、すべてこの種の野次馬の意見で、私はともあれ、交通事故なのだ。

三島由紀夫「感想 広域重要人物きき込み捜査『エッ!三島由紀夫??』」より
3名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:30:17 ID:uy5wp4wl
伝播の速い世の中では、今日の独断も、明日の通念になる。あなたがロマンチストと言つて下さつた以上、明日から
私はロマンチストでとほりさうです。いづれにせよ、人がかぶれといふ帽子を、私は喜んでかぶるつもりです。
たとへそれが、あのルイ王がかぶらされたといふ三角帽子であつても。
ただ私の何とも度しがたい欠陥は、自分に関する最高の通念も、最低の通念も、同じやうに面白がることなのです。
これはほとんど私の病気です。おしまひにはいつもかう言ひたくなる。「何を言つてやがる。俺は実は俺ぢや
ないんだぞ」これが私の自負の根元であり、創作活動の根源です。そしてこれが、あらゆる通念を喜んで
受け入れる私の態度の原因なのです。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より
4名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:30:39 ID:uy5wp4wl
私は不断の遁走曲であり、しかも、いつも逃げ遅れてゐる者です。子供のころ、学校で集団でイタヅラをすると、
いつも逃げ遅れるのが、私ともう一人Kといふ生徒でした。そこで私とKはつかまつて、先生から、鉢合せの罰を
うけるのでした。こんな痛い刑罰はない。しかしKのオデコにはコブができないのに、私のオデコにだけは
コブができた。これが爾後、私の宿命となつたやうに思はれます。

三島由紀夫「オレは実はオレぢやない(村松剛氏の直言に答へる)」より
5名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:31:41 ID:uy5wp4wl
聞くところによると、例の「風流夢譚」掲載のいきさつについて、中央公論の嶋中社長がその掲載を反対したにも
かかはらず、あたかもぼくが圧力かけて掲載させたやうに伝はつてゐるらしいんです。
これはとんでもない誤解で、推薦した事実さへない。第一、新人の原稿ならいざ知らず、深沢さんといへば
一本立ちの作家ですからね、だれそれの推薦なんてあり得ないぢやないですか。世間ではよく、ある出版社の
背後にはこれこれといふ作家がゐて、その作家の言ふことならきく、といふやうな考へを持つ人がゐるらしいが、
それは“編集権”の存在を知らない者の言ふことで、編集権を侵害しないといふモラルは、ぼく自身いつも
守つてきたはずだ。ただ例外があるとすれば、“文学賞”の審査員になつたときくらゐのものだらう。そのときだつて、
技術顧問的な役割で、作品の芸術的な判断以外の社会的な影響にまでは、タッチしないものだ。

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」より
6名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:31:58 ID:uy5wp4wl
かういふ事情を知つてゐれば、ぼくが「風流夢譚」を掲載するやうに圧力をかけたなんていふことがナンセンスだと
いふことがよくわかるはず。しかし、それにもかかはらずぼくの名が使はれたとすれば、それは一部の者が
苦しまぎれの逃げ口上に使つたのではないか。さう思へば使つた者にも同情の余地があるのだが、迷惑うけるのは
こちらだからね。ともかくふりかかつた火の粉ははらひ落としたいといふのが本音だ。この際、次第に
大きくなる風説――新聞雑誌でもそんな書き方をされてゐるんで――の誤解をときたい……。
(談)

三島由紀夫「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」より
7名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:32:15 ID:uy5wp4wl
少しでも自動車をころがしてみた人なら、白バイの存在を意識しなかつたといふ人はあるまい。それは、
ゐませんやうにと神に祈るほどの存在であり、しかも、どこかにゐてくれなくては物足らない存在である。だから
ますますそれは、小イキな服装と小イキな白いオートバイと共に、神秘化される。悪人の目から見たところの
鞍馬天狗のやうな存在、善良な市民にちよつぴり悪人の気持を味はせてくれる存在である。その威厳、その美しさ、
その神速、その権力、一つとして羨望の的ならざるはない。白バイを怖がつたことのある人なら、必ず一度は、
白バイになつてみたいと思ふだらう。

三島由紀夫「私はこれになりたかつた――それは白バイの警官です」より
8名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:38:21 ID:uy5wp4wl
…子供のころは、それでも銀座へ連れて行つてもらふことは、うれしいことであつた。(中略)
そのころマツダ・ビル楼上のニュー・グランドの部分が、赤、青、緑、黄に変幻して、サーチライトの光芒を
ひろびろと投げかけてゐた。
私は父母につれられて、そのニュー・グランドや、ローマイヤ・レストランへ行くとき、子供らしい虚栄心を
満足させられた。そのころケストネルの少年小説「点子ちやんとアントン」に夢中になつてゐて、その小説に
出てくる「泡雪クリーム」といふものを、何とかして喰べたいと憧れてゐた。しかし「泡雪クリーム」なるものは、
どこにも売つてゐなかつた。銀座へ行けは何でも売つてゐると思ふのはまちがひだ、といふことに気がついたのは
それがはじめである。今でも銀座で決して売つてゐないもので、私がもう一度喰べてみたいと思ふものが一つある。
それは戦争中、海軍の工場で、飯のおかずに喰はされて、こんなに旨いものはないと思つたところの、ポテト・
チョップのやうな形をした、大豆粕をいためた奴である。

三島由紀夫「わが銀座」より
9名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:39:25 ID:uy5wp4wl
学習院高等科(旧制高校)は文科乙類(ドイツ語)で、卒業の時は文科の首席だつた。(中略)
首席の賞品として、精工舎製銀メッキ懐中時計を宮内省から頂いた。裏に「御賜」と彫つてある。
又来賓のドイツ大使から乙類の僕に原書の小説を三冊、ナチのハーケン・クロイツが入つてるのをもらつた。
この後で宮中に御礼言上に、当時の院長山梨勝之進海軍大将と共に参内した。霞町の華族会館で謝恩会があり、
これで学習院の卒業行事が終つた。

三島由紀夫「学習院の卒業式」より
10名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:40:32 ID:uy5wp4wl
鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。
人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。

三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。

鶴田:昭和維新ですね、今は。

三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。

鶴田:三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。

三島:ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。

三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
11名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:43:59 ID:uy5wp4wl
さしも世界に名高い日本の柔道も紅毛碧眼に名を成さしめる仕儀に相成つたが、剣道はまだまだ勝味がござる。
小生、先ごろ桑港(サンフランシスコ)に赴き、書肆(しよし)の一画に「柔道」と名付くる棚があつて、
数十冊の柔道書を並べたる一驚を喫したが、生憎剣道のはうは一冊もござらなんだ。もつとも加州大学には、
剣道四段の碧眼の偉丈夫あり、勝負を挑まれたが、いささか日本国の名誉を思うて、風邪にことよせ、試合は
御辞退申した。かかる例外あれど、概して泰西諸国においては、剣道の普及未だしの観あり、剣道はもつぱら
「羅生門」の名優三船敏郎氏の風車剣法によつてのみ名あり。
剣をたしなむときけば、泰西人はいささか畏怖の情をあらはし、時代錯誤的恐怖にからるるやと思(おぼし)く、
ここがつけ目と愚考いたしてござる。武士道は、禅と等しく、ますます神秘化されてこそ世界に活路もあれ、
ゆめゆめスポーツ化させることなかれ、といふが、小生の切なる忠言でござる。

三島由紀夫「剣、春風を切る――ただいま修業中」より
12名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:45:42 ID:uy5wp4wl
ボデービルに一週間に二、三回通ひ出してから、一年間で胃ケイレンがなほつてしまつた。(中略)
ボデービルは八十歳、九十歳になつてもやりたい。これだけは途中でやめるとからだによくないらしい。
地獄におちたと思つて抜けられぬ。自転車操業のやうなものかな。私などは執筆して頭を使ふ。神経がたとへば
10疲れても、肉体は3しか疲れない。格差の7を運動によつて疲れさす必要がある。
肉体を10まで疲れさせ、頭脳とバランスがとれたら休養する。疲労を0に戻してから改めて仕事にとりかかる
といふ寸法である。冬は日光浴をするが、夏はセーブしてあまりやらない。

三島由紀夫「私の健康法――まづボデービル」より
13名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 11:47:20 ID:uy5wp4wl
端的只今の一念より外はこれなく候
一念々々と重ねて一生なり(葉隠)

新年に想ふのは「葉隠」の一章。マスコミが作る「ものの見方」にとらはれず自分の考へ方で生きていく勇気を
もちたい。一念一念といふのは、さういふことだし、その積み重ねが、私を私らしくするのだから……

三島由紀夫「真(まこと)を胸に――若さに生きよう」より
14名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 10:35:38 ID:OSol5wIP
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も負はずに
社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、子供も
読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を置くのも困る。
みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。

三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より
15名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 10:36:13 ID:OSol5wIP
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、
かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげて
ゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。
新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つてゐるやうに思はれる。写真や映画は
正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を混濁させる。かうなつてくると、
いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ目なら自分の目を信ずる他はなくなるのだ。
私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり精巧であらう。

三島由紀夫「同人雑記」より
16名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 17:42:04 ID:id+Eexvi
私は大体笑ふことが好きであり、子供のころから「この子を映画へ連れてゆくと、突拍子もないところで
ケタケタ笑ひ出して、きまりわるい」とおとなにいはれた。徳大寺公英氏の思ひ出話によると、中学時代も、
教室でキャッキャッと一きは高い笑ひ声がするので、私がゐることがわかる、と先生がいつてゐたさうである。
おとなになつても、福田恆存氏の「キティ颱風」の招待日などには、拍手役ならぬ、笑声のサクラに狩り出された。
うしろのはうの席に、宮田重雄氏はじめ、笑ひの猛者がそろつてゐて、セリフの一言半句ごとに、声をそろへて
ゲラゲラ笑ふのである。するとそれにつられて笑ひ出すお客がある。福田氏は、新劇の観客層のシンネリムッツリを、
よほどおそれてゐたのである。
俳優のT君が、「君の貧弱な体格からすると、笑ひ声だけが大きくて不自然だから、後天的に自分で育成これ
つとめたものだらう」といつたが、これはマトをそれてゐる。私の肺活量はこれでも四千七百五十もある。

三島由紀夫「わが漫画」より
17名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 17:42:33 ID:id+Eexvi
漫画は、かくて、私の生理衛生上必要不可欠のものである。をかしくない漫画はごめんだ。何が何でもをかしく
なくてはならぬ。おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画を私は愛する。
悩殺する、とか、笑殺する、とかいふ言葉は、実存主義ふうに解すると、相手を「物」にしていまふことだと思はれる。
「人を食ふ」といふのもこれに等しい。われわれは他人の人格を食ふことはできぬ。相手を単なる物、単なる
肉だと思ふから、食ふことができる。
漫画はだから「食はれる状態」をうまく作りあげねばならぬ。「物」になつてゐなければならぬ。
知的な漫画ほどこの即物性がいちじるしく、低級な漫画ほど、笑ひ話の物語性だの、教訓性だの、によりかかつてゐる。
下手な落語家は「をかしいお話」を語るにすぎないが、名人の落語家ほど、笑はれるべき対象を綿密に造形して、
話の中に「笑はれるべき物」を創造してゐるのである。
何もいはゆる、サイレント漫画が知的だといふのではない。
言葉がない代りに、社会の良風美俗に逆によりかかつてわからせてゐるやうな、不心得な漫画も散見する。

三島由紀夫「わが漫画」より
18名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 17:42:54 ID:id+Eexvi
漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを
仕入れて来なければならないのだ。あらゆる倒錯は漫画的であり、あらゆる漫画は幾分か倒錯的である。
そして倒錯的な漫画が、人を安心して笑はせるやうではまだ上等な漫画とはいへぬ。
日本の漫画がジャーナリズムにこびて、いはゆる社会的良識にドスンとあぐらをかいて、そこから風俗批評、
社会批評をやらかして、それを漫画家の使命だと思つてゐる人が少なくないのは、にがにがしいことである。
もつとも漫画的な状況とは、また永遠に漫画的状況とは、他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて
見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐる
といふ状況である。漫画は、この第二のダイナマイトを仕掛けるところに真の使命がある。

三島由紀夫「わが漫画」より
19名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 17:43:17 ID:id+Eexvi
あんまりのんびりしてゐると、ほかならぬ漫画家自身が、右のやうな漫画を演じなければならぬことになりますぞ!
さて私も、かういふ商売をやつてゐて、何やかと漫画に描かれることが多い。この一文で、漫画家諸氏のお名前を
一つもあげなかつたのは、かかる職業上のおもんぱかりであるが、われわれ文士も「素人時評」といふやつは、
ほとほとにがにがしい、イヤ味なものだと思つてゐるのである。
小説書きでないやつに、小説なんてわかるものか!
漫画家でないやつに、漫画なんてわかつてたまるものか!
それでよろしい。
さて、一つの漫画は、小説家が、かういふ雑文をたのまれて、をかしくもない文章を、頭から湯気を立てて
書いてゐる、といふその状況である。

三島由紀夫「わが漫画」より
20名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 20:16:52 ID:RKch5OPm
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点で
もうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家に
なり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では
見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」の
スラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。ヤングベ平連の高校生と話したとき、
「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」
と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで
含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。

三島由紀夫「劇画における若者論」より
21名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 20:17:29 ID:RKch5OPm
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。

三島由紀夫「劇画における若者論」より
22名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 11:54:48 ID:hay604al
政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これをカムフラージュするために、
道徳的偽装がとられ、あはせてエロティシズムや風俗一般に対する規制が行はれるのが通例である。(中略)
どんな保守的思想の持主である芸術家も、この観点から見られるときには、反体制的思想家と、五十歩百歩の目に
会はされることは、戦争中の記憶を想起すればすぐわかることである。
実際、国家が詩人を追放しようとするのは、きはめて賢明な政治判断であつて、プラトンはちやんとそれを知つてゐた。
政治に有効に利用できる芸術のエネルギー量はきはめて微弱であり、政治が効率百パーセント芸術を利用しえたと
考へるときには、もうその芸術は死物になつてゐて、何の効用も及ぼしてゐないといふ皮肉な現象は、ナチスのころも
見られたが、そんな微温的な手段をとるよりも、政治自体が芸術になり、(たとへ似而非芸術であつても、)
政治的行為が芸術的行為を完全に代用してしまへばすむことで、それが左右を問はず全体主義政治の核心である。

三島由紀夫「危険な芸術家」より
23名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 11:55:07 ID:hay604al
ただプラトンが完全に知つてをり、ナチスが不完全にしか知つてゐなかつたことは、次のやうな事実であり、
これはもちろん、日本の政治家が夢にも知らない事実である。
「(プラトンは、)芸術家を断罪する前に、まず彼にメリット勲章か何かのやうなできるだけ高い栄誉を
与へなければいけないと言つてゐる。すなはちプラトンは、今日ではほとんど誰も理解してゐないやうに
思はれること、つまり真に危険な芸術家とは『世にも稀な快い神聖な』偉大な芸術家であるといふことをはつきりと
理解してゐた。プラトンは、(中略)大きな悪は何らかの欠除に由来するのではなくてむしろ『本性の充実から
生じて来る』ものであり『弱い本性は、はなはだしく偉大な善も、はなはだしく偉大な悪も成し遂げることは
ほとんどできない』と信じてゐたのである」(「芸術と狂気」エドガー・ウィント著、高階秀爾訳)

三島由紀夫「危険な芸術家」より
24名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 11:55:32 ID:hay604al
何のことはない、日本の俚諺の「悪に強きは善にも」と変りがない考へだが、ここには政治と芸術との関係において、
非常に基本的な重要な考へが述べられてゐる。たとへばエレキは有害で、青少年に対して危険であり、
ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を
受けた考へであつて、ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、現代の
政府の文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、ほとんど
理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。してみると日本には、
真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府もそんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。

三島由紀夫「危険な芸術家」より
25名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 11:56:01 ID:hay604al
日本人の明治以来の重要な文化的偏見と思はれるのは、男色に関する偏見である。
江戸時代までにはかういふ偏見はなかつた。西欧では、男色といふ文化体験に宗教が対立して、宗教が人為的に、
永きにわたつてこの偏見を作り上げたのである。しかるに日本では明治時代に輸入されたピューリタニズムの
影響によつて、簡単に、ただその偏見が偏見として伝播して、奇妙な社会常識になつてしまつた。そして
元禄時代のその種の文化体験を簡単に忘れてしまつた。
男色は、男色にとどまるものでなく、文化の原体験ともいふべきもので、あらゆる文化あらゆる芸術には、
男色的なものが本質的にひそんでゐるのである。芸術におけるエローティッシュなものとは、男色的なものである。
そして宗教と芸術・文化の、もつとも先鋭な対立点がここにあるのに、それを忘れてしまつたのは、文化の
衰弱を招来する重要な原因の一つであつた。

三島由紀夫「偏見について思ふこと」より
26名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 23:10:00 ID:voGjLXJ2
ここまで読んだ。良スレだな。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 01:52:07 ID:KHZxwjs0
>>26
ありがとう、また覗いてね。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 19:58:28 ID:KHZxwjs0
女のまねをする女形は、女形芸術の墓穴を自ら掘つてゐるものだと思ふ。女形の範はあくまで能の鬘物の
シテにあるので、世にも高貴な美女の仮面をとほして、神秘的な、暗い男の声がひびいて来、美しい唐織の
衣装の袖から、無骨な男の手がむき出しになつてゐるべきなのだ。
といふことは、女形の真骨頂は仮面劇にあるのであつて、歌舞伎の女形といへども、変成男子の神秘感を失つては
ならないのだ。
といつて、私は、女形が日常生活でスポーツ・シャツを着てゴルフをしたり、「僕が」とか「僕が」とかいふ
一人称を使ふのを、推賞してゐるわけではない。ただ、女形美といふものが、女性美とは別の独自性を持つて
ゐることを忘れてはならない、といつてゐるのである。(中略)

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美――女形は亡びるかどうか」より
29名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 19:58:46 ID:KHZxwjs0
女形芸のうちで悪婆(毒婦)や若衆方に接近した要素が、一等早く衰退の気配を見せてゐるのは、悪婆的女性や
若衆的女性がふえてきたからである。逆に女性的女性が減つてきたので、真女形の稀少価値が生じて珍重されるにつれ、
女形は女の模倣の方向へ傾きがちになり、女優と見紛ふやうな芸を見せる役者も出て来て、歌舞伎の女形の
セリフからは義太夫の暗い渋い律調が失はれてしまつた。先々代時蔵の最後の政岡を見たときに、私は哀惜の念に
耐へなかつた。(中略)
さて、その女形の将来であるが、今は万事にアメリカ風の、浅薄な健全第一主義の時代であるけれど、日本人の
血の澱みは、一朝一夕に浄化されるものではない。
女形を気味がわるいと思ふ観客がふえたこともたしかだが、そんならその気味のわるさに将来性がある筈で、
芸術の歴史はみんなさういふ試練を経て来たのである。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美――女形は亡びるかどうか」より
30名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 19:59:19 ID:KHZxwjs0
私はつねづねふしぎに思つてゐることがある。
前述したやうに、今はむしやうに女が強くなつて男性化した時代のやうにいはれながら、女の顔自体は、昔に比べて、
だんだん男性的威厳を失つてきてゐるのである。理想の美女は、現代では、イタチが猫か少年の顔にちかく、
明治時代の女性のやうに、むしろ男性的威厳を帯びた顔は、ゐなくなつたか、少なくとも、流行らなくなつて
ゐるのである。(中略)顔はますます小さくなる傾向にあり、髷の似合ひさうな顔は一つもない。明治時代の
名妓の面影はあとをとどめない。
女性が女性的であつた時代に、却つて、女形風な顔や美がもてはやされ、沢山生存してゐた、とはどういふこと
だらうか。あれこれ思ふと、現代の女優で片はづしのカツラの似合ふやうな人は一人もなく、過去の壮大な
悲劇に似合ふ舞台上の女性は、どうしても、男にカツラをかぶせるほかはなくなるのである。ブリジット・
バルドーみたいな顔をした八重垣姫なんか、どう考へてもをかしいではないか。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美――女形は亡びるかどうか」より
31名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 19:59:43 ID:KHZxwjs0
男が女に化けてゐるといふ芝居のウソの前提を、観客がもつと強く意識するやうになれば、女形の将来は
捨てたものではなく、また女形自身も、舞台では女、日常生活では男、などといふコセコセした枠を作らず、
舞台の上で女形であること自体に、堂々たる男性的威厳を発揮することに努めれば、世間の目も変つてくる
ことであらう。
重ねていふやうに、日本人の血の澱みの深さは、アメリカ人などとは比べものにならないのである。
女形のやうな、面白い、気味のわるい、エクストラオルディネール(異常)なものを、さうむやみに捨て去る
ことのできる日本人ではない。その点はもつと安心して、大悟徹底してゐるべきだと思ふのである。

三島由紀夫「捨てきれぬ異常の美――女形は亡びるかどうか」より
32名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 20:17:53 ID:FEkXBSiU
アズジスタストレ
33名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 12:24:42 ID:TgE1z6K0
私は歌舞伎といふものは、もちろん台本も大切、心理描写も大切だけれども、一瞬間で人を酔はせることが
できなければ、歌舞伎ではないんだ、といふことがだんだん分るやうになつたんです。(中略)
お客が喜ぶのは、二人の人間が何か一所懸命ぶつかり合つてゐる、しかもただ言葉でぶつかり合つてゐるのでは
なくつて型でぶつかり合つてゐる、性格でぶつかり合つてゐるのではなくて、型でぶつかつてゐる、そこにみな
感動するんです。
そしてその型が一つ一つ見事に磨きぬかれてゐる、たとへば喧嘩でも見悪(みにく)い喧嘩ぢやない、
コノヤロウといふ喧嘩なら、どこでも見せられる。腕の振りあげ方一つ、殴り方一つにもちやんと型がある。
さういふふうに感覚的な魅惑といふものに訴へることなしには、どんなことも歌舞伎は我々に伝へてこない。
もし感覚的魅惑を抜きにして、歌舞伎を分れといつても無理だし、そしてその狭い感覚的な魅惑の道を通つて
歌舞伎といふものが、にゆつと飛び出してくるんです。

三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」より
34名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 12:25:02 ID:TgE1z6K0
(中略)私は歌舞伎といふものは、いつでも昔が良かつたもんだ、と思ふんです。あらゆる時代で、昔の方が
良かつたから、歌舞伎といふこの変な生命が続いてゐるんです。
これをよく考へていただかないとね、歌舞伎は、だんだん進歩していくんだ、昔はこんなに原始的であつたのが、
良くなつていくんだと思ふと、大間違ひなんです。今が一番悪い、私で終りだといふ気持がないと、歌舞伎の
これからを支へて行くことはできない。
またうまいことに、歌舞伎といふものは、昔から滅亡論があつた。明治のころから歌舞伎滅亡論といふのが
何度あつたか分らないほどあつたんです。滅びる、滅びるといはれながら、こんな大きな劇場が建つちやつた。
これで歌舞伎が滅びないかといふと、まだいつでも滅びるんです。滅びる用意をしてゐる。
歌舞伎を滅ぼすやうな要因は、いつの時代にも、たくさんありました。あなた方は若いのに、これから歌舞伎を
始めるといふのは、滅びるものに忠誠を誓ふことになるんです。

三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」より
35名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 12:25:25 ID:TgE1z6K0
あなた方の前には、もつと新しいものが、いくらでもる。たとえばコンピュータの仕事をしてもよろしい。
…今や日本ではますます新しい仕事は要求されてゐるんです。
滅びるに決つてゐるやうなものに自分が入つて行くといふのは、よほどの覚悟がなければできない。昔は良かつたが、
今は駄目だ、と絶えず言はれる。
ところがその昔は良かつたものに、いつか自分が近付いていつて、その中に溶け込むときが来る、そこが人間の
不思議なところで、歌舞伎は昔に書かれたものですから、もし昔の理想に自分がスーッと溶け込むことができ、
昔の俳優の持つてゐた魂が、自分の中にフゥァーと宿ることがあると、その時がどんな時代であらうと、
歌舞伎といふものは、また蘇つてくるんです。

三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」より
36名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 12:25:51 ID:TgE1z6K0
(中略)私はあくまで歌舞伎を愛する、だけど私は観客として、あるひは演出家として、その出て来た華だけを
愛してゐたい。華の向う側に、どす黒いものがあるのは分つてゐるけれども、そのどす黒いものは、そのまま
大切な肥料としてそつとしておきたい、といふ気持が非常に強いんです。
もちろん私は歌舞伎の改良といふことを全然否定するわけではありませんけれども、歌舞伎といふものは、
悪に繋がつてゐるといふことを信じますから、ああ、いくらでもいくらでも綺麗にしてごらん、綺麗にしたら
何が失くなるか、よく考へてごらんといふより他にないんです。
あなた方、この歌舞伎の世界に入つて来たのには、よほどの覚悟がなくてはならんと思ふのは、その悪といふものを
是認するといふこと、そして不合理を是認するといふことです。不合理を自分の中に取り込まなければ、
歌舞伎といふ芝居を演る意味がない。(中略)
一番悪いものと、一番良いものとが結びついてゐるのが、歌舞伎の不思議なんです。それを切つたらば、生命が
なくなる。

三島由紀夫「悪の華――歌舞伎」より
37名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 23:43:13 ID:nY5lERDv
一、二年前から、ミリタリー・ルックの流行を横目に見ながら、私は「今に見ていろ」と思つてゐた。男にとつて
最高のお洒落である軍服といふものを(もちろんそのパロディー《替唄》の意味でやつてゐることぐらゐは
私にもわかるが)およそ軍服には縁のないニヤけた長髪の、手足のひよろひよろした骨無しの蜘蛛男どもが、
得意げに着込んで、冒涜の限りを尽してゐるのが我慢ならなかつた。
本来、赤・金・緑などの派手な色調は、ピーコック・ルックを待つまでもなく、男の服飾の色彩である。しかし
それには条件がある。闘牛士の派手な服装が、もし彼らの男らしい死の職業といふ裏附がなかつたら、たちまち
世にもニヤけたものになるやうに、男が男本来の派手な色彩を身につけるには、それなりの条件や覚悟がある筈である。
その条件や覚悟のない男が、社会の一匹の羊であることを証明するグレイ・フランネル・スーツを身に着けるのである。
それは単に保身術、昆虫の保護色としての服装だ。しかるに軍服は昆虫で云へば警戒色で、色は原色で、まづ
目立たなければならないのである。

三島由紀夫「軍服を着る男の条件」より
38名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 23:43:27 ID:nY5lERDv
そしてそれを着る条件とは、仕立てのよい軍服のなかにギッチリ詰つた、鍛へぬいた筋肉質の肉体であり、
それを着る覚悟とは、まさかのときは命を捨てる覚悟である。アメリカでは、将軍といへども、腹が出て来て
軍服が似合はなくなると免職になるさうだ。
自衛隊に一ヶ月みつちり体験入隊をして、心身共に鍛へた大学生の集まりであるわれわれの「楯の会」では、
その一ヶ月の卒業祝に、この制服を贈ることにしてゐる。まづ中味を調へ、次に制服といふわけだ。西武百貨店の
堤清二社長の厚意が得られて、ド・ゴール大統領の洋服をデザインした名デザイナー五十嵐九十九氏のデザインに
成るこの凛々しい軍服が「楯の会」の制服になつた。帽章は私自らがデザインした。町をこの制服を着た青年が
歩いてゐたら、どうかゆつくり目をとめて眺めていただきたい。

三島由紀夫「軍服を着る男の条件」より
39名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/25(火) 23:28:38 ID:/QNmihdw
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに
描かれてゐる。男が手や爪の美容に気をつかふのは、スペインの貴族の習慣で、そこでは手の美しい男で
なければ、女にもてなかつた。
私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。

三島由紀夫「男のおしやれ」より
40名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/25(火) 23:28:57 ID:/QNmihdw
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、
華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。指環ひとつをとつてみても、節くれ
立つた、毛むくぢやらの指をしてゐてこそ、男の指環も引立つのだが、東洋人特有のスンナリした指の男が、

指環をはめてゐれば、いやらしいだけだ。
多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。これこそ、素朴であつて、
しかも華美を兼ねてゐる。学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服が
ピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。背広なんか犬に
喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。商人服をありがたがつて着てゐる情ない
世界的風潮よ。タキシードも犬に喰はれてしまへ。私はタキシードの似合ふ日本人といふものを、ただの一人も
見たことがないのである。

三島由紀夫「男のおしやれ」より
41名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 11:06:14 ID:xH4Y7sE7
○ 私は眺める人間として生れたかのやうであり、幼時から行動を奪はれ、物事の観照と、人間の心理の分析に長じ、
静的な文体を作つたが、いつしか、その反対の行為者としての自分、抑圧されてゐた自分を発見した。しかし
言葉は全く身について、その感覚は幼時から養はれるものであるから、この新しい自分はほとんど言葉では
現はしやうがなかつた。それを私は肉体としてあらはしたのである。
行為者と存在者は別物であるけれど、観察者の目からは等価である。したがつて観察者の陥りやすい誤解は、
この二つを混同することである。私はのちになつてわかつた。しかし観察者の矜持は表現(言葉、知性)にあつて、
その目からは行為者は美しくはあるが、いつも粗雑に見える。そして行為者の矜持は存在形態あるひは運動形態の
終極的瞬間的な美にかかはるから、観察者はいつも卑しげな奉仕的なものと感じられる。この両者の間には
もちろん愛も成立するが、この両者に通暁することは人生の大切な知恵である。

三島由紀夫「魅死魔雪翁百八歳の遺言録――己惚れ」より
42名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/26(水) 11:06:29 ID:xH4Y7sE7
行為者と存在者はどちらが永遠でありうるか? これは肉体がほとんど抽象される迄に、純粋化された瞬間的行為と、
ただ存在する肉体美との、どちらが永遠かと問ふのと等しい。流れを中断した横断面が行為者であり、流れを
体現するものが存在者ともいへよう。しかしこの二つはいつも相交はり、行為者の最高の瞬間は、彫刻芸術のやうな
存在的芸術によつてあらはされ、存在者の最高の姿は、音楽のやうな流動的芸術、行為的芸術によつて
あらはされうる。肉体は自らの神殿である。魂はそこに収まつてゐる。肉体は心をこめて管理し磨き上げ、
魂も亦さうする。そしてうつろひやすい肉体はその瞬間々々を、言葉を用ひずに、能ふかぎり非分析的に、記録し、
保留し、記念すべきであり、魂の仕事にかまけて、これを怠つてはならぬのである。

三島由紀夫「魅死魔雪翁百八歳の遺言録――己惚れ」より
43名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 15:28:35 ID:GGbGELx1
ベラフォンテがどんなにすばらしいかは、舞台を見なければ、本当のところはわからない。ここには熱帯の
太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、
素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台の上のベラフォンテは、まさしく太陽のやうにかがやいてゐる。
彼は褐色のアポロであつて、大ていの白人女性が彼の前に拝跪するのも、むべなるかなと思はせる。
ベラフォンテには、衰弱したところが一つもない。それでゐて、ソクソクとせまる悲しみと叙情がある。
これは、言葉は悪いが「ドレイ芸術」とでもいふべきものの神髄で、たとへば「バナナ・ボート」で、彼が
悲痛な声をふるつて「デオ、ミゼデオ」と叫び歌つて、強い声がハタと中空に途切れるとき、そのあとの間に、
われわれは、力の悲哀といふやうなものを感じ、はりつめた筋肉からとび散る汗のやうなものを感じ……これらの
激しい労働を冷然とながめおろしてゐる植民地の港の朝空のひろがりまでも完全に感じとる。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
44名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 15:28:54 ID:GGbGELx1
歌はれる歌には、リフレインが多い。全編ほとんどリフレインといふやうな歌がある。これは民謡的特色だが、
同時に呪術的特色でもある。わづかなバリエーションを伴ひながら「夏はもうあらかた過ぎた」(ダーン・
レイド・アラウンド)とか「夜ごと日の沈むとき」(スザンヌ)とかいふ詩句が、彼の甘いしはがれた声で、
何度となくくりかへされると、われわれは、ベラフォンテの特色である、暗い粘つこい叙情の中へ、だんだんに
ひき入れられる。声が褐色の幅広いリボンのやうにひらめく。われわれは、もうその声のほかには、世界中に
何も聞かないのである。
西印度諸島の黒人の声には、何といふ繊細さがあるのだらう、と私は、たびたびおどろかされたものだ。
黒人の皮膚のあの冷たいキメの細かさと、この繊細さとは、何か関係があるにちがひない。そして、あんな
激しい太陽と海風にさらされては、繊細な魂は、暗い涼しい体内の深部へ逃げ隠れ、わづかに声帯のすき間から、
外界をのぞかうとするのかもしれない。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
45名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 15:29:12 ID:GGbGELx1
ベラフォンテの舞台を見た人なら、だれでも首肯すると思はれるのは、その強烈な官能性である。彼もまた、
十分演出にそれを意識してゐると思はれる。けがれのない、素朴な、健康なエロティシズムの表現において、
もちろんその恵まれた外見に負ふところが多いとしても、彼ほどのボピュラー歌手は空前絶後であらう。
そしてその官能性が、詩にまで高まつてゐるのは、まさしく彼に黒人の血が流れてゐるからである。白人の男の
官能性とは散文的なものであり、いつたん昇華しなければ使ひものにならぬ。ベラフォンテの叙情は、カリブ海の
太陽の下のファロスの叙情である。しかもそれが海風に清められてゐるから、少しもきたならしくならないのである。
官能的な激しさにもかかはらず、彼の舞台が清潔なゆゑんである。私は第一部では「オール・マイ・トライアルス」の
美しい哀傷、「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」の逸楽、第二部では「さらばジャマイカ」の哀切な叙情、そして
有名な「バナナ・ボート」や、たのしい「ラ・バンバ」をことに愛する。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
46名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 10:43:00 ID:3qYeKz9H
(神輿の)リズムある懸声と力の行使と、どちらが意識の近くにゐるかと云へば、ふしぎなことに、それは
むしろ後者のはうである。懸声をあげるわれわれは、力を行使してゐるわれわれより一そう無意識的であり、
一そう盲目である。神輿の逆説はそこにひそんでゐる。担ぎ手たちの声や動きやあらゆる身体的表現のうち、
秩序に近いものほど意識からは遠いのである。
神輿の担ぎ手たちの陶酔はそこにはじまる。彼らは一人一人、変幻する力の行使と懸声のリズムとの間の違和感を
感じてゐる。しかしこの違和感が克服され、結合されなければ、生命は出現しないのである。そして結合は
必ず到来する。われわれは生命の中に溺れる。懸声はわれわれの力の自由を保証し、力の行使はたえずわれわれの
陶酔を保証するのだ。肩の重みこそ、われわれの今味はつてゐるものが陶酔だと、不断に教へてくれるのであるから。

三島由紀夫「陶酔について」より
47名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 10:47:43 ID:3qYeKz9H
清洌な抒情といふやうなものは、人間精神のうちで、何か不快なグロテスクな怖ろしい負ひ目として現はれるので
なければ、本当の抒情でもなく、人の心も搏たないといふ考へが私の心を離れない。白面の、肺病の、
夭折抒情詩人といふものには、私は頭から信用が置けないのである。先生のやうに永い、暗い、怖ろしい生存の
恐怖に耐へた顔、そのために苔が生え、失礼なたとへだが化物のやうになつた顔の、抒情的な悲しみといふものを
私は信じる。
(中略)
古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。かれらは
人間生活をよりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのではなかつた。死に関する知識、
暗黒の血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来地上の白日の下における人間生活をおびやかすもので
あるから、一定の智者がそれを統括して、管理してゐなければならなかつた。

三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」より
48名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 23:48:36 ID:aggp53g/
少年期の特長は残酷さです。どんなにセンチメンタルにみえる少年にも、植物的な
残酷さがそなはつてゐる。少女も残酷です。やさしさといふものは、大人のずるさと
一緒にしか成長しないものです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 教師を内心バカにすべし」より


ワシントンは子供心に、ウソをついた場合のイヤな気持まで知つてゐたので、正直に
白状したのかもしれません。たいてい勇気ある行動といふものは、別の或るものへの
怖れから来てゐるもので、全然恐怖心のない人には、勇気の生れる余地がなくて、
さういふ人はただ無茶をやつてのけるだけの話です。

三島由紀夫「不道徳教育講座 大いにウソをつくべし」より
49名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 23:48:57 ID:aggp53g/
お節介は人生の衛生術の一つです。


お節介焼きには、一つの長所があつて、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗つかつて、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないといふ人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もつとも不道徳な快楽の一つだからです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より


現代では何かスキャンダルを餌にして太らない光栄といふものはほとんどありません。


世間には、外貌と内側の全然一致しない人もある。

三島由紀夫「不道徳教育講座 醜聞を利用すべし」より
50名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 23:49:17 ID:aggp53g/
友人を裏切らないと、家来にされてしまふといふ場合が往々にしてある。大へん永つづきした
美しい友情などといふやつを、よくしらべてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。

三島由紀夫「不道徳教育講座 友人を裏切るべし」より


世間で謙遜な人とほめられてゐるのはたいてい犠牲者です。


己惚れ屋にとつては、他人はみんな、自分の己惚れのための餌なのです。
恋愛から己惚れを差引いたら、どんなに味気ないものになつてしまふことでせう。

三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より
51名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 23:49:33 ID:aggp53g/
どうでもいいことは流行に従ふべきで、流行とは、「どうでもいいものだ」ともいへませう。


流行は無邪気なほどよく、「考へない」流行ほど本当の流行なのです。白痴的、痴呆的流行ほど、
あとになつて、その時代の、美しい色彩となつて残るのである。

三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より


世間に尽きない誤解は、
「殺人そのもの」と、
「殺つちまへと叫ぶこと」
と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の
相違がある。

三島由紀夫「不道徳教育講座 『殺つちまへ』と叫ぶべし」より
52名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 12:25:14 ID:aRU1pR5H
洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのです。


エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。

三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より

全く自力でやつたと思つたことでも、自らそれと知らずに誰かを利用して成功したのであり、
誰にも身を売らないつもりでも、それと知らずに身を売つてゐるのが、現代社会といふものです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 美人の妹を利用すべし」より
53名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 12:25:32 ID:aRU1pR5H
男といふものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めてゐたのだとわかると、一等自尊心を
鼓舞されて、大得意になるといふ妙なケダモノであります。


女の人が自分の体に対して抱いてゐる考へは、男とはよほどちがふらしい。その乳房、
そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。
美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考へず、何かますます
普遍的な、女一般に属するものと考へる。この点で、どんなに化粧に身をやつし、どんなに
鏡を眺めて暮しても、女は本質的にナルシスにはならない。ギリシアのナルシスは男であります。

三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より


人に恩を施すときは、小川に花を流すやうに施すべきで、施されたはうも、淡々と
忘れるべきである。これこそ君子(くんし)の交はりといふものだ。

三島由紀夫「不道徳教育講座 人の恩は忘れるべし」より
54名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 12:25:50 ID:aRU1pR5H
若いくせにひたすら平和主義に沈潜したりしてゐるのは、たいてい失恋常習者である。


およそ自慢のなかで、喧嘩自慢ほど罪のないものはない。

三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より


「洗練された紳士」といふ種族は、必ず不道徳でありますから、お世辞の大家であつて、
「人間の真実」とか「人生の真相」とかいふものは、めつたに持ち出してはいけないものだ、
といふことを知つてゐます。ダイアモンドの首飾などを持つてゐる貴婦人は、そのオリジナルは
銀行にあづけ、寸分たがはぬ硝子玉のコピイを首にかけて出かけるのが慣例です。
人生の真実もこれと同じで、本物が必要になるのは十年にいつぺんか二十年にいつぺんぐらい。
あとはニセモノで通用するのです。それが世の中といふもので、しよつちゆう火の玉を抱いて
突進してゐては、自分がヤケドするばかりである。

三島由紀夫「不道徳教育講座 空お世話を並べるべし」より
55名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 12:26:13 ID:aRU1pR5H
男と女の一等厄介なちがひは、男にとつては精神と肉体がはつきり区別して意識されてゐるのに、
女にとつては精神と肉体がどこまで行つてもまざり合つてゐることである。
女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いづれも肉体と不即不離の関係に立つ点で、
男の精神とはつきりちがつてゐる。いや、精神だの肉体だのといふ区別は、男だけの
問題なのであつて、女にとつては、それは一つものなのだ。


五百人の男と交はつた女は、心をも切り売りした哀れな娼婦になり、五百人の女と
交はつた男は、単なる放蕩者に止(とど)まつて、精神の領域では立派な尊敬すべき
男であるといふ事態も起り得る。

三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より
56名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 12:26:30 ID:aRU1pR5H
精神と肉体をどうしても分けることのできない女性の特有そのものを、仮に「罪」と
呼んだと考へればよい。そして一等厄介なことは、女性の最高の美徳も、最低の悪徳も、
この同じ宿命、同じ罪、同じ根から出てゐて、結局同じ形式をとるといふことです。
崇高な母性愛も、良人に対する献身的な美しい愛も、……それから「よろめき」も、
御用聞きとの高笑いも、……みんな同じ宿命から出てゐるといふところに、女性の
女性たる所以があります。


虚栄心、自尊心、独占欲、男性たることの対社会的プライド、男性としての能力に関する自負、
……かういふものはみんな社会的性質を帯びてゐて、これがみんな根こそぎにされた悩みが、
男の嫉妬を形づくります。男の嫉妬の本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた
怒りだと断言してもよろしい。

三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より
57名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 20:55:30 ID:aRU1pR5H
戦争も大事件も、必ずしも高尚な動機や思想的対立から起るのではなく、ほんのちよつとした
まちがひから、十分起りうるのです。そして大思想や大哲学は、概して大した事件も
ひきおこさずに、カビが生えたまま死んでしまひます。


運命はその重大な主題を、実につまらない小さいものにおしかぶせてゐる場合があります。
そしてわれわれは、あとになつてみなければ、小さな落度が重大な結果につながつてゐたか
どうかを知ることができません。


人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがひが、やがては人間とその一生を
支配するといふふしぎは、本当は罪や悪や不道徳よりも、本質的におそろしい問題なのであります。

三島由紀夫「不道徳教育講座 0の恐怖」より
58名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 20:56:02 ID:aRU1pR5H
死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。死者に対する悪口は、
これに反して、いかにも人間的です。悪口は死者の思ひ出を、いつまでも生きてゐる人間の
間に温めておくからです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 死後に悪口を言ふべし」より


ケチな人と附合つて安心なのは、かういふ人には、まづ、やたらと友だちに「金を貸してくれ」
などと持ちかけるダラシのないヤカラはゐないことです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 ケチをモットーにすべし」より


利口であらうとすることも人生のワナなら、バカであらうとすることも人生のワナであります。
そんな風に人間は「何かであらう」とすることなど、本当は出来るものではないらしい。
利口であらうとすればバカのワナに落ち込み、バカであらうとすれば利口のワナに落ち込み、
果てしもない堂々めぐりをかうしてくりかへすのが、多分人生なのでありませう。

三島由紀夫「不道徳教育講座 馬鹿は死ななきや……」より
59名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 20:56:18 ID:aRU1pR5H
告白癖のある友人ほどうるさいものはない。もてた話、失恋した話を長々ときかせる。


やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であつて、われわれは自分の弱さをいやがる気持から人の長所を
みとめるのに、人も同じやうに弱いといふことを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。


どんなに醜悪であらうと、自分の真実の姿を告白して、それによつて真実の姿をみとめてもらひ、
あはよくば真実の姿のままで愛してもらはうと考へるのは、甘い考へで、人生をなめて
かかつた考へです。

三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より
60名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 20:56:37 ID:aRU1pR5H
北欧諸国で老人の自殺が多いのは何が原因かね。社会保障が行き届きすぎて、老人が何も
することがなくなつて、希望を失つて自殺するのである。


青年男女の自殺といふのはママゴトのやうなもので、一種のオッチョコチョイであり、
人生に関する無智から来る。


大体、男女といふものは、色事以外は、別種類の動物であつて、興味の持ち方から何から
ちがふし、トコトンまでわかり合ふといふわけには行かないのであるから、どこへも
男女同伴夫婦同伴などといふのは、人間心理をわきまへぬ野蛮人の風習である。

三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より
61名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 20:56:53 ID:aRU1pR5H
どんな功利主義者も、策謀家も、自分に何の利害関係もない他人の失敗を笑ふ瞬間には、
ひどく無邪気になり、純真になります。誰でも人の好さが丸出しになり、目は子供つぽい
光りに充たされます。

友情はすべて嘲り合ひから生れる。

三島由紀夫「不道徳教育講座 人の失敗を笑ふべし」より


三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知つてゐるとは
いへないのが、人生の面白味ですが、同時に、小説家のはうが読者より人生をよく知つてゐて、
人に道標を与へることができる、などといふのも完全な迷信です。小説家自身が人生に
アップアップしてゐるのであつて、それから木片につかまつて、一息ついてゐる姿が、
すなはち彼の小説を書いてゐる姿です。

三島由紀夫「不道徳教育講座 小説家を尊敬するなかれ」より
62名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 21:01:05 ID:aRU1pR5H
神経が疲労してゐるとき病的に性欲が昂進するのは、われわれが、経験上よく知つてゐる
ことである。これを「強烈な原始的性欲」とか、「本能の嵐」とかに見まちがへる人がゐたら、
よつぽどどうかしてゐるのである。これはむしろ本能から一等遠い状態です。

三島由紀夫「不道徳教育講座 性的ノイローゼ」より


怪力乱神は、どうもどこかに実在するらしい、といふのが私のカンである。
仕事をしてゐるときでも、ふと自分が怪力乱神の虜になつてゐると感じることがある。
しかしこの世に知性で割り切れぬことがあるのは、少しも知性の恥ではない。

三島由紀夫「不道徳教育講座 お化けの季節」より
63名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 21:01:25 ID:aRU1pR5H
人間対人間では、いつも勝つのは、情熱を持たない側の人間です。
あるひは、より少なく情熱を持つ側の人間です。


セールスマンの秘訣は決して売りたがらぬことだと言はれてゐる。人が押売りからものを
買ひたがらぬのは、人間の本能で、敗北者に対して、敗北者の売る物に対して、
魅力を感じないからであります。


人を待たせる立場の人は、勝利者であり成功者だが、必ずしも幸福な人間とはいへない。
駅の前の待ち人たちは、欠乏による幸福といふ人間の姿を、一等よくあらはしてゐると
いへませう。

三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より
64名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 21:01:53 ID:aRU1pR5H
いくら禿頭でも、独身の男といふものは、女性にとつて、或る可能性の権化にみえるらしい。
男にとつていかに独身のはうがトクであるかは、言ふを俟ちません。かく言ふ私でも、
結婚したとたんに、女性の読者からの手紙が激減してしまひました。


孤独感こそ男のディグニティーの根源であつて、これを失くしたら男ではないと言つてもいい。
子供が十人あらうが、女房が三人あらうが、いや、それならばますます、男は身辺に
孤独感を漂はしてゐなければならん。
…男はどこかに、孤独な岩みたいなところを持つてゐなくてはならない。


このごろは、ベタベタ自分の子供の自慢をする若い男がふえて来たが、かういふのは
どうも不潔でやりきれない。アメリカ人の風習の影響だらうが、誰にでも、やたらむしやうに
自分の子供の写真を見せたがる。かういふ男を見ると、私は、こいつは何だつて男性の威厳を
自ら失つて、人間生活に首までドップリひたつてやがるのか、と思つて腹立たしくなる。
「自分の子供が可愛い」などといふ感情はワイセツな感情であつて、人に示すべき
ものではないらしい。

三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より
65名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 21:02:13 ID:aRU1pR5H
日本も三等国か四等国か知らないが、そんなに、「どうせ私なんぞ」式外交ばかりやらないで、
たまにはゴテてみたらどうだらう。さうすることによつて、自分の何ほどかの力が
確認されるといふものであります。

三島由紀夫「不道徳教育講座 何かにつけてゴテるべし」より


現代は一方から他方を見ればみんなキチガヒであり、他方から、一方を見ればみんな
キチガヒである。これが現代の特性だ。

三島由紀夫「不道徳教育講座 痴呆症と赤シャツ」より


男が持つてゐる癒やしがたいセンチメンタリズムは、いつも自分の港を持つてゐたい
といふことです。世界中の港をほつつき歩いても最後に帰つて身心を休める港は、
故里の港一つしかない。

三島由紀夫「不道徳教育講座 恋人を交換すべし」より
66名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:42:21 ID:X9nnBrdz
僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものすべて愛した。サーカスの人々をみて僕は独言した。
「ああいふ人たちは」と僕は思つた。「音楽のやうに果敢で自分の命を塵芥かなぞのやうに思ひ、浪費と放蕩の影に
やゝ面窶(おもやつ)れし、粗暴な美しさに満ちた短い会話を交はし、口論に頬を紅潮させながらすぐさま手は
兇器に触れ、平気で命のやりとりするであらう。彼らは浪漫的な放埒な恋愛をし、多くの女を失意に泣かせ、竟には
必らずや、路上に横はつて死ぬであらう」と。僕は又、天勝の奇術舞踏に出てくる大ぜいの薔薇の騎士たちを愛した。
彼女達は、楽屋でも、日々の生活の上でも、あの危険な、胡麻化しにみちた、侘びしく絢爛な、表情と身振りとを、
決して忘れまいと思はれた。そこには僕の幼時にとつて禁断の書物であつた講談倶楽部やキングや新青年に出てくる
血みどろの挿絵のやうな、美しい生き方がされてゐるのだと僕は疑はなかつた。長い剣が触れ合ふたびごとに本当に
紫や赤の火花がとびちり、銀紙や色ブリキで作られた衣装が肉惑的にゆすぶれ乍らキラキラきらめきわたるのをみて、
僕は自分の胸がどうしてこんなに高鳴るのかわからなかつた。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「扮装狂」より
67名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:42:56 ID:X9nnBrdz
僕が何かになつてみたいなあと思ふとき、それは大抵派手な制服であつた。僕の幼な友達もそれに心から同感した。
即ちエレヴェータア・ボーイであり花電車の運転手であり地下鉄の改札掛である。地下鉄の構内には一種麻薬の
やうな匂ひがある。日もすがらさういふ匂ひを吸ひ眩ゆい電灯の白光にその多くの金釦をかゞやかせてくらして
ゐるといふことが、彼等を尚更のこと神秘の人種めかしてみせる。僕には到底ああはなれまいと幼な心にも思はれた。
それで一そう憧れは険しくなる。――ホテルのエレヴェータア・ボーイや花電車の運転手といふ職業ほど、此世に
危険な悲劇的なやけつぱちな職業はないといふ風に感ぜられる。僕はホテルなどで彼等に話しかけられると、
不良少年によびとめられたやうに我しらずドギマギした。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「扮装狂」より
68名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:43:45 ID:X9nnBrdz
僕は少年期に入る。ブラと仇名された四つ五つも年上の少年。彼は落第してきて僕らのクラスで暴君のやうに振舞ふ。
僕はすぐさま彼に英雄を発見した。言ひかへればサーカスの人を。彼を不良だと呼ぶことは実にすばらしい信仰である。
僕は彼と対等な口をきゝながら息がつまりさうな気がした。それほどまでに僕は無理を犯した。彼の白い絹の
マフラーは、派手な沓下はまことに好かつた。(中略)
ブラの魂は人には言へぬ暗い汚濁のために哭きつゞけてゐる。――僕はさう思つて同情に惑溺した。そしてその同情が
扮装欲のわづかな変形であることには気附かないでゐた。……ブラはしばしば学校を欠席しはじめた。それでも
偶には来る。あるとき用事で遅くなつて僕は夕日のほの明るいロッカア室へカバンをとりにゆくために入らうとした。
すると学生監室のドアが陰気に開いてブラが出てくる。ブラは無理に笑ふ。おおでも目の赤いこと。君でも泣くのかと
僕は責めたいやうな気持だつた。僕はだまつてゐた。ブラは学生監の悪口を二言三言云つた。僕は悪口をいふブラが
好きである。一緒にかへらうと誘つたところが、珍らしくもブラは承引した。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「扮装狂」より
69名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:44:09 ID:X9nnBrdz
(中略)桜のトンネルを出たときにブラは僕の顔をみないで軽蔑したやうな口調で言つた。――「平岡! 
貴様接吻したことある?」僕は後から来ていきなり目をふさがれたやうな気持であつた。僕はもうドキドキが
止まらなくなつてしまつた。上ずつた声で僕は返事をせずにはゐられなかつた。「いや、ないんだ、一度も」
「フン」とブラは感興がなささうに云つた。「面白くもなんともないぜ。やつてみりやあね」――二人は赤い
煉瓦造のボイラア室のそばをとほつた。蝶々がうるさく足にからんだ。
「もう、俺、いゝところへいつちやふんだ」
「ぢやもう逢へないかもしれないね」
「逢いたかないや」
僕にはこんな露骨な愛情の表現ははじめてだつた。なんといふ粗暴な美しい話術。僕は一瞬、僕も亦サーカスの人々の
絵の中にゐると感じた。僕は返事ができなかつた。僕は耳傾けた。その言葉がもう一度くりかへされるやうにと。……
だがブラはだまつたまゝ歩きつゞけ、いつのまにか僕らは裏門から、灯のつき初めた町の一劃へ出てゐた。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「扮装狂」より
70名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 12:14:15 ID:oQ78/YLo
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評なのであります。


女性の特徴は、人の作つた夢に忠実に従ふことでせうが、何よりも多数決に弱いので、
夫の意見よりも、つねに世間の大多数の夢のはうを尊重し、しかもその「視聴率の高い夢」は
大企業の作つた罠であることを、ほとんど直視しようとしません。
「だつて私の幸福は私の問題だもの」
たしかにさうです。しかし、あなたの、その半分ノイローゼ的な、幸福への夢への
たえざる飢ゑと渇きは、実は大企業が、赤の他人が作つてゐるものなのです。


一から十まで完全に良い趣味の男といふのは、大てい女性的な男ですし、ニヒリズムを
持たない男といふのは、大てい脳天パアです。

三島由紀夫「反貞女大学」より
71名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 12:14:34 ID:oQ78/YLo
貞女とは、多くのばあひ、世間の評判であり、その世間をカサに着た女の鎧であります。


芸術および芸術家といふものは、かれら自身にとつては大事な仕事であるものが、女性からは
暇つぶしに使はれるといふ宿命を持つてゐる。モーツァルトがどんなにえらからうと、
トルストイがどんなに天才だらうと、暇がなければ「戦争と平和」なんて読めたものではない。


芸術家といふのは自然の変種です。
角の生えた豚は、一般の豚から見れば、たしかに魅力的かもしれませんが、何も可愛い
わが豚娘に、わざわざ角を生やしてやるには及ばない。

三島由紀夫「反貞女大学」より
72名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 12:14:54 ID:oQ78/YLo
ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである。


女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐるが、
男に比して、すぐ肥つたりすぐやせたりしやすいところもお月さまそつくりである。


愛から嫉妬が生まれるやうに、嫉妬から愛が生まれることもある。


ちやうど年寄りの盆栽趣味のやうに、美といふものは洗練されるにつれて、一種の畸型を
求めるやうになる。
…そして、さういふ奇妙な流行を作るのは、たいてい男の側からの要求であり、パリの
デザイナーもほとんど男ですし、ほかのことでは何でも男性に楯つくことの好きな女性が、
流行についてだけは、素直に男の命令に従ひます。

三島由紀夫「反貞女大学」より
73名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 12:33:27 ID:V7p3o0dm
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、
新鮮、清潔、真白、などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。


どんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、
その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、
それに熱狂した自分も二度とかへらない。

三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より


男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。

三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より
74名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 12:35:59 ID:V7p3o0dm
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、「大学をでたから
私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて
彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。

三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より


美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。


美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが
恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知つてゐるのです。
「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。

三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より
75名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 12:37:11 ID:V7p3o0dm
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。

三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より


人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが
人生といふものである。

三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より


個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。


私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」
といふことだからです。

三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より
76名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 12:38:14 ID:V7p3o0dm
自然は黙つてゐる。自然は事実を示すだけだ。自然は決して「宣言」なんかやらかさない。

三島由紀夫「をはりの美学 梅雨のをはり」より


何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、
本来行動の人物にだけつけられる名称で、文化的英雄などといふものは、言葉の誤用だからです。

三島由紀夫「をはりの美学 英雄のをはり」より


悲しみとは精神的なものであり、笑ひとは知的なものである。


肉体関係があつたあとに、おくればせに、精神的恋愛がやつてくるといふことだつてある。


日本では、恋とは肉の結合のことであり、そのあとに来るものは「もののあはれ」であつた。

三島由紀夫「をはりの美学 動物のをはり」より
77名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 12:11:02 ID:WYAVQFYE
この本は私の年来愛読してゐる本で、面白い個所は何度もくりかへし読んだが、特に右の(寅吉がわが身の
宿命について言ふ)一節は山人天狗をそのまま「芸術家」と置き換へて読むほどに興趣を増すのである。
わけても「山人天狗などは自由自在があるといふばかり」といふ一行は美しい。ここに語られた天狗道の無償性は、
なぜ天狗が存在するか、なぜ存在しなければならぬか、といふ根本義に触れてゐる。天狗は人間とちがつて
空を自由に飛行(ひぎやう)することができる。こちらの峰からあちらの峰へ、月下に千里を飛ぶこともできる。
しかもこの超自然的能力は、それ自体が幸福でなければならず、彼には何か、世間普通の幸福を味はふ能力が
欠けてゐるのである。
これを裏から言へば、「自由自在」は羨むべき能力かも知れないが、本来市民的幸福には属さない。それは
生活を快適にする能力ではなく、日常生活にとつては邪魔になるもので、むしろそれがあるために日常生活は
円滑を欠くであらう。

三島由紀夫「天狗道」より
78名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 12:12:19 ID:WYAVQFYE
自由自在は詩的概念であつて、市民的自由とは別物である。精神がそのやうな無償の自由を味はふといふことは、
辛うじて芸術にだけ許されてゐることで、一般社会では禁止されてゐる。
しかもこの魔的に自由な精神も、たえず「人間の幸福」を羨んでゐるのである。
天狗がこんなに自在であるにかかはらず、人間の生活に本当に感情移入ができず、「その道に入りて見」ることが
できないのは、ふしぎと言はねばならない。
相手方への完全な感情移入の不可能といふ点では、天狗も人間も同等同質なのであり、そこに相互の羨望が生れる。
私にとつては、天狗におけるこの「人間的」限界が甚だ興味がある。天狗はこの点では、「饗宴」篇中で
ディオティマの語るエロスに似てゐるのかもしれない。
天狗の自在な飛行は、もちろん天狗道の使命に従つて行はれるが、人間の目からはこの使命は見えず、従つて
飛行自体が戯れと見える。

三島由紀夫「天狗道」より
79名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 12:13:45 ID:WYAVQFYE
寅吉はなほ人間時代の記憶を留めてゐるから、その戯れを人間的倫理で以て考察しようとするが、「善事か悪事か」
さつぱり分からないのである。
人間は楽でいい、と言つて羨んでみせるときの天狗には、もちろん多大のエリート意識があるが、そのエリート意識を
支へるものは、自在の飛行それ自体でなくて、日々種々の苦しい行である。これがなくては、天狗はたちまち
墜落して天狗でなくなる。
かくて天狗は、どうしても存在するために、日夜存在の努力を払ふ必要があり、このやうな存在学的努力は、
人間には本来不要なものである。
天狗にとつて人間は明らかに存在してゐるからであり、天狗のはうが分が悪いのは、或る人間たちにとつては
天狗は存在してゐる必要がないからである。

三島由紀夫「天狗道」より
80名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 12:15:57 ID:WYAVQFYE
ここにいたつて、天狗の存在の問題は、そのまま天狗の倫理になる。天狗にとつて、天狗はどうしても存在
しなければならない。それでなければ、天狗はマイノングのいはゆる存在外(アウセルザイン)にとどまるであらう。
そして天狗を存在せしめるものこそ、「日々種々」の苦しい行であり、その発現としての自在な飛行の戯れである。
後段の天狗たることの宿命について語られた一節では、その「我師」といふ一句に、川端康成氏の名を当てはめたい
誘惑にかられるが、それでは私も天狗の端くれを自ら名乗ることになつて、不遜のそしりを免れまい。むしろ、
目を泰西文学に放つて、たとへば「トニオ・クレエゲル」の美しく踊るハンスとインゲボルクの姿を、暗い
ヴェランダから硝子ごしにじつと見つめてゐる奇怪なトニオの鼻――それは又作者トオマス・マンの鼻――が、
しらぬ間に長々と伸びて来て、他ならぬ天狗の鼻に変貌してゐたりするところを、想像してゐたはうが無事かもしれない。

三島由紀夫「天狗道」より
81名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 16:59:08 ID:ZJgpZrwQ
音楽は生活必需品かといふと、人によつてちがふだらうが、私にとつては必ずしもさうではない。それは思考を
妨げるからだ。私には、音楽の鳴つてゐる部屋で物を考へるなど、狂気の沙汰としか思はれない。このごろの
青少年がジャズをききながら試験勉強をしてゐるのを見ると、私と別人種の感を新たにする。
では、音楽は休息の楽しみとして必要だらうか。私にとつては必ずしもさうではない。机に向かふのが仕事の私には、
休息とは、体を動かすことである。運動にはそれ自体のリズムがあつて、音楽を要しない。アメリカのジムなどで、
ムード・ミュージックを流してゐるところがあつたが、何だか運動に力が入らなくて困つた。
では、私にとつて音楽とは何なのだらうか。それは生活必需品でもなければ、休息の楽しみでもない。それは
誘惑なのである。

三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より
82名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 17:00:20 ID:ZJgpZrwQ
むかし米軍占領時代に、家から三丁ばかり離れた大きな邸が接収されてゐて、週末といふと舞踏会が催ほされる
らしく、夜風に乗つてダンス音楽がかすかに流れてきて、食糧難時代の新米文士の仕事を攪乱したものだつた。
しかし、その音楽には、今そこにないものへの強烈な誘惑があつた。「今そこにないもの」を、音楽ほど強烈に
暗示し、そこへ向つて人を惹き寄せるものはない。もちろんただの幻である映画だつてさうかもしれない。
が、音楽のこの誘惑の力を借りてゐない映画はきはめて稀である。
「今そこにないもの」にもピンからキリまである。ピンは天国から、キリはつまらない観光的な熱帯の小島まである。
ピンは、人間精神の絶顛から、キリは性慾の満足まである。それに従つて、音楽にもピンからキリまであるわけだが、
かう考へると、音楽は生活必需品でなくても、人生の必需品、むしろその本質的なものとも思はれる。
「今そこにないものへの誘惑」にこそ、生の本質があるからである。

三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より
83名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 15:53:51 ID:6MVsEjFn
蕗谷虹児氏の作品は幼ないころから親しんで来たものであるが、今度私の二十歳のときの作品「岬にての物語」を
出版するに当り、氏の画風ほど、この小説にふさはしいものはないと思はれたので、お願ひをして快諾を得た。
殊に口絵の百合の花束の少女像は、今や老境にをられるこの画家が、心の中深く秘めた美の幻を具現して
あますところがない。その少女のもつはかない美しさ、憂愁、時代遅れの気品、うつろひやすい清純、そして
どこかに漂ふかすかな「この世への拒絶」、「人間への拒絶」ほど、「岬にての物語」の女性像としてふさはしい
ものはないばかりでなく、おそらく蕗谷氏の遠い少年の日の原体験に基づいてゐるにちがひないこの美の
わがままな映像が、あたかも一人の画家が生涯忘れることのなかつた清らかさの記念として、私に深い感動を
与へたのである。

三島由紀夫「蕗谷虹児氏の少女像」より
84名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 10:58:56 ID:tXA318DB
アメリカのミュージカルも数多く、中には新派悲劇を歌入り芝居にしたやうなものもあるけれど、
「マイ・フェア・レディ」とこの「ウエストサイド物語」とは、文句なしに傑作であつて、日生劇場の初日は、
興奮の渦に巻き込まれたといつても過言ではない。もともと舞台のものであるし、乱闘シーンなど映画よりずつと
迫力があり、生きのいい魚市場で魚がはねあがつてゐるやうな趣があつて、刺し身好きの日本人には、この生の風味は
こたへられないものがあるにちがひない。
わたくしは一九五七年の初演も見てゐるし、一九六〇年にも見てゐるし、これで三度目だが、少しも飽きなかつた。
のみならず、つぎでどういふ曲どういふ歌どういふダンスが出てくるかわかつてゐながら、それがたのしみで
道具代はりのたびにワクワクした。これで見てもわかるとほり、なん年にわたるながい続演のシステムでも、
好きな人はなん度でも見にくるだらうことが想像される。

三島由紀夫「迫力ある『ウエストサイド物語』――初日を見て」より
85名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 11:00:00 ID:tXA318DB
(中略)
わたくしの好みでは、このミュージカルでもつとも小気味のいいのは、第一場の乱闘シーンやジムのダンス・
パーティーのシーンなどの群舞の場面と、女ばかりの「アメリカ」と男ばかりの「ジー・オフィサー・クラプキ」の
二つの歌である。とくにジー・オフィサー・クラプキのおもしろさは全編の白眉であつて、大宅壮一氏の社会時評の
最良のものを、歌と踊りで表現したやうなものだ。わたくしにはかういふ風刺的要素が、全編を貫流してゐないのが
ものたりないが、それはインテリの偏屈好みといふもので、恋物語の糖衣がなければ、ここまで成功しなかつたに
ちがひない。しかしなんとなく恋物語がよけいだといふ印象はおほひがたく、このミュージカルにかぎつて、
主役ふたりはいつも割りを食ふことになる。
現代の若者を扱つたミュージカルを作らうと思へば、共産中国を除いて、ほとんどの国の青年層は、アメリカ風の服装、
風習、言語動作に染つてゐるわけであるから、だれがどこでなにを作らうと、この本家本元の「ウエストサイド物語」に
かなふわけはない。

三島由紀夫「迫力ある『ウエストサイド物語』――初日を見て」より
86名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 11:13:28 ID:VduJjeya
サルヴァドル・ダリの「最後の晩餐」を見た人は、卓上に置かれたパンと、グラスを夕日に射抜かれた赤葡萄酒の
紅玉のやうな煌めきとを、永く忘れぬにちがひない。それは官能的なほどたしかな実在で、その葡萄酒は、
カンヴァスを舐めれば酔ひさうなほどに実在的に描かれてゐる。それならカラー写真の広告でも同じだと
云はれさうだが、実在の模写の背後に、あの神聖な、遍満する光りの主題があるところが、写真とはちがつてゐる。
その光りの下で、はじめてダリの葡萄酒はキリストの葡萄酒たりえてゐるのである。
吉田健一氏の或る小品を読むたびに、私はこのダリの葡萄酒を思ひ出す。単に主題や思想のためだけなら、
葡萄酒はこれほど官能的これほど実在的である必要がないのに、「文学は言葉である」がゆゑに、又、文学は
言葉であることを証明するために、氏の文章は一盞の葡萄酒たりえてゐるのである。

三島由紀夫「ダリの葡萄酒」より
87名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 11:54:12 ID:VduJjeya
Q――五社英雄監督の印象は?

三島:ぼくは、非常にこの人物が好きになつた。会つたのは初めてですけど、いい人です。映画監督特有の、
もつて回つたやうな芸術家気取りがない。そして好きなものは好き、きらひなものはきらひとして、なんら
映画界の権威を認めてゐない。自分の好きにとつちやふんだ。映画界からみれば、こんなに腹の立つ男はゐないと思ふ。

Q――映画に出演するといふこと、三島さんがおつしやつてる「行動」とか、「肉体」とかを結びつけると……

三島:世間では、みんな結びつけたがるから、何もかも結びつけちやふんだけど、ぼくは人間を、さういふふうに
一元的に統一しようといふのは、現代の悪い傾向だと思ふ。なるべく、ワクからはづれることが、人間にとつて
大事だといふ考へをもつてゐる。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
88名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 11:56:17 ID:VduJjeya
たとへば、いちばん崇高でもあり、つぎの瞬間にいちばん下劣でもあるのが人間なんですよ。ぼくは、さういふ
人間を考へる。崇高なだけであつてもウソに決まつてゐる。また下劣なのが人間の本当の姿だ、といふ考へ方も
大きらひなんですよ。それは自然主義的な考へ方で、十九世紀に、ごく一部にできた迷信ですよ。人間は崇高であると
同時に下劣。だから、ぼくのことを下劣だと思ふ人があれば、それでもかまはない。ぼくの中にだつて、
「一寸の虫にも五分の魂」で、崇高なものもある。それを、ぼくは自分でぼくだと思ふ。
むりやりに結びつけて、論理的に統一しようつたつて、できるものではない。ただ思想的には節操は大切だと
思ひますけど、それと人間の行動の一つ一つ。つまり節操の正しい人は、どんなクソの仕方をするのか。いつも
まつすぐなクソがでてくるかといふと、そんなものぢやない。節操の正しい人でも、トグロを巻いちやふ。
節操の曲がつた人でも、まつすぐなクソが出るかもしれない。そんなこと関係ないですよ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
89名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 11:57:17 ID:VduJjeya
Q――かなり全共闘に共鳴するところがあつたんぢやないですか。

三島:それは共鳴するところもあるし、反発するところもある。自民党の人間と会つたつて、それは同じことだ。

Q――全共闘の立ち場を幕末でいふと……。

三島:幕末にはないよ。幕末は一人でやれなければいけない。みんなからだを張つてゐますね。一人でやれると
いふことは、サムラヒの根本条件ですよ。一人でやれるやつは、全共闘に一人もゐないぢやないですか。みんな
集団の力を組まなければ、何もできない。一人で連れてきて胸ぐらをつかんだら、みんなペコペコするだけですよ。
そんなのサムラヒぢやない。したがつて、明治維新に類型を求めることはできませんね。

Q――サムラヒといふことについて、もう少し詳しく説明をしてください。

三島:要するにサムラヒといふのは、一人でやれるといふことですよ。その精神だね。それしかないと思ふ。
外人の中で、よく全共闘を幕末の志士にたとへるやつがゐるんだけれども、とてもぼくは怒るんですよ。
とんでもない。精神が違ひますよ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
90名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 11:58:14 ID:VduJjeya
Q――文学者としての三島さんが、時務の文章を書くのは……。

三島:つまり文学といふものは、死んだものぢやない。生きて動いてゐるものだ。お茶器みたいに、きれいなものを
作つて、戸だなにしまつておくものぢやない。動いてゐるものだ。一方で、美しい文学を書くためには、喜んで
ドロ沼の中へ手を突つ込まなければダメだと思ふ。手を汚さないことばかり考へたんぢや、文学はダメになつちやふ。
たまたま病気でサナトリウムにはひつてゐる、といふなら、それはいいよ。運命だからね。

Q――その人にとつては、それがドロ沼の中に手をつつ込んだことになるわけですね。

三島:その人にとつてはさうだ。病気といふものはさうだらう。宿命だから……。だけど、からだが丈夫で、
生きて動いてゐる人間が、ドロ沼のそばを着物が汚れるからと、よけて通るのは作家ぢやない。ぼくはさう思ふ。
ドロ沼にはひつて、おぼれるかもしれないけれど、おぼれる危険を冒して、生きてゐなきや小説は書けない。
ドロ沼にはひつたとき、どういふふうに表現するか。人間だから考へますね。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
91名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 11:59:12 ID:VduJjeya
それは、濾過されて文学になる部分もあり、いくら濾過しても文学にならん部分もある。ドロ水を飲料水にするための
濾過装置があるでせう。濾過装置の中で、残つたドロと飲料水になる水とあるけど、残つたドロがいらないもので、
捨てちやつていいものかといふと、ぼくはさうぢやない。それが現実なんだ。現実を避けることはできないね。
現実を避けて自分が象牙の塔に閉ぢこもるときには、象牙の塔の純粋性が保たれなければ死んでしまふ。
ぼくは、文学を象牙の塔だと考へてゐる。水晶のお城だと考へてゐる。それを大事にしておくためには、作家が
ドロ沼へはひらなければ、といふパラドックスがある。ぼくはさうだと思ふ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
92名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/10(木) 14:04:54 ID:sSTl7w/0
男が女に化ける日本演劇の伝統様式を丸山はみごとに受けついでゐる。その伝統が時代に密着して花開いたのが
“丸山ブーム”の原因と考へる。女形は、わづかにかぶきのジャンルにみられるだけで、新派でも早晩衰徴して
いくだらう。そのなかで現代女形――丸山明宏の誕生は心づよい。西洋では“フィーメン・イン・パーソナリティー”
といふ完全な道化役者はゐるが、日本のやうな女形は、シェークスピア時代からさびれた。だから女形は日本の
ほこりで、女形がなくなったらかぶきは消えてしまふとさへ断言できる。
中村歌右衛門でもさうだが、丸山には女形特有の我の強さ、意思の強さを猛烈に持つてゐる。よくいへば
根性があるといふのか……。それだから彼の可能性は、まだまだ発掘されるにちがひない。

三島由紀夫「可能性はまだまだ――現代の女形―丸山明宏」より
93名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/10(木) 14:10:37 ID:sSTl7w/0
私は「擬制の終焉」から、はつきりと吉本氏のファンの一人になつたが、読みながら一種の性的興奮を感じる
批評といふものは、めつたにあるものではない。読者は観念の闘牛場の観客の一人になつて、闘牛士のしなやかな
身のこなしと、猛牛の首から流れる血潮に恍惚とする。
本書に収められてゐる批評の傑作「丸山真男論」をはじめ、氏の批評には、認識の運動が逞しく働らいてつひには
赤裸々な現実の真姿が現はれてくるときのスリルが充満し、三文小説でイカモノの現実ばかりつかまされて
困つてゐる人は、吉本氏の著書を読むがいい。それでゐて、氏の批評には、かよわい美食家など到底及ばぬ
文学的グルメの犀利な味覚がひらめいてゐる。谷崎潤一郎の「風癲老人日記」の末尾のカナ文字日記体を、
長歌に対する反歌の役割だ、といふ卓見などそのほんの一例である。

三島由紀夫「吉本隆明著『模写と鏡』推薦文」より
94名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/10(木) 19:54:32 ID:sSTl7w/0
日沼氏と私は、ほとんど死についてしか語り合はなかつたやうな気がする。氏は、今から考へれば死の近い人特有の
鋭い洞察力で、私の文学の目ざす方向の危険について、掌(たなごころ)を斥すやうによく承知してゐた。
氏は会ふたびに、私に即刻自殺することをすすめてゐたのである。もちろん買被りに決つてゐるが、氏は私が
今すぐ自殺すれば、それはキリーロフのやうな論理的自殺であつて、私の文学はそれによつてのみ完成する、と
主張し、勧告するのであつた。その当人に突然死なれた私の愕きは云ふまでもあるまい。電話で訃音に接したとき、
咄嗟にその死を、私が自殺と思ひちがへたのも無理はあるまい。しかし病死であればあるほど、生きてゐる同士なら
酒間の冗談でも済ませられるものが、済ませられなくなつたといふ重荷は私の肩に残る。いかなる意味でも、
それは冗談ではなくなつたのである。

三島由紀夫「日沼氏と死」より
95名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/10(木) 19:55:34 ID:sSTl7w/0
氏といへども、もちろん私について誤解はしてゐた。私が文学者として自殺なんか決してしない人間であることは、
夙に自ら公言してきた通りである。私の理窟は簡単であつて、文学には最終的な責任といふものがないから、
文学者は自殺の真のモラーリッシュな契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。
すなはち、武士の自刃しかみとめない。そんな男に、文学者としての「論理的自殺」をすすめてやまなかつた氏は、
あるひは私を誤解してゐたのかもしれないが、あるひは実は、私なんか眼中になく、私に託して、自らの夢を
語つてゐたのかもしれないのである。人からきいた話だが、ある雑誌の「私のなりたい職業」といふ問ひに、
「隠亡」と答へた氏であつたさうである。

三島由紀夫「日沼氏と死」より
96名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 23:08:28 ID:xFjjW/rZ
近代日本文学史において、はじめて、「芸術としての批評」を定立した人。
批評を、真に自分の言葉、自分の文体、自分の肉感を以て創造した人。
もつとも繊細な事柄をもつとも雄々しく語り、もつとも強烈な行為をもつとも微妙に描いた人。
美を少しも信用しない美の最高の目きき。獲物のをののきを知悉した狩人。
あらゆるばかげた近代的先入観から自由である結果、近代精神の最奥の暗部へ、づかづかと素足で
踏み込むことのできた人物。
行為の精髄を言葉に、言葉の精髄を行動に転化できる接点に立ちつづけた人。
認識における魔的なものと、感覚における無垢なものとを兼ねそなへた人。
知性の向う側に肉感を発見し、肉感の向う側に精神を発見するX光線。
遅疑のない世界、後悔のない世界、もつとも感じ易く、しかも感じ易さから生ずるあらゆる病気を免かれた世界。
一個の野蛮人としての知性。
一人の大常識人としての天才。

三島由紀夫「小林秀雄頌」より
97名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/12(土) 14:30:03 ID:Db/1mjLJ
Q――あなたはブルジョアですか。
三島:日本にはブルジョアはゐない。サムラヒの末裔と百姓の末裔と商人の末裔だけだ。私は血すぢでは百姓と
サムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、生活のモラルではサムラヒである。

Q――あなたはまじめですか。サルバドール・ダリに近いと思ふか。
三島:何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。ダリは少しも滑稽ではない。
彼は崇高である。

Q――あなたは連帯的ですか、孤独を好みますか。あるひはこの両極端の間に平凡とは思はれない中庸がありえますか。
三島:孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。われわれは水晶の
数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には
中庸などといふものはありえない。バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。

三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より
98名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/12(土) 15:10:22 ID:Db/1mjLJ
「友達」は、安部公房氏の傑作である。
この戯曲は、何といふ完全な布置、自然な呼吸、みごとなダイヤローグ、何といふ恐怖に充ちたユーモア、
微笑にあふれた残酷さを持つてゐることだらう。
一つの主題の提示が、坂をころがる雪の玉のやうに累積して、のつぴきならない結末へ向つてゆく姿は、
古典悲劇を思はせるが、さういふ戯曲の形式上のきびしさを、氏は何と余裕を持つて、洒々落々と、観客の鼻面を
引きずり廻しながら、自ら楽しんでゐることだらう。
まことに羨望に堪へぬ作品である。
かういふ純粋な作品については、あまり暗喩に心をわづらはされぬはうがいいだらう。連帯の思想が孤独の思想を
駆逐し、まつたくの親切気からこれを殺してしまふ物語は、現代のどこにでもころがつてゐる寓話であるが、
この社会的連帯の怪物どもは、日本的ゲマインシャフトの臭気を放つことによつて、一そう醜く、又、一そう
美しくなる。大詰の幕切れの、光りを浴びて次の犠牲を求めに出発する家族像は、ほとんど聖家族の面影を
そなへてゐる。

三島由紀夫「安部公房『友達』について」より
99名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/12(土) 15:15:10 ID:Db/1mjLJ
これは動いてゐる小説である。動いて、動いて、時々おどろくほど鮮明な映像があらはれながら、却つて現実の謎は
深まつてゆく。たえざるサスペンス、そして卓抜な会話が社会の投影図法を描き、犯罪の匂ひと、尾行と襲撃と、
……その結果、イリュージョンがつひに現実に打ち克ち、そこから見た現実自体の構造が、突然すみずみまで
明晰になる。ラストのモノロオグが、この小説の怖ろしい解決篇であり、作品全体の再構築であるところに、
一篇の主題がこもつてゐる。失踪者の前にのみ、未来が姿をあらはすのだ。安倍氏がその小説の中に、会話の天才を
みごとに活かし、「砂の女」よりも「他人の顔」よりも、はるかに迅速に疾走してみせた小説である。

三島由紀夫「安部公房著『燃えつきた地図』推薦文」より
100名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/13(日) 16:15:09 ID:ngdqspOz
世間とは何だらう。もつとも強大な敵であると共に、いや、それなればこそ、最終的には、どうしても味方に
つけなければならないもの。さういふものと相渉るには、政治学だけでは十分ではない。何か「世間」に負けない、
つひには「世間」がこちらを嫉視せずにはゐられないやうな、内的な価値と力が要る。魅惑(シヤルム)こそ
世間に対する最後の武器である。
なせ、彼は世間とこのやうな形で戦ひ、且つ勝利を納めたのであらう。なぜ彼のこれほど輝やかしい七転び八起きが
可能になつたのであらう。その根本原因は、彼の考へ、体験し、相手にしてきた「世間」が、芸能界などと
いふチッポケなものではなく、この人間の世の中全体であつたといふことにあると思はれる。美しい病気を
(いくら美しくても、病気である限り、もともと人に忌み避けられるものを)世間全般に伝播伝染させ、つひには
健康な人間の自信をも喪失させ、病気になりたいと願はせるまでもつてゆくこと。すなはち、自分一個の病気を
時代病にまでしてしまふこと。こんなことはいはゆる芸能界の人間などのよくなしうることではない。

三島由紀夫「序(丸山明宏著『紫の履歴書』)」より
101名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/13(日) 16:19:05 ID:ngdqspOz
(中略)
詩の形で語られたその幼時期の回想は美しい。君は人間の世の中に、まづ辛苦を見ずに、やさしさを発見した。
それも荒々しい素朴なやさしさを。この果実の味は、以後の人生観を決定するものとなる。つまり、そのやうな
荒々しいやさしさの鋳型によつて、丸山明宏といふ、一人のやさしい荒々しさの嵐を創り上げること。人を
苦しめる世間の悪意や俗意は、このときから、君にとつて、何かなくてはならぬものになつた。失意をも、蹉跌をも、
かうした人生は自ら選んでゆくものなのである。最終頁の詩に語られてゐるやうに、君に幸福をもたらすために
再生する死んだ若者を永遠に待ちつづけ、それまでは幸福を節約するのだ。今の成功した君が幸福であらうなどと、
私はさらさら思つてゐない。
本書を卒読して、私は次のやうな月並な感想を抱いた。すなはち、人は、虚偽を以てまごころを購ふことには
十中八九失敗するが、まごころを以て虚偽を購ふことには時あつて成功する。しかもこの上もない花やかな虚偽を!

三島由紀夫「序(丸山明宏著『紫の履歴書』)」より
102名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 11:09:59 ID:JXFlPL20
私は別に美食家ではない。おいしいものは好きだけれども、場合によつてはまづいものも好きである。美食しか
できないといふ人は、たとへばローマの「トリマルキオーの饗宴」の主人公のやうに、退廃した人間である。
私は男といふものは、絹のパジャマでも軍隊毛布でも同じやうに平気で寝られる人間であるべきだと思ふ。
絹のパジャマでなくては眠れないといふ人間は、男ではない。
(中略)ある晩外国人の大事なお客を一夕夕食に招かなくてはならなくなり、家内にマキシムに部屋をとらせて、
自衛隊の訓練のすんだ時間に車に飛び乗つて、富士から東京へ帰り、夕食後、また車で富士へ帰つたことがある。
自衛隊の食事は一日三食二百六十円である。マキシムは一食一万円である。おほむね値段からすれば百倍である。
ではマキシムが百倍だけおいしかつたかといへば、そんなことはない。自衛隊では自衛隊の食事が相応においしく、
マキシムではマキシムの料理が相応においしかつただけのことである。その場その場でどちらもおいしいと思ふのは
私の胃が健康だからであり、そしてそれだけのことである。

三島由紀夫「美食について」より
103名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 11:15:04 ID:JXFlPL20
(中略)
人生経験を積むにつれて、いろんなものを食べる機会にぶつかる。私はエジプトの鶏も、ギリシャのムサカも、
(中略)ブラジルの天下一品の椰子の芯のサラダ、ラオスのあらゆる樹葉のサラダ、北米のロメインのサラダ、
タイ料理、インド料理……あらゆるものを食べた。自衛隊では、縞蛇もガマ蛙も自分で料理して食べた。
しかしこんなものは、毎日ほしいときに食べられたら、別に珍味といふわけではあるまい。その時、その環境に
応じて、むやみにおいしく思はれるときも、まづい時もある。私が外交官になりたくないと思ふのは、職業として
毎日義務的に美食をするほど人生で辛いことはあるまいと思ふからである。
結婚して毎日ご馳走を幾皿も家庭で作らせる亭主を、美食家と思つて、自慢のタネにしてゐる女性は哀れである。
くりかへして言ふが、いはゆる美食家は退廃した人間であり、何を食はせても「うまい」「うまい」と喜んで
平らげる男、女から見たら物足りない男こそ、女性にとつて誇るべき亭主なのである。

三島由紀夫「美食について」より
104名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 19:39:23 ID:JXFlPL20
一月三日(火)
しかし、何といつても、ボクシングはあの場内の興奮に包まれて、ぢかに見るべきものだ。テレビだと、
十五ラウンドが、スカスカと機械的に運ばれる感じで、興味は半減する。(中略)
解説のアナウンサーの声が全くいやらしい。ボクシングの試合なのだから、もうちよつと粗野な、ボクサー風に
鼻のつまつたカスレ声のアナウンサーを連れて来るわけには行かないのか。そのはうがずつと気分が出るぢやないか。
いやに澄んだ高い声の、中性的なアナウンサーの乙リキにすました軽薄な「客観性」、これこそ、ジャーナリズムの
いはゆる「良心的客観性」の空虚ないやらしさを象徴してゐる。

一月八日(日)
道場の冷え込み方はものすごく、むかしの寒稽古の寒さを思ひ出す。(中略)剣道の稽古も、飛び回るうちに
体はだんだん温まつてくるが、足の裏だけは寒餅みたいになつて感覚がない。そのうちやつと、その足も温まつてくる。
この日本刀で人を斬れる時代が、早くやつて来ないかなあ。

三島由紀夫「日録(昭和42年)」より
105名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 19:40:36 ID:JXFlPL20
一月十日(火)
革命の機が熟したとき、文化人はあひもかはらず、女子供と同様に扱はれるであらう。それはいはばウサギの
役割なのだ。もしプラカードを持つてフラフラして、ぶち殺されれば、革命陣営は口をきはめてその「英雄的行動」を
ほめそやすであらう。しかしそれはウサギの英雄にすぎないのだ。
なぜなら、文化人知識人といふものは、老人か、女子供に類する肉体的弱者に決つてゐるから、「弱者が殺された」
といふ民衆的憤激をそそり立てるのに効果的であり、ただ弱者であるのみならず、その上、多少の知識や文化的
活動の経歴名声がプラスして、「尊敬すべき弱者が殺された」といふ政治的効果は多大なものだ。革命における
文化人の効用は、ウサギの肉の効用である。
私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。独特のクサ味を調味料で除去すれば、
うまいはうの肉に入る。ウサギにしろ、ニワトリにしろ、豚にしろ、さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉は
うまい部類に入る。
肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を固めたのである。

三島由紀夫「日録(昭和42年)」より
106名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 10:26:04 ID:8w19fFzY
われわれ日本人は本来派手好みなのである。少くとも室町時代までは、いかに色彩と金ピカを好んだかは、
金閣寺や能楽を見てもわかる。(中略)長い鎖国時代に、さびしい寒色の趣味が上品だとされるやうになり、
けばけばしい趣味は、上は御所、下は民衆の一部に残るだけになつた。明治になつてからも、田舎者の文化が、
いよいよ日本人の趣味を窮屈にしてしまつた。
明治の開国以後、外国の趣味がとり入れられても、渋いイギリス趣味ばかりが上流階級で歓迎され、みんなが
そのマネをした。
私は生来、明るい地中海文化が好きで、ラテン的な色彩を愛し、さらに中南米(ラテン・アメリカ)の植民地建築に
心酔して、その熱帯の色彩美とメランコリーを日本に移植しようと志し、スペイン植民地風の家を建て、その中を
フランス骨董やスペイン骨董で飾り立てた。(中略)
着るものについては、私は一切流行といふものを顧慮しない。信頼のおけるテイラーで、一旦「私の型」と
いふものを決めてしまふと、それを変へず、寸法のはうは年中一定だから、生地さへ選べば、あとは簡単である。

三島由紀夫「男の美学」より
107名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 10:26:55 ID:8w19fFzY
(中略)
大体私は、熱帯好きでもあるし、北方風なキチンとしたお洒落はきらひである。できるなら一年中裸でゐたいのだが、
それもならず、庭の中央に、イタリーから持つてきて据ゑた大理石のアポロ像が、春夏秋冬、まつ裸で外気に
さらされてゐる姿をうらやむばかりだ。
美的生活と云つても、十九世紀のデカダンのやうな、教養と官能に疲れた憂鬱で病的な美的生活は、私は
まつぴら御免である。
このごろの気持の変化として、剣道などをはじめてから、日本刀が好きになつたり、紋付袴を着てみたくなつたり
しはじめた。やはり日本の男には、剣道着ほど、男らしくて、すがすがしくて、よく似合ふ服装はないと思ふ。
しかし、純西洋風な部屋で、吉田茂氏みたいに、上等の和服を着て、上等の葉巻をくゆらすのも乙である。
年をとつたら、きつとさういふ風になるだらう。
(中略)
「美しく生き、美しく死ぬ」といふのは、古代ギリシア人の念願だつた。生きるはうはまだしも、どうしたら
美しく死ねるのか。

三島由紀夫「男の美学」より
108名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 11:23:04 ID:8w19fFzY
電熱器ばやりの今の人には火鉢と云つてもピンと来ないだらうが、むかしは炭火をカンカン起して、鉄の網を
五徳にのせて、東京人が「おかちん」と呼ぶところの餅を、火鉢で焼いて喰べるのが、冬の夜の家庭のたのしみの
一つであつた。
その鉄の網目の模様がコンガリと焼けた餅にのこり、私たちは、熱い餅をフーフー吹きながら、醤油をかけて、
おいしく喰べたものだ。
さて、いくら早く焼きたいからと云つて、餅を炭火につつこんだのでは、たちまち黒焦げになつて、喰べられた
ものではない。餅網が適度に火との距離を保ち、しかも火熱を等分に伝達してくれるからこそ、餅は具合よく
焼けるのである。
さて、法律とはこの餅網なのだらうと思ふ。餅は、人間、人間の生活、人間の文化等を象徴し、炭火は、人間の
エネルギー源としての、超人間的なデモーニッシュな衝動のプールである潜在意識の世界を象徴してゐる。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より
109名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 11:29:50 ID:8w19fFzY
人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけではすぐ枯渇してしまふ、
ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅をもたらす危険を内包してゐる。
ではその危険を排除して、安全で有益な活動だけを発展させようといふ試みは、むかしからさかんに行はれたが、
一度も成功しなかつた。
どんなに安全無害に見える人間活動も、たとへば慈善事業のやうなものでも、その事業を推進するエネルギーは、
あの怖ろしい炭火から得るほかはない。一例が、プロヒューモ氏は、例の醜聞事件以後、すばらしく有能な
慈善事業家として更生してゐるさうである。
人間の餅は、この危険な炭火の力によつて、喰へるもの、すなはち社会的に有益なものになる。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より
110名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 11:31:25 ID:8w19fFzY
しかし、もし火に直接に触れれば、喰へないもの、すなはち社会的に無益有害なものになる。だから、餅と火の
あひだにあつて、その相干渉する力を適当に規制し、餅をほどよい焼き加減にするために、餅網が必要になるのである。
たとへば殺人を犯す人間は、黒焦げになつた餅である。そもそもさういふ人間を出さないやうに餅網が存在して
ゐるのだが、網のやぶれから、時として、餅が火に落ちるのはやむをえない。さういふときは、餅網は餅が
黒焦げになるに委(まか)せる他はない。すなはち彼を死刑に処する。餅網の論理にとつては、罪と罰は一体を
なしてゐるのであつて、殺人の罪と死刑の罰とは、いづれも餅網をとほさなかつたことの必然的結果であつて、
彼は人を殺した瞬間に、すでに地獄の火に焼かれてゐるのだ。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より
111名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 11:33:34 ID:8w19fFzY
そして責任論はどこまで行つてもきりがなく、個人的責任と社会的責任との継目は永遠にはつきりしないが、
少くとも、殺人といふ罪が、人間性にとつて起るべからざることではなく、人間の文化が、あの怖ろしい炭火に
恩恵を蒙つてゐるかぎり、火は同時に殺人をそそのかす力にさへなりうるのである。かくて、終局的に、責任は
人間のものではないとする仏教的罪の思想も、人間には原罪があるとするキリスト教的罪の思想も生れてくる
わけであるが、餅網の論理は、そこまで面倒を見るわけには行かない。
ただ、餅網にとつていかにも厄介なのは、芸術といふ、妙な餅である。この餅だけは全く始末がわるい。この餅は
たしかに網の上にゐるのであるが、どうも、網目をぬすんで、あの怖ろしい火と火遊びをしたがる。そして、
けしからんことには、餅網の上で焼かれて、ふつくらした適度のおいしい焼き方になつてゐながら、同時に、
ちらと、黒焦げの餅の、妙な、忘れられない味はひを人に教へる。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より
112名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 11:34:46 ID:8w19fFzY
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり文化財となる。
それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。古典的名作はそのやうな意味での完全犯罪であつて、
不完全犯罪のはうはまだしもつかまへやすい。黒焦げのあとがあちこちにちらと残つてゐて、さういふところを
公然猥褻物陳列罪だの何だのでつかまへればいいからである。それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、
火がおそろしくて、白くふつくら焼けることだけを目的として、おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに
引上げてしまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な傑作になる機会を
逸してしまふといふことである。

三島由紀夫「法律と餅焼き」より
113名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 17:38:27 ID:8w19fFzY
古代ギリシア人の理想は、美しく生き、美しく死ぬことであつた。わが武士道の理想もそこにあつたにちがひない。
ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬことはもつとむづかしいといふ
ところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、
金が人生の至上価値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もつとも往生際のわるい病気である癌で
死ぬまで待つほかはない。
美しく生き美しく死なうとすれば、まづその条件を整へて行かねばならない。少くとも、自分の仕事に誠実に生き、
又、国や民族のためには、いさぎよく命を捨てる、といふのは美しい生き方であり死に方であるが、やりがひの
ある仕事がない、国家自体があやふやである、といふのでは、もう美しい生き方や死に方はありえないから、
わがためにも、国や民族の在り方を正して行くことが先決問題である。

三島由紀夫「美しい死」より
114名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 17:39:31 ID:8w19fFzY
(中略)
武の心持がなければ、人間は自分をいくらでも弱者と考へることができ、どんな卑怯未練な行動も自己弁護する
ことができ、どんな要求にも身を屈することができる。その代り、最終的に身の安全は保証されよう。
ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、
一か八かといふときには、戦つて死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は
美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉に
できてゐる。
私は自衛官にはならなかつたけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは
国を護るために馳せ参じたいといふ気持になつてゐる。予備自衛官諸氏は、さういふ国民が私一人でないことを
信じていただきたいと思ふ。全国民の気持が、予備自衛官の気持と一つになつたとき、はじめて日本は、
国家としての美しい完成体になるのだと思はれる。

三島由紀夫「美しい死」より
115名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 13:23:58 ID:NPCvAtV5
理想的な父親の教育とは、父子相伝の技術の教育であつた。そこに父親といふものの意味があつた。漁師の父親が、
息子に、縄のなひ方から、櫓のこぎ方、網の打ち方、などをだんだんに教へてやる。時には、わざと教へないで、
息子に危険を犯させて自得させる。そして父親の死後、息子は若かりし日の父親とそつくりの、村一番の、逞しい、
熟練した漁師になる。舟を漕いで沖に向ふとき、朝焼けの空の雲一つが、人の顔のやうに見え、その顔から、
父親のきびしい、しかし温かな面影を思ひ出す。……
これが本当の父子といふものだ。しかるに都市のインテリ階級は、息子に伝へるべき技術を何も持たぬ。上役に
おべんちやらを言ふ技術なんか、息子に教へるわけには行かない。私のやうに、都市インテリ階級の家に生れて、
その上、特殊な文筆業の、決して息子に伝へることのできない一代限りの技術で生活してゐる者はどうすれば
よいのか?

三島由紀夫「わが育児論」より
116名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 13:26:06 ID:NPCvAtV5
事業を持つてゐれば、事業を息子に継がせるための教育といふものもあらう。しかし、私は自分の息子が文筆業者に
なることを決して望まないのである。世俗の目からは収入(みいり)のいい職業だと思はれてゐるかもしれないが、
この職業の心の地獄を私はよく知つてゐるからだ。
そこで子供には普通の市民生活への道を歩ませたいのだが、そのためには家庭の環境が特殊すぎる。大体子供が
向上心を持つには、親が適度に貧乏であることが必要なのだが、むかしの日本では、貧富を問はず、子供(殊に
男児)に贅沢をさせない気風は徹底してゐた。私は貿易自由化の今でも、学生が、高価なスイス製の腕時計を
はめてゐたり、舶来の万年筆を使つてゐたりすると、言ひやうのない不愉快な感じをもつ。しかし今の子供は
昔とちがふ。(中略)今では、収入の多い親が、ムリヤリ経済的に子供を圧迫して、自分の古い儒教的倫理観を
満足させたところで、そんな不自然なことには、子供がついて行かないのである。

三島由紀夫「わが育児論」より
117名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 13:28:04 ID:NPCvAtV5
私は今六歳の女児と三歳の男児を持つてゐるが、女児が生れたとき、私は父親の最低限度の教育として、三つの
言葉を教へようと骨を折つた。それは、
「こんにちは」
「ありがたう」
「ごめんなさい」
の三つである。「こんにちは」は、「おはやう」「おやすみ」「ごきげんよう」「こんばんは」「さやうなら」
等々を含み、要するに日常の挨拶である。
「ありがたう」は、社会生活の要求する最低限度の言葉で、人に何かをしてもらつたとき、人に何かをもらつたとき、
必ず言ふべき言葉である。
「ごめんなさい」は、自分があやまちを犯したとき、素直に口をついて出るべき言葉である。
この三つが、大人になつてもスラリと出ない人間は、社会生活の不適格者になる。私は口やかましくこれだけを言ひ、
子供たちはどうやら言へるやうになつたが、言はないときは忘れずに寸時を措かずにこちらから催促する。
とにかく命令して言はせるのである。

三島由紀夫「わが育児論」より
118名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 13:29:30 ID:NPCvAtV5
それから、テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところで
あるので、どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、
多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで
時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には
帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。子供のウソは、子供の夢と
結びついてゐるからである。

三島由紀夫「わが育児論」より
119名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 10:41:27.16 ID:AGPkDXeK
私が法廷で述べたことは、この映画の醜悪さは議論の余地がないこと、この映画の主題は(たとへば私の映画
「憂国」が、一定の政治状況下において、性が異常に美しく昂揚するのを描いたのとちやうど反対に)一定の
政治状況下において、性が極度に歪められ圧殺されるのを描いてゐること、性行為はそのやうな醜悪な形でのみ
描かれ、唯一の純情な恋人同士の間には性交が存在しないこと、能の居グセその他の様式を大胆に用ひ、また
長回しの技巧によつて、一時的な性的印象を政治的寓喩へ移行させる様式をはつきり意図してゐることであつた。
今も私のこのやうな考へに変はりはない。
すばらしく穢(きたな)らしい映画であるが、問題の米軍基地のそばを裸女が駆ける場面だけは、ふしぎに
美しい印象になつて残つてゐる。あそこには、何か壮烈なものがあつた。何もしひて、裸女を日本の象徴と
見立てなくても。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より
120名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 10:46:15.67 ID:AGPkDXeK
私がこの裁判について心配したことは、現下日本の、文化に対する偽善的風潮が裁判に影響しはしないか、といふ
ことであつた。私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生といふ考へがきらひである。蠅のゐないところで、
おいしい料理が生まれるわけがない。アメリカ文化を貧しくさせたものは、清教徒主義と婦人団体であつて、
日本精神はもつともつと性に関して寛容なのである。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に
発展してきたものである。教育ママ的清潔主義(ミュゾフォビー)は、外来文化の皮相な影響であるから、
武智氏のいはゆる「民族主義」作品が、教育ママに死刑を宣告されることは、いかにもありさうな事態であつた。
そして、政治的にも、保守と革新が、仲よく手を握る分野は、かかる教育ママ的清潔衛生思想の分野であつて、
現下日本で、イデオロギーを越えたもつとも甘い超党派理念は「偽善」である。「黒い雪」に目クジラを立てた
婦人層の何割かは「清潔」な美濃部都知事には安心して投票したにちがひない。(中略)

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より
121名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 10:47:48.39 ID:AGPkDXeK
いくら「黒い雪」が穢らしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸術の一種として、芸術のよいところは、
そこに呈示されてゐるものがすべてだといふことだ。芸術は、よかれあしかれ、露骨な顔をさらけ出してゐる。
それをつかまへて「お前は露骨だ」といふのはいけない。要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを判断することは
遠慮すべきであるやうに、やはり芸術を判断するには遠慮がちであるべきである、といふのが私の考へである。
それが良識といふものであり、今度の判決はその良識を守つた。
この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするやうな美しさしか認めることのできない女性的暴力によつて、
いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであらう。われわれは、二度と西鶴や南北を生むことができなくなるであらう。

三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より
122名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 11:05:19.37 ID:AGPkDXeK
さてこの主人公の女賊黒蜥蜴は、十九世紀風フランス大女優の役どころで、どこから見ても、tres tres grande dame
でなければならない。現存の女優では、エドウィージュ・フィエールなんかがこれに当るだらう。初演のときには、
水谷八重子さんがみごとな成果をあげた。水谷さんのもつ堂々たる風格と、「無関心の色気」ともいふべきものと、
その古風なハイカラ味とは、余人の追随すべからざる成果を示した。
さて、これを他の女優に求めようとしても、この日本の中にちよつと求められない。新配役による再演が永いこと
実現しなかつたのはこのためもあるが、先ごろ「毛皮のマリー」を見て、丸山明宏君の演技に私は瞠目した。
君とは旧知の仲だが、歌は天才的であつても、長いセリフをこれほど堂々とこなせるとは、正直に言つて、
想像もしてゐなかつたのである。容姿から言つたら、「黒蜥蜴」にピタリのことはわかつてゐたが、セリフで
作者を唸らせてくれるかどうか未知数だつたのである。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』」より
123名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 11:09:17.35 ID:AGPkDXeK
「毛皮のマリー」で、丸山君は、長いセリフをみごとに構成し、一句一句を情感でふるはせながら、しかも強い
ハガネの裏打ちを施し、セリフが最後の頂点にいたると、噴出する悲劇的感情で観客の心をわしづかみにするといふ、
一種壮麗な技法を示した。おどろいたのは私ばかりではなかつた。演出の松浦竹夫氏も驚嘆し、二人で相談して、
実現をはかることになつた。そこへ今度松竹の重役になつた永山雅啓氏が、折よく手をさしのべてくれたのである。
もう一人の問題は、相手役の明智小五郎だつた。このダンディ、この理智の人、この永遠の恋人を演ずるには、
風貌、年恰好、技術で、とてもチンピラ人気役者では追ひつかない。種々勘考の末、天知茂君を得たのは大きな
喜びである。映画「四谷怪談」の、近代味を漂はせたみごとな伊右衛門で、夙に私は君のファンになつてゐた
のであつた。
若い二人の中山仁君も、広瀬みささんも、この作品の若さとみづみづしさの一面を十分に表現してくれるものと
たのしみにしてゐる。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』」より
124名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 23:37:32.88 ID:nVzyyeo4
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。

三島由紀夫「踊り」より
125名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 23:38:53.02 ID:nVzyyeo4
踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて
失つてしまつたものではないかと思はせるとき、その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在の
ありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののため
なのである。自由意思が、われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。

三島由紀夫「踊り」より
126名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 23:41:04.76 ID:nVzyyeo4
のみならず、何らかの制約のないところでは、無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の
宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識でみたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、
無意識の力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、
純粋な生命のよろこびを妨げてゐる。

三島由紀夫「踊り」より
127名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 23:42:30.63 ID:nVzyyeo4
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の肉体に
音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すものだと
いへるだらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる
別様の法則と秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。

三島由紀夫「踊り」より
128名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 23:44:46.59 ID:nVzyyeo4
(中略)ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、
新春のよろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。
新しい年の抱負などと考へだした途端に、われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影で
みたしてしまふ。未来のことなどは考へずに踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、
踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りはたちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久に
よろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。

三島由紀夫「踊り」より
129名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 11:17:52.60 ID:hYuIj4Ke
竜灯祭へお招きをうけて、灯籠流しにもいろいろの趣きがあるのを知つた。今まで私がしばしば見たのは
熱海の灯籠流しであつたがこれはふつうの施餓鬼の行事で、ひろい海面の潮のまにまに灯籠が漂ふのは、淋しい
彼岸へ心を誘はれる心地がした。柳橋の竜灯祭は神事である上に、いかにもこの土地らしい華麗なものである。
川面いちめんに灯籠が流れ出す数分間はふだんはただ眺めてゐるだけの隅田川をわれとわが手で流した灯籠で、
占領してしまつたやうな快感を与へる。地上の豪奢を以て、水中の竜神の心を慰めるといふ趣きがある。それが
いかにも「竜灯祭」といふ名にふさはしいのである。
また、それから引き潮に乗つてあれほど夥しかつた灯籠が、数分間のうちにほとんど視界を没し去るのも、
いかにもいさぎよくて、江戸前の感じがする。執念が残らないで、さはやかなのである。

三島由紀夫「竜灯祭」より
130名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 11:18:41.08 ID:hYuIj4Ke
最後まで料亭の舟着場の下などにまつはりついて離れない少数の灯籠もあるが、これも執念といふものではなくて、
そのすぐ上方の座敷のさんざめき、美妓のたたずまひなどに心を残して、無邪気にそこに居据つてしまつた感じで
可愛らしい。あたかもその十いくつの灯籠だけが、そろつて首をもたげてうすく口をあけて、地上の遊楽の
美しさを讃美してゐるやうだ。
灯籠流しといふと、人はすぐ暗い仏教的イメーヂを持つが、私の発見したのは別のものだつた。このごろの
大キャバレエの遊びよりも昔の人はもつと豪奢な遊びを知つてゐた。そして消えない電気の光りよりも、
波のまにまに夜のなかへ馳け込んでゆく灯籠の光りのはうに、はるかに、遊楽に一等大切な「時間」の要素が、
いきいきとこめられてゐるのを知つた。一度花やかな頂点に達してそれが徐々に消えてゆく、そのゆるやかな
時間の経過の与へる快さは、快楽の法則に自然に則つてゐて、いづれにしても花火よりも「快楽的」であると
思はれるのだつた。

三島由紀夫「竜灯祭」より
131名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:01:55.60 ID:hYuIj4Ke
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッと
するやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から
感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、
できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に
置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

三島由紀夫「愛国心」より
132名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:04:43.59 ID:hYuIj4Ke
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の
花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で
十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。もしキリスト教的な愛で
あるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。従つて、「人類愛」といふのなら多少筋が通るが、
「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の裡にしか、
理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。

三島由紀夫「愛国心」より
133名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:09:24.24 ID:hYuIj4Ke
ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を
してゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては変りがない、
といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の感情に
基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と日本人の
愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、この種の
陥穽を含んでゐる。
(中略)
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、
「大和魂」で十分ではないか。

三島由紀夫「愛国心」より
134名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:11:42.41 ID:hYuIj4Ke
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、
合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。国は
まづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、
かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく
日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、
使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。

三島由紀夫「愛国心」より
135名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:14:15.09 ID:hYuIj4Ke
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間に
この心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本を
より的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、
恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。一つだけたしかなことは、
今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。
さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分を
いつはつた考へだと言へるであらう。

三島由紀夫「愛国心」より
136名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 11:32:48.00 ID:EXTsER0T
137名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 16:22:30.19 ID:Mo8qbh6d
庭はどこかで終る。庭には必ず果てがある。これは王者にとつては、たしかに不吉な予感である。
空間的支配の終末は、統治の終末に他ならないからだ。ヴェルサイユ宮の庭や、これに類似した庭を見るたびに、
私は日本の、王者の庭ですらはるかに規模の小さい圧縮された庭、例外的に壮大な修学院離宮ですら借景に
たよつてゐるやうな庭の持つ意味を、考へずにはゐられない。おそらく日本の庭の持つ秘密は、「終らない庭」
「果てしのない庭」の発明にあつて、それは時間の流れを庭に導入したことによるのではないか。
仙洞御所の庭にも、あの岬の石組ひとつですら、空間支配よりも時間の導入の味はひがあることは前に述べた。
それから何よりも、あの幾多の橋である。水と橋とは、日本の庭では、流れ来り流れ去るものの二つの要素で、
地上の径をゆく者は橋を渡らねばならず、水は又、橋の下をくぐつて流れなければならぬ。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
138名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 16:22:53.15 ID:Mo8qbh6d
橋は、西洋式庭園でよく使はれる庭へひろびろと展開する大階段とは、いかにも対蹠的な意味を担つてゐる。
大階段は空間を命令し押しひろげるが、橋は必ず此岸から彼岸へ渡すのであり、しかも日本の庭園の橋は、
どちらが此岸でありどちらが彼岸であるとも規定しないから、庭をめぐる時間は従つて可逆性を持つことになる。
時間がとらへられると共に、時間の不可逆性が否定されるのである。すなはち、われわれはその橋を渡つて、
未来へゆくこともでき、過去へ立ち戻ることもでき、しかも橋を央にして、未来と過去とはいつでも交換可能な
ものとなるのだ。
西洋の庭にも、空間支配と空間離脱の、二つの相矛盾する傾向はあるけれど、離脱する方向は一方的であり、
憧憬は不可視のものへ向ひ、波打つバロックのリズムは、つひに到達しえないものへの憧憬を歌つて終る。
しかし日本の庭は、離脱して、又やすやすと帰つて来るのである。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
139名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 16:23:14.06 ID:Mo8qbh6d
日本の庭をめぐつて、一つの橋にさしかかるとき、われわれはこの庭を歩みながら尋めゆくものが、何だらうかと
考へるうちに、しらぬ間に足は橋を渡つてゐて、
「ああ、自分は記憶を求めてゐるのだな」
と気がつくことがある。そのとき記憶は、橋の彼方の薮かげに、たとへば一輪の萎んだ残花のやうに、きつと
身をひそめてゐるにちがひないと感じられる。
しかし、又この喜びは裏切られる。自分はたしかに庭を奥深く進んで行つて、暗い記憶に行き当る筈であつたのに、
ひとたび橋を渡ると、そこには思ひがけない明るい展望がひらけ、自分は未来へ、未知へと踏み入つてゐることに
気づくからだ。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
140名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 16:23:36.49 ID:Mo8qbh6d
かうして、庭は果てしのない、決して終らない庭になる。見られた庭は、見返す庭になり、観照の庭は行動の
庭になり、又、その逆転がただちにつづく。庭にひたつて、庭を一つの道行としか感じなかつた心が、いつのまにか、
ある一点で、自分はまぎれもなく外側から庭を見てゐる存在にすぎないと気がつくのである。
われわれは音楽を体験するやうに、生を体験するやうに、日本の庭を体験することができる。又、生をあざむかれる
やうに、日本の庭にあざむかれることができる。西洋の庭は決して体験できない。それはすでに個々人の体験の
余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。ヴェルサイユの庭を見れば、幾何学上の定理の
美しさを知るであらう。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
141名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 11:48:19.08 ID:oWkBq9z9
……それにしても、仙洞御所を一時間あまり拝観して、辞去するとき、私ははなはだ畏れ多いことながら、その庭が
自分の所有に属さないことを喜んだ。いづれ又、紅葉の季節や、花の季節に、私は拝観を願ひ出て、仙洞御所を
再訪することもあるだらう。しかし、この御庭を愛すれば愛するだけ、私はそれが決して自分の所有に属さず、
訪れない間は、京都へ行けば必ずそれがそこにあるといふ、存在の確実さだけを心に保つことができるのを喜ぶ。
それといふのも、所有といふことの不幸と味気なさを、私は我身で味はつたのは貧しい例でしかないが、人の
身の上にしみじみと見て来たからである。或るフランスの大富豪の貴族のシャトオに数日滞在してゐたときのこと、
私は次々とあらはれては去る来客を、主人夫妻が、ほぼ同じ順序でもてなすのを見た。(中略)
自分のシャトオにゐる間、主人夫妻は、いはば、案内役と司会者の役割を毎日つとめて、倦きもせずに、ただ
次々と新らしい客の讃嘆の声だけを餌にして生きてゐた。これを見てゐて、私はつくづく、所有する者の不幸と
味気なさを感じたのである。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
142名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 11:50:22.27 ID:oWkBq9z9
庭も亦所有を前提としてゐる。他人に思ふまま蹂躙された庭は、公園であつてもはや庭ではない。しかし厳密に
言ふと、所有者にとつても、それは徐々に「庭」であることをやめるのである。なぜなら、見倦きた庭は、
庭であることから、何かただ、習慣のやうなものになつて、われわれの存在の垢とまじり合つてしまふからである。
四季の変化からなるたけ影響を受けぬやうに作られた幾何学的な庭はもちろん日本の庭の中でも竜安寺の石庭の
やうな抽象的な庭は、所有者にとつては、忘れられた厖大な蔵書の一部のやうになつてゆくにちがひない。
ある庭を完全に所有すまいとすれば、その庭のもつ時間の永遠性が、いつも喚起的であるやうに努めねばならない。
理想的な庭とは、終らない庭、果てしのない庭であると共に、何か不断に遁走してゆく庭であることが必要であらう。
われわれの所有をいつもすりぬけようとして、たえず彼方へと遁れ去つてゆく庭、蝶のやうに一瞬の影を宿して
飛び去つてゆくやうな庭、しかもそこに必ず存在することがどこかで保証されてゐるやうな庭、……さういふ
庭とは何であらうか。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
143名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 11:51:17.55 ID:oWkBq9z9
私はここで又、仙洞御所の庭に思ひ当る。なぜならその御庭は、私の所有でないと同時に、今はどなたの住家でも
ないからである。しかもそれは確実に所有されてをり、決して万人の公園ではない。もしわれわれが理想的な庭を
持たうとするならば、それを終らない庭、果てしのない庭、しかも不断に遁走する庭、蝶のやうに飛び去る庭に
しようとするならば、われわれにできる最上の事、もつとも賢明な方法は、所有者がある日姿を消してしまふ
ことではないだらうか。庭に飛び去る蝶の特徴を与へようとするならば、所有者がむしろ、飛び去る蝶に化身すれば
よいのではないか。生はつかのまであり、庭は永遠になる。そして又、庭はつかのまであり、生は永遠になる。……
そのとき仙洞御所の焼亡は、この御庭にとつて、何かきはめて象徴的な事件のやうに思はれるのである。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
144名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 11:52:37.05 ID:oWkBq9z9
生きてゐる芸術家とは、どういふ姿になることが、もつとも好ましく望ましいか。
私は或る作家の作品を決して読まない。それは、その作家がきらひだからではない。その作家の作品を軽んずる
からではない。それとは反対に、私は彼の作家としての良心を敬重してをり、作品を書く態度のきびしさを
尊敬し、作品の示す芸のこまやかさと芸格の高さにいつも感服してゐる。それなのに、私は彼の作品を読まうと
しないのである。
何故かといふのに、私が読まなくても、彼は円熟した立派な作品を書きつづけてゐることがわかりきつてゐる
からである。さういふ作品が彼を囲んで、ますます彼の芸境を高めてゐることを知つてゐるからである。
さうなつた作家は、すでに名園である。いはば仙洞御所の御庭である。行かなくても、そこへ行けば、その美に
搏たれることがわかつてをり、見なくても、そこにその疑ひやうのない美が存在してゐることがわかつてゐるからだ。
だが、私は、自分の作品の、未完成、雑駁を百も承知でゐながら、生きてゐるあひだは、決してさういふ千古の
名園のやうな作家になりたいとは望まないのである。

三島由紀夫「『仙洞御所』序文」より
145名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 16:22:28.63 ID:oWkBq9z9
現代におけるリリシズムがどんな形をとらねばならぬか、といふことが、現代芸術の一番おもしろい課題だと
私は考へてゐる。リリシズムは、現代において、否定された形、ねぢまげられた形、逆説的な形、敗北し流刑に
処された形、鼻つまみの形、……それらさまざまのネガティヴな形をとらざるをえず、そこから逆に清冽な
噴泉を投射する。もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに
ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。
細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を作るからである。
そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の
置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて現代における薔薇の王権を回復する。

三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム――撮られた立場より」より
146名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 18:33:23.54 ID:H1qPufK+
147名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 20:07:36.08 ID:wePzUrWp
柳田国男氏の「遠野物語」は、明治四十三年に世に出た、日本民俗学の発祥の記念塔ともいふべき名高い名著で
あるが、私は永年これを文学として読んできた。殊に何回よみ返したかわからないのは、その序文である。
名文であるのみではなく、氏の若き日の抒情と哀傷がにじんでゐる。魂の故郷へ人々の心を拉し去る詩的な力に
あふれてゐる。
(中略)
この一章の、
「茲にのみは軽く塵たち紅き物聊(いささ)かひらめきて……」
といふ、旅人の旅情の目に映じた天神山の祭りの遠景は、ある不測の静けさで読者の心を充たす。不測とは、
そのとき、われわれの目に、思ひもかけぬ過去世の一断面が垣間見られ、遠い祭りを見る目と、われわれ自身の
深層の集合的無意識をのぞく目とが、――一定の空間と無限の時間とが――、交叉し結ばれる像が現出するからである。
(中略)
柳田氏の学問的良心は疑ひやうがないから、ここに収められた無数の挿話は、ファクトとしての客観性に於て、
間然するところがない。これがこの本のふしぎなところである。

三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より
148名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 20:08:00.10 ID:wePzUrWp
著者は採訪された話について何らの解釈を加へない。従つて、これはいはば、民俗学の原料集積所であり、
材木置き場である。しかしその材木の切り方、揃へ方、重ね方は、絶妙な熟練した木こりの手に成つたものである。
データそのものであるが、同時に文学だといふふしぎな事情が生ずる。すなはち、どの話も、真実性、信憑性の
保証はないのに、そのやうに語られたことはたしかであるから、語り口、語られ方、その恐怖の態様、その感受性、
それらすべてがファクトになるのである。ファクトである限りでは学問の対象である。しかし、これらの原材料は、
一面から見れば、言葉以外の何ものでもない。言葉以外に何らたよるべきものはない。遠野といふ山村が
実在するのと同じ程度に、日本語といふものが実在し、伝承の手段として用ひられるのが言葉のみであれば、
すでに「文学」がそこに、軽く塵を立て、紅い物をいささかひらめかせて、それを一村の緑に映してゐるのである。

三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より
149名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 20:08:22.50 ID:wePzUrWp
さて私は、最近、吉本隆明氏の「共同幻想論」(河出書房新社)を読んで、「遠野物語」の新しい読み方を
教へられた。氏はこの著書の拠るべき原典を、「遠野物語」と「古事記」の二冊に限つてゐるのである。近代の
民間伝承と、古代のいはば壮麗化された民間伝承とを両端に据ゑ、人間の「自己幻想」と「対幻想」と「共同幻想」の
三つの柱を立てて、社会構成論の新体系を樹ててゐるのである。(中略)
さういへば、「遠野物語」には、無数の死がそつけなく語られてゐる。民俗学はその発祥からして屍臭の漂ふ
学問であつた。死と共同体をぬきにして、伝承を語ることはできない。このことは、近代現代文学の本質的孤立に
深い衝撃を与へるのである。
しかし、私はやはり「遠野物語」を、いつまでも学問的素人として、一つの文学として玩味することのはうを
選ぶであらう。ここには幾多の怖ろしい話が語られてゐる。これ以上はないほど簡潔に、真実の刃物が無造作に
抜き身で置かれてゐる。

三島由紀夫「柳田国男『遠野物語』――名著再発見」より
150名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 13:47:42.27 ID:VfPqCsQ2
氏の生涯は芸術家として模範的なものだといふ考へは私の頭を去らない。
日本の近代の芸術家中の一流中の一流の天才である氏は、日本の近代といふ歴史的状況のあらゆる矛盾を
「痴態」と見てゐたにちがひない。そしてそれによつて犠牲にされたあらゆるものを、氏はあの豊じゆんな、
あでやかな言葉によつて充分に補つた。かつてわれわれが「日本語」と呼んでゐた、あの無類に美しい、無類に
微妙な言語によつて。

三島由紀夫「谷崎文学の世界」より


谷崎氏は日本古典を愛しつつ、一方、小説家として少しも旧慣にとらはれない天才であつた。この相反するかの
ごとく見える二つの特性は、日本の近代文学史の歪みの是正にもつとも役立つた。なぜなら日本の近代小説は、
日本古典の流れを汲まず、一方、自分たちのこしらへた奇妙な「近代的旧慣」のとりこになつてゐたからである。

三島由紀夫「谷崎潤一郎頌」より
151名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 14:51:57.21 ID:G1GYbUhU
谷崎氏のエロティックな領域の生活はともあれ、食生活の贅沢はいろいろと言ひ伝へられてゐる。戦時中の
食糧欠乏時代にも、美食に親しみながら「細雪」を書きつづけ、戦後は、熱海で客をもてなすのに京都から
料理人を呼び寄せたり、東京のパンはまづいからとて、京都からパンを飛行機で運ばせた、などといふ噂を、
嘘か本当か知らないが、きいたことがある。
しかし、史上伝へられるヴィクトル・ユウゴオやデュマやプルウストの贅沢に比べれば物の数にも入らない。
住居も、青年時代の横浜の洋館の純洋風生活から、関西移住後の岡本の生活など、いろいろ話にはきいてゐるが、
王候を凌ぐ贅沢といふ風には感じられない。たまたま貧乏国の貧乏文士の間に置くから目立つただけで、氏の
豪奢な文学に比べれば、いかに氏が、生活に贅を尽くしても程度は知れてゐるのである。氏の場合は、節倹第一の
儒教的倫理感とも、社会主義者の世間を気にする貧乏演技とも、はじめから無縁だつただけの話である。

三島由紀夫「谷崎潤一郎、芸術と生活」より
152名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 14:55:03.17 ID:G1GYbUhU
では氏が、生活を享楽し、生を肯定し、生活第一と考へてゐたかと云へば、決してさうではあるまい。このやうな
美の執拗な構築者、美を現実に似せるために言葉の極限の機能を利用した芸術家にとつて、生活がそれほど
根本的な関心であつたとは思はれない。大体氏には、花なら桜、食物なら鯛、医者なら一流の国手といふ、
大月並主義があつたのは事実だが、それが私には、氏が自分の夢想にリアリティーを与へる手段であつたやうに
思はれる。氏の文学的夢想はきはめて困難なものであり、これを万人の趣味の理想で飾り立てることによつて、
かつかつそのリアリティーが保障されるやうなものだつた。氏が御馳走が好きであつたことは疑ひがないが、
御馳走は、氏の文学自体がもつとも美味しい御馳走となるための手段だつたのだから、この芸術家の精神の
中にある可食細胞にとつては、生活、人生、生自体はたえず「美味しいもの」に見えてゐる絶対の必要があつた
のである。

三島由紀夫「谷崎潤一郎、芸術と生活」より
153名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 15:11:57.21 ID:G1GYbUhU
日本の近代詩人のなかで、伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ。
その煮えたぎつて煮つまつた抒情の底から、一粒一粒宝石をひろひ出すやうな作業は、おそろしいほど自虐的な
苦業だつたと思はれる。作品の上には完全な悲痛の静謐だけが現はれてゐる。伊東静雄氏の詩は私の青春の師であつた。
氏は浪漫派に属してゐるやうに言はれてゐるが、その一面をゲエテ的な明朗な古典精神が支へてゐるのである。

三島由紀夫「伊東静雄全集推薦の辞」より
154名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 12:50:59.86 ID:0vSrRPv0
映画「憂国」を見た人、いや、それよりも、見ない人が、一様に抱く疑問は、なぜ作者自身が主演したのか、
といふことであるらしい。これが最大の謎のやうに思つてゐる人もあるらしい。そこで考へられるのは、作者の
ナルシシズムだとか、マゾヒズムだとか、ぼろぼろに使ひ古された精神分析用語を持ち出して、もののみごとに
謎を解明したつもりになることである。しかしこれでは何も謎は解明されない。精神分析学の発明以来、
精神分析学を手段として利用しない芸術ジャンルは、ほとんどないと云つても過言ではないのであるから、
上のやうな言ひ方は、単なる芸術の同義反復にすぎない。
(中略)
さて、私は俳優、殊に映画俳優といふもののふしぎに魅せられてゐた。正直に言つて、これは俳優芸術のうちでも、
もつとも自発性の薄い分野である。ある意味では、影の影、幻の幻である。しかし、自発性、意志性が薄くなるに
従つて、存在性が重要性を増してくる。彼が影であることと、彼が確乎とした存在であることは、毫も矛盾しない。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より
155名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 12:51:33.81 ID:0vSrRPv0
まづ彼が、目に見えるモノとしての存在感と「それらしさ」に充ちあふれてゐなければ、影の影、幻の幻としての、
自律性を持ちえないのである。演技はその先の問題であつて、映画ではミス・キャストがいかに致命的であるかを
考へれば、思ひ半ばにすぎるものがあらう。
一方、私は小説家であり、劇作家である。小説家や劇作家は、精神、意志、知性、その他の自発性を第一条件とする。
もちろんこれには感受性が二次的に必要であるが、彼の仕事には、何よりもまづ、そこにモノを存在せしめるといふ
意志の自発性が必要である。
しかし、人間といふものは奇妙なもので、自発性、意志性が濃くなるに従つて、単なる存在性は稀薄になつてくる。
もちろん、私が、一般論として、人間の自発性、意志性が濃くなるにつれて、存在性が薄くなると云はうとして
ゐるのではない。たとへば、政治家の場合は、ナポレオンやヒトラーなど、その自発性、意志性の濃度に従つて、
存在性も濃くなつてゐた、といへるであらう。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より
156名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 12:52:19.84 ID:0vSrRPv0
が、芸術家の場合には、作品といふものがある。芸術家は、ペリカンが自分の血で子を養ふと云はれるやうに、
自分の血で作品の存在性をあがなふ。彼が作品といふモノを存在せしめるにつれて、彼は実は、自分の存在性を
作品へ委譲してゐるのである。
ここに芸術家の存在性への飢渇がはじまる。私は心魂にしみて、この飢渇を味はつた人間だと思つてゐる。
さういふ私が、存在性だけに、その八十パーセントがかかつてゐる映画俳優といふふしぎなモノに、なり代らうと
する欲求は自然であらう。
いはば私は、不在証明(アリバイ)を作らうとしたのではなく、その逆の、存在証明をしたい、といふ欲求に
かられたのである。だから映画「憂国」は、私の不在証明を証明しようとしたものの如く見えるだらうが、実は、
その逆、私の存在証明をしようとしたものだ。そして、さういふときの「私」とは、世間の既成概念にとぢこめ
られてゐる小説家としての「私」ではなく、もつと原質的な、もつと始源的な「私」であることは、いふまでもない。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より
157名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 12:53:03.41 ID:0vSrRPv0
ところで、映画俳優とは、選ばれる存在である。自分で自分を選ぶとはどういふことか? そこには論理的矛盾は
ないか?
選ぶ者と選ばれる者とを一身に兼ねることは、ボオドレエルではないが、「死刑囚と死刑執行人を一身に兼ねる」
ことに等しい。その成否は一に、画面の「私」が、作中人物としての自明の存在感を持ちうるか否かにかかつてゐる。
それは危険な賭である。自己を客観的に見ようとするときに起りがちな誤算は、誰しも免かれないにしても、
この場合は、それが最小限でなければならない。
画面の「武山信二中尉」の存在に、ほんの少しでも「小説家三島由紀夫」の影が射してゐたら、私の企図はすべて
失敗であり、物語の仮構性は崩れ、作品の世界は、床へ落ちたコップのやうに粉々になつてしまふだらう。
この危険が私に与へた魅惑、スリム、サスペンスは限りがなかつた。私が、影の影、幻の幻としての存在感を
持ちうるか否かは、私にとつての、人生の究極の夢に関はつてゐた。
しかも、この賭において、世間はすべて私の敵へ賭けてゐるのである。
さて、あとは、御覧になつた観客各位が判定を下して下さるのみである。

三島由紀夫「『憂国』の謎」より
158名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 17:49:35.09 ID:DwR4p/jR
私は残念ながら、大阪における武智歌舞伎時代に、世評の高かつた君の「妹背の道行」の求女を見てゐない。
しかし、その後、映画で見る君の芸風、容姿から考へて、求女がいかに適(はま)り役であつたか、想像するに
難くない。目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者は
あるまい。
君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。市川崑監督
としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで
行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆる
ものを注ぎ込んだのであらう。私もあの原作に「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆる
ものを注ぎ込んだ。さういうとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない。

三島由紀夫「雷蔵丈のこと」より
159名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/09(水) 11:23:55.74 ID:rETVyuqU
感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。この死を前に、戦死者たちは
生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも「絶対」に直面する。この美しさは
否定しえない。ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。

三島由紀夫「一読者として(吉田満著『戦艦大和の最期』)」より
160名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/12(土) 15:33:02.10 ID:oBy9AKwH
河、重い雲、星、対岸の大都会、暮色、灯……さういふ詩的な雰囲気が今の東京には全然ないやうです。
マンチェスタアのやうなマニフェクチュア工業の都会の哀愁は「人間の身すぎ世すぎ」「人間のなりはひ」といふ
ものに対する詩的感情から来てゐるのですね。「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活が
もたらす深い暮色の香りがたゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。
(中略)
戦争中、中島飛行場にゐたときも、僕はガウガウ音をたててゐる工場のなかを歩きまはりながら「インダストリーと
いふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね」と時代錯誤的な言草で友達を面喰はせたものでした。(中略)
僕はまた、万国博覧会にリボンをつけた硝子罎に入れて陳列されてゐるさまざまな微細な軽工業の商品見本が
好きでした。それは明治時代の国家資本主義の野暮つたい雰囲気と奇妙にマッチしてゐるなつかしさです。
生糸や鉛筆や、さういふ商品からまことに非実用的な蠱惑を僕は受けてゐたのでした。

三島由紀夫「インダストリー――柏原君への手紙」より
161名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/12(土) 15:34:01.56 ID:oBy9AKwH
野暮くさいレッテル、何とかマッチの大箱のレッテル、小学校の教科書のやうな薄暗い画で飾られたレッテルを
僕は愛しました。そのくせ僕はアド・バルーンやネオン・サインはそれほど好きでもなかつたのです。
詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないかといふ僕のドグマティックな想像を裏書する
よい証拠はないものでせうか。それともそれは消費面に育つた都会児のセンチメンタルな憧れにすぎないのでせうか。
僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁をそそるものがあるのを感じます。
それは正にコムミュニズムとは全く無関係な立場でです。昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、
何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、汚れた河口や、
並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が聳(そび)え立つてくるのでした。

三島由紀夫「インダストリー――柏原君への手紙」より
162名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:45:54.44 ID:ZmAimkoi
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。(中略)批評といふものが本質的に自己を選択する能力だと考へると、
批評こそ創造だと言ひ出したワイルドは、彼自身の運命を創造した人間のやうに思はれる。
逆説はその場のがれにこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を追ひつめ、どどの
つまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。逆説家がしばしばいちばん誠実な
人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、
逆説とは、もしかすると神への捷径だ。(中略)
さまざまな論者がワイルドの逆説のいづれかに引つかかつてゐる。ジイドでさへが。
  大作家ではない、併し大生活家だ。
ジイドはワイルドの回想の主題をここに置いたが、その根拠は、ワイルド自身の苦々しい自己弁護にみちた逆説、
「私は自分の天才のすべてを生活に注いだが、作品には自分の才能しか用ひなかつた」といふ逆説に係つてゐる。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
163名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:46:44.99 ID:ZmAimkoi
天才(ジェニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができよう。ジイドは勿論そのことをよく知つてゐた。
そこでワイルドが用法の錯誤と言ひくるめるこの二つの薬品を、ジイドは本質の錯誤と考へて分類した。ジイドは
正直にワイルドの作品に才能をしか見なかつた。しかし私は思ふのだが、ワイルドの悲劇は、この逆説のうちなる
逆説の誠実さにあるのではなからうか。分割したとたんにそのいづれでもなくなるやうな精妙な化合物を、
切れ味みごとに分割しようとして果さなかつた悲劇が。
才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、われわれは
ワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。いはば「ドリアン・グレイの画像」は才能の
足跡で踏みくたされた泥濘だ。しかしその足跡のなかの一対が、天使の足跡でないと誰が言へよう。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
164名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:47:29.66 ID:ZmAimkoi
(中略)
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が歯医者へゆく御褒美に菓子を
せびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。虚栄心はこのドラマの舞台であつて、ワイルドにとつては、
彼の道徳の苗床でもあつたやうに思はれる。
つくづく思ふのだが、ワイルドは悲劇役者として上の部でななかつた。生活の信条としての彼の悲劇への志向は、
浪漫主義詩人のボヘミアン・ライフの卵の殻を背負つてゐた。悲劇の節度も礼譲も、悲劇をして壮麗ならしめる
抑制の苦悩もなかつた。をかしなことだ。彼は数ある苦痛のうち、「抑制の苦痛」だけを知らなかつたのである。
牢獄がはじめて外部からそれを彼に教へた。
「彼の耽美主義はなにか痙攣のやうなものであつた」とホフマンスタールが書いてゐる。ホフマンスタールは
ワイルドの悲壮な戦慄を、現実の復讐を挑戦しつづける男の現実からうける脅威と見てゐる。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
165名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:48:15.21 ID:ZmAimkoi
(中略)
オスカア・ワイルドはまづもつて卑俗(と謂つてもよからう)な成功の毒に中(あた)つた。それが彼をして
半ばは虚栄心、半ばは持ち前の真摯誠実から、(この二つは彼にとつては同じものだ)、すすんで嫌はれ者の
光栄に憧れさせた。社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに飽き、つひには
恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。
綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、
醜聞といふ「死」の一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。
ボオドレエルがカソリシズムの苦悩の教義に照らして眺めた「醜の美」を、すでに人々は何らの痛痒を感ぜずに
炉辺で享楽しはじめてゐたために、人々に嫌はれるためには、むしろ身自ら癩病に罹患する必要があつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
166名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:49:11.13 ID:ZmAimkoi
(中略)
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、しかし運命のみが
独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ
立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。
(中略)
虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。ワイルドの虚栄心は、受難劇の
民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それが
その男にとつての、ともかく最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の
小説に選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。人間の心が通じ合ふための唯一の言葉である音楽を、
師ウォルタア・ペイタアにならつて、芸術の形式上の典型と呼んだワイルドは、また芸術の感情上の典型を俳優に
見出だした。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
167名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 12:51:52.37 ID:ZmAimkoi
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。それは人間の
言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。
文学者の簡明な定義を私は考へるのだが、それは人間の言葉が絶対に通じ合はぬといふ確信をもちながら、
しかも人間の言葉に一生を託する人種である。この脆弱な観念を信じなければならぬ以上、文学者は懐疑主義者に
なりきれない天分をもつてゐる。
(中略)
ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家はバネをもつてゐる人形の
やうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に
世を去つた。彼は今も異邦人だ。だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の
生まじめは、もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
168名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 11:30:28.35 ID:ADtEdYm7
別離だから悲しからう、悲しければもたもたするだらう、といふのが浅薄な心理主義と私の呼ぶところのものである。
別離は、劇に於ける超人間的なモメントだといふことが、そこでは完全に忘れ去られてゐる。それは別離を人間の
常態だと説いた哲学からの、なまぬるい離反なのであつた。


そもそも「見られた主体」とは「主張する客体」といふのと同じやうに、不可思議な存在である。戯曲といふ
純粋主体は誰の目にも見えず、俳優といふものの客体的要素が、それを人の目に見せる媒(なかだ)ちをする。
(ラジオ・ドラマでは、肉声が、この客体的要素に当る)。ところで、俳優の客体的要素が高まれば高まるほど、
映画俳優やバレエ・ダンサーのやうに、それはますます、主題を表現する抽象的役割を担ふのである。中では
舞台俳優が、セリフを通じて、もつとも主体的要素を含みつつ、実はその役割は、ますます具体的なものになる。
舞台の上では、裸体ほど抽象的で観念的なものはなく、セリフほど具体的なものはない、といふ逆説が、ここに
明らかになる。

三島由紀夫「芸術断想 舞台のさまざま」より
169名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 11:31:39.57 ID:ADtEdYm7
芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよいが、世間をあげて哀悼の意を
表しても、つまらない追悼文しか書かれない芸術家の死は哀れである。


サルドゥの「トスカ」で、私が主要な俳優たちにしばしば忠告したのは、この種の芝居における登場と退場の
大切さであつた。
役の人物があらはれる一瞬前に、役者が登場しなければならぬ。役の人物が退場した一瞬あとに、役者が
退場しなければならぬ。それがかうしたシアトリカルな芝居の味はひであると私は信じてゐる。
(中略)
つまりかういふ芝居で、観客は、役者と演技との或る一瞬のズレをたのしむのだが、それは必ずしもスタアへの
憧れや、あるひは役者の素顔に対する期待を意味するものではない。まづ存在を見、それから演技を見たいと
望んでゐるのである。それは奇術師の対する期待と似てゐて、一つのおどろくべき能力を見せられる前に、その
能力の容器をじつくり見せてもらひたいのである。

三島由紀夫「芸術断想 猿翁のことども」より
170名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 11:32:21.18 ID:ADtEdYm7
能以外の劇は、すべて、運動会のピストルみたいな幼稚な効果にたよつてゐる点で、大きな顔はできない。
「桜の園」の幕切れの有名な効果音も、いくら象徴的な効果を狙つても、この域を出ない。われわれは、劇の
総合的な効果といふものについて、丁度現実の突発的な小事件の連鎖のやうな、因果律の虜になつてゐる。
ピストルを打てば、消音ピストルでなければ、音がしなければ納まらない。しかし遠い花火があのやうに美しいのは、
遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が空中に花咲き、音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。
光りは言葉であり、音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、あとからゆるゆると来る音は、
もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂをわれわれの心に定着しつつ、別の独立な使命を
帯びて、われわれの耳に届くのである。

三島由紀夫「芸術断想 詩情を感じた『蜜の味』」より
171名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 11:33:45.96 ID:ADtEdYm7
『真相』なんて、大ていまやかしものに決まつてゐる。いつでもすばらしいのは事件そのもので、それだけなのだ。


「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、「昔はよかつた」
といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえないことを、特に若い歌舞伎俳優に銘記して
もらいたいと思ふのである。


低級な剽窃はさておき、小説で模倣の目立つほどの作品は、却つて形式意欲の旺盛な、芸術的な作品に多い。
これから見て、模倣の目立つ絵は、それだけ芸術的に高度な、あるひは高度なものを目ざした絵であるか、
といふと、それはちがふ。絵画では、形式や色彩は、より本質的なものであるから、従つて形式や色彩は画家の
無意識的なものに緊密に結びついてゐるから、その模倣は、一そう低級であつて、第一義を誤まつてゐる。
これに比して、小説の文体その他形式上の模倣は、小説における形式が非本質的かつ知的なものであるから、
その模倣も、多少とも知的なものと考へられて恕される。

三島由紀夫「芸術断想 期待と失望」より
172名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 11:34:36.11 ID:ADtEdYm7
私には、「ワグナーの純粋化」といふ観念そのものが、世にもばからしく思はれたのである。
ワグナーとは、あらゆる純粋性に対する反措定なのだ。その点では、ワグナーは、象徴主義にとつてさへ敵である。
その「綜合」の意識、「全体」の観念には、おそろしく冒涜的な力があつて、その力がもつとも崇高なものから
もつとも猥褻なものまでのあらゆる価値を等しなみにし、そこに彼独特の甘美な怖ろしい毒を、甘美な病気を
ひろめたのであつた。「トリスタン」は、ただ単に官能的だから怖ろしいのでもなく、ただ単に形而上学的だから
崇高なのでもない。そこではバスを待つ人の行列のやうにお互ひに無関心に、官能と形而上学とが一小節づつ
平然と隣り合つて並んでゐる。こんなグロテスクな無差別の最高原理である「綜合」や「全体」が、死神にしか
似てゐないのは当然だらう。死神の鎌の無差別が、人間精神の全体性への嗜慾の象徴になる。それだから
「トリスタン」は怖ろしいのである。「トリスタン」の腐敗の力に、なまなかの純粋精神などが歯が立たないのは
このためなのだ。

三島由紀夫「芸術断想 三流の知性」より
173名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 11:40:19.11 ID:ADtEdYm7
芝居とはSHOWであり、見せるもの、示すものである。すべてが観客席へ向つて集約されてゆく作業である。
それだといふのに、舞台から向う側に属する人たちのはうが、観客よりもいつも幸福さうに見えるのは何故だらう。
何故観客席のわれわれは、安楽な椅子を宛はれ、薄闇の中で何もせずに坐つてゐればよく、すべての点で最上の
待遇を受けてゐるのにもかかはらず、どうしてこのやうに疲れ果て、つねに幾分不幸なのであらう。
私は妙な理論だが、こんなことを考へる。つまり人生においても、劇場においても、観客席に坐るといふ人間の
在り方には、何かパッシヴな、不自然なものがあるのである。示されるもの、見せられるものを見る、といふ
状況には、何か忌まはしいものがある。われわれの目、われわれの耳は、自己防衛と発見のためについてゐるので、
本来、お膳立てされたものを見且つ聴くやうにはできてゐないかもしれない。

三島由紀夫「芸術断想 劇場の中の『自然』」より
174名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 11:43:08.46 ID:ADtEdYm7
芸術の享受者の立場といふものには、何か永遠に屈辱的なものがある。すべての芸術には、晴朗な悪意、幸福感に
充ちた悪意がひそんでをり、屈辱を喜ぶ享受者を相手にすることをたのしむのである。そのもつとも端的な
あらはれが劇場芸術だと言つてよい。(中略)
劇場とは、どんな形であれ「存在」の仮構であるが、劇が進行するあひだ、俳優が存在を代表し、観客が存在を
放棄してゐるやうなあの状態、(いかに観客が舞台に「参加」してゐるといふ仮説が巧みに立てられようとも)、
あの状態からは、何か人間の幸福といふものに関する空しい教理がひびいてくる。もつと厳密に言へば、俳優は
彼自身の存在を放棄し、彼ならぬ別個の人格の「役」の存在証明にすべてを捧げてゐるからこそ幸福なのであり、
一方観客は、彼自身の存在をあいまいに受動的に保ちつつ、彼以外のものになるあらゆる可能性を、俳優によつて
奪はれてゐるからこそ不幸なのであらう。劇場の暗闇へなど入らぬかぎり、われわれはみなそれぞれの社会で
固有の役割を果してをり、決して「観客」などといふ、十把一トからげの、不名誉な呼称で呼ばれないですむのである。

三島由紀夫「芸術断想 劇場の中の『自然』」より
175名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 16:16:25.73 ID:ADtEdYm7
女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。声に翳りがほしい。
いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、風が吹くたびに木かげと日向が
一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない木影のやうな声が私は好きだ。
寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の広告放送の声。
燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしくきこえるが、そこらで
自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、時折かういふ声を発見して、美しいなと思ふ
ことがある。
(中略)
時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。電話のむかうの声の
たゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別!
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、それをごまかす小さな咳の
可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと思ひ描かせることがある。

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
176名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 16:16:53.82 ID:ADtEdYm7
いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと声と言葉の関係に移る。
私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に見るやうな気持がして
きらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女のおしやべりには絶対にかなはない。女のおしやべりが
はじまると私はいかにも男らしく沈黙を守らねばならぬ。世の男女の役割は、習慣によつて躾けられ、かうなると
いやでも、男は男らしく、女は女らしくならねばならぬ宿命があるかに思へる。女のタイプライターのやうな
お喋りがはじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。
尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつてしかもおしやべりで
ない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性はいかにも優雅にみえるが、ともすると
細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
177名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 16:17:13.22 ID:ADtEdYm7
女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない明るさ賑やかさ
快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方をするやうな女がいい。批判、皮肉、
諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、
男に委せておけばいい。何かなるたけ意味がなくて洒落れたことを言つてゐればいい。若い女性の存在価値は、
何も意味がなくてありさうにみえるところにあるのであつて、これは若い男性の存在価値が頗る意味があつて
しかもなささうにみえるところにあることと対蹠的である。
(中略)
私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を踏むやうに、「ことよ」と
早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院に
ゐた時からで、聖心では何でもかんでも、行住座臥すべて「ことよ」である。

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
178名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 16:17:31.89 ID:ADtEdYm7
「そんなこと知らないことよ」
「そこまで行つてさしあげることよ」
「いいことよ」
「さうだことよ」
あまり「さうだことよ」がつづいてうるさい時は、軽くかう言つて逆襲する。
「さうだことか?」(中略)
女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、カアテンごしにきこえる
姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界のふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ
滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることが
つまらない。襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。
「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」
「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな感覚的な没論理的な
主張は……」

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
179名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:23:56.37 ID:DfJP7AmG
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に感じるほどのことを、他人は
自分に感じないといふ認識で軽癒する。(中略)
世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには悲しまない。われわれの
痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。
感じやすさのもつてゐる卑しさは、われわれに対する他人の感情に、物乞ひをする卑しさである。自分と同じ
程度の感じやすさを他人の内に想像し、想像することによつて期待する卑しさである。感じやすさは往々人を
シャルラタンにする。シャルラタニスムは往々感じやすさの企てた復讐である。
私はまづ自分の文体から感じやすい部分を駆逐しようと試みた。感受性に腐蝕された部分を剪除した。ついで
私の生活に感じやすさから加へられてゐるさまざまの剰余物、こつてりとかけられたホワイト・ソースの如きものを
取り去らうと試みた。私の理想とした徳は剛毅であつた。それ以外の徳は私には価値のないもののやうに思はれた。

三島由紀夫「アポロの杯 航海日記」より
180名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:24:33.87 ID:DfJP7AmG
ここでは表情自体はあらはで、苦痛の歪みは極度に達してゐる。その苦痛の総和が静けさを生み出してゐるのである。
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。一定量以上の苦痛が
表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、
どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは
限りもしらないものに思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての苦痛の
不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。この領域にむかつて、画面の
あらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の
高みにまで達してゐない。一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。

三島由紀夫「アポロの杯 北米紀行 ニューヨーク」より
181名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:25:54.21 ID:DfJP7AmG
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。美は自分の秘密をさとられ
ないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを
美しいと思つたりするのである。
(中略)
記憶はすべて等質だから、夢の中の記憶も現実の記憶と等質のものでしかないこと、その記憶の瞬間において、
私の観念はまた何度でもリオを訪れリオに存在するかもしれないが、私の肉体は同時に地上の二点を占めることは
できないこと、もはや死者が私の中に住むやうにしてリオは私の中に住むにすぎまいが、もう一度現実にリオを
訪れても、この最初の瞬間は二度と甦らぬであらうといふこと、その点では時がわれわれの存在のすべてであつて、
空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうなものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎない
こと、……私はこれらのことをつかのまに雑然と考へ、荘子の胡蝶の譬や、謡曲邯鄲の主題をあれこれと思ひうかべた。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より
182名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:26:43.86 ID:DfJP7AmG
荘子の譬は、転身の可能について語つてゐる。われわれは事実、ある瞬間、胡蝶になるのだ。われわれはさまざまな
ものになる。輪廻は刻々のうちに行はれる。大きな永い輪廻と、小さな刹那々々の輪廻とがある。小さな輪廻と
大きな輪廻とは、お互ひを映してゐる鏡影のやうなものである。ひとりわれわれの意識が、われわれをあらゆる
転身の危険から護り、空間にとぢこめられた肉体の存在を思ひ出させてくれるのである。さもなければわれわれは
二度と人間に立戻らないで、その瞬間から胡蝶になつてしまふことであらう。

三島由紀夫「アポロの杯 南米紀行―ブラジル リオ―転身―幼年時代の再現」より


時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな照明のせゐである。

「アポロの杯 南米紀行―ブラジル サン・パウロ」より
183名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:32:10.77 ID:DfJP7AmG
曲馬はこれを見るごとに、およそ平衡を失はなければ、どんな危険を冒しても安全だと語つてゐるやうに私には
思はれ、また、どんな不可能事の実現と見えるもののなかにも、厳然と平衡が住んでゐることを教へられるのである。
われわれは肉体の危険にもまして、たびたび精神の危険を冒す。そのときわれわれは曲芸師のやうにかくも平衡に
忠実であらうか。曲芸師が綱から落ち、曲芸師の額から皿が落ちるときに、われわれは彼等があやまつて肉体の
平衡を冒したことを如実に見るが、われわれが自ら精神の平衡を失ふさまは、これほど如実に見ることはできない
ので、それだけ危険は多く且つ重大である。
曲芸師は肉体の平衡を極限まで追ひつめて見せる。しかしかれらはそのすれすれの限界を知つてをり、そこで
かれらは引返して来て、微笑を含んで観衆の喝采に答へるのである。かれらは決して人間を踏み越えない。しかし
われわれの精神は、曲芸師同様の危険を冒しながら、それと知らずにやすやすと人間を踏み越えてゐる場合が
あるかもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より
184名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:33:19.40 ID:DfJP7AmG
思惟が人間を超えうるかどうかは、困難な問題である。超えうるといふ仮定が宗教をつくり、哲学を生んだので
あつたが、宗教家や哲学者は正気の埒内にある限り曲芸師の生活智をわれしらず保つてゐるのかもしれない。
もし平衡が破られたとき実は失墜がすでに起つてをり、精神は曲馬の円い舞台に落ちて、すでに息絶えてゐるかも
しれないが、そののち肉体が永く生きつづけるままに、人々は彼の死を信じないにちがひない。
狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、破局とすれすれの状態で
保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の
場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には意識せざるをえないのと同じである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 パリ シルク・メドラノ」より
185名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:34:13.14 ID:DfJP7AmG
オリンピアの非均斉の美は、芸術家の意識によつて生れたものではない。
しかし竜安寺の石庭の非均斉は、芸術家の意識の限りを尽したものである。それを意識と呼ぶよりは、執拗な
直感とでも呼んだはうが正確であらう。日本の芸術家はかつて方法に頼らなかつた。かれらの考へた美は普遍的な
ものではなく一回的(einmalig)なものであり、その結果が動かしがたいものである点では西欧の美と変りがないが、
その結果を生み出す努力は、方法的であるよりは行動的である。つまり執拗な直感の鍛錬と、そのたえざる試みとが
すべてである。各々の行動だけがとらへることのできる美は、敷衍されえない。抽象化されえない。日本の美は、
おそらくもつとも具体的な或るものである。
かうした直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。芸術家の抱くイメーヂは、
いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。芸術家は創造にだけ携はるのではない。
破壊にも携はるのだ。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より
186名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:35:29.22 ID:DfJP7AmG
その創造は、しばしば破滅の予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の
完全性は、破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである場合がある。
そこでは創造はほとんど形を失ふ。なぜかといふと、不死の神は死すべき生物を創るときに、その鳥の美しい歌声が、
鳥の肉体の死と共に終ることを以て足れりとしたが、芸術家がもし同じ歌声を創るときは、その歌声が鳥の死の
あとにまで残るために、鳥の死すべき肉体を創らずに、見えざる不死の鳥を創らうと考へたにちがひない。
それが音楽であり、音楽の美は形象の死にはじまつてゐる。
希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を信じたかどうか疑問である。
かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の
不均斉の美は、死そのものの不死を暗示してゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より
187名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:39:13.91 ID:DfJP7AmG
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを
必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 アテネ」より


私は器楽よりも人間の肉声に、一層深く感動させられ、抽象的な美よりも人体を象つた美に一層強く打たれるといふ、
素朴な感性に固執せざるをえない。私にとつては、それらのもう一つ奥に、自然の美しさに対する感性が根強く
そなはつてをり、彫像や美しい歌声の与へる感動は、いつもこの感性と照応を保つてゐる。私には夢みられ、
象られ、さうすることによつて正確的確に見られ、分析せられ、かくて発見されるにいたつた自然の美だけが、
感動を与へるのである。思ふに、真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。
希臘の彫刻の佳いものに接すると、ますますこの感を深められる。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より
188名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 11:41:16.32 ID:DfJP7AmG
(中略)
このうら若いアビシニヤ人は、極めて短い生涯のうちに、奴隷から神にまで陞(のぼ)つたのであつたが、それは
智力のためでも才能のためでもなく、ただ儔(たぐ)ひない外面の美しさのためであり、彼はこの移ろひやすい
ものを損なふことなく、自殺とも過失ともつかぬふしぎな動機によつて、ナイルに溺れるにいたるのである。
私はこの死の理由をたづねようとするハドリアーヌス皇帝の執拗な追求に対して、死せるアンティノウスをして、
ただ「わかりません」といふ返事を繰り返させ、われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか、
といふ単純な主題を暗示させよう。
一説には厭世自殺ともいはれてゐるその死を思ふと、私には目前の彫像の、かくも若々しく、かくも完全で、
かくも香ばしく、かくも健やかな肉体のどこかに、云ひがたい暗い思想がひそむにいたつた経路を、医師のやうな
情熱を以て想像せずにはゐられない。ともするとその少年の容貌と肉体が日光のやうに輝かしかつたので、
それだけ濃い影が踵に添うて従つただけのことかもしれない。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より
189名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 17:32:36.96 ID:DfJP7AmG
(中略)
アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず不吉の翳がある。それは
あの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、これらを見るためばかりではない。これらの作品が、
よしアンティノウスの生前に作られたものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感し
なかつた筈があらう。
(中略)
希臘人の考へたのは、精神的救済ではなかつた。かれらの彫像が自然の諸力を模したやうに、かれらの救済も
自然の機構を模し、それを「運命」と呼びなした。しかしかうした救済と解放は、基督教がその欠陥を補ふために
のちにその地位にとつて代つたやうに、われわれを生から生へ、生の深い淵から生の明るい外面へ救ふにすぎない。
生は永遠にくりかへされ、死後もわれわれはその生を罷(や)めることができないのである。あの夥しい希臘の
彫刻群が、解放による縛しめ、自由による運命、生の果てしない絆によつて縛しめられてゐるのを、われわれは
見るのである。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より
190名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 17:35:41.31 ID:DfJP7AmG
彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻がわれらの人生の終末の
時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、
一旦終つたものをまた別の一点からはじめることができる。希臘彫刻はそれを企てた。そしてこの永遠の「生」の
持続の模倣が、あのやうに優れた作品の数々を生み出した。
生の茫洋たるものが堰き止められるにはあまりに豊富な生に充ちてゐる若者たちが、さうした彫像の素材に
なつたのには、希臘人がモニュメンタールと考へたものの中に潜む、悲劇的理念を暗示する。アンティノウスは、
基督教の洗礼をうけなかつた希臘の最後の花であり、羅馬が頽廃期に向ふ日を予言してゐる希臘的なものの
最後の名残である。私が今日再び美しいアンティノウスを前にして、ニイチェのあの「強さの悲観主義」
「豊饒そのものによる一の苦悩」生の充溢から直ちに来るところの希臘の厭世主義を思ひうかべたとしても
不思議ではあるまい。

三島由紀夫「アポロの杯 欧州紀行 ローマ」より
191名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 17:51:45.74 ID:WsVkDKiu
上田秋成は日本のヴィリエ・ド・リラダンと言つてもよい。苛烈な諷刺精神、ほとんど狂熱的な反抗精神、
暗黒の理想主義、傲岸な美的秩序。加ふるに絶望的な人間蔑視が、一方では「未来のイヴ」となり、一方では
稀代の妖怪譚となつて結実した。
ロボットと妖怪。これは共に人間を愛さうとして愛しえない地獄に陥ちた孤独な作家の、復讐的な創造なのである。
リラダンは作中で、この比類ない創造、失はれた精神の代位とも称すべき無機質の美の具現を、海中の深淵に
投ぜざるを得なかつたし、秋成もまた、幾多の貴重な草稿を、狂気のやうになつて古井戸の中へ投げ入れざるを
得なかつたのである。二人ともに、己れの生涯を賭けた創造の虚しさを知つてゐた。
私はのちにむしろ雨月以後の「春雨物語」を愛するやうになつたが、そこには秋成の、堪へぬいたあとの凝視の
やうな空洞が、不気味に、しかし森厳に定着されてゐるのである。こんな絶望の産物を、私は世界の文学にも
ざらには見ない。

三島由紀夫「雨月物語について」より
192名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 17:52:10.36 ID:WsVkDKiu
詩情とサスペンスに充ちた見事な導入部、再々の脱出のスリル、そして砂のやうに簡潔で無味乾燥な突然のオチ、
……すべてが劇作家の才能と小説家の才能との、安部氏における幸福な結合を示してゐる。
日本の現実に対して風土的恐怖を与へたのは、全く作者のフィクションであり寓意であるが、その虚構は、
綿々として尽きない異様な感覚の持続によつて保証される。これは地上のどこかの異国の物語ではない。やはり
われわれが生きてゐる他ならない日本の物語なのである。その用意は、一旦脱出して死の砂に陥つた主人公を
救ひに来る村人の、「白々しい、罪のないような話しっぷり」一つをとつても窺はれる。一旦読み出したら
止められないこと請合の小説。

三島由紀夫「無題(安部公房著「砂の女」推薦文)」より
193名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 13:43:45.43 ID:RkNra8iT
能は、いつも劇の終つたところからはじまる、と私はかねて考へてゐた。(中略)
能がはじまるとき、そこに存在するのは、地獄を見たことによつて変質した優雅である。芸術といふものは特に
このやうなものに興味を持つ。芸術家は狐のやうに、この特殊な餌を嗅ぎ当てて接近する。それは芸術の本質的な
悪趣味であり、イロニイなのだ。
(中略)
優雅と、血みどろな人間の実相と、宗教と、この三つのものが、「大原御幸」の劇を成立させてをり、かつ文化の
究極のドラマ形態を形づくつてゐる。この一つが欠ければ、他の二つも無用になるといふ具合に。
ところで、現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の実相は、
時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、病院や葬儀屋の手で、手際よく
片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、
煙のやうに消えてしまふ。

三島由紀夫「変質した優雅」より
194名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 13:44:36.34 ID:RkNra8iT
かうした芸術の成立の困難は、女院が味はつたやうな困難とはちがふ。女院が、変質した優雅をもてあまして、
表現と体験の板ばさみになつてしまつたやうな事情とはちがふ。むしろ、現代の問題は、芸術の成立の困難には
なくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知のとほりである。
それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりをふんだんに
使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の
代理の贋物が、対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。
そこでは、この贋物の三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに
なつたのである。

三島由紀夫「変質した優雅」より
195名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/24(木) 19:54:18.03 ID:Wz5Gcb8G
テス
196名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 21:47:17.56 ID:Zm23NxZj
新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。倫理とは彼の生きる方法だ。
方法なしに生きる場合に無倫理と云はれる。しかし厳密な意味での無倫理といふものはない。生そのものが内在的に
一つの方法を負うてゐるからだ。生きようとする時、彼の智慧は既に生きる方法を知つてゐるからである。しかし
単なる「生きようとする意志」――これだけはどうにもならぬ。方法喪失症が意志の美名でよばれてゐる。
これこそ無倫理だ。そして生の擬態にすぎぬそれが、今でも生そのものと間違へられてゐる。
      *
新しい人間と倫理の模索は、或る「原型」の模索を意味してゐるらしい。ゲエテにおいては、それは宇宙の内在
といふやうな原型の模索であつた。それは自我を小宇宙(ミクロコスモス)とする欲求だつた。日本の中世に
おいては、彼の芸術のひろがりに直に接する地点として、もつとも星空に近い場所が、隠者の草庵が選ばれた。
作家が企業家を兼業しようと、大学教授を兼ねようと、この事情にはかはりはない。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
197名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 21:48:37.08 ID:Zm23NxZj
作家がとりうる「新しい道」といふものはなく、彼がなりうる「新しい人間」といふものはない。彼が意図するのは
原型だけだ。原型の模索が芸術家にとつての凡てである。原型の能ふかぎり正確な能ふかぎり忠実な再現、
それが彼のもつ倫理の新しさに他ならぬ。
「新しい人間と新しい倫理」は芸術作品の中にしかありえないのである。しかも作品の中にあらはれた新しい
人間像は、きはめて正確な程度にまで到達された作者の原型の模写に他ならず、各人各様のその到達の方法は、
人間の歴史と共に古いのである。
原型とは芸術家のもつとも非芸術的な欲求の象徴と言つてよいかもしれぬ。原型における芸術家は完全な意味での
「被造物」に化身する。そこには、古代の壁面や紙草に書かれた稚拙な絵画が、その芸術的衝動の源泉を、
「死」に見出だしたのと相似た消息が見られるのである。あらゆる創らうとする欲求の根底の力が、創らうと
する欲求と反対の力なのである。いかなる鋳像も鋳型を求めるのだ。それなしには彼の再生と繁殖はありえず、
しかもそれとの合一の瞬間に彼の存在も亦失はれるところのあの鋳型を。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
198名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 21:49:53.55 ID:Zm23NxZj
      *
単に金儲けの目的で文学をはじめようとする青年たちがゐる。これは全く新しい型だ。君たちの動機の純粋を
私は嘉する。「金のため」――ああ何といふ美しい金科玉条、何といふ見事な大義名分だ。私たちの動機は
それほど純粋ではない。もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ駆り
立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
「金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の代償として金を受取るとき、
いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく
撫でられた狂犬のやうにして」
      *
こいつをうまく両手に捌かうといふ人たちがゐる。一方で出版業その他、一方で芸術。――これも一つの新しい
型だ。しかしその時彼の生活の投影する場所がなくなつてしまふ。両方から等分の照明で照らされた板のやうに。
そこで彼の二重性はその架空の(影なき)二重性のなかで(中略)彼にあの「原型」への意慾(非芸術的な
意慾)が失はれる。彼は「芸術愛好家」になる。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
199名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 20:10:00.62 ID:i520JJp9
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえないことを、先生方は考へてみたことが
あるのかと思ふ。大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の「子供らしくない
部分」は決して大人には真似られない部分であると私には思はれるが、もしそれが事実なら、大人のいふ「童心」は
大人の自己陶酔にすぎないであらう。子供は先生たちとちぐはぐな場所で、小悪魔のやうに跳んだりはねたりして
ゐるだらう。


私は私自身を押し流さうとする少年期の羞恥から身を守るために、共にその羞恥に責め立てられる人を師として
求めた。しかるに学校の先生たちには羞恥なんかなかつた。彼らは少年たちの羞恥に、医師の態度で接しようと
身構へるのだつた。ところが羞恥を治すためにこれほど拙ない方法は考へられない。生理的には羞恥の、心理的には
自己嫌悪の少年期における目ざめは、それ自身病気ではなくて、自己が自己自身の医師であることの自覚に
他ならないからだ。

三島由紀夫「師弟」より
200名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 20:28:43.73 ID:AgNzZTml
心中といふ形式は、一つの人工的な形式でありまして、云ひかへれば、天然自然の模倣の形式、人間生活を
模倣する一形式にすぎないのです。(中略)時と所をことにして生れた男女が、偶然のめぐみによつて出会ひ、
結合し、夫婦生活を営み、いつかは死んでゆく、といふ人生の模倣の形式です。たゞ自殺とちがふことは、ふつうの
人生においては男女が同瞬間に死ぬことはまづありえないのに、情死は時を同じうして男と女が手をとりあつて
死ぬといふ点で、何ほどか独創的であるわけです。この点で、彼らは単なる模倣ではない人工の行為を通じて、
(つまり人生とは別の道をたどつて)、別様の天然自然に到達します。ここに於て、心中は芸術的行為であり
創造的行為であります。芸術といひ創造と言ひますのも、人工が自然の模倣に了らず、一つの新らしい自然の
創造に関与することに他ならないからです。すぐれた芸術作品はすべて自然の一部をなし、新らしく創られた
自然に他ならないからです。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より
201名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 20:29:03.33 ID:AgNzZTml
かくて「同時性」が心中の本質であります。そのとき二人は自分たちが創造した未知の一点に立つてゐるのです。
人生に於て決してありえぬことがそこに起らうとしてゐる。彼らがみちびき、彼らが選択し、彼らが創造した
天然自然の現象が起らうとしてゐる。その瞬間、心中は全くの自然現象でありまして、星の運行や、日蝕現象と
同じものなのです。たとへば夫婦が同時に病気にかかり全く同時に死ぬといふことは殆ど絶無でありませう。
しかし二人の人間が時間と空間を共有してゐる以上、絶対にありえぬ現象とはいへません。二つの事象の同時に
起るといふ蓋然性は、いつも内に保たれ、秘められてゐる筈です。この蓋然性を人工の行為によつて実現するとき、
もはやそれが人工の行為であることは何ほどの意味ももたず、たゞ「ありうべきことがありえた」といふ、現象を
みちびきだす一条件にすぎなくなります。こゝに於て情死者同志の死は、実人生においてさへ殆どありえぬやうな
完全無欠な自然死となります。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より
202名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 20:29:25.84 ID:AgNzZTml
この自然死によつて彼らは完全に「人生の模倣」を乗り超えることができ、却つて人生をして彼らを模倣させるに
足る影響力をさへもつやうになるのです。
かうして情死は、自然の一つの新らしい発見であり、自然に対する人間の理解を深めるよすがともなるでせう。
心中によつて創造された死の同時性が、何人(なんぴと)にとつても神秘でなくなるやうな、そんな一つの効用を
与へることになるのです。と言ひますのは、地球上の人類は、全く未知の人同志が同じ瞬間に必ず息を引き取つて
ゐるといふ当然すぎるほど当然な現象を、見て見ぬふりをしてをります。日本の東京の某町に住むA氏が
六月廿五日午後八時十五分廿五秒に息を引取つたとしませう。そのときたとへばオーストラリヤの田舎町の少女Aも
息を引取つたにちがひないし、コペンハーゲンの老婦人Aもスマトラの土人Aも息を引取つたにちがひありません。
次の瞬間にもさうであり、第三の瞬間にもさうであります。誰もそれを告げ合ひません。告げ合ふ術を知らない
からです。ここでは言葉といふ手段も何と貧寒で無力なものでせう。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より
203名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 20:29:47.57 ID:AgNzZTml
人々は地球の上でたえず起つてゐるこのやうな奇蹟(その実奇蹟でも何でもないのですが)から完全に目をおほはれ、
盲目にされてゐるのです。そして一つの瞬間のためにえらばれた一群の人間が、お互に決して知り合ふことなく、
しかも兵卒の行進のやうに一糸乱れぬ同じ歩調で死へと歩みつゝあるのであります。このたぐひない同じ運命に
結ばれた同志が地上でお互に全く知りえないといふことほどいたましい事実があるでせうか。仮りに六月廿五日
午後八時十五分廿五秒に死ぬ人間ばかりで構成されてゐる世界を考へ、次の瞬間に死ぬ人間ばかりで成立つて
ゐる世界を考へると、この世界は一瞬間づゝのズレを持つた無数の世界の重なりとも見られるのですが、その
一つの世界の中では誰もお互に知らず完全な暗黒が支配し社会も国家も何もなくたゞ原始的な時間があるだけです。
さういふ世界の仮定こそは正に絶望的なものであり、さういふ世界の仮定を誰もが心の底ふかく秘めてゐるところに、
人間の底しれぬ暗さが兆して来るのであります。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より
204名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 20:30:34.40 ID:AgNzZTml
人間の奥底の暗さは「同時性の不可知」をその源としてをります。この点に於て凡ては暗黒であり、希望は
ありません。この暗黒がしらずしらず人を動かして、芸術的な衝動や宗教的な衝動に駆り立てるのです。
ところで人間の力がこの真暗闇の天井のどこかに小さな亀裂を与へ光をみちびき入れることはできないでせうか。
人間があるがままの人間であることを止め、少くとも人間らしい人間になることはできないでせうか。不可知を、
暴力によつてでもよいから、可知に変へることはできないでせうか。
かういふ声にこたへるものが心中であつたのです。自然死にひとしい彼らの同時の死は、この暗黒をやぶる一条の
光りのやうに思はれ、運命に対する的確な智恵を人々の心に与へました。たとへばエドガア・ポオの「諜し合ひ」
といふ小説は、ただ場所を異にしただけで同時性は失はない情死をゑがいて、それを右のやうな不可知の神秘の
神聖な解明の歓びにまで高めてゐます。この小説は全く、さうした的確な智恵の発見に対する讃美の歌だとしか
思はれません。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より
205名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 20:37:10.37 ID:AgNzZTml
(中略)
人工的に招来された「同時の死」は、人々の心におのづと理想化の欲求をめざめさせずには措きません。彼らは
それを自然死と感じ且つ、同時に死んだ二人の愛の世界を、あの絶対に音信不通の絶対に暗黒の世界に対比させ
ました。同時に死すべき人間が生前に愛し合つてゐたといふこの奇蹟(もとはといへば人工の奇蹟)は、
われわれの世界の不可知の暗さにとつて何といふ救ひでせう。情死者は運命の智恵にあふれた神であるかのやうに
理想化されます。彼らの愛は彼らの死の原因であつたわけですが、そのうちに彼らの死の運命が彼らの愛の原因で
あつたかのやうに思はれだしてもふしぎはありません。かういふ運命的な愛こそは、人々の社会や国家や
民族相互の愛の母胎をなし象徴をなすものであり、そんなひろい愛の大空にめざめるために、どうしても情死者の
美しい泉のやうな愛が必要だつたのです。ここでもはや私が心中を形式にすぎぬと言つた意味がおわかりでせう。

三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論」より
206名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 12:53:37.63 ID:i6XOmbnf
日本の歴史で、と言つてわるければ、日本人の心の歴史で、最初の意想外な事件がおこつたのはいつだらうか。
古事記をひろげてみよう。(中略)
神話の世界では、背理と奇蹟は日常茶飯事だ。朝おきてなぜ「おはやう」と言ふのかと訊ねても甲斐がないやうに、
なぜ高天原から独神がうまれ男女の神があらはれ、なぜ天の沼矛で海の塩をかきまはしたら島ができたか、と
たづねても意味のないことである。現代人はそれを凡て生殖の比喩として理解する。天の沼矛とはもちろん、
バッカスの祭に必要なあるもののことだと信じて疑はない。それはそれでよい。意想外の事件でないといふことが
わかればそれでよい。だが古代人は、おそらくかういふ背理を比喩だとして合理化することはなかつたであらう。
背理は背理のままで自然だつたであらう。さうでなければ、なぜかういふ天の沼矛その他の奇蹟が語られたあとで、
その奇蹟と同じ内容である一行為を、男女の最初の交はりとして、露はに語つてゐるのかわからなくなる。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より
207名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 12:54:07.34 ID:i6XOmbnf
それはただ強調するために伏線を引くといふ近代的手法のみなもとではあるまい。神話の最初の一節として、
ある異常な、非人間的な静けさが必要だつたのである。どんな奇蹟もそこでは意想外でないやうな、真昼の静謐が
必要だつたのである。そのためには聴き手の心にも、あらゆる奇蹟を奇蹟のまま、(比喩としてでなく)、何ら
意想外なものを感じずにうけとる能力がなければならない。逆説めくが、天の沼矛は賜物の比喩ではないのである。
現代人にはこの最初の二節を読む能力がなくなつてゐるのかもしれない。
(中略)
日本人の心の歴史で最初の意想外な事件がおこつたのはそのあとだつた。それは奇蹟ではなかつた。奇蹟なら
すでに意想外ではない。何かまちがひらしく見えるものだつた。ともすれば妖神のいたづららしく思はれるもの
だつた。しかし妖神のいたづらといふやうなものではない。それは人間から来た最初の蹉跌であつたのである。
神の力がすこしもまじつてゐない最初の事件がおこつたのである。人間がはじめてその「あやまち」によつて
神に与つたのである。これを意想外と言はなくて何と言はう。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より
208名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 12:54:41.28 ID:i6XOmbnf
(中略)
人も知るやうに、最初の合歓からは水蛭子といふ不具がうまれた。二神は天上に一旦かへつて天つ神の命をうけ
占ひをする。すると「女が先に言つたのがよくなかつた、又降りて、やりなほせ」と神示がある。二神は再び
天の御柱をめぐりなほし、今度は男神から先に「あなにやしえをとめを」と言つたあとで夫婦の交はりがなされた
ために、次々と健やかな島々神々が生れたのであつた。
少くともこの挿話は神話的にどんな意味があるのだらう。私は学説がそれをどう説いてゐるかしらない。しかし
古事記のどこを見ても、(それをよくなかつたと神示がいふだけで)、このふとしたあやまちが神か魔神かの
しわざであつたとは書いてない。神がそれをとめることができたとも書いてない。神はただ暗に非難めいたものを
人間になげかけるだけである。「やりなほせ」と言ふだけだ。人間のこのあやまちの動機には何もふれてゐない。
まるでそれにふれることを怖れてでもゐるかのやうに。
神の間でもタブウがあつたのかもしれない。人間らしいものの奥底にそのタブウがひそむのを神は見たにちがひない。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より
209名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 12:55:06.59 ID:i6XOmbnf
(中略)最初の言葉は上気した花嫁の古代の桃のやうな唇からさきに洩れた。「あなにやしえをとこを」と。
――何故こんなことになつたのだらう。何故こんなありうべからざることが起つたのだらう。(とにかく
「ありうべからざること」に人間性の最初のあらはれが見られたといふこの神話は甚だ象徴的で且つ皮肉である)
――天つ神たちは一方ならず動揺したにちがひない。信仰といふものがあつたとすれば、その信仰が深い地鳴りを
伴つてゆれ出すのを感じたにちがひない。しかし彼らがおぼえたのは愕きや憤りばかりではけつしてなかつた。
彼らは畏怖を感じた。人間が人間のままで神に与つたこのへんな瞬間に対する故しれぬ畏怖を。人間がこれからも
永遠にこんな妙な方法で瞬時に神に与つてしまふことをくりかへすであらうといふ畏怖を。――それは天つ神たちに
むずかゆいやうな痛みを与へたであらう。彼らはこの得体のしれぬ胸の痛みをもてあましたであらう。人間が
繁殖しつづけるかぎり神の胸からとり去られることのないこの痛みを。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より
210名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 13:12:48.05 ID:i6XOmbnf
神はいくたびか、おそらくは数千回・数万回も、このそこはかとない痛みの復活に出会はねばならなかつた。
地上で相聞の交はされるたびごとに出会はねばならなかつた。
その最初の機会であつたところの「人間から来た最初の蹉跌」に、日本の詩歌のひめやかな源流を見ることは
不当だらうか。相聞歌の発祥を見ることはあやまりだらうか。「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」
といふ至上の呼び交はしが、偶々人間から来た最初のあやまちであつたといふこの神話ほど、相聞の世界の妙諦に
触れ、その世界の豊饒と溢美を暗示し、その世界の悲劇を隈なく物語つてゐるものがあるだらうか。数千年に
わたつて相聞歌が人々の心にもたらした不安・をののき・よろこび・悲哀・苦悩のことごとくは、この一瞬の
不吉で美しい呼び交はしから流れて来てゐはしないだらうか。
相聞歌は永久に同じモチーフのくりかへしである。鶯が鶯をよぶのである。夜の薔薇のしげみのなかで、一ト声
愛らしく、二羽の小鳥がよびかはすのである。この最初の発声が過ちであつたとは、何といふ例へやうのない
美しさだらう。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より
211名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 13:13:10.40 ID:i6XOmbnf
いざなみの命・日本の最初の花嫁は、倫理も思想も悲哀さへも知らなかつた。彼女はただ神のまにまに自在に
行動しうる筈であつた。さういふ少女の口からほとばしつた意想外な喜びの呼び声が、天地の秩序をかへるほどの
力をもつてゐたことは想像にかたくない。神話によれば、花婿にはいくらか思想に似たものがあつたやうに
記されてゐる。事後になつて、「女人を言先だちてふさはず」と愚痴をこぼしたのは、花婿のはうであつたから
である。しかしその花婿にしてからが、「あなにやしえをとこを」といふ呼び声に接したとき、一語もさし
はさまずに、「あなにやしえをとめを」と即座に呼びかへした。この呼び交はしは一つの言葉のやうであつた。
片々でとぎれることはできなかつた。第一の言葉がをはるかをはらぬかに、谺よりもはやく、第二の言葉が
つづけられたのである。丁度西洋中世の古拙な絵画中の人物が口からその発した言葉のしるされてゐる白い帯を
放射してゐるやうに、二人はたちまち二人のあひだの空間に、左右から迫持になつた美しい言葉の穹窿を築いた。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より
212名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 13:13:32.29 ID:i6XOmbnf
その刹那から、言葉はもはや二人だけのものではなく、世界のものとなつた。その時から二人は言葉を失つて、
ただ顔を見合はせてゐるほかはなかつたのだ。なるほど花嫁の目にうつつてゐる花婿は、ただ一人のますらを、
ただ一人の美しい男性であり、花婿が目のあたり見てゐる新妻は、この世にただ一人の美しい女性であつたであらう。
しかし無残にも、二人は人間の真率な歌ひ交はしをはじめたあとでは、もはや天上の曇りない至福の生活から
別れねばならなかつた。あたかもその証しのやうに、二人の合歓のゆくてには、人間の最初の非運、「不具の子を
生むこと」が待ちかまへてゐたのである。その後の歴史にかずしれずくりかへされた相聞歌のやりとりで、これに
似なかつたものが一つでもあつたらうか。この人間に作りうるもつともうつくしいものである魂の呼びあふ歌が、
うたはれると同時に失はれるのを人々は見なかつたらうか。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より
213名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 13:13:51.03 ID:i6XOmbnf
人間同志、愛する者同志がこんなにはげしく呼び合つてはならないらしい。そんな風にして呼び合ふのは何か
不吉なことにちがひない。神の胸にそれほどしげしげと痛みを与へてはならなかつた。この美しい最初のあやまちに
人間は人間最初の「不具の児」を賭けさせられたが、それ以後、相聞歌のために払はれた多くの精神のいけにへは
ますます数をましますます人の肩に重くのしかかつた。人は相聞のためにおそろしい代価を払はねばならなかつた。
ある限りの不幸を予知せねばならなかつた。この単純な使ひ古されたモチーフを歌ひ交はす、唯その事のために。
相聞歌は人間が突端に立つときのもつともはげしい危機の歌となつたのである。そのあとでかならず二人は
言葉を失ひ顔見合はせ、二人の最美の刹那が二人の顔のうへにもえつき、一握の黒い灰を残して消え去るのを
見たのである。それでもなほこりずまに、男女は呼び合はねばならなかつた。

三島由紀夫「相聞歌の源流」より
214名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 11:29:23.96 ID:bUjK+TIt
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、おもふに恋愛と不良化の
二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などが
はひる。また、不良化とは、稚心を去る暴力手段である。暴力といふこのことだつて既に、生の過食からうまれて
くる一つの美しい憲法に他ならない。稚心を去る少年たちは、まづ可能性の海の瑰麗な潮風になぶられる。


神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は拒否せぬ存在である。神は
否定せぬ。

平岡公威(三島由紀夫)19歳「檀一雄『花筐』――覚書」より


童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。

平岡公威(三島由紀夫)21歳「川端氏の『抒情歌』について」より


無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「恋する男」より
215名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 11:29:59.42 ID:bUjK+TIt
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神へのいたましい堕落と
思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては「基督のまねび」それは愛においても肉体の
まねびであつた。近代以後さらにその精神の純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「精神の不純」より


われわれが築くべき次代の駘蕩たる文化も亦、古い時代の駘蕩たる文化の残した生ける証拠を基ゐにして築かれる。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「沢村宗十郎について」より


芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。演劇的批判にしか
耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「宗十郎覚書」より
216名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 11:30:31.98 ID:bUjK+TIt
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから
正義なのである。下手なものは、千万言の理論の正不正とは別に、悪である。われわれ若い者は下手なるがゆゑに
悪である。


凡てにわかり合はうといふことがおそろしいほど欠けてゐる時代である。お互がわからないことを誇る悲しい
時代である。なまじつかわかり合はうとすれば自分の体に傷がつくことを知つてゐるからだ。もうすこしバカに
ならうではないか。そしてよいものをよいと言はうではないか

平岡公威(三島由紀夫)22歳「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より


来年といふ領域は海のやうだ。僕の海への憧れは実はあこがれといふやうなものではない。それは僕の慾情だ。

平岡公威(三島由紀夫)22歳「一九四八年への慾情」より
217名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 11:31:28.46 ID:bUjK+TIt
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより数倍わるくて汚ならしい。

三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より


「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが抱きうる決心である。
浅間しい戦後文学の一系列が、ほしいまま跳梁を示してゐるなかに、最後の者、最後の貴族の生みえたまことの
芸術が、失はれた星の壮麗を復活させようとする決心に、後悔はありえない。

三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より


理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、意地悪は
ヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、やはり清潔な秩序の精神が、
まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活のシンボルであつてほしいと思ひます。

三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より
218名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 17:27:36.78 ID:E13OfiAO
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪となるのである。
犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが見られ、犯人は人間の登場すべからざる
「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて
健康なものがある。

三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より


衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。

三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より


人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は選択後の問題にすぎません。
道徳とはいつの場合も行為なんです。


自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついてくるだけのことです。

三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より
219名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 17:28:15.85 ID:E13OfiAO
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。そこではもはや伝達の意識は失はれる。俳優が一個の
機械になる。人形劇や仮面劇との差は、この無限の無内容を内に秘めた人間の肉体の或る実在的な内容に
すぎなくなる。それが顔であり面であり、姿であり、柄であり、景容であるのである。そこではじめて「典型」が
成就される。


歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、その醜さには悪魔的な蠱惑が
なければならない。

三島由紀夫「中村芝翫論」より


物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと確実な生の原型に
なるのである。
それはまだ人生の手前にゐる人には、夢の総称になり、いくらかでも人生を生きたといふことのできる人に
とつては、その追憶の確証になつた。
その後現実感の見失はれる不安な時代には、源氏物語は、なほかつ必ずどこかに存在すると信じられてゐる
「現実」の呼名になつた。その「現実」の象徴になつた。そしてそれこそは古典の本来の職分なのである。

三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より
220名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 17:28:40.09 ID:E13OfiAO
創作のよろこびと同様、批評のよろこびも、私にとつては美と真実の発見のおどろきを述べることにすぎない。
私が自分の好きな書物について、何故それが好きかといふことを綿々とのべるのは、私の快楽なのである。

三島由紀夫「戸板康二氏の『歌舞伎の周囲』」より


そもそも作品以外のどこに作者の本音があるだらう。附け加へた言葉は整形手術のやうなものである。鼻のひくい
おかめ面の作品を書いておいて、「作者の言葉」で整形手術的言辞を弄する。神の与へた容貌の一部の変改は、
自然の調和をやぶつて、もつとをかしなものにしてしまふにきまつてゐる。いきほひ舞台を見てゐても、むりに
高くした鼻ばかり目について、顔全体が見えなくなる。せつかく粋な目もとの持主が、不自然に盛り上げた鼻の
おかげで、相殺されてしまふ。かさねがさねも整形手術は施すまじきことである。

三島由紀夫「作者の言葉(『灯台』初演について)」より
221名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 17:29:20.67 ID:E13OfiAO
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。歴史が政治を風化してゆく時代が
どこかにあつたやうに考へるのは、錯覚であり幻想であるかもしれない。しかし今世紀のそれほど、政治および
政治機構が自然力に近似してゆく姿は、ほかのどの世紀にも見出すことができない。古代には運命が、中世には
信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。ところが今では、政治以前には何ものも
存在せず、政治は自然力の代弁者であり、したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な
患者のやうに、しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。

三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より


これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。

三島由紀夫「作家の日記」より


私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。

三島由紀夫「伏字」より
222名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 17:29:41.98 ID:E13OfiAO
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。

三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より


理想主義者はきまつてはにかみやだ。

三島由紀夫「武田泰淳の近作」より


簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに忘れない平静な日常が、
散文の簡潔さであらう。

三島由紀夫「『元帥』について」より


伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、もともとその個人は
説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。


己れを滅ぼすものを信じること、これは宿命に手だすけすることによつて宿命を暗殺する方法である。宿命に
手だすけする代償として、宿命を信じる義務を免かれる行き方である。浪漫主義者の生活の理念は、ともすると
この種の免罪符をもつてゐる。

三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より
223名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:50:13.12 ID:5PA9ZaXE
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。ボヴァリイ夫人は私だ、と
フロベェルがいつたといふ話は、耳にタコのできるほどくりかへされる噂である。同時に、雪子は私だ、と
潤一郎はいふであらう。雪子は作者の全美学体系の結晶であり、これに捧げられた作者自身の自己放棄の反映である。

三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より


主人公や女主人公とウマが合ふか合はないかで、その小説が好きになるかならないかは、半ば決つてしまふ。

三島由紀夫「私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に」より


君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは野合といふものである。
われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の
類似性によつて似るのではない。われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義
及至は理想でもない。

三島由紀夫「新古典派」より
224名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:50:40.16 ID:5PA9ZaXE
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、それは悪でも背徳でもなく、
何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。

三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より


われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも一人だといふ前提は、
宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提を
もたないのである。誕生と死の間にはさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。

三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より


愛慾の空しさなどといふものは、人間が演ずると、奇妙な、時には奇怪なものになりがちである。文学としての
「輪舞」は、何の説明がなくても、作者のシニシズムが納得されるが、映画の「輪舞」は、肝腎の役者たちが
生身の愛慾の場面を演じ、その限りで、肉慾そのものの誠実さのはうが、強く前面に押し出されざるをえない。

三島由紀夫「映画『輪舞(ロンド)』のこと」より
225名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:51:08.99 ID:5PA9ZaXE
「ざつくばらん」といふ奴も、男の世界の虚栄心の一つだ。


人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。


つとめて虚心坦懐に、呑気に、こだはりなく、誠実に、たのもしく振舞ふこと、ケチだと思はれないこと。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。なぜなら虚栄心は女性的なもので、男は名誉心や
面子に従つて行動してゐるつもりであるから、「男の一分が立たねえ」などと云ふときには、云つてゐる御当人は
微塵も虚栄から出た啖呵とは思つてゐない。
古い社会では、男の虚栄心が公的に是認され、公的な意味をつけられてゐた。封建時代の武士の体面や名前といふ
ものがそれである。男性の虚栄心に公的な意味をつけておくことは、社会の秩序の維持のために、大へん有利でも
あるし、安全でもある。金縛りよりもずつと上乗な手段である。

三島由紀夫「虚栄について」より
226名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 11:31:53.76 ID:pe6KwChq
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。


一面からいへば友情と恋愛を峻別することは愚かな話で、もしかすると友情と恋愛とは同一の生理学的基礎に
立つものかもしれない。
長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。

三島由紀夫「女の友情について」より


大体イヴニングを着てダンサーに見えない女は、日本人では、よほどの気品と育ちのよさの備はつた女か、
それともよほどのおばあさんかどちらかである。

三島由紀夫「高原ホテル」より


私はまだ酒に情熱を抱くにいたらない。時々仕事の疲労から必要に迫られて呑むことがある。趣味はある場合は
必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。

三島由紀夫「趣味的の酒」より


女の美しさといふものは一国の文化の化身に他ならず、女性は必ずしも文化の創造者ではないが、男性によつて
完成された文化を体現するのに最適の素質を備へてゐる。

三島由紀夫「映画『処女オリヴィア』」より
227名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 11:32:17.48 ID:pe6KwChq
これ(皮肉〈シニスム〉)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義にもとづく
自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。すべてを見てしまつたと
思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に滑稽の要素を剔出するのはこの迷蒙の作用である。
いきほひ感情は無力なものになり、情熱は衰へ、何かしらあいまいな不透明なものになり終つた。愛さうとして
愛しえぬ苦悩が地獄の定義だとドストエフスキーは長老ゾシマにいはせたが、近代病のもつとも簡明な定義も
またこれである。
(中略)
悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます強められ、おのづから
近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から生み出された古典主義である。喜劇は近代を
のりこえる力がない。(中略)偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには諷刺は冷却の作用を
しかもたないだらう。

三島由紀夫「悲劇の在処」より
228名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 11:36:15.60 ID:pe6KwChq
人の思惑に気をつかふ日本人は、滅多に「私は天才です」などと云へないものだから、天才たちの博引旁捜で
自己陶酔を味はふが、ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。


日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが完全に払拭されないと
芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふがよいのである。演劇とはスキャンダルだ。


後進国の例にもれず、芸術性と啓蒙性がいたるところで混同されてゐる例は、戦時中の御用文学にあらはれ、
今日また平和運動と文学とのあいまいな関聯を皆がつきとめないで甲論乙駁してゐる情景に見られるのである。
フランスの深夜叢書にイデオロギーにとらはれずに多くの文学者が参加したのは、結局その根本的なイデエが、
政治的権力の恣意に対する芸術の純粋性擁護にあつたからだと思はれる。

三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より
229名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 11:36:59.78 ID:pe6KwChq
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、選択である。小説の中に
出てくる人間批評だの文明批評だのといふのは末の問題で、小説も芸術である(といふ前提には異論があらうが)
以上、創作衝動がまづ素材にぶつかつて感じる抵抗がなければならない。


文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつて
しまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである。多くの批評家は、言葉の
記録的機能を以て表現的機能を批評するといふ矛盾を平気で犯してゐるのである。


小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと勝手であるが、
技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。


理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、愛は断じて理解ではない。(中略)
芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。

三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より
230名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 10:29:07.64 ID:RVfddP2t
パリ人はもともと、外国人をみんな田舎者だと思ふ中華思想をもつてゐる。


パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて興ざめのする人種は、
小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、
わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。パリはつまり、芸術の台所なのである。おもては観光客
目あてに美々しく装うてゐるが、これほど台所的都会はないことに気づくだらう。パリのみみつちさは崇高な
芸術の生れる温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。私はよい芸術が、パリ市民の俗悪に
反抗して生れるから、パリが逆説的に温床だといつてゐるのではない。トーマス・マンもいふやうに、芸術とは
何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに床の間のうしろに便所があるやうな、さういふ構造を
宿命的に持つてゐる。これを如実に体現してみせた都会がパリであるから、その独創性はまことに珍重に値ひする。

三島由紀夫「パリにほれず」より
231名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 10:29:32.42 ID:RVfddP2t
詩とは何か? それはむつかしい問題ですが、最も純粋であつてもつとも受動的なもの、思考と行為との窮極の堺、
むしろ行為に近いもの、と云つてよい。「受動的な純粋行為」などといふものがありうるか? 言葉といふものは
ふしぎなもので、言葉は能動的であり、濫用されればされるほど、行為から遠ざかる、といふ矛盾した作用を
もつてゐる。近代の小説の宿命は、この矛盾の上に築かれてゐるのですが、詩は言葉をもつとも行為に近づけた
ものである。従つて、言葉の表現機能としては極度に受動的にならざるをえない。かういふ詩の演劇的表出は、
行為を極度に受動的に表現することによつて、逆に言葉による詩の表現に近づけることができる。簡単に言つて
しまへば、詩は対話では表現できぬ。詩は孤独な行為によつてしか表現できぬ。しかも、その行為は、詩における
言葉と同様に、極度に節約されたものでなければならぬ。言葉が純粋行為に近づくに従つていや増す受動性を、
最高度に帯びてゐなければならぬ。お能の動きは、見事にこの要請に叶つてをります。

三島由紀夫「『班女』拝見」より
232名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 10:29:55.76 ID:RVfddP2t
殿下は、一方日本の風土から生じ、一方敗戦国の国際的地位から生じる幾多の虚偽と必要悪とに目ざめつつ、
それらを併呑して動じない強さを持たれることを、宿命となさつたのである。偽悪者たることは易しく、反抗者たり
否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに
万全を尽くすことは、人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。


殿下の持つてをられる自由は、われわれよりはるかに乏しいが、人間は自由を与へられれば与へられるほど
幸福になるとは限らないことは、終戦後の日本を見て、殿下にもよく御承知であらう。殿下は人間がいつも
夢みてゐる、自由の逆説としての幸福を生きてをられるので、いかに御自身を不幸と思はれるときがあつても、
御自身を多くの人間が考へてゐる幸福といふ逆説だとお考へになつて、いつも晴朗な態度を持しておいでになる
ことが肝要である。

三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より
233名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 10:59:43.13 ID:gS/p0s3b
なぜ自分が作家にならざるを得ないかをためしてみる最もよい方法は、作品以外のいろいろの実生活の分野で活動し、
その結果どの活動分野でも自分がそこに合はないといふ事がはつきりしてから作家になつておそくない。


小説家はまづ第一にしつかりした頭をつくる事が第一、みだれない正確な、そしていたづらに抽象的でない、
はつきりした生活のうらづけのある事が必要である。何もかもむやみに悲しくて、センチメンタルにしか物事を
見られないのは小説家としても脆弱である。


バルザックは毎日十八時間小説を書いた。本当は小説といふものはさういふふうにしてかくものである。詩のやうに
ぼんやりインスピレーションのくるのを待つてゐるものではない。このコツコツとたゆみない努力の出来る事が
小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかはりないと思ふ。
なまけものはどこに行つても駄目なのである。

三島由紀夫「作家を志す人々の為に」より
234名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 11:00:04.14 ID:gS/p0s3b
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。

三島由紀夫「言ひがかり」より
235名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 11:31:45.56 ID:gS/p0s3b
ウィリアム・ブレークの絵に、よく翼も何もなしに天翔けつてゐる人間の姿が出て来る。それを見てゐると、
その飛翔の姿勢がいかにも自然なので、人間はひよつとすると鳥のやうに飛べるのを自分で知らないでゐるのでは
ないかといふ気がしてくる。
それと同じで、アイスショウの美しい「滑走人間」の群像を見てゐるうちに、私は幻想にとらはれた。誰も、
もう歩いたり駈けたりするのをやめて、滑つたらいいぢやないか。さうすれば未来の大都会の雑踏は、どんなに
流動的に軽快なものになるだらう。
小鳥が枝に下り立つて気まぐれに向きを変へるやうに、休止の姿勢にバランスを保つてゐるスケータアの一瞬の
姿は美しい。どんな一瞬間にもバランスが厳密に要求され、休止の中にも可憐な緊張があつて、彼女らはオペラの
コーラスのやうによそ見をしたりお喋りをしたりすることはできない。
われわれ観客が目を転ずる速度よりも、スケータアのスピードは速い。そこでわれわれは目を以てよりも
イメーヂを以て、その姿を追ふのである。すると夕日をうけた真紅の帆をかかげて疾走するスケータアたちは、
本当に帆船の群に変貌してしまふ。

三島由紀夫「疾走するイメーヂ――世界一アイスショウに寄せて」より
236名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 11:42:14.20 ID:IpczCeDv
一フランス人が面白いことを言つた。日本は極東ではなくつて、極西である。中華民国から極東がはじまるのだ、
と言つたのである。ヨーロッパは多くの日本人が想像してゐるよりはずつと遠い。ヨーロッパ的世界にとつて、
極東よりも極西のはうが遠いのである。好むと好まざるとにかかはらず、北米大陸の存在は今後の日本にとつては
宿命的で、ヨーロッパにとつて、日本はアメリカの向う側に位する。


技術も文学や絵と同様に、風土の質や量(ひろさ)と深い関係があり、アメリカの技術は日本の風土に適しない。
それはさうである。しかしヨーロッパの精神文明と、日本の精神文明は、全く対蹠的なものである。(中略)
ある意味において、アメリカの文化は、ヨーロッパ文化の風土を無視した強引な受継であつて、そこでは微妙な
ものも見失はれた代りに、ヨーロッパに堆積してゐるあのおびたゞしい因襲の引継も免れたのである。
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。フランスのアメリカぎらひは、
自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。

三島由紀夫「遠視眼の旅人 日本は極西」より
237名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 11:42:44.97 ID:IpczCeDv
ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は疑り深くて、新聞に
書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。しかし或る非常の事態にいたると、
知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは
自分の生活の場に立つて、蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうなあの民衆の本能的不信は、
古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と
考へられたのには、理由がある。

三島由紀夫「遠視眼の旅人 大衆の触角」より
238名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 10:40:08.84 ID:1fdaar5q
新聞雑誌の批評は、こぞつて「ローマの休日」のはうへ軍配をあげてゐるやうである。私はむしろ、「サブリナ」の
はうへ軍配をあげる。グレゴリイ・ペックのやうな大根が出て来ないだけでも大助かりである。
どうして時々、私とかう評価が喰ひちがふのか。一例がチャップリンの近作でも、「ライムライト」を私は好かない。
「殺人狂時代」のはうが遥かに面白かつた。ところが世間の評価は逆であつた。
ディズニイの漫画でも、「不思議の国のアリス」は、アメリカ文明生活の狂躁の象徴のやうで、殊に気違ひ帽子屋と
気違ひ兎のパーティーなどは絶妙だと思つた。それが批評はこの作品をあまり認めたがらない。
(中略)
私はお客を置いて、とつとと自分の論理を進めてゆく映画が好きだ。「アリス」のやうなきちがひの論理、
夢の論理であつてもかまはない。「サブリナ」も気持よく自分の論理をとつとと進めてゆく映画である。もつとも
その点では、「イヴの総て」ほどの作品はめつたにないが。

三島由紀夫「アメリカ映画ノオト『麗しのサブリナ』」より
239名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 10:40:30.70 ID:1fdaar5q
こいつは正真正銘の傑作だ。もつとも人間といふ厄介な代物が出て来なければ傑作を生み出すのは、(技術的な
労苦は別として)、さほど難中の難事ではなからうが。
私は子供のころから、昆虫や小動物の生活を書いた本が大好きで、ハドスンの本からパンパス(大草原)にあこがれ、
アルゼンチンへパンパスを見に行くつもりでゐたが、ヴィザがとれなくて行けなかつた。そこでこの映画で、
アメリカ西部の砂漠の「鳥獣映画」に堪能した。
私はどういふものか、山猫、カンガルー鼠、栗鼠みたいなムクムクしたものが好きだ。あるひはチョロチョロ
したものが。しかし、伊達者でもつとも感心したのは赤尾鷹のすばらしい横顔と、翼をひろげた壮麗なポーズと
である。これにはハリウッドのよほどの伊達者もちよつと敵ふまい。

三島由紀夫「アメリカ映画ノオト『砂漠は生きてゐる』」より
240名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 10:55:16.82 ID:CPRGXUOv
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、透明な抽象的構造を
いつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。(中略)
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ
男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのを
いつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。(中略)
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな
道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義は
いつも女性的なものである。男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと
曲げられた。そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
241名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 10:55:40.15 ID:CPRGXUOv
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。人間的立場から
固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、
ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を
包んでゐる。それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いて
ゐるからである。これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことで
あつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、
その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を
男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
242名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 10:56:03.81 ID:CPRGXUOv
サディズムとマゾヒズムが紙一重であるやうに、女性に対するギャラントリィと女ぎらひとが紙一重であると
いふことに女自身が気がつくのは、まだずつと先のことであらう。女は馬鹿だから、なかなか気がつかないだらう。
私は女をだます気がないから、かうして嫌はれることを承知で直言を吐くけれども、女がその真相に気がつかない間は、
欺瞞に熱中する男の勝利はまだ当分つづくだらう。男が欺瞞を弄するといふことは男性として恥づべきことであり、
もともとこの方法は女性の方法の逆用であるが、それだけに最も功を奏するやり方である。「危険な関係」の
ヴァルモン子爵は、(中略)女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、女の心をとろかす甘言を
総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く捨ててかへりみない。(中略)
女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに目くじら立てる女は、
そのへんがおぼこなのである。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
243名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 11:04:12.28 ID:CPRGXUOv
(中略)
私が大体女を低級で男を高級だと思ふのは、人間の文化といふものが、男の生殖作用の余力を傾注して作り上げた
ものだと考へてゐるからである。蟻は空中で結婚して、交尾ののち、役目を果した雄がたちまち斃れるが、雄の
本質的役割が生殖にあるなら、蟻のまねをして、最初の性交のあとで男はすぐ死ねばよいのであつた。
omne animal post coitum triste(なべての動物は性交のあとに悲し)といふのは、この無力感と死の予感の痕跡が
のこつてゐるのであらう。が、概してこの悲しみは、女には少く、男には甚だしいのが常であつて、人間の文化は
この悲しみ、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて芸術に限らず、
文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源はそこにあるので、余計者たるに悩むことは、
人間たるに悩むことと同然である。
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な
文化の母胎であつた。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
244名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 11:04:36.88 ID:CPRGXUOv
したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を味はふことができぬのである。文化の進歩につれて、この孤独の意識を
先天的に持つた者が、芸術家として生れ、芸術の専門家になるのだ。私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと
首をひねらざるをえない。
あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教へてもらつてゐる始末である。教師的趣味の男が
いつぱいゐるから、それでどうにか持つてゐるが、丁度眼鏡を額にずらし上げてゐるのを忘れて、一生けんめい
眼鏡をさがしてゐる人のやうに、女は女性といふ眼鏡をいつも額にずらして忘れてゐるのだ。(時には故意に!)
こんな歯がゆい眺めはなく、こんな面白くも可笑しくもない、腹の立つ光景といふものはない。私はそんな明察を
欠いた人間と附合ふのはごめんである。うつかり附合つてごらん。あたしの眼鏡をどこへ隠したのよ、とつかみ
かかつてくるに決つてゐる。
もつとも女が自分の本質をはつきり知つた時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであらう。

三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
245名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/21(木) 12:56:05.77 ID:U2cPk6vU
中世における世界像の縮小とコロンブスのアメリカ発見による再拡大、近世における植民地の争奪による世界像の
終局的拡大、……かういふものを通じて、前大戦後の失敗にをはつた国際連盟あたりから、世界国家の理想が
登場してくる。第二次世界大戦後にもこの理想は、国際連合の形で生き延びてゐる。
そこで問題は、原子爆弾と国際連合との宿命的なつながりに帰着する。
われわれはもう個人の死といふものを信じてゐないし、われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、
個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることは
できないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、近代生活の劃一化と劃一化された生活様式の世界的普及に
よる世界像の単一化が原因してゐる。
ところで原子爆弾は数十万の人間を一瞬のうちに屠るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、おそらく
大砲が発明された時代に、大砲によつて数百の人間が滅ぼされるといふ新鮮な事実のもたらした感覚と同等の
ものなのだ。

三島由紀夫「死の分量」より
246名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/21(木) 12:57:01.22 ID:U2cPk6vU
小さな封建国家の滅亡は、世界の滅亡と同様の感覚的事実であつた。われわれの原子爆弾に対する恐怖には、
われわれの世界像の拡大と単一化が、あづかつて力あるのだ。原爆の国連管理がやかましくいはれてゐるが、
国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるをえず、世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互ひに力を
貸し合つてゐるのである。
交通機関の発達と、わづか二つの政治勢力の世界的な対立とは、われわれの抱く世界像を拡大すると同時に
狭窄にする。原子爆弾の招来する死者の数は、われわれの時代の世界像に、皮肉なほどにしつくりしてゐる。
世界がはつきり二大勢力に二分されれば、世界の半分は一瞬に滅亡させる破壊力が発明されることは必至である。
しかし決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は
同じなのである。原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するやうな錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を明確に
見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。まづ個人が復活しなければならないのだ。

三島由紀夫「死の分量」より
247名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 10:45:59.10 ID:fkPz8VYY
男にとつて、仕事は宿命です。


純粋な女の恋には、野心がありません。もし野心をもつたら、恋に打算が加はつて醜くなります。
それに、人を愛しながら野心を満足させることは、女の場合できないのです。女性においては、純粋な恋ほど、
野心から遠ざかります。
こゝに男の恋と女の恋の違ひがあるのです。男性の場合は、仕事に対する情熱――野心と、恋愛とが常にぶつかり
合ふのです。
野心をもたないやうな男は、情熱のない男です。(中略)情熱のない男、エネルギーの少い男性には、どんなに
閑があつても、ほんたうの恋愛はできません。


女は、恋のために、男の仕事を邪魔してはなりません。
(中略)一たん男が仕事に情熱を打ち込んだら、女性は放つておくこと。そんなときの男性は、子供が新しい
おもちやに夢中になつてゐるやうに、決して浮気をしません。
男性を仕事に熱中させることです。こんなときに男から仕事をとり上げてしまつたら、男は仕事を邪魔しない女性と
恋愛をするやうになります。

三島由紀夫「男は恋愛だけに熱中できるか?」より
248名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 10:46:41.50 ID:fkPz8VYY
青年といふものは、少年よりはるかに素直なものである。

三島由紀夫「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」より


若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄やお茶の稽古事のやうな
稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。
芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。

三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より


ヨーロッパの人文主義が築いた文化の根本的欠陥が、現代ヨーロッパのいたましい病患をなし「人間的なもの」の
最後の救済のために、人々は政治に狂奔してゐる。殿下が見られるあまりにも政治的なヨーロッパは、デカダンスに
陥つた西欧文化の自己表現なのである。文化といふものの最悪の表現形態が政治なのだ。ギボンのローマ帝国衰亡史を
繙かれれば、殿下は文化的創造力を失つた偉大な民族が、巨大な政治の生産者に堕した様相を読まれるであらう。

三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」より
249名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 10:46:59.50 ID:fkPz8VYY
すべての芸術家は、自分の持つて生れた資質を十全に生かすと共にそれを殺すところに発展がある。

三島由紀夫「歌右衛門丈へ」より


文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬヨタ話を書きちらし、
一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的社会観を養つて、日本再建をマイナスすること
ばかり狂奔してゐる。


若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語があるものか)だの、
「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしいお題目は、私にいはせれば悉く文士の
不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。

三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より


義理人情に酔ふやくざと等しく、もつとも行為の世界に適した男は、「感性的人間」なのだ。日本的感性に素直に
従ふ男は勇猛果敢になり、素直に従ふ女は貞淑な働き者になる。

三島由紀夫「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』」より
250名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 12:07:50.23 ID:fkPz8VYY
恥かしい話だが、今でも私はときどき本屋の店頭で、少年冒険雑誌を立ち読みする。いつかは私も大人のために、
「前にワニ後に虎、サッと身をかはすと、大口あけたワニの咽喉の奥まで虎がとびこんだ」と云つた冒険小説を
書いてみたいと思ふ。芸術の母胎といふものは、インファンティリズムにちがひない、と私は信じてゐるのである。
地底の怪奇な王国、そこに祭られてゐる魔神の儀式、不死の女王、宝石を秘めた洞窟、さういふものがいつまで
たつても私は好きである。子供のころ、宝島の地図を書いて、従兄弟と一緒にそれを竹筒に入れ庭に埋めたりして
遊んだものであつた。
アメリカへ行つたときまづ私が探したのは、おそらく日本に輸入されてゐないさういふ子供むき映画の常設館で
あつたが、いくら探してもみつからなかつた。アメリカの子供は漫画雑誌でしよつちゆう「スーパー・マン」などに
心酔してゐるのに、それを映画で見ることはできないのであらうか。

三島由紀夫「荒唐無稽」より
251名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 12:08:21.59 ID:fkPz8VYY
最近「乱暴者」といふ映画に大へん感動したが、そこには精神年齢の低い青少年の冒険慾が周囲に冒険慾を
充たす環境を見出だしえず、やむなく平板凡庸な地方の小都会を荒らしまはるにいたる一種の無償の行為が、
簡潔強烈に描かれてゐたからであつた。
映画には青少年に与へる悪影響も数々あらうが、映画は映画なりのカタルシスの作用を持つてゐる。それが
無害なものであるためには、できるだけ空想的であることがのぞましく、大人の中にもあり子供の中にもある
冒険慾が、何の遠慮もなく充たされるやうな荒唐無稽な環境がなければならない。「乱暴者」のやうな映画は、
大人には面白いが、子供には有害であらう。
ハリウッド映画のおかげで、あらゆる歴史的環境は、新奇な感を失つたなまぬるいリアルなものになつてしまつた。
私はもう一度、映画で思ふさま荒唐無稽を味はつてみたいと思ふのである。
ディズニィの漫画で、「不思議の国のアリス」の気違ひ兎と気違ひ帽子屋のパーティーの場面は、私を大よろこび
させた。「ダンボ」の酩酊のファンタジーもよかつた。

三島由紀夫「荒唐無稽」より
252名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 12:08:42.02 ID:fkPz8VYY
しかしやつぱり人間、この親愛感あるふしぎな動物、写真にその顔が出るだけでわれわれの感情移入を容易にし、
どんなありえない事件の中に彼が置かれても、心理的つながりを感じさせるこの動物が、はつきり登場して
ゐなくてはならない。写真はこの点でふしぎな説得力をもつてゐる。小説ではさうは行かない。
さうして彼は埋没した王国を探りに旅立ち、さまざまな奇怪な人物に会ひ、いくたびか地図を盗まれ、巻数半ばで、
想像を絶したふしぎな国土とその生活にとび込むのである。そこではミイラもよみがへり、美しい女王は千歳を閲し、
怪物は人語を発し、花々はあやしい触手をのばし、危難は一足ごとにあらゆる辻に身を伏せてうかがつてゐる。
それも決して喜劇であつてはならず、おそろしい厳粛さ真剣さが全巻を支配してゐなければならない。
私はいつもそんな映画にかつゑてゐる。そして私のいちばん嫌ひな映画といへば、それはいふまでもなく、あの
ホーム・ドラマといふ代物である。

三島由紀夫「荒唐無稽」より
253名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 14:19:14.73 ID:PHhBscZJ
三島なんて、ただのエエカッコしいのオナニー野郎でしょ
254名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 17:11:30.31 ID:C7OYP/vy
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。


良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、人の心を苛むものが
どこかにあるのだ。

三島由紀夫「道徳と孤独」より


文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態をとるにいたらしめる、
さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。
爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。それは野獣をも生むのである。

三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より


その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。

三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より


愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしか
できないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。

三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者へのてがみ」より
255名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 17:11:53.31 ID:C7OYP/vy
男といふものは、もしかすると通念に反して、弱い、脆い、はかないものかもしれないので、男たちを支へて
鼓舞するために、男性の美徳といふ枷が発明されてゐたのかもしれないのである。さうして正直なところ、女は
男よりも少なからずバカであるから、卑劣や嫉妬やウソつきや怯惰などの人間の弱点を、無意識に軽々しく露出し、
しかも「女はかよわいもの」といふ金科玉条を楯にとつて、人間全体の寛恕を要求して来たのかもしれない。

三島由紀夫「男といふものは」より


恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。

三島由紀夫「『恥』」より


私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を大きらひだといふ奴は、
よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。

三島由紀夫「私の顔」より
256名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 20:25:34.42 ID:3tigl+7o
三島はどう見てもカッコイイだろ。惚れ惚れする。
257名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 10:43:45.76 ID:P3U2mjNd
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。本当の青年だつたら、
矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。


青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。


青年期が空白な役割にすぎぬといふ思ひは、私から去らない。芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、
それよりもさらに、幼年期であらう。


肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれないものだと考へる私は、
青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く評価しないのである。肉体が衰へなくては、
本当の精神は生れて来ないのだ。私はもつぱら「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪は
ここから生じる。

三島由紀夫「空白の役割」より
258名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 10:44:07.26 ID:P3U2mjNd
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、老年の智恵に
青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の置かれた状況であつて、青年の役割は
そこにしかない。それに誠実に直面して、そこから何ものかを掘り出して来ること以外にはない。


今日の時代では、自分の青春の特権に酔つてゐるやうな青年は、まるきり空つぽで見どころがなく、青春の特権などを
信じない青年だけが、誠実で見どころがあり、且つ青年の役割に忠実だといへるであらう。
さう思ふ一方、私にはやはり少年期の夢想が残つてゐて、アメリカ留学の一念にかられて、鱶のゐる海をハワイへ
泳ぎついた単純な青年などよりも、アジヤの風雲に乗じて一ト働きをし、時代に一つの青年の役割を確立するやうな、
さういふ豪放な若者の出てくるのを、待望する気持が失せない。
やはり青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかないからである。

三島由紀夫「空白の役割」より
259名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 10:54:27.45 ID:s+eUzJPm
諷刺は人を刺し、おのれを刺す。


精神と精神との共分母にくらべれば、顔と顔との、単に目口鼻などといふ共分母は、それが全く機能的な意味を
しか想起させない、いかに稀薄な、いかに小さなものであらうか。われわれが、お互ひにどんなに共感し
共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側にあり、われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに
没してしまつて、あたかも存在しないかのやうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と
主張してゐる不公平なものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、目に見えるままの素面を
信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の神秘は、そこにしかないからだ。


絶対的な誠実といふものはない。一つの誠実、個別的な誠実があるだけだ。

三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より
260名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 10:54:53.45 ID:s+eUzJPm
役者の好き嫌ひは、友達にも肌の合ふ人と合はない人があるやうなものです。


美しい花を咲かせるためには塵芥が要る如く、芸術は多く汚い所から生れるものです。

三島由紀夫「好きな芝居、好きな役者――歌舞伎と私」より


歌舞伎はよく生き永らへてゐる。内容が古びても、文体だけによつて小説が生き永らへるやうに、歌舞伎の
スタイルだけは、おそらく不死であらう。


様式こそ、見かけの内容よりもつと深いものを訴へかけてゐる。

三島由紀夫「芸術時評」より


「潮騒」における思春期の設定は小説の道具にすぎず、私は人間の思春期なんか、別に重大に変へてゐない。
あの小説で私の書きたかつたのは、小説の登場人物から「個性」といふものを全く取去つた架空の人間像であつて、
そのためにわざわざ、遠い小島へ話をもつてゆき、年齢もとりわけ少年期の人物を選んだわけである。それなら
何故子供を書かないか? 冗談ではない。子供は少年よりもずつと個性的な存在なのである。

三島由紀夫「映画の中の思春期」より
261 忍法帖【Lv=9,xxxP】 :2011/04/30(土) 11:50:39.93 ID:QpQ9aIER
262名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/01(日) 13:23:54.54 ID:5nFn/smx
私は坂口安吾氏に、たうとう一度もお目にかかる機会を得なかつたが、その仕事にはいつも敬愛の念を寄せてゐた。
戦後の一時期に在つて、混乱を以て混乱を表現するといふ方法を、氏は作品の上にも、生き方の上にも貫ぬいた。
氏はニセモノの静安に断じて欺かれなかつた。言葉の真の意味においてイローニッシュな作家だつた。氏が時代との
間に結んだ関係は冷徹なものであつて、ジャーナリズムにおける氏の一時期の狂熱的人気などに目をおほはれて、
この点を見のがしてはならない。
些事にわたるが、氏の「風博士」その他におけるポオのファルスに対する親近は、私にもひそかな同好者の喜びを
与へた。ポオのファルスの理解者は今もなほ氏を措いて他にない。かつて「十三時」を訳した鴎外を除いては。

三島由紀夫「私の敬愛する作家」より
263名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/01(日) 13:29:04.69 ID:5nFn/smx
梶井基次郎の作品では、「城のある町にて」が一番好きだが、この蒼穹」も、捨て難い小品である。小説ではなくて、
一篇の散文詩であり、今日ではさう思つて読んだはうがいい。この作者が、死の直前、本当の小説家にならうとして
書いた「のんきな患者」をほめる人もあるが、私には、氏は永久に小説家にならうなどと思はなかつたはうが
よかつたと思はれる。この人は小説家になれるやうな下司な人種ではなかつたのである。
「蒼穹」は、青春の憂鬱の何といふ明晰な知的表出であらう。何といふ清潔さ、何といふ的確さであらう。
白昼の只中に闇を見るその感覚は、少しも病的なものではなく、明晰さのきはまつた目が、当然見るべきものを
見てゐるのである。
健康な体で精神の病的な作家もゐれば、梶井基次郎のやうに病気でゐながら精神が健康で力強い作家もゐる。
同じ病気でも、梶井には堀辰雄にない雄々しさと力のあるところが好きである。

三島由紀夫「捨て難い小品」より
264名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 11:33:21.67 ID:qlHenvA1
中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、わざとらしくなりがちだ。

三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より


われわれのふだんの会話を注意してきいてゐれば、すこし頭のよい人間は、物事を整理して喋つてゐる。筋道を立て、
簡潔に喋ることが、社会生活の第一条件といふべきである。心理的な会話なんて、さうたんとはない。頭のわるい
女だの、甘い抒情的な男に限つて、廻りくどい会話をするものである。

三島由紀夫「『若人よ蘇れ』について」より


人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を押し込むところを見たが、
玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、この規模を
大きくしたやうなものである。ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。その
自然の肉に、コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。

三島由紀夫「『沈める滝』について」より
265名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 11:33:56.77 ID:qlHenvA1
外国の話は、その外国へ行つた人とだけ話題にすべきものだと思ふ。いはば共通の女の思ひ出を語るやうに
語るべきもので、人に吹聴したら早速キザになるのだ。

三島由紀夫「外遊精算書」より


ランボオとは、体験としてしか語られないある存在らしい。


絶対の無垢といふ、わかりやすいものを前にして、これほど仰々しい言葉の行列を並べてみせる、ミラア及び
西洋人といふものを、私はどうも鬱陶しく思ふ。この評論こそは、ランボオの呪つた文明的錯雑そのものではないか?

三島由紀夫「文明的錯雑そのもの――ヘンリ・ミラア作 小西茂也訳『ランボオ論』」より


いくら名だたる野球選手でも、水泳の名手でも、ゲーテの名も知らず、万葉集の何たるかも知らないでは一人前とは
いへますまい。私はそれと正反対の状況にありました。小説こそいくらか書いたが、肉体的には、レベル以下
ほとんどゼロでした。これでは一人前とはいへますまい。

三島由紀夫「信仰に似た運動――告知板」より
266名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 11:34:17.96 ID:qlHenvA1
作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて書くのが、
要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである。

三島由紀夫「解説(川端康成『舞姫』)」より


私にとつての一つの宿命は、私が、「正当な論敵」の中にしか、本当の友を見出すことができない、といふ性癖を
もつてゐることである。

三島由紀夫「黛氏のこと」より


あらゆる年齢の、腐りやすい果実のやうな真実は、たとへそのもぎ方が拙劣で、果実をこはすやうな破目になつても、
とにかくもいでみなければわかるものではない。


死に急ぎの見本は特攻隊だが、それと同じ程度に、「生き急ぎ」もパセティックで美しいのだ。

三島由紀夫「はしがき(『十代作家作品集』)」より


芝居はイデェだ。
イデェなくして、何のドラマツルギーぞや。何の舞台技巧ぞや。何の職人的作劇経験ぞや。


人間の現在の行為は、ことごとく無駄ではない。そのうちの、未来に対して有効な行為だけが有効なのではない。

三島由紀夫「ドラマに於ける未来」より
267名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 11:34:42.68 ID:qlHenvA1
男性が持つてゐる特長で、女性にたえて見られぬものは、ユーモアである。


ユーモアとは、ともすれば男性の気弱な楯、男同士の社会の相互防衛の手段かもしれないのである。

三島由紀夫「長島さんのこと――あるひは現代アマゾン頌」より


芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして行ひ難いことだ。
われわれは、恥かしながら、みんな宙ぶらりんのところで生きてゐる。


死の予感の中で、死のむかうの転生の物語を書く。芸術家が真に自由なのはこの瞬間なのである。

三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より


表現の見地から見れば、食欲や飲酒欲は、エロや涙より、はるかに高尚な対象なのである。なぜなら、物を
食ひたかつたり、酒をのみたかつたりすれば、本を読むより実物を得るはうがたやすく、かういふ充たされやすい
欲望を、言葉で表現するといふことは、ティーターン的大業ではないか。

三島由紀夫「誨楽の書――吉田健一氏『酒に呑まれた頭』」より
268名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 11:19:20.13 ID:CzNW1MUM
少年時代にほとんど性欲的な知性の目覚めといふものを持たない人は、人生の半面しか知らない人ではないかと
思はれる。


私は徐々に文学の上で知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではないといふことを考へるやうになつた。


私はやはりニイチェ的な考へでギリシャの芸術を見てゐたと思ふのであるが、どこをつついても翳のないやうな
明るさ、完全な冷静さ、ある場合には陽気さ、快活さ、若々しさ、さういふものが見かけだけのものではなくて、
一番深いフシギなものをひそめてゐることに打たれた。そして一番表面的なものが、一番深いものだとさへ
考へるやうになつた。なぜなら私は心理分析にあきてゐたし、そこから人間の問題が全部出てくるとは思へなかつた。
むしろ人間のちよつとした表面の動きとか、太陽の光にさらされた平面を描いたものの中に、人間の存在の
恐ろしさとか、暗さとかが逆に出てくるやうに感じた。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より
269名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 11:19:40.77 ID:CzNW1MUM
私は建設的な芸術といふものをいつまでたつても信じることができないし、そして芸術の根本にあるものは、
人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、ギョッとさせるといふことにかかつてゐるといふ
考へが失せない。もし芸術家のやることが市民の考へることと全然同じになつてしまつたら、芸術が出てくる動機が
ないのである。そして現在あるところのものを一度破滅させなければよみがへつてこないやうなもの、ちやうど
ギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から生れてくるやうに、芸術といふものは
一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ
点では文学も古代の秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より
270名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 11:20:08.14 ID:CzNW1MUM
大体私は死や破滅そのものだけをテーマにした芸術にはあまり興味がない。いはゆる狂気の芸術及び狂気の
天才といふものには大して興味がない。やはり私は死や破滅を通していつもよみがへりを夢見てゐるのであるが、
さういふことを夢見ることと、根本的な破滅の衝動とがうまく符節を合したときに、いい芸術ができるのでは
ないかと思ふ。


立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて組立てられてゐるけれども、
それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、
さういふところまで組立てていかなければ満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな
作者は、私は芸術家ぢやないと思はれる。世の教訓的な作家とかいはゆる健全な作家といはれてゐる連中は積木を
壊すことがイヤなのである。最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、
最後の木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな積木細工が芸術の
建築術だと私は思ふ。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より
271名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/05(木) 10:34:09.33 ID:eh+f1+ZM
子供はよもや鯉幟(こひのぼり)を、形やデザインの面白さといふふうには見まい。小学校では五月の図画の時間に、
よく鯉幟の絵を描かされるが、子供の描く鯉幟はいづれも概念的で、青葉若葉に埋もれた家々の屋根高く、
緋鯉と真鯉が、地面と平行に景気よく風をはらんでゐる姿である。風がなくて、ダランとした鯉幟を描く子は、
よほどの問題児であると考へてよいが、どの子も、実際は、風がなくて垂れた鯉幟を見てゐるのに、絵に描くと
さうは描かない。ある意味では、垂れた鯉はリアリズムなのであるが、子供は、物事を典型的な、あるべき姿でしか
とらへようとしないのである。それに、垂れた鯉は本当の魚ではなくて、ただの布のオモチャだといふことを、
あからさまに証明してゐる。しかし風をはらんだ鯉は、ウソと本当、象徴と現実とを兼ねて、遊泳してゐるのである。
大胆で誇張された鯉幟のデザインは、遠目で見られることを計算してゐる点で、あくまで機能的である。歌舞伎の
小道具に見られるやうな、強い、なまなましい、野蛮な配色が、鯉の活力を表現してゐる。

三島由紀夫「こひのぼり」より
272名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/05(木) 10:34:28.93 ID:eh+f1+ZM
殊に真鯉は、五月の青空を背景にして、その黒い鱗の土俗的な新鮮さが、官能的でさへある。日本の五月の空が
こんなに明るく、日本の五月の風がこんなに光りに充ちてゐなかつたら、もちろんこんな配色やデザインは
生れなかつたであらう。(中略)
インドには、ヒンズー教の一つのあらはれとして、サクティ(エネルギーの意)崇拝といふのがあつて、
エネルギーは本来女性に属するものと考へられ、その神像は大地母神カリやドゥルガである。
日本の鯉幟に象徴されてゐるエネルギーはあくまで男性の活力であつて、武士階級の思想をあはらしてゐる。
農耕民族の神話時代の日本人は、天照大神をすべてのエネルギーの源泉と考へたのであるが、武士社会の
男性中心主義が、男性的活力を、ほがらかな明るい五月の空に、尚武の象徴としてひるがへしたのは当然である。
今のやうな女性の強力な時代には、そして日本男児がこれほど衰微した時代には、鯉幟なんか廃棄されても
よささうなものであるが、これに代る女性的活力の象徴としては、まさか、パンティーをひるがへすわけには行くまい。

三島由紀夫「こひのぼり」より
273名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/05(木) 16:32:08.17 ID:1DU/D7/u
「君、オプシオンでパンスト破りを付けてくれ給え」

三島由紀夫「五反田日記」
274名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 11:25:25.25 ID:6oA5zzpB
僕は青春の花のさかりの美しい男女にいつも喝采を送る。ある年齢の堆積から来る美といふものも、わからぬではない。
しかしそれは女に限られてゐる。自分の母の年齢までの女の美しさは、みんなわかるつもりだ。母が七十になれば、
僕には七十の老婆の美もわかるやうになるだらう。ところで、男の年齢の累積は美しくない。それは男が成年期に
達すると、単なる男から、一個の抽象概念としての「人間」に脱皮するからであらう。世間で男ざかりなどと
いふのは、主としてこの後者の意味である。女はこれに反して、いつまでたつても女だ。女は第一お化粧をするから、
いつまでも美しいわけで、生地のままの男のはうが青春のさかりは短いのである。これは世間の定説に反した私の
確信ある学説で、世の女性に捧げる福音である。アレキサンダア大王が、死ぬまで、二十歳そこそこの自分の
肖像しか作らせなかつたといふ伝説は、古代ギリシャの知恵が、このマケドニヤの大帝の中に生きてゐた証拠と思はれる。

三島由紀夫「美しいと思ふ七人の人」より
275名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 11:25:46.95 ID:6oA5zzpB
人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。

三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より


小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。

三島由紀夫「文芸批評のあり方――志賀直哉氏の一文への反響」より


神を信じる、あるひは信じないことと、神を持たないといふことは、おのおの別の次元、別の範疇に於ける
出来事なのである。従つてそこには同一次元上の対立といふものはありえない。


神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。それを越えうるものは
信仰だけである。(日本古昔の耶蘇教殉教者を見よ)。


信仰にとつては、黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。神があるだけである。芸術にとつては
黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。人間があるだけである。アメリカの黒人問題を扱つた小説は、
すべて具象的で、人間的である。

三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より
276名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 11:26:12.12 ID:6oA5zzpB
芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは観客に対する
思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、実は同じ根から生れたものである。
本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。
三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より


大体私はオペラをばからしい芸術だと考へてゐる。オペラの舞台といふものは、外国で見たつて、多少、正気の
沙汰ではない。しかし何んともいへない魅力のあるもので、正宗白鳥氏流にいふと、一種の痴呆芸術の絶大な
魅力を持つてゐる。

三島由紀夫「『卒塔婆小町』について」より


今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。


どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。

三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より
277名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 16:56:29.67 ID:nU1loTbO
風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。新仮名論者の進歩派たちも、羽田の
見送りさわぎでは日本的風俗を守つてゐるのが奥床しい。

三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より


母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。

三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より


国の裁判権の問題は、その国の威信にかかはる重大な問題である。
三島由紀夫「きのふけふ マリア・ルーズ号事件」より


現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり家にだつてラジオの
一台は必要だといふことはありうる。

三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より


辺幅を飾らないのは結構だが、どこまでも威厳といふものは必要だ。ことに西洋人は、東洋人独特の神秘的な
威厳といふものに弱いのである。


日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮できないものであらうか。
ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。

三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より
278名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 16:56:49.41 ID:nU1loTbO
人生では、一番誠実ぶつてゐる人が一番ずるいといふ状況によくぶつかります。一番ずるさうにしてゐる人が、
実は仕事の上で一番誠実である場合もたくさんあります。


私は、人間といふものは子どものときから老人に至るまで、その年齢々々のずるさを頑固に持つてゐるものだと
考へてゐます。子どもには恐るべき子どものずるさがあります。気ちがひにすら気ちがひのずるさがあります。


ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして誠実であるかどうかについても
たえず疑つてをります。


人間の肉体はそれが酷使されるときに実にさはやかな喜びをもたらすといふフシギな感じを持つてゐます。
それと同時に精神が生き生きしてまゐります。深刻にものを考へがちな人はとにかく戸外に出て駈けずり
まはらなければいけません。しかし、駈けずりまはつて、スポーツばかりやつて、まつたく精神を使はなくなつて
しまふのもまた奇形であります。

三島由紀夫「青春の倦怠」より
279名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 19:19:46.58 ID:/I+XgvdK
三島由紀夫か
岡田斗司夫と
姓名の構成が
似てると思うが
その実全く違う
280名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 21:09:04.49 ID:J+oZxrLB
感覚に訴へないものは古びることがない。

三島由紀夫「鴎外の短編小説」より


私は次のやうに考へてゐる。肉体的健康の透明な意識こそ、制作に必要なものであつて、それがなければ、
小説家は人間性の暗い深淵に下りてゆく勇気を持てないだらうと。
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。
体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。

三島由紀夫「文学とスポーツ」より


われわれはいかに精神世界に生きても、肉体は一種の物質である以上、そのサビをとらなければ、精神活動も
サビつきがちになることを忘れてゐる。

三島由紀夫「体操と文明――浜田靖一著『図説徒手体操』」より


知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し肉化する力を失ふのである。
私がスポーツに求めてゐるのは、さまざまな精神の鮮明な形象であるらしい。

三島由紀夫「ボクシングと小説」より
281名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 20:28:28.17 ID:wbVbfkcQ
私だつて人並に洋服はほしいが、さう沢山もつてゐるはうではないと思ふ。洋服を作る金があると、つい
呑んぢやつたり、旅行に出ちやつたりして、学生諸君が月謝を使ひ込むやうに使ひ込んでしまふ。第一に面倒
なのである。私はショッピングが大きらひだ。店のなかをウロウロして、十軒も二十軒も東京中を歩いて、やつと
一本のネクタイを買ふ人があるが、時間が惜しくてとてもあんな真似はできない。私の買物は即興詩みたいなものだ。
町を歩いてゐて、視界のはじつこのはうに、ちよつと気に入つたネクタイが目に入る。と間髪を入れずそれを
買ふのである。今のチャンスをのがしたら、その同じネクタイが気に入ることは二度とないだらうと感じるからだ。
しかしさうして買つたネクタイは必然的に、洋服に合はず、空しくネクタイ掛にぶらさがる始末になる。

三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より
282名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 20:29:33.29 ID:wbVbfkcQ
私は色が生ッ白いから、紺しか似合はぬことは百も承知なのに、若気のいたりで、ついいろんな色の洋服を着て
みたくなる。体格が貧弱で、胸郭が薄つぺらなのに、大いにスポーツマン気取りのアメリカン・スタイルを試みて、
生き恥をさらしたりしてゐる。外国へ行つてからは、五等身の日本人はどうマネしたつて洋服は似合はない、
といふことを身にしみて感じたが、日本にゐればゐるで水準以外のお洒落といふものはあるものである。但し、
私は帽子だけは絶対にかぶらない。馬にシルク・ハットをかぶせたら、イヤといふにきまつてゐる。
本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。私は到底お洒落の資格はない。
せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。靴下のことまで
考へるのは面倒くさい。しかしもし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、もう一歩進んで、自分の
頭の中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。

三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より
283名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 10:22:19.00 ID:84xBWEds
この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、その方式に於ては一つなのでは
ないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が悪いのではないか? ただ、いつも必ず失敗し、いつも
必ず怒つてゐるのは、理想主義者だけなのである。
ワグナーは、加藤道夫氏とちがつて、どうやら、理想の劇場は死んだといふことを、誰よりも鮮明に、腹の中で
知つてゐた男のやうに思はれる。だから彼の「理想の劇場」が建つてしまつたのである。しかしこの壮大な規模の
古代祭典劇の再現を自分で見ながら、やはりワグナーは、その友にして仇敵ニイチェが荘厳な面持で、
「神は死んだ」と言つたやうに、ニヤリと笑ひながら、「理想の劇場は死んだ」と呟いてゐたかもしれない。
私はワグナーといふ男のことを考へると、彼の作品のあのやうな悲愴さにもかかはらず、ワグナー自身は、毫も
悲愴さを持たぬ人間だつたやうな気がしてならない。それは多分彼が「芸術家だから理想主義者ではない」といふ
風土に、育ち且つ生きたからであらう。

三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論 理想の劇場は死んだ」より
284名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 10:22:40.42 ID:84xBWEds
ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間でありながら、人生を扱ふ
芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。
ラヂウムは本来、人間には扱ひかねるものである。その扱ひには常に危険が伴ふ。その結果、人間の肉体が犯される。
人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に危険が伴ひ、その結果、
彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、生きながら亡霊になるのである。そして、
医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や
人間の心も、それを扱ふ人間には、いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されて
ゐない人間は、芸術家と呼ぶに値ひしない。

三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論 俳優と生の人生」より
285名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 11:41:10.65 ID:jpnVJfrL
神島は忘れがたい島である。のちに映画のロケーションに行つた人も、この島を大そう懐しんでゐる。人情は素朴で
強情で、なかなかプライドが強くて、都会を軽蔑してゐるところが気に入つた。地方へ行つて、地方的劣等感に
会ふほどイヤなものはない。

三島由紀夫「『潮騒』のこと」より


オペラといふものには懐しい故郷のやうな感じがするのである。さうして、大体、オペラの筋の荒唐無稽さとか
不自然さとかといふものは、我々は歌舞伎に慣れてゐるからさほど驚きもしない。


この間のわけのわからない京劇などよりも、私はよほど感動した。さうして隣国でありながら京劇がわからないで
オペラはわかるといふことは、不幸なことのやうでもあるが、京劇のやうなわからないものをわかる振りを
するインテリの一部の傾向は、私には無邪気さを欠いてゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「盛りあがりのすばらしさ」より
286名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 11:41:32.87 ID:jpnVJfrL
詩人の魂だけが歴史を創造するのである。

三島由紀夫「日本的湿潤性へのアンチ・テーゼ――山本健吉氏『古典と現代文学』」より


オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに詩と死は同じ仮名である。
オルフェは詩に恋し、死神は神の詩であり、オルフェの女房は詩に嫉妬する。それでいいのだ。

三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より


われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な美しさに満足して
ゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつて
ゐるといつていい。

三島由紀夫「美しきもの」より


地震なるものに厳密な周期律も発展性もないやうに、文壇崩壊論にも、さういふものはない。


近代小説なるものは、日本的私小説であつてはならない。


近代小説には思想が、少なくとも主体的なライトモティーフがなければならぬ。


小説は面白くなくてはならないのである。

三島由紀夫「文壇崩壊論の是非」より
287名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 11:46:24.36 ID:jpnVJfrL
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。まことに人生はままならないもので、
生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。

三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より


小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、練習は必ず毎日
やらなければならぬといふことである。

三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より


画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら外国の一流の作家の
模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作がズラリと並んでゐてほしい。


運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、少なくとも初歩的な
段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものにならないのである。

三島由紀夫「学習院大学の文学」より
288名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 11:46:48.12 ID:jpnVJfrL
歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。そこにもろもろの小説家、
劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。

三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より


恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも恋は青春の感情と
考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。

三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より


かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀(辰雄)氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の心理作家よりも、
北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら似せようと思ふものには、なかなか似ない
ものである。

三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より


あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。

三島由紀夫「班女について」より
289名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 10:29:57.77 ID:jRnydz3Z
昭和二十五年満二十五歳の写真と、昭和三十一年満三十一歳の写真を比べてみると、この七年の経過は、私を
ずいぶん変へたと思ふ。二十五歳の私は一種の観念的な病気にかかつてゐる。その症状は写真からもありありと
うかがはれる。世間一般の通念でいふと、当時の私は今よりもずつと「純粋」だつたのである。
しかし私は或る種の天才的な詩人のやうに、純粋性そのものの、世界に身の置き処のない孤独をかこつて
ゐたわけではない。純粋な火の玉になつて、人々のあひだをころがりまはつて、火傷を負はせたりして、人に
迷惑をかけてゐたわけではない。(中略)
私は文学だけに生きるのだと思ひ込み、人生における自分の不器用を誇張して考へた。大そう蒼ざめて痩せて
ゐたから、肉体が私の固定観念になつた。私自身における肉体は、いやな、唾棄すべき、目をそむけずには
ゐられぬものであつた。それでゐて、芸術は肉体的劣等感と離れがたいものだと思つてゐた。その結果、人から
耽美主義者と云はれながら、芸術そのものをも私は憎んでゐた。

三島由紀夫「或る寓話」より
290名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 10:30:19.12 ID:jRnydz3Z
私はどうにかして自分の一生の仕事である芸術を憎みたくないと思つて、私の範疇とちがつた文学を求めて、
ギリシアの健康な天才をあがめるにいたつた。
ソポクレースが、前四四〇年、「アンティゴネー」を以て大勝利を収めたあとで、ペリクレースと共にサモスの
叛乱を鎮定すべき十人の将軍の一人に任ぜられたことを知ると、それだけでソポクレースを尊敬した。また
ワイマールの宰相ゲエテを尊敬した。
そのうちに生来の夢想癖から、自分もそんなことができないでもないやうな気がしてきた。自分は思つたほど、
人から思ひ込まされてゐたほど弱くない。もしかしたら私は強者かもしれないのに、それを知らずにゐたら
一生の損ではないか。だんだんに私は自分のことを、しやにむに強者だと思ひ込むやうにした。進んでイヤな
ことをやり、気の進まぬことをもやつた。
牛のまねをして、蛙がお腹をふくらまして、たうとう破裂してしまふ話があるが、私はもしかしたらその破裂の
途上にあるのかもしれない。

三島由紀夫「或る寓話」より
291名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 10:57:20.39 ID:jRnydz3Z
はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。

三島由紀夫「文字通り“欣快”」より


花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の着物がはやりだすと
戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。(中略)
かうした慣習や迷信は、女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、洋服の形の変遷も馬鹿には
できない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いてゐるかもしれないのである。

三島由紀夫「私の見た日本の小社会 小社会の根底にひそむもの」より


男性の突出物は、実に滑稽な存在であるが、それをかうまで滑稽にしたのはあまりに隠蔽する習慣がつきすぎた
ためであらう。

三島由紀夫「私の見た日本の小社会 全裸の世界」より
292名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 10:57:40.66 ID:jRnydz3Z
大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、喜劇の部類に
入らぬことを銘記すべきである。

三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より


怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、早く印象が
薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。

三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より


詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。詩人的な生き方とは、
短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。


小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。ゲーテがウェルテルを
書いて、自殺を免かれたところからはじまる。

三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より
293名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 10:58:19.30 ID:jRnydz3Z
「いづれ春永に」といふ中世以来のあいさつには、あの春日のさし入つた空白のなかでまた顔を合はせませう、
といふ気分があるのだらう。愛情も、好悪も、あらゆる人間的感情が一応ご破算になる。さういふ空間を、
早春の一日に設定した人間のたくらみは、私にも少しはわかる。

三島由紀夫「いづれ春永に」より


ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、これを逆に申しますと
「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。


他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に若々しくさせるものはありません。

三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より


芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、その生活までも芸術に
引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。

三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より
294名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 17:45:39.30 ID:e8rq+2AF
マヤの死の神はたえず飢ゑてゐて、がつがつと餌を求めてゐる。ここでは人が死ぬといふことは、自然が自然に
喰はれ、生命が生命に喰はれることであり、たとへ自然死であつても、それは何か蝶が蜘蛛に喰はれるのと似てゐる。
かうして半ば文明生活に護られてゐながら、どこかに自分を打ち倒すいやらしい生々しい生命の存在を予感して
ゐるのは、私だけだらうか。
いや、私だけではない。コミュニストたちは革命の名の下に、砂塵をあげて攻め寄せてくるより強大な生命を
描いてみせながら、思ふ存分、今なほ衰へぬかうした伝来的恐怖を利用する。メキシコの左翼画家リヴェラが
描く威嚇するやうな労働者群は、人間的規模を越えて、熱帯のあくどい圧倒的自然に近づいてゐる。
(中略)
熱帯の人々の生き方には、その外圧的なより強力な生の模倣がひそんでゐる。われわれは巨大なてらてらと
光つた植物や、鸚鵡や豹の生命を模倣しようとする。それに参画しようとする。……これが生きるといふことであり、
これが不可能になつたときそれは死であり、模倣の代りに喰べられ同化されてしまふことなのである。

三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より
295名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 17:46:21.15 ID:e8rq+2AF
チチェン・イッツァのマヤランド・ロッヂ・ホテルの二階の柱廊から、私は鬱蒼と茂つた熱帯樹の葉むらのかげに、
うす紫の寄生蘭が花咲いてゐるのを見た。と、突然、その蘭の花弁をかすめて、数羽のたけだけしい羽音が起り、
黒い影が目の前をかきみだして翔つた。それは禿鷹だつた。
死はこんな白昼に、こんなにも人々の食卓や寝椅子に近く、力強く羽撃いてゐた。その影は午後の酒を置いた
テーブル・クロースの上をも翳らした。それは不吉な黒い姿をしてはゐるが、やはり強大な生命の一種に
他ならないのだ。
他者としての生命、自我にかかはらない生命……、かういふものの考へ方は西欧人をぞつとさせる。それは容易に
生命と死の同一視にみちびくからである。そしてかういふ考へ方は、必ずどこかで太陽崇拝に結びついてゐる。
身を突き刺す嚠喨たる喇叭の音のやうに、たえず鳴りひびいてゐる熱帯の日光。空気は幾条もの亀裂を生じて澱み、
椰子や火焔樹は目くるめく海の背景に象嵌されて身じろぎもしない。

三島由紀夫「旅の絵本 1 禿鷹の影」より
296名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 11:50:07.30 ID:ZKPOP4+x
廃墟といふものは、ふしぎにそこに住んでゐた人々の肌色に似てゐる。ギリシアの廃墟はあれほど蒼白であつたが、
ここウシュマルでは、湧き立つてゐる密林の緑の只中から、赤銅色の肌をした El Adivino のピラミッドが
そそり立つのだ。その百十八の石階には古い鉄鎖がつたはつてをり、むかしマキシミリアン皇妃がろくろ仕掛の
この鎖のおかげで、大袈裟にひろがつたスカートのまま、ピラミッドの頂きまで登つたのであつた。
そこらの草むらには、はうばうに石に刻んだ雨神の顔が落ちてゐた。この豊饒の神の顔は怒れる眉と爛々たる目と
牙の生えた口とをもち、鼻は長く伸びてその先が巻いて象の鼻に似、しばしば双の耳の傍から男根を突き出してゐる。
(中略)
巨大な中庭をかこむ四つの尼僧院の壮麗さは私をおどろかせたが、そこを出て、(中略)ウシュマルのアポロ神殿
ともいふべき「支配者の宮殿」の前に立つたとき、いくつかのゴシック風のアーチの余白をのぞいて、残る隈なく
神秘的な浮彫に飾られた横長の壮大な建築は、私の心をいきいきとさせ、ついで感動で充たした。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より
297名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 11:50:49.47 ID:ZKPOP4+x
大宮殿はおそらくその下に石階を隠してゐる平たい広大な台地の上にあつた。この正面に相対して、二頭の
ジャグワの像を据ゑた小さい台地があり、さらに宮殿の入口の前には、巨大な男根が斜めにそびえてゐた。
壮麗な建築がわれわれに与へる感動が、廃墟を見る場合に殊に純粋なのは、一つにはそれがすでに実用の目的を離れ、
われわれの美学的鑑賞に素直に委ねられてゐるためでもあるが、一つには廃墟だけが建築の真の目的、そのために
それが建てられた真の熱烈な野心と意図を、純粋に呈示するからでもある。この一見相反する二つの理由の、
どちらが感動を決定するかは一口に云へない。しかし廃墟は、建築と自然とのあひだの人間の介在をすでに
喪つてゐるだけに、それだけに純粋に、人間意志と自然との鮮明な相剋をゑがいてみせるのである。廃墟は現実の
人間の住家や巨大な商業用ビルディングよりもはるかに反自然的であり、先鋭な刃のやうに、自然に対立して
自然に接してゐる。それはつひに自然に帰属することから免れた。それは古代マヤの兵士や神官や女たちの
やうには、灰に帰することから免れた。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より
298名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 11:51:27.97 ID:ZKPOP4+x
と同時に、当時の住民たちが果してゐた自然との媒介の役割も喪はれて、廃墟は素肌で自然に接してゐるのである。
殊に神殿が廃墟のなかで最も美しいのは、通例それが壮麗であるからばかりではなく、祈りや犠牲を通して神に
近づかうとしてゐた人間意志が、結局無効にをはつて挫折して、のび上つた人間意志の形態だけが、そこに
残されてゐるからであらう。かつては祈りや犠牲によつて神に近づき、天に近づいたやうに見えた大神殿は、
廃墟となつた今では、天から拒まれて、自然――ここではすさまじいジャングルの無限の緑――との間に、対等の
緊張をかもし出してゐる。神殿の廃墟にこもる「不在」の感じは、裸の建築そのものの重い石の存在感と対比されて
深まり、存在の証しである筈の大建築は、それだけますます「不在」の記念碑になつたのである。われわれが
神殿の廃墟からうける感動は、おそらくこの厖大か石に呈示された人間意志のあざやかさと、そこに漂ふ厖大な
「不在」の感じとの、云ふに云はれぬ不気味な混淆から来るらしい。

三島由紀夫「旅の絵本 4 壮麗と幸福」より
299名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 20:45:37.50 ID:Q/1JqPyn
大体アメリカの貧乏は日本の貧乏よりすご味があります。たとへば年金制度が発達して、隠退後の老人は
働かないでいい、といへば結構なやうだが、さういふ老人はどうやつて余生を送るだらう。ある寒い午後、
友人とセントラル・パークへ散歩に行き、小高い丘の上にある六角堂みたいな建物に入つてみると、その中は
暖房がしてあつて、たゞで西洋将棋ができるやうになつてゐる。むうつとするたばこの煙のなかで、行き場のない
老人ばかりが、じつとチェスの卓を囲んでゐる。長考の顔の深い皺。……スチームのそばのベンチは、ただ
放心したやうに腰かけてゐる老人で一ぱいだ。日本の縁台将棋のやうなにぎやかさはなくて、私は一種凄愴の
気を感じて、いそいで立去りました。

三島由紀夫「旅の絵本 ニューヨークの炎」より
300名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 20:46:15.62 ID:Q/1JqPyn
アメリカ人がハイチをよろこぶのは、ニューヨークから数時間の飛行でアフリカのにほひをかげるためだといふ。
事実ここにはアフリカ的なものが根強く残つてをり、ほんの少数の富裕なインテリの黒人は、さういふ民衆から
隔絶して、ラシイヌやモリエールを論じてゐる。
山の中腹に市がたつてゐて、そこで売つてゐるもののきたならしさにはびつくりした。牛だか、羊だかの腸を
乾燥させたものや、干魚など、それにぎつしりハヘがたかつてゐる。ハヘはまるでなくてはならない薬味のやうに、
金カンに似たカシュウ・ナットにも、小さい青いレモンにも、パンにも、砂糖菓子にもたかつてゐる。黒い豚や
山羊がつながれ、ロバに乗つてくる女もある。
市中でタクシーに乗つてゐたとき、道の途中で手をあげた男が車を止めて勝手に私のとなりへすはり込み、勝手に
行先を命じて、金も払はずに下りてゆくのに私はあきれて、おこる気もしなかつたが、運転手にいはすと、
あれは移民官だから仕方がないといふのであつた。

三島由紀夫「旅の絵本 ポートオ・プランス(ハイチの首都)」より
301名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 13:41:23.23 ID:k9/CrmWy
歌右衛門丈については、すでにたびたび書いた。そのたびに同じやうなことを書くことになるのは、丈に
進歩発展がないといふことを意味しない。たとへば一輪のみごとな大輪の菊や、夕闇にうかぶ夕顔の花や、
さういふものについて何度も書いて、そのたびにちがつたことが書けるわけはない。昼夜二部制興行で一日五役や
六役に変貌しても、俳優といふものは役の背後に全く隠れ切つてしまへるわけではない。あらゆる芸術家の中で、
舞台芸術家は、おのれの肉体的条件、おのれの肉体の檻の中にもつとも決定的にとぢこめられてゐる。顔や声や
体つきが個性を暗示するのにもつとも力があるとすれば、顔や声や体つきにもつとも縛られてゐる俳優なるものは、
いちばん個性的芸術家なのである。たとへば個性といふ見地からは、団十郎や菊五郎のはうが、森鴎外や夏目漱石より
個性的なのである。この私の意見はもつと詳述を要するけれど、今はこのくらゐに止めておかう。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より
302名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 13:41:43.06 ID:k9/CrmWy
舞台の芸が時間の経過と共に一瞬一瞬に観客の記憶の中へ組み入れられつつ消え失せてゆくことを思ふと、
われわれは俳優といふ存在に一そう熱狂し、それを失ひたくない思ひにかられる。舞台の上に今歌右衛門丈が
踊つてをり、袖がひらめき、美しい流し目が見え裾の金糸がかがよひ、黒い髪が乱れ……さういふとき、われわれ
観客は自分の全存在を歌右衛門に賭けてしまつてゐるのだが、それといふのも丈が世界中にかけがへのない花だと
いふ意識がわれわれにあるからである。
それは一種の幻覚にすぎないかもしれない。丈がかけがへのない存在なら、お客の一人一人だつてかけがへの
ない存在なのであり、地位やお金や才能の高下があつたところで、だれだつて人間は一人一人かけがへのない存在で、
誰しもそれを知つてゐるから、自分の命が何よりも惜しい。それにもかかはらず、舞台の上の俳優の芸の美しい
一瞬一瞬のためにこちらの存在が空つぽになつてしまつたやうに思へること、これはいかなる魔術であらうか。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より
303名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 13:42:06.19 ID:k9/CrmWy
丈の舞台はとにかくそれだけのものをもつて来たのである。芸の些末なふしぶしがどうあらうと、とにかく見て
ゐるわれわれには、今舞台の上に、途方もない贅沢千万な生命の浪費が行はれてゐるといふ感じが来る。生命の
大盤振舞、金に糸目をつけぬ豪奢な饗宴がくりひろげられてゐるといふ感じがまづ先に来る。そしてこの途方も
ない浪費は、まさにわれわれのために行はれてゐることに気づくと、たぐひない満足と喜びが感じられるのである。
咲き誇つた花や、庭に突然舞ひ込んでくる大きなきらびやかな蝶を見るとき「今見ておかねばならぬ。そして今
見てゐるものこそ、幻ではなくて、本当の美の瞬間の姿だ」と思ふやうに、丈の舞台を見てゐるとき、私は
ときどき、自分が一生に何度とない善尽し美尽しの饗宴の只中にあるやうな気がし、又、あの歓楽尽きて哀傷生ずと
歌つた詩そのままの、いふにいはれない哀愁を感じることがある。宴のさかりにほのかに吹いてくる冷たい
夕風のやうなものを感じることがある。さういふ感じを与へるところが、丈の身上なのかもしれない。

三島由紀夫「豪奢な哀愁」より
304名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 13:46:37.27 ID:k9/CrmWy
日本人には、無意識のうちに、俳句的な感情類型といふものは潜んでゐる。五七五でものを考へ、事物を把握し、
ふとした嘱目の風景を、いつのまにか五七五の形に要約して見てゐるといふことはありうる。小さなもの、
たとへば蝶、蚊、こでまりの花、水引草、……そんなものを見た時ほど、さうである。われわれの目には昔ながらに、
美的な、顕微鏡がついてゐる。
(中略)
私はもう俳句を作ることもできず、その才能もないくせに、日本の季節々々が、かういふ小さな美的理論で、
モザイクのやうにぎつしり詰まつてゐることを感じると、いつのまにか、その理論にきつちりとはまつてゐる自分を
痛感することがある。長い冗々しい長編小説なんか書いて、自分が巨人国の仲間入りをしたやうな気になつてゐて、
ふと気がつくと、それは夢で、もともと親指サムぐらゐな背丈しかなかつたことに気のつくやうなものである。
実際北米ニュー・メキシコ州の、西部劇によく出てくる峨々たる岩山ばかりの、乾燥した空々漠々たる風景などに
触れたとき、私は自分の目のレンズがどうしても合はないのを感じた。

三島由紀夫「蝶の理論」より
305名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 13:47:05.58 ID:k9/CrmWy
よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、「薇」といふ字はその葉つぱ
みたいに見えるではないか。

三島由紀夫「薔薇と海賊について」より


表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔薇といふ字をじつと見つめてゐてごらん。薔の字は、
幾重にも内側へ包み畳んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるやうに出来てゐる。
この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。

三島由紀夫「あとがき(『薔薇と海賊』)」より


世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな
言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、
それでも「世界は薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界は虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、
あまつさへ哲学者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。

三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
306名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 11:25:15.78 ID:CPs/BeT3
米国中西部の人は、昔の京都の人のやうに、魚は中毒ると決めてゐて子供のときから食べない習性がついて
ゐるらしく、ニューヨークに住んでも魚(海老さへも)を頑として食はない人がずいぶんゐる。生れてから
肉しか食べたことがないといふのは、人生の半分を知らないやうなものだ。

三島由紀夫「紐育レストラン案内」より


女が自然を敵にまはす瞬間には、どんな流血も許される。彼女の全存在が罪と化したのであるから。

三島由紀夫「『イエルマ』礼讃」より


自信といふものは妙なもので、本当に自信のない人間は、器用なことしかできないのである。

三島由紀夫「武田泰淳氏の『媒酌人は帰らない』について」より


大体、作家的才能は母親固着から生まれるといふのが私の説である。


人生が最悪の事態から最善の事態にひつくり返つたときのおそろしい歓喜といふものは、人の人生観を一変させる
ものを持つてゐる。

三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」より
307名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 11:25:38.06 ID:CPs/BeT3
退屈な人間は狂人に似てゐる。

三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より


もし空想科学映画狂を子供らしい悪趣味と仮定するなら、私は大体において、実生活においても完全に「良い
趣味」を持してゐる芸術家といふやつは、眉唾物だと思つてゐます。


どう考へても、空飛ぶ円盤が存在するといふことは、東山さんの絵や小生の小説が存在するのと同じ程度には、
確実なことではないでせうか。又もし空飛ぶ円盤の存在があやしげだといふのなら、この世における絵や小説の
存在もあやしげになるのではありますまいか。

三島由紀夫「『子供つぽい悪趣味』讃――知友交歓」より


悪の定義は、無限軌道をゆく知性の無道徳性から生れてをり、知性の本来的宿命的特質が、極限の形をとると、
おのづから悪の相貌を帯びるのである。

三島由紀夫「人間理性と悪――マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳『悲惨物語』」より


人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。

三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より
308名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 10:32:21.72 ID:J83A676V
やつぱり僕は日本の女の人、好きだよ。だつて、いざとなりや、親切だもの。ほんと、親切ですよ。ずいぶん
意地悪なこと言つても、結局、親切だもの。
外国の女性はね、友達になつても、日本人みたいに人情が通じないしね、第一、ソバカスが出てて気味が悪いもの。
それにみんな巨きい女つて嫌ひなんだ。(中略)
僕の女の友達、いつぱいゐるけどね、みんな口が達者で、お互に悪口ばつかり言つてて、僕なんかボロクソに
やられてゐる。三文文士扱ひでね、まづ着てるものを全部ケナすんですよ。「趣味の悪いセーターを着てる」とか、
「その頭の格好は何さ」とか「クツシタがなつちやゐない」とかね。さうして「一緒に歩くの恥づかしい」なんて、
サンザン言ふんだ。だけど、その口の悪い友達がね、この間、僕のおふくろが病気で入院したら、三島さんが
さぞ困つてゐるだらう、ショックを受けただらうと思つて泣いたつていふんだな。あとでその話を聞いてね、
僕はちよつとホロリとするんですよ。
僕はヘンな性質があつてね、けんくわ相手みたいなのが好きなんだ。けんくわ相手で時どき親切つていふのが
好きなんです。

三島由紀夫「僕の理想の女性」より
309名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 10:32:51.00 ID:J83A676V
(中略)
僕に文学的な興味を持つて僕のお嫁さんになりたいといふ人とは、僕は結婚したくない。さうして非常に
むつかしいことだけど、僕に一人の亭主、一人の夫だけを感じてくれる人と結婚したい。僕は文学的な意見といふ
ものを、身近な人から言はれるのがこはいんです。たとへばヘンな話ですがね、新聞小説を書いてて、家の者に
“つまんない”つて言はれることが、一番いやなんだ。世間の人が“つまんない”つて言ふのはいいけれども、
自分の近所から言はれるの、とつてもいやですね。まして自分の奥さんがさういふことを言ひ出したら、
たまらないだらうと思ふ。
(中略)
それからね、タイプとしては、僕は自分の顔が長いんで、まるいはうがいい。うちの両親みたいに、両方とも
顔が長くつちや、優生学上よくない。僕みたいな子供ができちやふんだ。その僕の所へまた長い顔の奥さんが
来たら、馬がシルクハットかぶつたやうになつちやふ。
僕は可愛いタイプが好きだから、しつかり者で可愛いといふのは、無理なやうだけど、そんな人、ゐないわけぢや
ないと思ひます。
(談)

三島由紀夫「僕の理想の女性」より
310名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 11:04:35.20 ID:55hK/vrK
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に思はれてゐる人もたくさんゐる。
社会の大半の人はさうだといふこともできるだらう。あの人は磊落で面白い人だ、気分のいい人だ、と言はれて
一生を過した人が、実はとんでもない反対の性格の持主であつたといふこともありうる。僕といふ人間は磊落かと
思ふと神経質、神経質なのかと思ふと磊落に思はれたりする。正反対の両方が世間にまるだしになつてゐる点で、
一番あけつぴろげなのだといへるかも知れない。
普通の社会だつたら人間だけがあつて、それによつて、太つた人は楽天的、痩せた人は神経質といふふうに
思はれたりするが、小説家といふものは、人間があつてその上作品があるのだから二重の誤解の上に立ち、読者は
いろいろな像を描く。その像にすつぽりはまる作家もゐるだらう。(中略)
僕は自分が不機嫌な時、僕の肖像が、僕をきらひな人の描いた肖像にまるで生き写しだと思つて感心することがある。

三島由紀夫「作家と結婚」より
311名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 11:05:30.39 ID:55hK/vrK
(中略)
僕は結婚したら、大変いい御亭主に見えるだらうとすでに云はれてゐる。しかしシャイネンする(ふりをする)
だけでいいのではないか。人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間は
なかばシャイネンの存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。ザイン(存在)だけのものになつたら、
シャイネンがほんたうに要らない人間になる。それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。
どんなに誠実さうな人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく
見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。芸術家らしい
シャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。芸術家らしいシャイネンといへば、
頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。

三島由紀夫「作家と結婚」より
312名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 10:58:01.81 ID:8LVlCMIs
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり新鮮な美学の発展期には、
人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、
古くなるにしたがつて古ぼけた滑稽なものと見られて行きます。


形容詞は文章のうちで最も古びやすいものと言はれてゐます。なぜなら、形容詞は作家の感覚や個性と最も
密着してゐるからであります。(中略)しかし形容詞は文学の華でもあり、青春でもありまして、豪華な
はなやかな文体は形容詞を抜きにしては考へられません。


文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしもスピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と
見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることであります。


ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは理知のもつとも
なごやかな形式なのであります。

三島由紀夫「文章読本」より
313名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 10:58:23.24 ID:8LVlCMIs
富士山も、空から火口を直下に眺めれば、そんなに秀麗と云ふわけには行かない。しかし現実といふものは、
いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な
富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり
一部であるのだ。


古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものにしてゐた。われわれは
厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。

三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より


他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。たとへば、祭りのミコシを
かついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。われわれに本当に興味のある話題といふ
ものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかに
するものはない。

三島由紀夫「内輪のたのしみ」より
314名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 11:20:04.48 ID:uXzTyTR1
人間の肉体の可視的な美は、せいぜい二十代で終つてしまつて、あとは凋落の一途を辿るだけであるから、
それからの人間は仕事や知恵や精神に携はらなければならぬ。精神の営みの未成熟な若い人の上に起る死は、
病死であれ自殺であれ、結局肉体が滅びるだけのことである。精神や知性の声がそこで途絶えるといふのではなく、
若い美しい肉体が急に音を立てなくなつて、動かなくなつて、腐朽するといふだけのことである。青年の死は
かくて、どんなに哲学的な遺書を残さうとも、要するに一箇の肉体的事件なのである。青年が精神的と考へる
あらゆる問題が、より深い意味では、純粋に肉体的な問題にすぎぬといふ考へは、私が自分の青年時代を経て
到達した頑固な確信であつて、昨今の心中事件を見ても、この確信を変へることはできない。
しかし、私は若い人を蔑するのではない。年を重ねるとともに、人は純粋な肉体上の死が不可能になる。
さうなつてからの自殺や心中を醜い、と私は言ふのである。

三島由紀夫「心中論」より
315名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 11:20:44.99 ID:uXzTyTR1
私は若い人の心中を美しいとする日本人特有の偏奇な美意識から出発して、いつのまにか、若い人の心中に一種の
精神の勝利を見ようとする日本人に共通な感覚と背馳してしまつてゐる。事実、私はかれらの心中に、精神の
勝利などといふものをみぢんも感じることができない。精神といふものは頑固に生き永らへ、頑固に老い、頑固に
形成しようと志向するものであつて、それだからこそ精神は、人間の永い歴史に亘つて、頑固に「生命の代理」を
つとめて来たのである。青春時代をすぎて、生命がその真の活力と魅力を失つた時になつて、あたかも別の生命が
動き出したやうに、精神が生命の働きを模倣しつつ働き出し、生命を凌駕するまでに至るのである。これを
知つてゐたギリシャ人は、人間精神のあらゆる形態を、青年の肉体の彫像で象徴し永遠化しうると考へて、
それに成功した。
(中略)
精神といふものは、多分、起源的には男性の専有物であり、男性の武器であつたが、その武器によつてまた自ら
傷つけられて、精神が孤立して、女性の領分である大地から絶縁される憂目にも会つたのであつた。

三島由紀夫「心中論」より
316名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 11:21:20.99 ID:uXzTyTR1
……さて、私が心中を単に肉体的事件だと云つたのは、低い官能的な意味で云つたのではない。私は、それが
精神上の事件ではなく、女性的な情感的な世界の出来事だといふことも、籠めて云つたつもりである。ところで、
日本では男ですら、大部分がかうした女性的情感的な世界に好んで住んでゐるのである。浪花節やヤクザの
勇ましさは、実は極度に女性的情感的なものである。一方、芸術といふものは、半ば男性的半ば女性的なもので
あつて、といふよりは、一般の平均水準から云ふと、百パーセント男性的なものに、百パーセント女性的なものを
混淆して出来上つてゐるので、純粋に精神と知性だけの制作にかかはるものではない。芸術は、日本では、殊に、
女性的、情感的、肉体的、官能的なものへの嗜好を充たすやうに要請されてゐる。それが心中といふやうな
ティピカルなその表現を見のがすわけがない。かくて近松の有名な心中物の傑作が生れ、もてはやされて来たので
あるが、そこでは常に、男性の理念が、女性の情念に屈服し敗北する、同じ主題が語られてゐる。

三島由紀夫「心中論」より
317名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 11:21:57.13 ID:uXzTyTR1
(中略)
肉体といふものが本質的に滅亡の論理をもち、精神がその対蹠物として据ゑられて、永遠への志向をもつといふのは、
キリスト教や仏教を問はず、あらゆる宗教の前提であつた。
日本人にはかういふ宗教的情操に加ふるに、一種の美的な思考があつて、肉体の持つてゐる滅亡の論理そのものを
美化して、崇敬の対象にしようとする傾きがある。日本人の自殺讃美には、かくて、人間意志の悲劇といふものが
欠けてゐて、自殺や心中といふ人間意志の行為そのものさへ、実にあいまいな形態を帯びるのである。
たとへ自殺や心中をしなくつても、自己破壊が青春の本質的衝動なのであるが、それは青春なるものが「肉体的状態」
であるといふことをしか意味しない。かうした肉体的状態に突如として「永遠」を継木して、自分たちの清純な
恋愛の永遠性を保証しようといふのは、思へば無謀な論理であるが、こんな無謀な論理からしか、心中の美しさが
生れないことも事実なのである。

三島由紀夫「心中論」より
318名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 11:22:55.74 ID:uXzTyTR1
若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の証左にされるのは、
少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ誠実さの証拠にはなる。といふのは、
「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、生きてゐようが、自殺してみようが、心中してみようが、
青春といふ肉体的状態にとつては不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、
それゆゑに、さういふものは美しいのである。精神や永遠に身自ら近づきかけてゐる年齢の人たちの心中が醜くて
不潔に思はれるのは、正にかれらの内部にこそ、生きながら、精神や永遠性への志向が、期待されてゐるから
なのである。かういふ点では、私は、世間の成人たちが若い人たちに対して抱いてゐる甘つたるい幻影に全く
与しない。
ところで心中の美しさといふものも、全く幻影的なものである。文楽の人形で見たつて「知死期」の苦悶は
いいかげんグロテスクな見物であるが、人間の死にざまがそんなに美しからうはずがない。

三島由紀夫「心中論」より
319名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 11:24:39.49 ID:uXzTyTR1
(中略)
大体心中や自殺が人里離れた場所を選ぶのは、死をできる限り「主観的な」事件にしたいといふ欲望からであらう。
他人の目はその死を客体に化してしまふ。恋人の目だつて、他人の目にはちがひないのであるが、心中が自殺と
ちがふ点は、やはりお互ひがお互ひの死を眺め、主観的な死と客観的な死を同時に味はひ得るといふ点にあらう。
いや、一人きりの自殺ですら、ある人々はビルの屋上から人通りの多い路上に身を投げて、自分にとつては全く
主観的な死を、すぐさま客体化したいといふ熱烈な野望に燃えてゐる。
(中略)死を決行しようとするとき、孤独の本源的な意味に触れて、死のみならず生そのものも完全に孤独で
あるといふ結論に到達するには、ある弱さがその妨げをなし、心中といふ形に落着くこともあらう。(中略)
純粋自殺といふものが机上の空想であるなら、自殺の中でもどうやら一等純粋性のあいまいな心中だつて、
悪いことはあるまい。そこではあくまでも物事が相対的であつて(中略)死の客体化の欲求をも充たし、欲張りで、
贅沢で、消費的で、……要するに人智の編み出した一つの技術である。

三島由紀夫「心中論」より
320名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 11:23:56.44 ID:oz5XPJ0d
ベラフォンテがどんなにすばらしいかは、舞台を見なければ、本当のところはわからない。ここには熱帯の
太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、
素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台の上のベラフォンテは、まさしく太陽のやうにかがやいてゐる。
彼は褐色のアポロであつて、大ていの白人女性が彼の前に拝跪するのも、むべなるかなと思はせる。
ベラフォンテには、衰弱したところが一つもない。それでゐて、ソクソクとせまる悲しみと叙情がある。これは、
言葉は悪いが「ドレイ芸術」とでもいふべきものの神髄で、たとへば「バナナ・ボート」で、彼が悲痛な声を
ふるつて「デオ、ミゼデオ」と叫び歌つて、強い声がハタと中空に途切れるとき、そのあとの間に、われわれは、
力の悲哀といふやうなものを感じ、はりつめた筋肉からとび散る汗のやうなものを感じ……これらの激しい労働を
冷然とながめおろしてゐる植民地の港の朝空のひろがりまでも完全に感じとる。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
321名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 11:24:28.66 ID:oz5XPJ0d
歌はれる歌には、リフレインが多い。全編ほとんどリフレインといふやうな歌がある。これは民謡的特色だが、
同時に呪術的特色でもある。わづかなバリエーションを伴ひながら「夏はもうあらかた過ぎた」(ダーン・
レイド・アラウンド)とか「夜ごと日の沈むとき」(スザンヌ)とかいふ詩句が、彼の甘いしはがれた声で、
何度となくくりかへされると、われわれは、ベラフォンテの特色である、暗い粘つこい叙情の中へ、だんだんに
ひき入れられる。声が褐色の幅広いリボンのやうにひらめく。われわれは、もうその声のほかには、世界中に
何も聞かないのである。
西印度諸島の黒人の声には、何といふ繊細さがあるのだらう、と私は、たびたびおどろかされたものだ。黒人の
皮膚のあの冷たいキメの細かさと、この繊細さとは、何か関係があるにちがひない。そして、あんな激しい太陽と
海風にさらされては、繊細な魂は、暗い涼しい体内の深部へ逃げ隠れ、わづかに声帯のすき間から、外界を
のぞかうとするのかもしれない。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
322名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 11:25:00.95 ID:oz5XPJ0d
ベラフォンテの舞台を見た人なら、だれでも首肯すると思はれるのは、その強烈な官能性である。彼もまた、
十分演出にそれを意識してゐると思はれる。けがれのない、素朴な、健康なエロティシズムの表現において、
もちろんその恵まれた外見に負ふところが多いとしても、彼ほどのボピュラー歌手は空前絶後であらう。そして
その官能性が、詩にまで高まつてゐるのは、まさしく彼に黒人の血が流れてゐるからである。白人の男の官能性とは
散文的なものであり、いつたん昇華しなければ使ひものにならぬ。ベラフォンテの叙情は、カリブ海の太陽の下の
ファロスの叙情である。しかもそれが海風に清められてゐるから、少しもきたならしくならないのである。
官能的な激しさにもかかはらず、彼の舞台が清潔なゆゑんである。私は第一部では「オール・マイ・トライアルス」の
美しい哀傷、「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」の逸楽、第二部では「さらばジャマイカ」の哀切な叙情、そして
有名な「バナナ・ボート」や、たのしい「ラ・バンバ」をことに愛する。

三島由紀夫「ベラフォンテ讃」より
323名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 16:15:41.19 ID:oz5XPJ0d
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。


政敵に対する公然たる非難には、さはやかなものがある。


人間、生きてゐる以上、敵があるのは当然なことで、その敵が、はつきりした人間の形をもち、人間の顔を
もつてゐる政治家といふ人種は幸福である。こんな幸福さはかれらの単純な人相にもあらはれてゐる。

三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より


アクセサリーも、ロカビリー娘みたいに、時と場所とをわきまへず、金ピカのとがつたやつをジャラジャラ
つけすぎると、交通の危険といふこともありうるのである。
お祭りもお祝ひもいいが、大事な開通当日の一日駅長といふのは、どう考へても本末転倒のやうに思はれる。
自衛隊が山下清氏を一日空将補として招いたときにも、いひしれぬ、人をバカにした感じを抱かされたのは、
私一人ではあるまいが「名士」とか「人気者」とかいふものも、一個の社会人であつて、社会的無責任の象徴には
なりえない。このごろでは、いはゆる「名士」が、社会的責任を免かれたがつてゐる人たちの、哀れな身代り人形に
されてゐる場合が少なくないのである。

三島由紀夫「憂楽帳 アクセサリー」より
324名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 16:16:11.09 ID:oz5XPJ0d
プルターク英雄伝の昔から、少なくともウイーン会議のころにいたるまで、政治は巨大な人間の演ずる人間劇と
考へられてゐた。人間劇である以上、憎悪や嫉妬や友情などの人間的感情が、冷徹な利害の打算と相まつて、
歴史を動かし、歴史をつくり上げる。

三島由紀夫「憂楽帳 お見舞」より


チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。共産主義に対する反乱といふ言葉は、何だか妙で、
ひつかかるのだが、共産主義の立場からいへば、ハンガリーの動乱は反乱の部類で、ユーゴのは、成功して何とか
ナアナアでやつてゐるから、反乱の汚名をそそいだといふのだらう。


中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんで
しまつたらしい。

三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より
325名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 16:16:39.65 ID:oz5XPJ0d
文士の締切苦は昔から喧伝されてゐるが、(中略)芸術的良心なんぞとは、なんの関係もない話なのである。
しかし芝居となると、事は一そう深刻であつて、台本が間に合はなくて、ガタガタの初日を出す、などといふ醜態は、
世界中捜したつて、日本以外にはありはしない。このはうの締切は、守らなければ、直接お客にひどい損失を与へ、
お客をバカにすることになるのであるから、事は俳優だけの被害にとどまらない。

三島由紀夫「憂楽帳 締切」より


どうも私は、民主政治家の「強い政治力」といふ表現が好きでない。この間の訪ソで曲りなりにも成功を収めた
マクミラン英首相などは、時には屈辱をもおそれぬ「柔軟な政治力」を持つてゐるが、ダレス氏は概して
強面一点張だつた。強面で通して、実は妥協すべきところでは妥協する、といふのと、表面実にたよりなく、
ナヨナヨしながら、実は抜け目なく通すべき筋はチャンと通す、といふのと、どつちが民主主義の政治家として
本当かと考へると、明らかに後者のやうに思はれる。

三島由紀夫「憂楽帳 強い政治力」より
326名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 16:17:04.13 ID:oz5XPJ0d
実際マス・ゲームといふのは壮麗であつて、豪華大レビューのフィナーレといへども、これには到底敵すべくもない。
一糸乱れぬ統制の下に、人間の集団が、秩序ある、しかもいきいきとした動きを展開することは、たしかに
圧倒的な美である。これは疑ひやうのない美で、これを美しいと思はないのは、よほどヘンクツな人間である。
ところで、ファシズム政権や、共産政権は、必ずかういふ体育上の集団美を大いに政治的に利用する。かつての
ナチスの体操映画や、ソ連や中共のこの種の映画は、実に美しい。それを美しいと思はないものはメクラであつて、
ファッショや共産主義といへばなんでもかでも醜く見えてしまふ人は不幸である。
人間の集団的秩序と活力にあふれた規律的な動きは美しい。軍隊のパレードも、観兵式も美しい。それは問題の
余地がない。
――しかしである。
この種の美しさは、なにも軍隊や独裁政治や恐怖政治が一枚加はらなくたつて立派に出せるので、この種の美が、
彼らの専売物であるわけではないのである。

三島由紀夫「憂楽帳 集団美」より
327名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:51:19.12 ID:MbJJL8iP
一体文学的生活とは、伝統的に、孤独と閑暇の産物である。孤独も閑暇もないところに文学的交遊がある筈もなく、
いはゆる文学バアにおける文士の交歓なども、今ではビジネスマンのくつろぎと大差ない。


仕事の時間は要するに厳密に仕事をする時間であり「文学的」でも何でもない。これはいはば、パリの流行の
服を着るアメリカの金持女性が「流行的」であるのと、その流行を作るパリのデザイナー自身は、かくべつ
流行的でないのとの関係に似たものだ。私に終局的に必要なのは文学であつて「文学的」な事柄ではない。

三島由紀夫「わが非文学的生活」より


剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人殺しの風儀も地に落ちたが、昔は礼儀正しく人を斬ることが
できたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけにエチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない
現代とは、思へば不安な時代である。

三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より
328名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:51:43.18 ID:MbJJL8iP
たえず自己から遁走しようとする傾向は、少年のものだ。自分といふものを密室の中へとぢこめておいて、
そこから不断に遁走しようとする傾向は少年のものだ。青年は自分と一緒に放浪するものである。


現代少年は、ただ抽象的な青春の論理によつて傷つき、滅亡するといふ悲劇しか知らず、かくて自分の内在的な
論理に飽きるときには、外からの具体的な滅亡の力を夢みる。


戦争中の少年たちが「聖戦」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出したやうに、現代の少年たちは、これと逆な
操作を辿つて、「悪」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出す。悪とは、青春そのものの構造の、どうのがれ
やうもない退屈な論理性から、少年たちを解放する力なのである。

三島由紀夫「春日井建氏の歌」より


簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。

三島由紀夫「オウナーの弁――三島由紀夫邸のもめごと」より
329名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 11:11:39.23 ID:X3zZB1rd
ここには、湧き立つやうなリオ・デ・ジャネイロの狂熱のカーニバがある。オルフェのギリシア神話の現代版がある。
そしてヴードゥーに似たブラジル特有の神がかりがある。
第一に、この単純な物語の舞台の背景がすばらしい。リオ市の奇妙な特徴は、ふつうなら上流人士の住処に
なるべき筈の市中の山の頂きが悉く貧民窟になつてゐることで、モーロの聚落は、その不潔さと極度の貧しさで
有名である。市中の一等景色のよい、海の眺めのひろい場所を臭気ふんぷんたる連中が占領してゐるのである。
しかも貧しい黒人たちは、一年中働らいて得たわづかな金を、カーニバルの四日四晩で完全に費消してしまふ。
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、かういふ宿命を
抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ念願の仮の実現だからである。
だから貧しい黒人たちの仮装は豪華であつて、なけなしの金をはたいて、カーニバルの数日のためだけに、
最上の装ひを凝らすのである。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より
330名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 11:12:07.39 ID:X3zZB1rd
第二に、ギリシア神話の現代化のために、リオのカーニバルと黒人の生活が選ばれたことが、すばらしい着眼点だと思ふ。
私も一九五二年にこのカーニバルに踊り狂つた一人だが、現代の世界で、これほどディオニュソス的感動に
近いものはないと思つた。(中略)
この映画のラストで、黒いオルフェは、嫉妬に狂つた許嫁ミラに投石されて、崖から落ちて死ぬが、ミラと
その一党は、いふまでもなくオルフェを八つ裂きにしたバッカスの巫女たちの翻案である。しかし、「カーニバルで
狂騒と嫉妬にかられた黒人女」といふ設定は、そのまま「現代のバッカスの巫女」として、何ら無理なく通用する、
「現代のバッカスの巫女」を世界中に求めたら、おそらくここに帰着するだらうと思ふ。
こんなわけで、ギリシア神話が、ここでは、全く自然に、いきいきと蘇つてゐるのである。オルフェの地獄めぐりも、
神がかりのシーンで代置されるが、この神がかりはおそらく、芝居でなくて実写だらうと思ふ。あんまり迫真的
だからである。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より
331名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 11:12:31.66 ID:X3zZB1rd
(中略)
閑話休題。これらの点で、ギリシア神話の単純素朴と原始的狂熱を現代に移すのに、リオのカーニバルと黒人以上の
ものはないことは自明である。大体白人はすでに、素朴な恋物語や、純真な情熱や、身を滅ぼす狂躁を、演じにくく
なつてゐるのではなからうか。その衰弱を救ふのが黒人であつて、先頃の「カルメン」Carmen Jonesも、ビゼエの
古い歌劇が、黒人のおかげで、完全に現代に蘇つたのである。
(中略)
私は、オルフェとユリディスが、薄暮の裏庭で語らつてから、一夜を共にし、オルフェの絃歌で、カーニバルの
日の出を迎へるまでの、繊細微妙な演出と、黒人俳優たちの悲しみをたたへた表情の美しさに感動した。
オルフェの神話の翻案としては、警察の書類だらけのガランとした事務室から、オルフェの地獄落ちを暗示する
螺旋階段の長いシーンなどに、面白い趣向を感じた。とにかく趣向の面白さを味はつて見るべき映画である。

三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より
332名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/02(木) 12:20:39.64 ID:/5kv8c5c
私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと興がわかない。
見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に許容しないところのものが、芸術であり
スポーツであるが故に許される、といふのが私の興味の焦点だ。やたらに人を打つたりたたいたりすることは、
ボクシングや剣道以外の社会生活では、社会通念上許容されないことである。そこが面白い。

三島由紀夫「余暇善用――楽しみとしての精神主義」より


守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。追つてゆく人間は、知恵を身に
つけることができぬ。追つてゆくことで一杯だから。


しかし「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと「若さ」に敗れる日が
来るのである。

三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より
333名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/02(木) 12:21:16.42 ID:/5kv8c5c
一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。


俳優とは、極言すれば、時代の個性そのものなのである。


この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。

三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より


現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、私は決して咎めないが、
現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を
発見するやうな人たちのはうを、私はもつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふ
のである。なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、その恐怖の
造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスのちがひでしかない。

三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より
334名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/02(木) 12:21:49.69 ID:/5kv8c5c
すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、たくさんの船虫に
蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、風雅な住ひを飾るのだ。


俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、観客席のはうへ顔を向けて
ゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。

三島由紀夫「俳優といふ素材」より


大体、適度な運動などといふものは、甘い考へであつて、運動をやるなら、少し過激に、少し無理にやらなければ、
運動をやる意味がないのである。


完全な自由といふものも退屈なものである。

三島由紀夫「三島由紀夫の生活ダイジェスト」より


犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。ぼくら小説家は、
いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。


映画俳優は極度にオブジェである。


映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。

三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より
335名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/02(木) 12:23:05.13 ID:/5kv8c5c
胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いてゐれば、存在を
意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家がちやんと政治を
してゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に専念してゐられるのである。


民主主義といふ言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを包含してゐる。平和とは
時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。長崎カステーラの本舗がいくつもあるやうなもので、
これでは民衆の頭は混乱する。政治が今日ほど日本語の混乱を有効に利用したことはない。私はものを書く人間の
現代喫緊の任務は、言葉をそれぞれ本来の古典的歴史的概念へ連れ戻すことだと痛感せずにはゐられなかつた。


本当の現実主義者はみてくれのいい言葉などにとらはれない。たくましい現実主義者、夢想も抱かず絶望もしない
立派な実際家、といふやうな人物に私は投票したい。

三島由紀夫「一つの政治的意見」より
336 忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2011/06/02(木) 16:03:47.30 ID:RQK9yS2K
ペンネームには何か由来があるの?
337名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/03(金) 10:40:47.57 ID:SNR1wrgP
>>336
最初は本名でやりたかったようだけど、学習院の先生の清水文雄先生のアドバイスでペンネームを付けることにしたそうです。
そこで三島は「伊藤左千夫」ふうな柔らかい名前を希望して、その意向を加味しながら清水先生がつけたそうです。
338名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/03(金) 17:24:59.50 ID:SNR1wrgP
ちやうど舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ女の心を永久に
惹きつけるものだ。

三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より


ある点から見れば、歌舞伎役者は貞淑な日本の妻達に似てゐる。彼女らは夫の専横なしつけに対して従順を装ひ、
忍従の美徳を衒つてゐながら、とどのつまりは何事も彼女等の望む通りの結果を得るのである。彼等歌舞伎役者も
また然り。そのやうにして彼等は伝統の芸術にたゆみない生命を与へ、彼等によつてのみそれは生き続け、
成長し続ける。

三島由紀夫「『俳優即演出家の演劇』としての歌舞伎」より


どんな芸術でも、根本には危機の意識があることは疑ひを容れまい。原始芸術にはこの危機が、自然に対する
畏怖の形でなまなましく現はれてゐたり、あるひはその反対に、自然を呪伏するための極端な様式化になつて
現はれてゐたりする。

三島由紀夫「危機の舞踊」より


日本の芸能界では、憎まれたら最後、せつかくもつてゐる能力も発揮できなくなるおそれがある。

三島由紀夫「現代女優論――越路吹雪」より
339名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/03(金) 17:25:29.93 ID:SNR1wrgP
現代ジャーナリズムが商業的に避(よ)けて通るやうな問題にこそ、最も緊急な現代的問題がひそむ。

三島由紀夫「『侃侃諤諤』を駁す――交友断片」より


処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。だから、それを書いたあとの感想は、
人生的感想によく似て来るのです。

三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より


実業人と文士のちがふところは、実業人は現実に徹しなければならないのだが、小説家はこの世の現実のほかの
もう一つの現実を信じなければならぬといふことにあるのだらう。
そのもう一つの現実をどうやつて作り出すかといふと、その原料になるものは、やはり少年時代の甘美な
「文学へのあこがれ」しかない。その原料自体は、お粗末で無力なものであるが、それを精錬し、鍛へ、徐々に
厚く鞏固に織り成して、はじめはフハフハした靄にすぎぬものから、鉄も及ばぬ強靭な織物を作り出さねば
ならない。「人生は夢で織られてゐる」とシェークスピアも言ふ。その夢の原料は、やはり少年時代に、つまりは
あの汚ない、埃だらけの文芸部室にあつたと思ふのである。

三島由紀夫「夢の原料」より
340名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/03(金) 17:25:53.11 ID:SNR1wrgP
決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。


目がいつもよく利きすぎて物事に醒めてゐる人の座興や諧謔といふものは、ふつうでは厭味なものだ。

三島由紀夫「友情と考証」より


苦痛は厳密に肉体的なものである。


肉体は知性よりも、逆説的到達が可能である。何故なら肉体には歴然たる苦痛がそなはり、破壊され易く、
滅び易いからだ。かくてあらゆる行動主義の内には肉体主義があり、更にその内には、強烈な力の信仰の外見にも
かかはらず、「脆さ」への信仰がある。この脆さこそ、強大な知性に十分拮抗しうる力の根拠であり、又同時に
行動主義や肉体主義にまとはりついて離れぬリリシズムの泉なのだ。

三島由紀夫「石原慎太郎氏の諸作品」より


人間は心の中に深い井戸みたいなものを持つてるでしよ。その井戸の中におりていくには、それ相応の体力が
なきやだめだと思ふ。

三島由紀夫「新劇人の貧弱な体格への警告(NHK『朝の訪問』)」より
341名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 11:25:10.73 ID:9ROtH/nt
今や一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。それにしても、
或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命になつてしまふといふのは、薄気味のわるい
ことである。広島の原爆もまた、かうして一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマをいつも演じてゐる。今まで
数千年つづいて来たやうに、一九六〇年も、人間のこのドラマがつづくことだけは確実であらう。ただわれわれ
一人一人は、宿命をおそれるあまり自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて歩きだせはよいに
決つてゐる。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一九六〇年代はいかなる時代か」より


結婚の美しさなどといふものは、ある程度の幻滅を経なければわかるものではないといふ古い考へが私にはあつて、
初恋がそのまま成就して結婚などといふと、余計なお節介だが、底の浅い人生のやうな感じがする。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)早婚是非」より
342名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 11:25:45.06 ID:9ROtH/nt
子供は天使ではない。従つて十分悪の意識を持ち得る。そこに教育の根拠があるのだ。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)ベビイ・ギャング時代」より


文部省が今度「英語教育改善協議会」を設置して、「読む英語」にかたよりすぎてゐるといはれた中学・高校の
英語教育を、もつと「役にたつ英語」にしてゆかうとたくらんでゐるさうだ。またしても文部省の卑近な
便宜主義である「役に立つ」ために。「役に立つ」ことばかり考へてゐる人間は、卑しい人間ではないか。
一体、語学教育は国際政治の力のわりふりに左右されがちなものだが、日本中が英語の通訳だらけになつて
しまつたら、文部省の意図するところは達せられたといふべきであらう。(中略)ホテル業者はなるほど
「役に立つ」英語を喋つてもらひたい。
しかし、ホテルと教養とは別である。テーブル・マナーと教養とは別である。いまだに英仏の知識人の間には
古代ギリシア語やラテン語が、教養語として生きてゐるが、一体文部省は、何を日本人の教養語とするつもり
なのであるか。教育的見地からは、そのはうが重要である。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一億総通訳」より
343名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 11:26:07.58 ID:9ROtH/nt
戦後の教育は、日本人から、かつての教養語であつた漢文のたしなみを一掃してしまつた。さらにヅサンな
国語改革案で、日本語を「役に立つ」日本語に仕立てあげようとして、教養語としての日本語を、日本古典を
読解する力を、すつかり弱めてしまつた。その上、ここへ来て、またまた英語を、教養語としての座から
引きずり下ろさうとしてゐる。
私は、「ユー・ウォント・ア・ガール・トゥナイト?」なんて言葉がすらすら出てくるより、会話はできなくても、
誰でもシェークスピアが読めるはうが、日本人としても立派だと思ふのだが……。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一億総通訳」より


本来知性は普遍的なもので、女性だけの知性などといふ妙なものはありえやうがない。この雑誌は、素朴で有能な
男性を徒らにおびやかすやうな女性を養成したことも確かである。

三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)創刊四十五年を祝ふ」より
344名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 20:23:05.16 ID:9ROtH/nt
いま瞼の裏にありありと残つてゐるのは、ポルトガルの首都リスボンの絶妙の美しさだの、カイロのピラミッドの
ふしぎな生々しい存在感だの、香港の阿片窟の暗い夢魔的な雰囲気だの、……さういふ断片的な印象の光彩である。
私はこんどの旅行では、ことさら自分を、一瞬にしてすぎる感覚的享楽だけの受動的な存在に仕立てて歩いた。
たとへばピラミッドの存在感といふものは独特で、実に気味がわるい。私はもとメキシコで、階段式ピラミッドの
無気味な姿を見たが、あれはまだ密林に包まれてゐるから始末がいいので、サバクの中からぬつと突き出し、
近代都市のすぐ近くに接近してゐるギザのピラミッドなどの無気味さとは比較にならない。ゴルフ・クラブの
バルコニーに招かれて、何の気なしにふりむいたところに、ユーカリのこずゑ高く、ピラミッドがのしかかつて
ゐる姿を見たときは、まさにそこにあれが「ゐた」といふ感じだつた。夜中に厠の戸をあけたら、そこにお化けが
「ゐた」といふときの「ゐた」といふ感じはまさにこれだらう。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より
345名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 20:23:42.17 ID:9ROtH/nt
お化けはまだしも人間に似てゐるからいい。しかしピラミッドはいかにも無機的で、しかもギリシャの廃墟のやうな
建築的形態をとどめたすがすがしい石だけの存在ではなくて、何かいやらしい中間的存在である。それは人間と
精神との間に永遠に横たはり、人間と精神との親密な結合を、いつも悪意を以つて妨害してゐる。ヨーロッパの
すべての遺物には、この種の親密な結合があり、それは高い趣味のものから最低の悪趣味のものまで共通してゐる。
しかしエジプトはいやらしい記念碑を建てたものだ。ピラミッドはたしかにある目的のために建てられたのだが、
いま見ると、それはただ「ゐる」ために、存在するために、存在しはじめたやうにしか見えないのである。
死と永遠の時間に対抗するには、エジプト人は、どうやら人間の力だけでは足りないことを自覚して、精神なんかは
押しのけておいて、ひたすら大きな存在の力を借りたやうに思はれる。かくて人間が存在の中へ埋没し、
ピラミッドだけが「ゐる」ことになつたのだ。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より
346名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 20:24:15.44 ID:9ROtH/nt
これも一つの文明の方法にはちがひなく、また一つの宗教の帰結にはちがひないが、それは本当に目くるめくやうな
暗い黒い文明で、ヨーロッパをまはつてここへ来ると、はじめてヨーロッパは小さな一大陸の特殊な文明形態に
すぎぬことがはつきりする。
(中略)そこからアジアにかけて、何か途方も知れない暗い文明、ヨーロッパ的人間がかつて一度もその力を
借りなかつた存在学的文明がはじまるのを見るやうな気がする。
さて、人間を手取り早くただの「存在」に還元する方法、それが麻薬といふものだらう。中国人が建てた万里の
長城などの無気味な姿は、同じ中国人の発明にかかる阿片、すなはち、死と永遠の時間に対抗するために、人間の
生身を存在それ自体に変へてしまふ秘法と、どこかでこつそりつながつてゐるにちがひない。
現にエジプトでも、カイロ南郊の訪れる人の少ない半ばくづれたダシュールのピラミッドの片ほとりに、私は
砂に埋もれかけてゐるハシシュのくさむらを見た。この麻薬の草は、サバクを吹いてくる微風に、とげとげしく
身をゆすつてゐた。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より
347名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 20:24:58.69 ID:9ROtH/nt
香港。私がはじめて見る中国の街。ここへはおびただしい難民と一緒に、中国大陸ですでに禁じられた古い悪徳も
逃げこんできて、わづかに余喘を保つてゐる。
手入れのために十人の警官が踏み込むと、せまい迷路をたどつてその街を出たときには、いつのまにか八人に
なつてゐるといふ九竜城の暗黒街を、私は老練な案内書の懐中電灯のあかりをたよりに歩いた。
深夜の家々は雨戸をとざし、夜業の織物工場の機械音が単調にひびいてゐるあひだを、石段の曲がりくねつた小径が、
臭い溝に沿うて上つたり下つたりする。高い石室のやうな家の二階の小窓が暗い穴を闇の中にうがつてゐる。
ときどき灯明りの洩れるところには、茶店の店先で麻雀をやつてゐる人たちが、我々のはうを鋭い目で見返る。
道ばたで煎つてゐるにくにくの実の嘔吐を催すやうなにほひ。それが通のくと、こんどは人気のない闇の小路に、
血のにほひが漂つてくる。ここらでは豚の密殺も行はれてゐるらしい。

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より
348名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 20:25:29.88 ID:9ROtH/nt
とある家の軒下に、闇に半ば身を浸して、黒い中国服の初老の男が、じつと身をもたせかけて立つてゐる。
あらぬ方を見てゐる目は黄いろく澱み、顔の皮膚は弾力のない馬糞紙のやうな色をしてゐる。明らかな阿片患者である。
彼はまさしくそこに「ゐた」。ピラミッドのやうに「ゐた」のである。存在の奥底に落ち込んでゐるその顔は、
我々の社会的な証票ともいふべき顔の機能をすつかり失つて、一つの小さな穴のやうに見える。それは小さいが
実に危険な穴で、ひとたびその中をのぞき込んだら、世界はその中へ身ぐるみ落ち込んでしまふにちがひない。
しかしそれは存在してゐた。人間と精神を連結しようとするあらゆるヨーロッパ的な努力を嘲笑して存在してゐた。
私はかういふ顔がまだ世界のそこかしこにいつぱい存在してゐることを知つてゐる。そしてかういふ顔を忘れて
暮らしてゐるあひだ、同時に我々は、楽天的にも、死や永遠の時間といふものも忘れて暮らしてゐるのである。
何しろ付き合が忙しいから!

三島由紀夫「ピラミッドと麻薬」より
349名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 17:13:15.87 ID:raQxfowp
有効な文化交流とは少数意見の交流だといふことを忘れてはならないのである。赤い国の白い意見と白い国の
赤い意見が、本当にヒザを交へて酒をのむことができるのである。

三島由紀夫「発射塔 少数意見の魅力」より


犯人以外の人物にいろいろ性格描写らしきものが施されながら、最後に犯人がわかつてしまふと、彼らがいかにも
不用な余計な人物であつたといふ感じがするのがつまらない。この世の中に、不用で余計な人間などといふものは
ゐないはずである。


どうして名探偵といふやつは、かうまでキザなのか。あらゆる名探偵といふやつに、私は出しやばり根性の余計な
お節介を感じるが、これは私があんまり犯人の側につきすぎるからであるか。大体、知的強者といふものには
かはいげがないのだ。


古典的名作といへども、ポオの短編を除いて、推理小説といふものは文学ではない。

三島由紀夫「発射塔 推理小説批判」より
350名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 17:13:41.28 ID:raQxfowp
あんまり着こなしのうまい作家を見ると、多少ヤキモチも働いてゐるにちがひないが、何だか決定的に好きになれない。
もちろん他人の借り物のおしやれをして得々としてゐる手合ひは論外だし、よぼよぼの老人がむりにジン・パンツを
はいたり、胃弱の青年がむりにTシャツを着たりするのは全くいただけないが、自分に似合はないものを
思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。井伏鱒二氏が突然真つ赤なアロハを着たり、
安岡章太郎氏が突然シルクハットをかぶつたりしたら、私はどんなにもつと氏らを好きになることであらう。

三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より


小説といふ形式は、本来、清濁あはせのむ大器であつて、良い趣味も悪い趣味も、平気で一緒くたにのみこんで
しまふだけの力がなければならない。(中略)
中間小説にはそんなのが出かかつてゐるが、真の悪趣味を調理するにはむしろすぐれた文学の包丁がいるのだ。

三島由紀夫「発射塔 グロテスク」より
351名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 17:14:01.87 ID:raQxfowp
教育も教育だが日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ読めないでどうするのだ。秋成の
雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも読めるはずだし、カブキ台本にいたつては、問題にもならぬ。
それを一流の先生方が、身すぎ世すぎのために、美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造より
もつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐるからである。


現代語訳などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びてしまふ古典なら、さつさと
滅びてしまふがいいのである。ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを
入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんと
やつてもらひたいものである。

三島由紀夫「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より
352名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 17:14:30.14 ID:raQxfowp
ユーモアや哄笑は、無力な主人公や、何らなすところなきフーテン的人物のみのかもし出すものではないと信ずる。
有為な人物はユーモリストであり、ニヒリストはなほさら哄笑する。

三島由紀夫「発射塔 ヒロイズム」より


だれだつて年をとるのだから声変はりもしようし、いつまでもキイキイ声ばかり張り上げてもゐられない。
古くなる覚悟は腹の底にいつでも持つてゐなければならない。その時がきたらジタバタして、若い者に追従を
言つたりせず、さつさと古くなつて、堂々とわが道をゆくことがのぞましい。
しかし「オレはもう古いんだぞ。古くなつたんだぞ」と、吹聴してまはるのもみつともない。オールドミスが
「私、もうおばあさんだから」と言つてまはるのと同じことだ。古くなるには、やはり黙つて、堂々と、
新しさうな顔をしたまま平然と古くなつてゆくべきだらう。

三島由紀夫「発射塔 古くなる覚悟」より
353名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 10:37:46.43 ID:YSTZgRUZ
序文といふものは、朝、未知の土地へ旅立つてゆく若い旅人に与へる「馬のはなむけ」のやうなものである。
あたりはまだ薄闇に包まれてゐて、やがて汗ばむことになる馬の鬣(たてがみ)も、ひんやりと朝露に濡れてをり、
前脚ははやるやうに蹄を挙げて草を蹈みしだいてゐる。若い旅行者は元気よく馬の背に鞍を乗せ、腹帯をきつく締め、
さて馬に打ち跨がつて、馬上から見送りの人へ振向いて微笑する。しかしその顔にはすでに未知の土地の幻影が
かがやいてをり、昨夜まで滞在してゐた地方は、朝露のやうに急速に、その記憶から拭ひ去られてゆくのが
見てとれる。序文の筆者は、ただ馬の鼻先を、未知のはうへ向けてやればよいのだ。それで万事をはりだ。馬は
走り出し、旅人は二度とこちらを振向くことがない。
春日井建氏のこのブリリアントな処女歌集に贈る私の序文も、それ以外のものであつてはならない。しかしすでに、
目先しか見えない人々の間で、氏の歌がやすやすと前衛短歌などといふレッテルを貼りつけられてゐる。さういふ
俗悪な誤解は、この機会に解いておかなければならない。

三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より
354名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 10:38:18.33 ID:YSTZgRUZ
(中略)
言葉が、氏の場合、柔らかな生身を守る固いきらきらした胸甲のやうになつてゐるのは、今日の若者の場合、
当然の抒情的要請である。言葉にはふしぎな逆説的機能がある。言葉で固く鎧へば鎧ふほど、柔らかな生身は
ますますいたましく鋭い外気にさらされなければならない。氏は詩語を平気で蹴ちらかし、強引な観念聯合を
設定するが、かうした外界の現実への抵抗の姿勢が、逆になまなましい傷つきやすい赤裸の肌をさらけ出して
ゐるのである。胸甲のやうな言葉の金属性は、現代に対する敏感な反応であつて、言葉をうすい皮膚のやうに
なめらかに身にまとつてゐる既成歌人たちは、現代に対して鈍感なだけのことである。その代り、彼らは傷つく
ことから免かれてゐる。抒情は言葉の皮膚の上にとどまつてゐるからだ。しかし赤い立派な胸甲を持ちながら、
春日井氏の魂は裏返しの海老である。その魂は、歌集のいたるところで、活作の海老のやうにぴくぴくと慄へてゐる。
私はこの肉の顕在を愛する。

三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より
355名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 10:38:49.40 ID:YSTZgRUZ
又一つ言ふと、歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、血の
比喩として使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが明白な肉感的世界の
象徴であり、なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、
互(かた)みに観念を交換し、互みに呼び合ふものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、
失はれた抒情を、やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の
復活がふんだんに見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続をとつてしか現はれない
時代に生きてゐる。
現代はいろんな点で新古今集の時代に似てをり、われわれは一人の若い定家を持つたのである。

三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より
356名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 10:48:16.96 ID:YSTZgRUZ
石川淳氏の志操の高さ、現代文学に稀に見る気品については、語る人も多からう。私は殊に氏の文体が、
あらゆる意味で反時代的なところに敬愛の念を寄せてゐる。それは精神の迅速な運動を裸かのまま跡づけて
読者の目に示すことでは、正しく散文の重要な機能を果してゐるが、同時に、その豊富な語彙と柔軟性のかぎりを
尽した姿は軽業師の鍛へられた肉体を思はせ、文体を通じて、われわれは氏の精神の目もあやな運動に見とれる
のである。それは合せ鏡のやうな文体であり、われわれは氏の精神を喜ぶとき、たちまちその運動を喜ぶ。
しかしこのやうな神速のスピードは、日本の近代文学が忘れ去つた西鶴その他の江戸文学の文体の流れを引き、
同時に氏の西欧的教養は、日本の古い装飾的要素を剥奪して、ただ古い日本語の密度と、天空をゆくが如き
スピードを復活させるのに役立つた。この全集によつて、美しい日本語とはどんなものか知るがよい。

三島由紀夫「美しい日本語――石川淳全集推薦の言葉」より
357名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 12:19:44.64 ID:PwnSdzG0
この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、美を作り、その美が多くの
眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。しかも、どうやつたら美の陥穽に落ちないですむか、といふ課題は、
多くの芸術家にとつては、かなり平明な課題であつたと思はれる。彼らはただ前へ前へ進めばよいと思つたのだ。
そして一人のこらず、つひにはその陥穽に落ちたのだ。美は鰐のやうに大きな口をあけて、次なる餌物の落ちて
来るのを待つてゐた。そしてその食べ粕を、人々は教養体験といふ名でゆつくりと咀嚼するのである。
どこかの国、どこかの土地で、歴史の深淵から暗い醜い顔が浮び上り、その顔があらゆる美を嘲笑し、どこまでも
精妙に美のメカニズムに逆らつてゐるといふやうな事態はないものだらうか。ひそかにこれを期待しながら、
この前の旅行で、メキシコのマヤのピラミッドを見たときも、ハイチのヴードゥーを見たときも、私の見たものは
美だけであつた。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より
358名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 12:20:12.99 ID:PwnSdzG0
(中略)
もはや美の領域で、「ブゥルジョアをおどろかす」やうなものは存在しない。超現実主義は古い神話になり、
抽象主義は自明な様式になつてしまつた。抽象主義はやがて、ゴシックが中世に於て意味したやうなものに
なつてしまふであらうし、それだけのことだ。モデルの体に絵具を塗つて画布の上にころげまはらせても、
悲しいかな、結果は自明であり、美は画布の上に予定されてゐる。われわれはもはや、ウヰリアム・ブレークが
描いた物質主義の代表者「ピラミッドを建てた人」の肖像ほど醜くあることはできず、骨の髄まで美に犯されてゐる。
われわれの住んでゐるのは、拒否も憎悪も闘ひもない美の「民主主義的時代」なのだ。しかも近代の教養主義の
おかげで、歴史上のどんな珍奇な美の様式にも、われわれは寛容な態度で接してしまふ。
香港。――この実に異様な、戦慄的な町の只中で、私はしかし、永らく探しあぐねてゐたものに、やうやく
めぐり会つたやうな感じがする。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より
359名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 12:20:45.04 ID:PwnSdzG0
私は今までにこんなものを見たことがない。強ひて記憶を辿れば、幼時に見た招魂社の見世物の絵看板が、
辛うじてこれに匹敵するであらう。その色彩ゆたかな醜さは、おそらく言語に絶するもので、その名を
Tiger Balm Garden といふのである。
(中略)
地獄極楽図はまことにグロテスクの極致であつて、神桃を捧げられた神々や、竜馬にまたがつた神将、天女などの
足下には、雲を隔てて地獄の光景がひろがり、(中略)いまはしい囚人の姿が、新鮮なペンキの血をふんだんに
使つて、陰惨なリアリズムで描かれてゐる一方、この庭の童話的な趣向も忘れられずにをり、陰府刑車と大書した
近代的な自動車が、囚人を満載して近づいてくるのである。
ガーデンの特色の一つは、どんな遊園地にも似ず、一切の動きがないことだ。胡文虎氏は電気仕掛を好まなかつた
らしい。氏の庭はすべて永遠不朽のコンクリートで固化してをり、あらゆる激動の瞬間は、死のやうな不動の裡に
埃を浴び、虎は永遠に吼えつづけ、囚人は永遠に呻きつづけてゐる。このふしぎなモニュメンタルな死の気配に、
胡文虎氏の美学と経済学の結合があるらしい。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より
360名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 12:21:19.46 ID:PwnSdzG0
(中略)
この庭には実に嘔吐を催させるやうなものがあるが、それが奇妙に子供らしいファンタジイと残酷なリアリズムの
結合に依ることは、訪れる客が誰しも気がつくことであらう。中国伝来の色彩感覚は実になまぐさく健康で、
一かけらの衰弱もうかがはれず、見るかぎり原色がせみぎ合つてゐる。こんなにあからさまに誇示された色彩と
形態の卑俗さは、実務家の生活のよろこびの極致にあらはれたものだつた。胡氏は不羈奔放を装ひながらも、
この国伝来の悪趣味の集大成を成就したのである。
中国人の永い土俗的な空想と、世にもプラクティカルな精神との結合が、これほど大胆に、美といふ美に泥を
引つかけるやうな庭を実現したのは、想像も及ばない出来事である。いたるところで、コンクリートの造り物は、
細部にいたるまで精妙に美に逆らつてゐる。幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままに
のさばると、かくも美に背馳したものが生れるといふ好例である。
なぜ踊つてゐる裸婦の首が蜥蜴でなければならないのか。この因果物師的なアイディアは、空想の戯れといふ
やうなものではない。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より
361名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 12:21:45.87 ID:PwnSdzG0
いたるところに美に対する精妙な悪意が働いてゐて、この庭のもつとも童話的な部分も、その悪意によつて
どす黒く汚れてゐる。そしてそれはグロテスクが決して抽象へ昇華されることのない世界であり、不合理な
人間存在が決して理性の澄明へ到達することのない世界である。現実は決して超えられることがなく、野獣の咆吼や、
人間の呻きや、猥褻な裸体は、コンクリートの形のなりに固化したまま、現実のなかにぬくぬくと身をひそめてゐる。
しかもここには怖ろしい混沌の勝利はないので、混沌の美は意識的に避けられてゐると云つていい。一つの断片から
一つの断片へ、一つの卑俗さから一つの卑俗さへと、人々は経めぐつて、つひに何らの統一にも、何らの混沌にも
出会はない。おのおののイメージは歴史や伝説からとられたものであるのに、ここにはみぢんも歴史は感じられず、
新鮮なペンキだけがてらてらと光つてゐる。そして人々はこの夢魔的な現実のうちで、只一人の人間らしい顔にも
出会はないのである。

三島由紀夫「美に逆らふもの」より
362名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/10(金) 22:13:22.19 ID:iegXVVPl
むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。

平岡公威(三島由紀夫)、9歳の作文の一節

お前と同じ時代に生まれたかった。
363名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 17:49:16.08 ID:vP8ntdCB
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。
実際、空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しないとすれば、よほどぐうたらな
息子でない限り、学校の勉強や入試を通じて、苛酷な生存競争に立ちまじつてゆくことを選ぶにちがひない。


知力に、意志力に、体力が加はれば、どんな分野でも鬼に金棒だが、この三者の調和をとることがいかに困難で
あるかは、父自身がよく味はつてきたことなのだ。


男としての自覚を持つために、肉体的勇気が必要である。これも父自身が永年考へてきたことである。男は
どんな職業についても、根本に膂力の自信を持つてゐなくてはならない。なぜなら世間は知的エリートだけで
動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。

三島由紀夫「小説家の息子」より
364名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 17:53:05.86 ID:VtktHXwC
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に屈服するとは限らぬと
同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。


われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深く
しみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の
変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに
多すぎる血潮や死の時代には、人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を与へがちになるのは、
当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで解決する問題ではない。

三島由紀夫「残酷美について」より
365名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 17:53:39.58 ID:VtktHXwC
別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か一時間の会話の中には、
人生の至福がひそむといふのが社交の本義である。

三島由紀夫「社交について――世界を旅し、日本を顧みる」より


どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、ヤクザの隠語のやうな、独特の血なまぐささがある。
概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾がくすぶつてゐるのである。なぜなら、ある人間が、
頭の中で、地球儀のやうな、一望の下に見渡される図式的な世界像を即座に描き出せるといふこと、どんな
凡庸な人間にもそれが可能だといふことには、ゾッとするやうなものがあるからだ。

三島由紀夫「終末観と文学」より


大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には親しみを抱く傾きがある。

三島由紀夫「明治と官僚」より
366名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/14(火) 11:21:38.39 ID:pgug1Ahx
青春が誤解の時期であるならば、自分の天性に反した文学的観念にあざむかれるほど、典型的な青春はあるまい。
またその荒廃の過程ほど典型的な荒廃はあるまい。しかもそのあざむかれた自分を、一つの個性として全的に
是認すること。……これは佐藤氏より小さな規模で、今日われわれの周囲にくりかへされてゐる。

三島由紀夫「青春の荒廃――中村光夫『佐藤春夫論』」より


人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための親切な入門書と思つて
読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、
無知、増上慢、などに対する限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。

三島由紀夫「爽快な知的腕力――大岡昇平『現代小説作法』」より


自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。

三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より
367名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/14(火) 11:22:29.38 ID:pgug1Ahx
旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、ほぼ百分の一、
千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。


私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、人間は抽象化される要素を
持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた
肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり
時代おくれの技法であるが、私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。


最初に細部にいたるまで構成がきちんと決ることはありえず、しかも小説の制作の過程では、細部が、それまで
眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、
構成を最初に立てることは、一種の気休めにすぎない。

三島由紀夫「わが創作方法」より
368名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/15(水) 17:36:26.77 ID:AaRrdPgF
嘘八百の裏側にきらめく真実もある。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より


顔と肉体は、俳優の宿命である。いつも思ふことだが、俳優といふものは、宿命を外側に持つてゐる。一般人も
ある程度さうだが、文士などの場合は、その程度は殊に薄くて、彼ははつきり宿命を内側に持つてゐる。これは
職業の差などといふよりは、人間の在り方の差で、宿命を外側に持つ人間と、内側に持つ人間との、両極端の
代表的存在が、俳優と文士といふものだらうと思はれる。
だから俳優は自分の顔と戦はなければならない。その顔が世間から愛されれば愛されるほど、その顔と戦はなければ
ならない。

三島由紀夫「若尾文子讃」より


二流のはうが官能的魅力にすぐれてゐる。

三島由紀夫「ギュスターヴ・モロオの『雅歌』――わが愛する女性像」より


人がやつてくれないなら、自分がやらねばならぬ。

三島由紀夫「ジャン・コクトオの遺言劇――映画『オルフェの遺言』」より
369名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/15(水) 17:36:49.91 ID:AaRrdPgF
私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した童話集なのかもしれない。
目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは大人の童話だからだ。

三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫――ジャックと豆の木の壁画の下で」より


日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが最高無上の価値だ」といふ、
そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家
だから偉いのである。

三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」より


SFからはすくなくとも、低次のセンチメンタリズムが払拭されてゐなければならぬ。
私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである。

三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より
370名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:15:15.65 ID:+iH1AU59
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつてゐても、醜聞といふものは、
いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージとよく符合するやうにできてゐる。ましてその醜聞が、
大して致命的なものではなく、人々の好奇心をそそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには
尚更である。かくて醜聞はそのまま神話に変身する。
(中略)
アメリカにおける日本娘の名声の高さは大へんなものである。われわれスポイルされた日本男性は、風呂の中で
妻が背中を流してくれるのを当然のサーヴィスと心得てゐるが、アメリカ人の感激は大へんなものらしいのである。
しかしアメリカ婦人だつて、自分の愛犬の背中を喜んで洗つてやるではないか。とすれば、アメリカ婦人が良人の
背中を流したがらない理由は、男性を犬から区別する敬意に出てゐるのかもしれないのである。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
371名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:15:49.20 ID:+iH1AU59
(中略)
日本のサーヴィス業といふものには、微妙な東洋的特色があるのである。西欧では、快楽といふものは、
キリスト教的伝統によつて、肉体的快楽と精神的快楽にはつきり分けられてゐるらしい。日本ではこのへんが
ひどくあいまいで、肉体から精神にいたるひろい領域を、いろんな種類の快楽が埋めてゐて、そのひとつひとつに
対応するサーヴィス業があるわけだ。だから日本人は、外人が芸者やバアの女給を娼婦と混同するやうな誤解に
ひどく気を悪くする。芸者は断じて娼婦ではない。かと云つて素人女でもないのである。いや、娼婦ですらも、
厳然たる合理的娼婦ではない。十八世紀の日本の純粋な恋愛劇は、ほとんど娼婦と客との恋を描いてゐる。
この点では、封建時代の日本人はよく割り切つてゐた。恋愛とは、金を払つた女とやるものであり、結婚と
恋愛とは何の関係もないと思つてゐたのである。今でも日本人にはこの気分が残つてゐて、恋愛といふものは、
金を払へる場所で、たとへば女のゐる酒場で、次第に精神的に成立するものだといふやうな考へがある。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
372名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:16:23.14 ID:+iH1AU59
(中略)
日本人はほとんど英語を話さない。と云ふとアメリカ人の旅行者はおどろくだらうが、ホテル業者やガイドや
貿易商社関係や、つまり英会話の能力で利益を得る人たちが英語の巧いのは当り前である。だから、本当の日本人、
外人と附合はなくてもやつて行ける日本人は、ほとんど英語を話さない、と云つたはうが正確だらう。そして
かういふ本当の日本人は、外人風に肩をすくめたり、身ぶり手ぶりを使つたり決してしない。英語で話しかけられると、
「わからない」といふしるしに、例の有名な「不可解な微笑」をうかべるだけである。
この微笑が、西洋人には、実に気味のわるい、謎に充ちたものにみえることは定評がある。しかしわれわれに
とつては単純な問題である。悲しいから微笑する。困惑するから微笑する。腹が立つから微笑する。つまり、
「悲しみ」と「困惑」と「怒り」は本来別々の感情だが、それをXならXといふ同じ符号で表現するわけだ。
このX符号を示された相手は、すぐ次のやうに察しなければならない。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
373名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:17:08.40 ID:+iH1AU59
「ははア、これはきつと何か、隠しておきたい感情があるんだな。そんなら触れずにそつとしておかう」
つまり微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは社会生活では
当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が個人の自由を守つてきたのである。
しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。
ところが外国人はさうは行かない。殊にアメリカ人となると、絶対に我慢できない。一体このX符号は何だらう。
彼は頭を悩まし、分析し、判断し、質問する。そしてあげくのはてに、相手が怒つてゐるのだと知ると、茫然と
してしまふ。「そんならはじめから、微笑したりせずに、怒ればいいぢやないか」しかしそれは礼儀に外れた
方法である。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
374名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:20:25.48 ID:+iH1AU59
(中略)
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つておけば腐つてしまふ。
伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が
行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方をよくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの
間には決定的な差があるが、木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次の
オリジナルになるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。かくて
伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の秋は今年の秋とおなじである。
だから一般的に云つて、日本人くらゐ、伝統を惜しげなく捨て去つて、さつさと始末してしまふ国民もゐない。
伝統の重圧といふものは、日常生活には少しも感じられず、東洋風な敬老思想もなくなつて、今日では、日本の
老人は、若者の御機嫌をとるのに汲々としてゐる。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
375名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 11:20:54.78 ID:+iH1AU59
(中略)二十歳以下の連中は、ブルー・ジンズで街を歩きまはり、ロックン・ロールにうつつを抜かしてゐる。
外人旅行者は目をうたがふ。これが日本なのか? 旅行案内社のポスターと何たるちがひだらう!
しかしこれが日本の伝統なのである。鎖国時代の日本人でさへ、今日の若い日本人が、ジャックとかメリーとかいふ
アメリカ名前のニック・ネームを使つてゐるやうに、支那式の名前を別に持つてゐた。当時、支那は日本にとつて、
今日のヨーロッパのやうなものであつた。
二十年目毎の改築と遷宮、これは実に象徴的である。終戦後十五年あたりから、もうすつかり死に絶えたと誰もが
思つてゐた古い日本思想が、あなどりがたい力で復活して、若い世代の一部を惹きつけてゐる。一九六〇年に、
十五年ぶりでハラキリが復活した。岸内閣の政治に憤慨した或る僧侶が、官邸の前で切腹したのである。これから
又たびたびハラキリが出て来ても、おどろくには当らないのである。サムラヒもやがて復活することであらう。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
376名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 01:50:53.68 ID:U7jVjQni
AAB深夜枠の「ユキチカ!」で特集やるでしょ
377名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 10:53:18.91 ID:m+pCh3kW
諸君が芸術および芸術家に対して抱いてゐる甘い小ずるい観念が今やはつきりした。なるほど「喜びの琴」は
今までの私の作風と全くちがつた作品で、危険を内包した戯曲であらう。しかしこの程度の作品におどろく
くらゐなら、諸君は今まで私を何と思つてゐたのか。思想的に無害な、客の入りのいい芝居だけを書く座付作者だと
ナメてゐたのか。さういふ無害なものだけを芸術と祭り上げ、腹の底には生煮えの政治的偏向を隠し、以て
芸術至上主義だの現代劇の樹立だのを謳つてゐたなら、それは偽善的な商業主義以外の何ものなのか。
諸君によく知つてもらひたいことがある。芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを
吸ふことはできない。四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
諸君を北風の中へ引張り出して鍛へてやらうと思つたのに、ふたたび温室の中へはひ込むのなら、私は残念ながら
諸君とタモトを分つ他はないのである。

三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より
378名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 10:53:54.86 ID:m+pCh3kW
ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの四角の空間に、一つの
集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつもこんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。
世界を、こんがらかつた複雑怪奇な場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の
行動家が登場する。そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、疑ひやうの
ない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な人間とは本来かういふものではないか、
と思はせるだけの輝きがある。もちろん観客は、不完全な人間ばかりだ。
ボクシングの美しさに魅せられると、ほかの大ていの美しさは、何だかニセモノめいて来る。それは錯覚に
ちがひないが、いい試合を見てゐるときは、たしかにさう感じる。そして文明などといふものが人間をダメにして
しまつたことがしみじみわかるのである。

三島由紀夫「ウソのない世界――ひきつける野生の魅力」より
379名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 10:54:48.12 ID:m+pCh3kW
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。

三島由紀夫「冷血熱血」より


赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、すばらしい個性になるだらう。
しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、又々十把一からげの顔になることかくの如し。

三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より


今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、ある場合には、
社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、平べつたい人間認識では、とても片付かない。

三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より


アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、わびしさの同義語になる。

三島由紀夫「芸術家部落――グリニッチ・ヴィレッジの午後」より
380名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 10:55:37.88 ID:m+pCh3kW
文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、この世界文学の
古典に親しめば、鬼に金棒である。東西の古典を渉猟すれば、人間の問題はそこに全部すでに語り尽くされて
ゐるのを知るだらう。ヘナヘナしたモダンな思ひつきの独創性なんか、この鉄壁によつてはねかへされてしまふのを
知るだらう。その絶望からしか、現代の文学も亦、はじらぬことに気づくだらう。
一般読者には実はこの全集をすすめたくない。古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて
読めなくなる危険があるから。

三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」


古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけマイナスになつてゐるか。
又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、今日、日ましに明らかになりつつある事実である。

三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より
381名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 10:56:20.68 ID:m+pCh3kW
日本の芸能の古いものほど、広大な全アジア的ひろがりが背後に揺曳するものが多い。能でも「翁」には、
さういふ影があるし、かつて二月堂のお水取の行事に参列したときも、中央アジアに及ぶ古代文化の大きな類縁を、
ふしぎな声明の一トふし毎に聴く思ひがした。
さういふ点では(宗達の「舞楽図」もちやんとそれをとらへてゐるが)舞楽ほどせまい中世以後の純日本文化から
高く抜きん出た、広大な茫漠とした展望を、目に浮ばせる芸能はない。表向きは、古代支那の戦物語を描いてゐても、
その仮面、その装束、その動作の淵源ははるかに見定めがたく、われわれの心は古代のペルシャ湾のほとりへまで、
辿りついてしまふのである。
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、このやうな光彩陸離たる
芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた
日本文化の数百年のあひだに、それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。

三島由紀夫「舞楽礼讃」より
382名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:41:14.44 ID:g2EWNxjH
羽田のインタビューが感じがわるかつたとしても、(事実相当に感じがわるかつたと想像されるが)、新聞記者の
心証をよくするといふことが、太平洋横断といふ達成された事実と何の関係があるのか。太平洋横断をした青年が、
何で英雄気取りになつてはいけないのか。かういふことをした青年が、凡庸な世間の要求するイメージに従つて、
頬をポッと赤らめて頭を掻いたりする「謙虚な好青年」でなければならぬ義務がどこにあるのか。又世間が
どうしてそんなものを彼に要求する権利があるのか。……考へれば考へるほど、腑に落ちないことだらけである。
大体、青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。ヨットで九十日間、
死を賭けた冒険ををして、それでいはゆる「人間ができる」ものなら、教育の問題などは簡単で、堀江青年は
この冒険で太平洋の大きさは知つたらうが、人間や人生のふしぎさについて新たに知ることはなかつたらう。
そんなことは当たり前のことで、期待するはうがまちがつてゐる。

三島由紀夫「堀江青年について」より
383名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:41:41.46 ID:g2EWNxjH
のみならず堀江青年に、テレビや映画のまやかしものの主人公のやうな、出来合ひの「好青年」を期待するはうが
まちがつてゐる。そんな好青年は、決してたつた一人で小さなヨットで太平洋を渡らうなどとはしないだらう。
かういふ孤独な妄執は、平均的な「好青年」などから芽生える筈もない。たとへばこのごろの「カッコいい
若者たち」の六尺ゆたかの背丈と、五尺そこそこといはれる堀江青年の背丈とを比べてみるだけでもいい。
ラスウェルは「政治」の中で、リンカーンの情緒的不安定や、ナポレオンの肉体的劣等感について詳さに述べてゐる。
今度のジャーナリズムの態度は、大衆社会化の一等わるい例を、又一つわれわれに示した。それは社会的イメージの
強制であり、そのイメージは凡庸な平均的情操から生れ、無害有益なものとして、大衆社会からすでに承認された
ものである。これは一堀江青年のみならず、芸術に対する大衆社会化反応の進みゆくおぞましい時代をも暗示する。

三島由紀夫「堀江青年について」より
384名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 14:49:03.93 ID:CY8+AkEE
文書読本はまだか。
385名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 19:08:22.17 ID:g2EWNxjH
386名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 10:04:07.01 ID:mCCTEwus
レター教室、長い春、とか割りと軽めの話が好きなんだけども
他に三島作品でオススメはありますか?
387名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 10:46:22.45 ID:7zDqyRqA
俺が嫌いなのは三島ではなく必要以上に熱狂するファンなのだ
結局奴らは学校や仕事先でがんばれてなかったり、勝ててなかったりする奴らの
集まりで、それをひいきの三島に託し、三島が頑張れば自分も頑張った気になるし、
それで成功すれば自分も成功したような気になるのだ
俺の様に毎日2chで戦ってる人間なら人を応援する余裕なんてある訳がない
388名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 11:28:11.97 ID:nLi2MW3E
>>386
軽めのものがお好きなら、「にっぽん製」「潮騒」などが面白くおすすめですよ。
ハッピーエンドじゃありませんが「純白の夜」「美徳のよろめき」「憂国」なども、比較的楽に読めるわりに
文学的にも完成された作品だと思うのでおすすめです。
389 忍法帖【Lv=12,xxxPT】 :2011/06/21(火) 17:59:58.09 ID:Ec0ZAZpG
てs
390名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 11:44:50.65 ID:TCKTVgpE
丸山明宏君が、浮世の浮華な人気を離れてから久しく、そのうちに徐々に徐々に、本物の光りを放ちだしたことは、
具眼の士と云はうか、「具耳」の士には、既にみとめられてゐたことである。彼は自ら作詞し、自ら作曲し、自ら
歌ふことによつて、ほんたうの日本の歌へ向つて進んで行つた。ペーソスとユーモアと官能と粋と、しかもそれを
大根(おおね)のところで支へる彼の深い素朴さと、ひよわさうにみえて実は怖ろしいほどの強靭さと、これが、
丸山明宏のすべてであり、その抒情のすべてである。彼の風姿には元禄の美少年の遠い反映があり、彼の声には
廃坑の炭坑夫の嘆きぶりの力強さがあり、そして、彼はあくまでも銀の歌手であり、暁の明星であるよりは、
宵の明星なのだ。彼の歌はどんなに希望に燃えて歌はれても、朝を告げ知らすのではなく、夜の到来を告げる。
(中略)冬来りなば、春遠からじ。夜来りなば、朝遠からじ。彼の歌にひそむ未来と希望は、あからさまな
直接なものではなく、夜のヴェールに幾重にも包まれて、実にさりげなく、つつましくさし出されてゐるのである。

三島由紀夫「夜を告げる星(丸山明宏リサイタルに寄せて)」より
391名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 23:40:56.79 ID:TCKTVgpE
私には特に、新劇の公演の、あの死灰のやうな気分が堪へられない。いたづらに誠実さうな顔つきをした、
「まじめな」観客といふものが堪へられない。劇場といふものは、ビリビリと神経質に慄へ、深い吐息をし、
興奮のために地震のやうに揺れ、稲妻によつて青々と照らし出され、落雷によつて燃え上がる、さういふ巨大な、
良導体で鎧はれた動物のやうなものであるべきだ。

三島由紀夫「ロマンチック演劇の復興」より


俳優は、良い人間である必要はありません。芸さへよければよいのです。と同時に、俳優は、俳優に徹することに
よつて思想をつかみ、人間をつかむべきではないでせうか。組織のなかで、中途はんぱなつかみ方をするのは
いけないと思ひます。

三島由紀夫「俳優に徹すること――杉村春子さんへ」より


イデオロギーは本質的に相対的なものだ、といふのは私の固い信念であり、だからこそ芸術の存在理由があるのだ、
といふのも私の固い信念である。

三島由紀夫「前書――ムジナの弁(「喜びの琴」)」より
392名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 23:41:27.03 ID:TCKTVgpE
アポローンの永遠の青春は、私の仕事の根源であり、私の光りである。アポローンの面影をとどめたガンダーラ仏の
源流と思へば、この像はいはばわが仏であらうか。

三島由紀夫「庭のアポローン像について」より


男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで考へられてゐる男とは、何か
青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。男らしさを企図する人間には、必ずファリック・
ナルシシズムがある。


「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が必要なのである。


真に独創的な英雄といふものは存在しない。


あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。

三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より


美しい静かな絵といふものは、世路の艱難の只中から生れるものだ。それは艱難からの逃避ではなく、生きることの
むづかしさそのものから直ちにひらいた花だ。

三島由紀夫「無題(鈴木徳義個展推薦文)」より
393名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 09:32:57.30 ID:aIIVYaQS
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。


共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質はちがはないといふ仮定が、
あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、
さらに辛辣なイロニイがゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ無意識的に革新的で
あるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふイロニイが。


日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は弓のやうに日本人たちを
たえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。

三島由紀夫「林房雄論」より
394名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 09:33:31.14 ID:aIIVYaQS
うす暗い喫茶店で、ゴミのはひつたコーヒーを、そのゴミも暗くて見えないまま、深刻にすすつてゐるのが
好きな人は、明るすぎる喫茶店など、我慢できたものではあるまい。


文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい、と私はかねがね考へてゐる。


文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ引きずりこむだけの
力を備へてゐるかどうかによつて測られる。それを面白いと言ひ、その力を備へてゐないものをつまらないと
言ふことは、読者の権利である。

三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より


狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が狐であることを実証する。
それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。

三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より
395名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 09:34:07.80 ID:aIIVYaQS
日本といふ国は、自発的な革命はやらない国である。革命の惨禍が避けがたいものならば、自分で手を下すより、
外力のせゐにしたはうがよい。


復興には時間がかかる。ところが、復興といふ奴が、又日本人の十八番なのである。どうも日本人は、改革の
情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。その点でも私は安心してゐる。

三島由紀夫「幸せな革命」より


人間には、不条理な行動へ促す魔的な力の作用することがある。作家はいつもこの魔的な力から制作の衝動を
うけとる。

三島由紀夫「魔的なものの力」より


浮世は「幻の栖(すみか)」にすぎず、自分の肉体は過客にすぎぬ。

三島由紀夫「久保田万太郎氏を悼む」より


小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも偉大でなくても、小さく澄んだ
崇高さがありうる。

三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より
396名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 09:34:33.87 ID:aIIVYaQS
ミュージカルとはアメリカの歌舞伎である。誇るべき文化遺産を持たない新しい国が、必死になつて、ヨーロッパの
オペラや、バレーに対抗する劇場芸術、しかもアメリカでしか生れないものを狙つて、アメリカのものすごい
エネルギーと資本を傾注して、やつと今のやうな形にまでしたものだ。だからそこには、草創期の歌舞伎に似た、
若々しい創造のエネルギーと、若さだけの持ちうる詩と、俗悪さと、商業主義と、悪ふざけと、スノビズムと、
知的享楽と、諷刺と、……あらゆるものが渾然一体となつてゐる。こんなものが一朝一夕に、他国人に真似られる
ものではない。そこには第一、音楽や舞踊のヨーロッパ的な基礎的教養や訓練が、前提になつてゐるのである。

三島由紀夫「ミュージカル病の療法」より


若い女性の多くは、能楽を、退屈に感じて見たがらない。そして、日本でしか、日本人しか、真に味はふことの
できぬ美的体験を自ら捨ててゐるのだ。

三島由紀夫「能――その心に学ぶ」より
397名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 19:54:57.55 ID:CdIlKzlD
私はずいぶんいろんな西洋人の夫婦を知つたが、それから得た結論は、夫婦といふものは、世界中どこも同じであり、
又、世界中どこも千差万別である、といふ月並な結論であつた。


日劇のストリップ・ショウの特別席は、大てい外人の観光客で占められてゐるが、鬼をもとりひしぐ顔つきの老婆と
居並んで、ぽかんと口をあけてストリップを見てゐる老紳士ほど、哀れな感じのするものはない。ああいふのを
見ると、私はいつも、西洋人の夫婦を支配してゐる或る「性の苛烈さ」を感じてしまふのである。尤も御当人の
身にしてみれば、鬼のごとき老妻に首根つこをつかまへられながらストリップを見るといふ、一種の醍醐味が
あるのかもしれない。

三島由紀夫「西洋人の夫婦」より
398名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 19:55:25.30 ID:CdIlKzlD
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、人の頭ばかり気になる
さうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものがあるわけはありません。われわれはみんな
色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから
決つてをり、一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、生きる
たのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、ほかの人の見えない地獄や深淵を
そこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない
深淵を見つけ出します。

三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より
399名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 19:55:55.80 ID:CdIlKzlD
本当は法律といふものは、昼間の理性を以て、夜の情念を律するために作られたものであるから、真夜中の仕事を
本業とする人間は、反法律的、あへて言へば犯罪的人間である。


理性的な社会、安定した秩序の社会といふものが、もし存在するとするならば、これは、法規制のエネルギーが、
直流式ではなく、交流式に働く社会のやうに思はれる。すなはち、昼間の理性が夜の情念を律すると同時に、
夜の情念が昼間の理性を律し、且つこの相互作用によつて、夜の情念が情念それ自体の精妙な理法を編み出し、
又、昼の理性が理性それ自体の情感乃至風情といふものをにじみ出させてゐる、といふやうな社会なのである。
(中略)
急に卑近な話になるが、オリンピックの外来客に、東京を清潔な都会と思はせるため、飲食店その他の深夜営業を
禁止しようとしてゐる東京都の役人の考へなど、頑なな昼の理性のもつとも低俗な表現と言へるであらう。

三島由紀夫「夜の法律」より
400名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 15:22:35.51 ID:qQT29/Re
アメリカでは古ぼけた前衛芸術家をからかつて、
「ありやあ後衛(リヤー・ガード)だ」
なんぞといふ。前衛芸術の歴史が古くなれば、前衛の骨董が現はれるのは当然で、日本でもそろそろ現はれて
来る頃である。
ただ日本の前衛芸術が困ることは外国の前衛の行きつくところが、結局東洋的なものだといふことであらう。
さうすると、日本では外国渡来のモダン・ジャズをやつてる連中より、歌舞伎役者のはうが、ずつとモダンで
新しくて先端的なことになつてしまふ。
たとへば舞台へ生首を持ち出したところで、日本のお客は少しも前衛的だなどとは思はず、歌舞伎の真似だと
思ふだけである。こんなことを考へると、日本の前衛芸術家はバックで動く自動車に乗つてるやうなもので、
自分が前窓だと思つてゐたものが実は後窓になつてしまふわけだ。
それならいつそ、前衛は前衛なりに早く古びて、後衛の権威を確立したはうが本筋かもしれぬ。私は先頃、或る
前衛舞踊の会で、有名なシュール・レアリストの美しい白髪を見て、日本のシュールもいい具合に苔が生えて
きたなと思つた。

三島由紀夫「Four rooms 後衛芸術」より
401名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 15:23:45.14 ID:qQT29/Re
お客を怒らすことは必要だがナメることは禁物だ、といふのが、すべてのショウ・ビジネス(古典から前衛に
いたる)の鉄則だらうと思ふ。
しかし、このケヂメは実にむつかしい。
だから商業主義のプロデューサーは、お客を怒らせては大変だと、そればかり心配して、却つてお客をナメる
結果になつてしまふ。一方、青くさい実験家は、お客を怒らすことに熱中しすぎて、つひにはお客をナメるのと
同様になつてしまふので、アチャラカのつまらなさと、実験演劇のつまらなさは、観客的観点から見れば同種の
ものである。
われわれは劇場へゆくときに、舞台からの猫撫で声も罵詈雑言も、どちらもききたくないのであつて、こちらが
ジワジワと怒らされれば怒らされるほど、却つて自分の愛着と昂奮を白状させられる形になるやうな、さういふ
ものを与へられたいのである。
六代目菊五郎が喜多村緑郎と芝居をしたとき、二人とも声が小さすぎ、六代目が、きこえないといふ客の抗議に
対して、
「きこえざァ、五側目より前で見な」と言つたのは、傲岸不遜、貴族的な暴言で人を怒らせるが、六代目は
決して客をナメたのではなかつた。

「Four Rooms お客をナメるべきか?」より
402名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 11:30:34.47 ID:JVXxAANS
赤ん坊のときは、怪物的であつて、あんまり可愛らしくないので、これなら溺愛しないでもすみさうだ、と少し
安心した。しかし少し大きくなつてくると、私はそろそろ不安を感じた。これは並々ならぬ可愛いものである。
しかし他人様から見てそんなに可愛い筈はないから、こんな気持は全く主観的な感情にちがひない。私といへども、
小説家のハシクレであるから、「感情に溺れる」とか、「感情に負ける」とかいふことは大の恥である。小説家は
あらゆる事物が客観視できなくてはならない。人から見て可愛くも何ともないものが可愛くみえるといふことは、
すでに錯覚である。困つたことになつたものだと私は思つた。
それに、子供が可愛くなつてくると、男子として、一か八かの決断を下し、命を捨ててかからねばならぬときに、
その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、卑怯未練な振舞をするやうになるのではないかといふ恐怖がある。そこまで
行かなくても、男が自分の主義を守るために、あらゆる妥協を排さねばならぬとき、子供可愛さのために、妥協を
余儀なくされることがあるのではないか、といふ恐怖も起る。

三島由紀夫「子供について」より
403名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 11:31:23.41 ID:JVXxAANS
主義を守りとほすためには、まづ有り余る金があればいいのだが、その有り余る金を稼ぐには、主義の妥協が要る。
といふ悪循環は、子供のおかげで倍加するであらう。
――私は行末を考へていろいろと憂鬱になつたが、こんなことは、そもそもはじめからわかつてゐる筈のことであつた。
子供が手を引いてヨチヨチ歩きができるやうになつたころ、ある晩夏の宵、家人と散歩に出たことがある。
すると静かな道の外灯のあかりに、影法師が出た。これを見て、私はギョッとした。家人と私との間に、ちやんと
両方から手を引かれた小さな影法師が歩いてゐる。
いかにして、両側の大きい影法師から、まんなかの小さい影法師があらはれたか、動物的必然とはいひながら、
正に人間と人生のふしぎである。小さい影法師は平然とその存在を主張し、ちやんと二本の足で、大地を踏みしめて
歩いてゐる。
私は、何ともいへぬ重圧的な感動に押しひしがれ、もう観念しなければならぬと思つた。

三島由紀夫「子供について」より
404名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 11:32:03.42 ID:JVXxAANS
――このごろでは、私は、客人の前で、かつての先生のみつともない振舞を再演してゐる。
「文字自体が象徴的機能を持つてゐるんだから文学も、……あつ、いけません、その椅子に乗つちや、あぶないから、
……文学もね、現実の直叙といふことは、そもそも方法的に不可能で、……今、いけないと云つたらう、飴を
あげるからおとなしくなさい……方法的に不可能で、ミュージック・コンクレートみたいに、現実音自体の構成で
音楽を作るはうが、リアリズムの正統だね、しかし……歌なんか歌ふんぢやない、お客様とお話してるときに
……リアリズムが内包してゐる矛盾は……エ? オシッコがしたいのかい? さうぢやない? そんならいいが
……そもそもリアリズムが内包してゐる矛盾は……又その椅子に乗つた。ほら引つくりかへる。いけないと云つたら
いけない。言ふことがきけないのか」

三島由紀夫「子供について」より
405名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 12:00:04.02 ID:rG0ZpYw7
この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。このやうな怪物的日本は、
鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場においてだけ、われわれの口を
借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。私は今ではこの叫びを切に愛する。このやうな叫びに
目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。それが私の口から出、人の口から出るのを
きくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには
「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、……その叫びと一体化することのもつとも
危険な喜びを感じずにゐられない。

三島由紀夫「実感的スポーツ論」より
406名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 12:00:29.26 ID:rG0ZpYw7
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い
「精神主義」の風味なのだ。私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、
あくまでその反時代性を失はないことを望む。
(中略)
スポーツは行ふことにつきる。身を起し、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。そのあとのシャワーの
快さについて、かつてマンボ族が流行してゐたころ、
「このシャワーの味はマンボ族も知らねえだろ」
と誇らしげに言つてゐた拳闘選手の言葉を私は思ひ出す。この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。
運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれてゐる。どんな権力を握つても、どんな放蕩を
重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知つたとはいへないであらう。

三島由紀夫「実感的スポーツ論」より
407名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 12:41:12.42 ID:+7hP1naY
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
 美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
 相談者『(憤然として)読んでますよ』
 美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
 相談者『秋元康とか』
 美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……?(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
 相談者『?』
408名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 15:40:48.87 ID:PJLAYUsS
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。


私もそのころの太宰氏と同年配になつた今、決して私自身の青年の客気を悔いはせぬが、そのとき、氏が初対面の
青年から、
「あなたの文学はきらひです」
と面と向つて言はれた心持は察しがつく。私自身も、何度かさういふ目に会ふやうになつたからである。
思ひがけない場所で、思ひがけない時に、一人の未知の青年が近づいてきて、口は微笑に歪め、顔は緊張のために
蒼ざめ、自分の誠実さの証明の機会をのがさぬために、突如として、「あなたの文学はきらひです。大きらひです」
と言ふのに会ふことがある。かういふ文学上の刺客に会ふのは、文学者の宿命のやうなものだ。もちろん私は
こんな青年を愛さない。こんな青臭さの全部をゆるさない。私は大人つぽく笑つてすりぬけるか、きこえないふりを
するだらう。
ただ、私と太宰氏のちがひは、ひいては二人の文学のちがひは、私は金輪際、「かうして来てるんだから、
好きなんだ」などとは言はないだらうことである。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より
409名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 15:41:17.78 ID:PJLAYUsS
青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。人間には、知らないことだけが役に立つので、
知つてしまつたことは無益にすぎぬ、といふのは、ゲエテの言葉である。どんな人間にもおのおののドラマがあり、
人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における
唯一例のやうに考へる。


小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へたところからはじまるので
あるから、あとのたのしみが大きく、しかもそのたのしみにはもはや労苦も責任も伴はない。


芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ向けられると、必ずひどい目に
会ふのがオチだといふことである。その一例として、今もときどき私が思ひ出すのは、加藤道夫氏のことである。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より
410名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 15:41:51.33 ID:PJLAYUsS
芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。自分だけは犯されまいと思つても、
いつのまにかこの毒に犯されてゐる。この世界で絶対の誠実などといふものを信じたら、えらい目に会ふのである。
或るアメリカ人が、ニューヨークで、芝居を見るのは実に好きだが、劇壇の人たちはcorrupt people(腐敗した
人たち)だからきらひだ、と言つてゐたのも、一面の真実を伝へてゐる。
しかし、煙草のニコチンと同じで、毒があるからこそ、魅力もある。こればかりは、どう仕様もない。



大体私は「興いたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。いつもさわぎが大きいから
派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・
ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、想像してもらつたらよからう。


忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老いの兆だ。

三島由紀夫「私の遍歴時代」より
411名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:55:02.92 ID:dydhfHCq
完ぺきのマナーを発揮して女性をエスコートするといふのは、よほど心にゆとりのある証拠。つまり演技者の
心境である。
ふつうの男性が、心からあなたを熱愛したばあひには、マナーやエスコートは、そんなにスマートにいくはずかない。
なぜなら彼は、横断歩道をわたるときも、喫茶店にゐるときも、いつも心臓をドキドキさせてゐるからである。
つまり、恋愛には、ゆとりが入りこむ余地がないものなのだ。


一つの目的にむかつて、わき目もふらずに突進する……精虫の行動原理は、男のやることのすべての基本型。


人間……とくに男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。
また、なつてはいけないのが男である。


裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。


世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。
“男性を偶像化すべからず”
職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を差し引いたものが、家庭での彼の姿。

三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より
412名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:55:39.39 ID:dydhfHCq
バレーはただバレーであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさはやかであればよい。人間の姿態の最上の
美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい。古典バレーもモダン・バレーもあるものか。


しかし芸術として、バレーは燦然たる技術を要求する。姿態美はすでに得られた。あとは日本の各種の古典芸能の
名手に匹敵するほどの、高度の技術を獲得すれば、それでよい。ただ、バレーのハンディキャップは、西洋の
芸能の例に洩れず「老境に入つて技神に入る」といふやうなことが望めないことであり、若いうちに電光石火、
最高の美と技術に達しなければならぬといふ点で、却つて伝統と一般水準の問題が重く肩にかかつてゐるといふ点である。

三島由紀夫「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演プログラム」より


日本人は何と言つても和服を着た姿が、一等立派で美しい。女も男もさうである。

三島由紀夫「『恋の帆影』について」より
413名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 23:10:51.34 ID:dydhfHCq
旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考へられない。


旅には、実景そのものの美しさに加へるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思ひ出などの、観念的な準備が要るので
あつて、それらの観念のヴェールをとほして見たときに、はじめて風景は完全になる。


ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本である。


苦行の果てにはかならずすばらしい景色が待つてゐる。


観光地といへば、パチンコ屋とバーと土産物屋が蠅のやうにたかつて来てそこを真黒にしてしまふ大都市の周辺は、
私に黒人共和国ハイチの不潔な市場を思ひ出させる。いやに真黒なものばかり売つてゐるな、と思つて近づくと、
それがみな食料品に隙間なくたかつた蠅なのだ。しかしバーや土産物屋などの蠅よりも、一等始末のわるいのは、
音を出す拡声器といふ蠅である。それから考へると、今度の旅では、全くその音をきかずにすんだ。拡声器の
アナウンスや流行歌に比べれば、プロペラ船などは可愛らしい蜜蜂だ。

三島由紀夫「熊野路――新日本名所案内」より
414名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 23:11:29.31 ID:dydhfHCq
人生にはそんなに昂奮の連続もなければ、世界記録の更新もない。金メダルもなければ、群衆の歓呼もない。
手に汗にぎるスリルもなければ、英雄主義もない。
あるのは、単調なくりかへしと、小さな喜び、小さな悲しみ、小さな不愉快だけであつて、「思ひがけないこと」と
云へば、概してよくないことのはうが多い。
かういふ生活にどうやつて耐へるか、それについては、大体二つの方法がある、といふのが私の考へである。
一つは「葉隠」の武士道のやうなもので、いつも架空の危機を自ら想定し、それに向つてたえず心身を緊張させて
生きることである。緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで
あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の緊張の連続であつて、
豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活であることは言ふまでもない。
もう一つは、単調なくりかへしの先手を打つて、自分の自由意志で、さらにそのくりかへしを徹底させる生き方である。

三島由紀夫「秋冬随筆 歓楽果てて……」より
415名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 23:12:31.13 ID:dydhfHCq
人間は孤独になればなるほど、予想外の行動に出るものであつて、「一人きりでゐるとき、人間はみんなキチガヒだ」
といふモオリヤックの言葉は、人間性を洞察した至言にちがひない。

三島由紀夫「秋冬随筆 タッチ魔」より


テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人はテレビにしがみついてゐれば、
いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、
知識の綜合力は誰の手からも失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることは
ますますむづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。


天空の果てまで見とほす天体望遠鏡も、暗黒星雲の向う側は見透かせないとすれば、万能らしきマス・コミと
いへども、やはりわがままな人間の心を支配できない盲点があるにちがひないのである。
三島由紀夫「秋冬随筆 無用の知識」より


文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず作者の夢が破れたところに
出発してゐる。

三島由紀夫「秋冬随筆 世界のをはり」より
416名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 23:43:23.07 ID:6b0mEpkl
顔はふつう所与のものであつて、遺伝やさまざまの要因によつて決定されてをり、整形手術でさへ、顔の持つ
決定論的因子を破壊しつくすことはできない。しかも顔は自分に属するといふよりも半ば以上他人に属してをり、
他人の目の判断によつて、自と他と区別する大切な表徴なのである。


本当に危険な作品は、感覚的な作品だ。どんな危険思想であつても、論理自体は社会的タブーを犯さぬのであつて、
サドのやうな非感覚的な作家の安全性はこの点にある。


古き芸術小説は言語のフェティシズムによつてのみ芸術性を確保し、又、中間小説は言語の抽象機能を失つてゐる。


これ(言語による言語からの脱出といふ自己撞着)を突破したのはアルチュール・ランボオ唯一人だが、われわれが
言語を一つの影像として定着するときに、われわれはすでに自ら一つの脱出口を閉鎖したのである。


「本日晴天、明日も晴れるでせう」といふやうな小説を、私ははじめから愛することなどできない。

三島由紀夫「現代小説の三方向」より
417名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 23:44:02.07 ID:6b0mEpkl
相手を自分より無限に高いものとして憧れる気持は、半ばこちらの独り合点である場合が多い。それがわかつて
幻滅を感じても、自分の中の、高いもの美しいもの、美しいものへ憧れた気持は残る。

三島由紀夫「愛(エロス)のすがた――愛を語る」より


辺鄙な漁村などにゆくと、たしかにそこには、古代ギリシアに似た生活感情が流れてゐる。そして、顔も都会人より
立派で美しい。私はどうも日本人の美しい顔は、農漁村にしかないのではないかといふ気がしてゐる。


典型と個性とは反対のものであつて、「潮騒」の永遠の少女初江は、個性なんかで演じられるものではないのである。


男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、この言葉には、
あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、
むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の
比ではない。

三島由紀夫「美しい女性はどこにいる――吉永小百合と『潮騒』」より
418名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 10:21:01.24 ID:qPpaYsC5
私は西部劇の映画を殊に好んで見るといふのではない。このごろのやうな二流西部劇の氾濫では、どれもこれも
同じやうな題がついてゐて、うつかり入ると、前見たものと同じものを見かねない。しかし、少年時代からの
憧れはなかなか消えないもので、私は西部劇といふと、あのサボテンの生ひ茂つた土地と、強烈な日光と、馬と、
馬具の新らしい革の匂ひと、拳銃のきらめき、とをすぐに思ひうかべる。それは厳密に風土的な一つの世界の
イメージなのであつて、日本の股旅物と同じものだといふ考へは当らない。日本のチャンバラには、あのやうな
砂漠も強烈な日光も欠けてゐる。
谷川俊太郎氏の詩で、私の最も愛するものに、「ビリイ・ザ・キッド」といふ一篇がある。この自分の年の数と
同じ人数だけ殺して、廿一歳かそこらで殺された美少年に、氏は夭折の詩人の運命を託したものだらう。だから
西部劇の一少年悪漢は、ランボオや、サン・ジュストや、シェリイや、キーツや、あらゆる反逆的少年詩人の
イメージをその身に負ふのである。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より
419名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 10:21:39.71 ID:qPpaYsC5
ジェーン・ラッセルの大きな乳房を仄見せる映画「ならず者」に登場するビリイ・ザ・キッドはまだそれらしかつたが、
めつきり老け込んだロバート・テイラーの扮したビリイの映画は、大そうグロテスクで、この少年英雄の夢を
裏切ること甚だしいものがあつた。大体西部劇に分別くさい役者が出るのはまづい。「シェーン」のアラン・
ラッドのやうに、精悍だが、全然知的な味はひのない役者が適当である。もつとも多分その脳ミソの少ないところが
禍ひして、「シェーン」以外のアラン・ラッドは、見るもむざんな大根である。
私が馬が好きなのも、西部劇が原因であるかもしれない。ホース・オペラとは、西部劇の別称ださうである。
馬の匂ひ、厩の匂ひ、長靴の匂ひ、新らしい鞍のギシギシいふ音、光つた拍車、……かういふものは、皆
現実離れのした別の燦然たる行為の世界に属してゐた。馬はたしかに西部劇にディグニティーを与へてゐる。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より
420名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 10:22:13.21 ID:qPpaYsC5
(中略)
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるいものはない。
さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに
対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの
伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人として
よりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代にインディアンと戦ひながら、
アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。いつかバート・ランカスターが
インディアンの血を引いた駿足の運動選手に扮した映画を見たことがあるが、そこではバート・ランカスターが
象徴するアメリカの精力と、インディアンに対する夢とが、はつきり一つものになつてゐた。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より
421名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 10:22:39.18 ID:qPpaYsC5
最近の「理由なき反抗」といふ映画における、チキン・ランといふ無意味な胆だめしなども、私にはアメリカ人の
インディアン・コムプレックスと関係のあるものに思はれた。日米戦争の相互的影響によつて、いつか日本人が
インディアン類型にあこがれ、アメリカ人がサムラヒ類型にあこがれるやうになるかもしれない。すでに映画の
「宮本武蔵」が、アメリカで上映されてゐる。
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的危険が
乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、あるひは
内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。

三島由紀夫「西部劇礼讃」より
422名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 10:15:50.93 ID:4Uz9Fazm
私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、女の黒い髪は最も
派手な、はなやかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。

三島由紀夫「恋の殺し屋が選んだ服」より


女の子のスキーやスケートの姿は、雪女の伝説ではないが、勇ましいうちにも冷艶なものがある。ほつぺたを
真つ赤にして滑つてゐる健康な少女でも、そこには、何だか、妖精的な、透きとほるやうな女らしさが、雪や氷を
背景にして匂ひ立つのだ。

三島由紀夫「新夏炉冬扇」より


今でも英国では、午後の紅茶に
「ミルク、ファースト? ティー、ファースト?」
と丁重にきいてまはつてゐる。同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、味に変りはなささうだが、
そんなことはどうでもいいかといへば、そこには非合理な各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが
英国であることは、今も昔も変りがない。「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは
文化といふものを、あつさり放棄してしまつた精神のやうに思はれる。

三島由紀夫「英国紀行」より
423名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 10:16:21.94 ID:4Uz9Fazm
「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」「絎台」「針坊主」
「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ引き入れられる。生活の細目の
あらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、
雑多な諸現象に統一的な美意識に基づく「名」を与へることなのだ。

三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より


事情通の言つたり書いたりしてゐることを、きいたり読んだりすると、ますますあいまいもことしてわからなくなる、
といふのが通例である。あひかはらず「真相はかうだ」式のものがよく読まれてゐるが、さういふものほど、
ますますフィクションくさく見えてくる、といふ妙な仕組みになつてゐる。


ものごとの表面ほど、多く語るものはない。

不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。

三島由紀夫「床の間には富士山を――私がいまおそれてゐるもの」より
424名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 10:16:48.32 ID:4Uz9Fazm
一体、赤紙の召集ぢやあるまいし、芝居の大事なお客さまを「動員」するなどといふのは、失礼な話だ。


芝居のお客は、窓口で、個々人の判断で、切符を買つてくれる人が、あくまで本体である。われわれ小説家の
著書を、団体で売りさばくといふ話はきいたことがない。部数の大小にかかはらず、われわれの本は、われわれの
仕事に興味を持つてくれる人の手へ、直接に流れてゆくのであつて、さういふ読者の支持によつて、はじめて
われわれの仕事も実を結ぶのである。


芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ。

三島由紀夫「私がハッスルする時――『喜びの琴』上演に感じる責任」より


「いやな感じ」といふのは、裏返せば「いい感じ」といふことである。つまり、「いやな、いやな、いやな……
いい感じ」といふわけだ。


人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむことは、哲学者の生活体験からだけ生れるわけではない。
行為者も亦、そのやうにして世界と結びつく瞬間があるのだ。

三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より
425名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/08(金) 11:29:42.69 ID:FLuPcq10
異国趣味と夢幻の趣味とは、文学から力を失はせると共に、一種疲れた色香を添へるもので、世界文学の中にも、
二流の作品と目されるものの中に、かういふ逸品の数々があり、さういふ文学は普遍的な名声を得ることは
できないが、一部の人たちの渝(かは)らぬ愛着をつなぎ、匂ひやかな忘れがたい魅力を心に残す。


もし夢が現実に先行するものならば、われわれが現実と呼ぶもののはうが不確定であり、恒久不変の現実といふ
ものが存在しないならば、転生のはうが自然である。


学生に人気のある、甘い賑やかな感激家の先生には、却つて貧寒な、現実的な魂しか備はつてゐないことが多い。


正確な無味乾燥な方法的知識のみが、夢へみちびく捷径(せふけい)である。

三島由紀夫「夢と人生」より


人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な花の幻がなければならない。

三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より
426名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/08(金) 11:30:48.42 ID:FLuPcq10
フランス人のドイツ恐怖はむしろ民衆の感性であつて、歴史上からも、フランス人はドイツに対する愛好心を
貴族の趣味として伝へてきた。外交官でもあり、社交界に精通したジロオドウの中には、このやうな貴族趣味が
生き永らへてゐて、彼の親独主義は、別に現実政治と見合つたものではない。いがみ合ひは民衆のやることであつて、
ドイツだらうが、フランスだらうが、貴族はみんな親戚なのだ。

三島由紀夫「ジークフリート管見――ジロオドウの世界」より


過去は輝き、現在は死灰してゐる。「希望は過去にしかない」のである。


ミーディアムはしばしば自分に憑いた神の顔を知らないのである。
三島由紀夫「あとがき(『三熊野詣』)」より


憧れるとは、対象と自分との同一化を企てることである。従つて、異性に向つて憧れる、といふのは、言葉の
矛盾のやうに思はれる。

三島由紀夫「わが青春の書――ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」より


古典主義の魂を持たないロマン主義者は、それ自体、真のロマン主義者と云へないであらう。

三島由紀夫「異国趣味について」より
427名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 09:06:42.95 ID:VOSDabSg
すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。

三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より


私は予想よりも人間のはうに賭ける。われわれは自分に賭けるときさうしてゐるのだから、他人に賭けるときも
さうするべきだ。


守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。

三島由紀夫「若さと体力の勝利――原田・ジョフレ戦」より


見るより先に、感じ、反射し、すぐ行動できる人がある。スポーツに向いてゐる人である。スポーツでは
見てゐるときは、もう遅い。
しかし風景や、美術や、芝居や、さういふものは、ゆつくり見られるやうに出来てゐる。

どんなに下手な俳優でも、「見られる」ことにより輝やく瞬間があるものだ。それを輝やかすのは、決して
光量の大きな照明器だけではない。かれらを輝やかすものこそ、われわれの「目」なのである。

三島由紀夫「あとがき(『目――ある芸術断想』)」より
428名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 09:07:47.32 ID:VOSDabSg
ひとたび、天与の人間の肉体が改造可能なものだといふことになると、モラルの体系も、深いところでガタガタと
崩れゆくやうな気がする。美しくする変形も、醜くする変形も、変形であることに変はりがないなら、美容整形も、
因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す不具者ばかりを扱つた卑賎な仕事で、
それだけならいいが、むかしの支那では、子供のときから畸形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、
首と手足だけ出させて育てたなどといふ奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど
遠いものではない。

三島由紀夫「『美容整形』この神を怖れぬもの」より


万物は落ち、あらゆる人間的な企図は人間の手から辷り落ちる。しかし落ちることのこのスピードと快さと
自然さに、人間の本質的な存在形態があることに詩人が気づくとき、詩人はもはや天使の目ではなく、人間の目で
人間を見てゐるのである。

三島由紀夫「跋(高橋睦郎著『眠りと犯しと落下と』)」より
429名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 09:08:34.66 ID:VOSDabSg
この小説(「潮騒」)の採用してゐる、古代風の共同体倫理は、書かれた当時、進歩派の攻撃を受けたものであるが、
日本人はどんなに変つても、その底に、かうした倫理感を隠してゐることは、その後だんだんに証明されてゐる。

三島由紀夫「『潮騒』執筆のころ」より


平和論者にとつては、見つめなくない真実だらうが、たしかに戦争には、悲惨だけがあるのではない。

三島由紀夫「私の戦争と戦争体験――二十年目の八月十五日」より


日本といふところは、一見、東洋的老人社会みたいに見えるけれど、実際は「若者を怖れる社会」である。
明治維新のころもさうだつたし、プロレタリア文学時代の文壇も、クーデターばやりの時代の軍部もさうだつた。
青年ほど、日本でおそれられてゐるものはない。


時は移り、青春は移る。あるひは、文学は不変で、そこに描かれた青春も不変である。

三島由紀夫「(『われらの文学』推薦文)」より
430名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 11:14:14.22 ID:A1tPDL9/
オリンピックを大義と錯覚する心は、少なくともそのはげしい練習と、衰へゆく肉体に対するきびしい挑戦のうちに、
正に大義に近づいてゐたのだと考へるはうが親切である。一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、
といふのが人間の宿命である。この贋物の大義を通じて真の大義を知つた青年の心は、栄光のどこにもない時代に
かつて栄光の味を知つてゐた。


現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深くばらばらに分散させられて
ゐる時代である。


私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。
「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど自己破壊的な否定、……云ひ
うべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属してゐるのである。

三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より
431名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 11:14:40.80 ID:A1tPDL9/
芝居におけるロゴスとパトスの相克が西洋演劇の根本にあることはいふまでもないが、その相克はかしやくない
セリフの決闘によつてしか、そしてセリフ自体の演技的表現力によつてしか、決して全き表現を得ることがない。
その本質的部分を、いままでの日本の新劇は、みんな写実や情緒でごまかして、もつともらしい理屈をくつつけて
来たにすぎない。

三島由紀夫「『サド侯爵夫人』の再演」より


眠りや忘却は、プルウストによつて深い小説的主題となつたが、戯曲や演劇は、覚醒と想起と再体験なしには
成立たない。

三島由紀夫「戯曲『アラビアン・ナイト』について」より


歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、はじめから入念に選び
出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。

三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より
432名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 09:55:28.02 ID:2M+OABen
あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、別居し、離婚した。
(中略)
それぞれの分野が、八ちまたの八方へ別れ去つたのである。
かうして、めいめいの孤独が純粋性を追求した結果どうなつたか?
あとに残つたのは、エリオットのいはゆる「荒地」、それだけだ。
(中略)
氷つた孤独を通過して来たあとの各芸術ジャンルは、もう二度と、あんな生あたたかい親しみ合ひを持つことは
できない。
今後来るべき交流と綜合は、氷のやうな交流で、氷河的綜合にちがひない。
今ここに、かりにアヴァン・ギャルドといふ名を借りて、舞踊、音楽、映画、絵画、演劇、の各ジャンルが、
一堂に会して展観される。人はアヴァン・ギャルドなどといふ名にとらはれる必要はない。ここに二十世紀後半の
芸術の宿命的傾向を見ればそれで足りる。それは宿命であつて、今ふんぞり返つてゐる古い芸術も、畢竟この道を
辿らねばならないのだ。
そこで、純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。

三島由紀夫「純粋とは」より
433名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 01:17:17.30 ID:3bp4hRGW
悔しいかい?悔しいかい?イエローモンキッキー共w
パチンコ利権最高〜w とっとと貢いでねw 間抜け民族w
434名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 20:16:39.58 ID:1ldJczx5
俳優がその若さの絶頂にゐて、若さの絶頂の役を演じるといふことは、芸術における例外的な恩寵である。


若さは、伝説と反対に、傷つき易い、みじめなものなのである。私自身それをよく知つてゐる。若さの年齢において
若さを演ずることは、スパルタの少年の克己をわがものにすることだ。

三島由紀夫「中山仁君について」より


青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。


精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば若々しさを失ひ、後者に
傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な
結合を成就することがある。

三島由紀夫「青年像」より


青年には、強力な闘志と同時に服従への意志とがあり、その魅力を二つながら兼ねそなへた組織でなければ、
真に青年の心をつかむことはできない。

三島由紀夫「本当の青年の声を(『日本学生新聞』創刊によせて)」より
435名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 20:17:55.46 ID:1ldJczx5
感情だけが恋を形づくるが、恋をこはすのもまた、感情だ。それなら形だけの恋、感情を持たない恋の中にだけ、
永遠なものが宿るのではないだらうか?

三島由紀夫「鏡の中の恋」より


小説に美しいはかない抒情が求められる時代は、現実に苦痛が次第に負荷を加へてくる時代である。

三島由紀夫「中河与一全集を祝ふ」より


世の中といふものは面白いもので、非常に偉大で有名な人物に会つてみると、その人物自体はわりに平凡な
印象を与へ、却つてその蔭に、個性の強烈な別の人物がついてゐる、といふことがよくあるものだ。

三島由紀夫「テネシー・ウィリアムズのこと」より


いくらお金を費つても費つても、貧しい気分にしかならないたいへんな時代が、現代といふものである。

三島由紀夫「鳳凰台上鳳凰遊ぶ」より


エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、外に現はれて人の目に
ふれるときエロティックと感じる。

三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性――作家・三島由紀夫の証言」より
436名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 13:34:27.14 ID:sX9a73jq
英雄とは、文学ともつとも反対側にしかない概念である。

三島由紀夫「年頭の迷ひ」より


小説家も拳闘家も同じことだが、血湧き肉をどる思ひをさせるのは処女作時代で、一家をなし、追はれる立場に
なれば、さういふ魅力は乏しくなり、代りにいはゆる「円熟した技巧」を見せはじめる。しかし、巧くなつて
不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ。

三島由紀夫「原田・メデル戦」より


人間は人生の当初に、何もわからず、やみくもに考へたことを基本にして、その思想から一歩も出られずに
生きてゐるといふことも亦真実であるやうに思はれる。たとへば、「反時代的な芸術家」といふのは、私が
二十二、三歳のころに書いたエッセイだが、このエッセイの言つてゐることは、二十年後の私がそのまま実行して
ゐることである。

三島由紀夫「跋(『芸術の顔』)」より
437名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 13:35:08.70 ID:sX9a73jq
ものを書くといふ仕事は呪はれてゐるのである。この仕事には、生の根本的な否定が奥底にひそんでゐる。
なぜなら、それは永生を前提にしてゐるからである。そして、ひとたび筆をとつたら、日記ですら、「生そのもの」の
冒涜に他ならないと感じるときに、告白は不可能になる筈である。荷風の「日乗」は一行も告白などしてゐない。

三島由紀夫「いかにして永生を?」より


覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の
側からの教育の力であらう。そして教育といふものは、いつの場合も、幾分か非人間的なものである。

三島由紀夫「青年について」より


論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の寄宿舎のそねみ合ひと大差が
ありません。


剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の研師のちがひほどの問題で、
剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、殺し合ふのは当然のことです。

三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より
438名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 13:35:46.22 ID:sX9a73jq
才能や理智や感情なら、早熟といふこともあらうけれど、魂自体には、早熟も晩熟もない。

三島由紀夫「もつとも純粋な『魂』ランボオ」より


日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、強い単純性に還元される
ところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、
又自然へ還つてゆくことだ。生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、
自然の生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。ギリシャ人は
巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人もこの点では同じである。

三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より


表現といふものは、そもそも下劣なぐらゐの「人間的関心」なのであり、クールであることは逆説にすぎない。


個人が組織を倒す、といふのは善である。

三島由紀夫「『サムライ』について」より
439名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 16:45:48.94 ID:k1K1XQxd
美しいヌード写真は、いはば、鍵をかけられた硝子の函の中の性である。


男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、色情はつねに部分に
かかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも「全体」を表現してゐるものは、色情を
浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に近づけるのである。


動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な環境に置かれて、
女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば強ひられるほど、生まじめな動物の美を
開顕することを知らされる。それから突然、彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。

三島由紀夫「篠山紀信論」より
440名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 16:46:30.34 ID:k1K1XQxd
飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。しかしその美しさの
性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。飛行機の美しさは飛行といふ機能にすべてが集中して
ゐるからであり、自動車もさうである。しかし、人体が美しくなくなつたのは、男女の人体が自然の与へた機能を
逸脱し、あるひは文明の進歩によつて、さういふ機能を必要としなくなつたからである。
(中略)
機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、文明社会では、男でも女でも、
この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。男の裸がグロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に
毒された低級な俗見である。
このごろは、しかし、男性ヌードと称して女性的な柔弱な男の体がもてはやされてゐるのも、又別の俗見である。
もちろん、ヘルマフロディット的(男女両性をそなへた)な少年美といふものは存在するが、男の柔弱さだけを
美しいと思ふ今の流行は、単なる末流の風俗現象にすぎないのである。

三島由紀夫「機能と美」より
441名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/16(土) 14:04:59.97 ID:FWsHcrOU
政治への熱狂と、芝居への熱狂はひよつとすると、同じものではないだらうか。それはいづれも、幻への熱狂では
ないだらうか。現にここにあるものを否定して、ここにある筈のないものを、今ここにあるかのやうに信じて、
それに酔ふといふ熱狂は。

三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より


エロティシズムが本来、上はもつとも神聖なもの、下はもつとも卑賎なものまで、自由につながつた生命の本質で
あることは、「古事記」を読めばよくわかることだが、後世の儒教道徳が、その神聖なエロティシズムを
忘れさせて、ただ卑賎なエロティシズムだけを、日本人の心に与へつづけて来たのであつた。

三島由紀夫「バレエ『憂国』について」より


電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて動くのはよいが、人間は
疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の
証明なのだ。

三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より
442名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/16(土) 14:07:48.74 ID:FWsHcrOU
激情のあとに、突然、ある静かな冷たい受容が生れ、そこから又、新らしい力が湧いてくる。激情は思想である。
力は生である。その二つを最終的に一致させれば、そこに「第一義の道」はひらけるのであるが、そのポジティヴな
一致が「政治」であれば、ネガティヴな一致は「自然」である。

三島由紀夫「解説(『日本の文学40林房雄・武田麟太郎・島木健作』)」より


白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは作家の苦悩だけだと
思ひ込んでゐはしないだらうか。

三島由紀夫「解説(『日本の文学4尾崎紅葉・泉鏡花』)」より


よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。

三島由紀夫「解説(『日本の文学52尾崎一雄・外村繁・上林暁』)」より


ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日のわれわれの胸にも直ちに
通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。

三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より
443名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 15:51:06.23 ID:x4zcUtlp
実は白状すると、私は舞台へ背を向けて、客席を見てゐるはうがよほどおもしろかつた。何のために興奮するか
わからぬものを見てゐるのは、ちよつと不気味な感動である。私だつて、興奮が自分の身にこたへれば、エレキ
だらうと、何だらうと偏見はない。(中略)
しかし、今目の前に見てゐる光景は、原因不明で、いかにも不気味である。
私の数列うしろの席は、ビートルズ・ファンの女の子たちに占められてゐたが、その一人はときどき髪を
かきむしつて、前のはうへ垂れてきた髪のはじをかんでゐるが、アイ・ラインが流れだしてゐる恨むがごとき
目をして、舞台をじつと眺めてゐる顔は、まるでお芝居の累である。(中略)
何で泣くほどのことがあるのか、わけがわからない。もつとも女の子は、たいてい、大してわけのないことにも
泣くものである。ふとつた子が、身も世もあらぬ有様で、酸素が足りないみたいに口をパクパクさせると思ふと、
急に泣きながら、
「ジョージ!」
「リンゴ!」
などと叫びだすのを見ると、心配になつてしまふ。

三島由紀夫「ビートルズ見物記」より
444名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 15:51:59.86 ID:x4zcUtlp
熱狂といふものには、何か暗い要素がある。
明るい午後の野球場の熱狂でも、本質的には、何か暗い要素をはらんでゐる。そんなことは先刻承知のはずだが、
これら少女たちの熱狂の暗さには、女の産室のうめき声につながる。何かやりきれないものがあるのはたしかだ。
だからビートルズがいいの悪いの、と私は言ふのではない。また、ビートルズに熱狂するのを、別に道徳的堕落だとも
思はない。ただ、三十分の演奏がをはり、アンコールもなく、出てゆけがしに扱はれて退場する際、二人の少女が、
まだ客席に泣いてゐて、腰が抜けたやうに、どうしても立ち上がれないのを見たときには、痛切な不気味さが
私の心をうつた。そんなに泣くほどのことは、何一つなかつたのを、私は知つてゐるからである。
虚像といふものはおそろしい。

三島由紀夫「ビートルズ見物記」より
445名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 23:21:17.84 ID:x4zcUtlp
「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、「核兵器よりもまづ駆け足」といふ
ことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。人間の脚は、特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を
持つのである。

三島由紀夫「自衛隊と私」より


世間の全体の傾向は、イデオロギーの終焉といふお題目だの、世界国家への道といふ空疎な世迷ひ言だのに
飾られながら、「何よりも秩序が大切だ」といふ平均的世論の味方をするやうになつてゐる。「平和と安全の
ため」なら、「国益のため」なら、どんなお妾修業でもしよう、といふ保守的感覚と、「平和と秩序のため」なら、
どんなイデオロギーでも呑み込まうといふ民衆感覚とは、政治的には右と左に別れるやうだが、その実、よく
似たメンタリティーに基礎を置いてゐる。大体身の安全しか考へない人間は、どつちへころぶか知れたものでは
ないのである。

三島由紀夫「秩序の方が大切か――学生問題私見」より
446名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 23:22:05.87 ID:x4zcUtlp
人間性を十全に解放したらどうなるか。こはいことになるんだよ。紙くづだらけはまだしも、泥棒、強盗、強姦、
殺人……獣に立ち返る可能性を人間はいつももつてゐる。

三島由紀夫「東大を動物園にしろ 核兵器だつて使ふだらう」より


未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないといふ生活をしてゐる奴が何人ゐるか。
現在ただいましかないといふのが“文化”の本当の形で、そこにしか“文化”の最終的な形はないと思ふ。
小説家にとつては今日書く一行が、テメへの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、
どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中に集合的無意識に連綿と続いてきた“文化”が
体を通してあらはれ、定着する。その一行に自分が“成就”する。それが“創造”といふものの、本当の意味だよ。
未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

三島由紀夫「東大を動物園にしろ 未来を信ずる奴はダメ」より
447名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 23:23:00.27 ID:x4zcUtlp
「ぜいたくを言ふもんぢやない」
などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが
芸術(革命)を生むと信じられてゐる。

三島由紀夫「不満と自己満足――『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より


日本の文化は何度も何度もフィルターにかけられて、一つのものが、時代が下るにつれて極度に理想化された。
世阿弥の能の時にはすでに新古今集のフィルターをかけた王朝文化がその理想で、これはあこがれの産物とも言へる。
このあこがれはずつと武家階級に続き、禅的な文化へと尾を引いてますます美化されていつた。世阿弥のところで、
十四世紀までの文化は全部ダムになつてゐて、あそこから電気が出てゐるやうな感じがする。ところで日本の
近代文化といふものは、さういふことを一度もやつてゐない。つまり古代文化を一度われわれの時代のフィルターに
かけて、それを大きな電力を生ずるやうなダムにするといふことをだれもやつてゐない。

三島由紀夫「世阿弥に思ふ――鼎談に参加して」より
448名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 10:41:57.15 ID:P/Vqi4zT
年のはじめだけに、なぜ伝統が意識され、古い日本がいかにも美しく感じられるのであらうか。思ふに、日本といふ
泉が、そのときだけ心の底から、澄んだ水をほとばしらせるのは、われわれが新らしい年に直面する不安と恐怖を、
過去にくりかへされてきたおめでたい伝承の復活でふりはらはうとするときに、その泉の水の澄んだ生命の力の
持続性にたよらうとするからであらう。本当のところ、新らしいものは怖い。新らしい年は怖い。未来は怖い。
未来が全然怖くないのなら、その人は人間ではない。怖いからこそ、われわれはその未知に、自分の一番大切な
ものである希望を懸けるのである。

三島由紀夫「月々の心 伝承について」より


人間にとつての悲劇は、もう若くないといふことではなくて、心ばかりがいつまでも若いといふところにあるやうに、
夏が去つたあとも我々の心に夏が燃えつきないのが悲劇なのだ。

三島由紀夫「月々の心 夏のをはり」より
449名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 10:42:32.53 ID:P/Vqi4zT
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的鉄則であるやうに思はれる。
そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。


ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、爽やかさ、晴れやかさが、
彼には徹底的に欠けてゐた。ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。

三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より


「しがらみ」からの解放といふことが、一体男性的なことであるか大いに疑はしい。自由が人を男性的にするか
どうかは甚だ疑はしい。

三島由紀夫「鶴田浩二論――『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの」より


ウワーッと両手で顔をおほつて、その指のあひだから、こはごはながめて「イヤだア」とかなんとか言つて
ゐる手合ひを野次馬といふ。私に対する否定的意見は、すべてこの種の野次馬の意見で、私はともあれ、
交通事故なのだ。

三島由紀夫「感想 広域重要人物きき込み捜査『エッ! 三島由紀夫??』」より
450名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/23(土) 18:06:03.43 ID:rKrLgrbD
空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。日本の戦後も占領軍による
武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道を
ふさがれてゐる。
空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。

三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より


刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、そのまま精神のあらはれに
なるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、といふ要請から生れた言葉であらう。道具が
生体の一部になればなるほど、道具はただの道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の
一本の枝になつて、そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。
そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。

三島由紀夫「空手の秘義」より
451名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/23(土) 18:06:43.94 ID:rKrLgrbD
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、情報を蒐集し、
これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の上つ面を撫でるだけの、究極的には
ニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感する
ところであるが、この複雑多岐な、矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな
不毛の現代社会に於て、真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに
思はれる。

三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より


もつとも美しい男の服装は剣道着である。手に藍のつくやうな、匂ふやうな濃い藍の稽古着、袴に、黒胴と垂れを
つけた姿ほど、日本男児の美しさを見せるものはない。

三島由紀夫「男らしさの美学」より


正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、汚ない水は
人を病気にさせるのに似てゐる。

三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より
452名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 09:17:23.73 ID:+NjyLdAJ
羞恥心は微妙なパラドキシカルな感情である。自分について羞恥心を抱いてゐるとき、人は又、ひそかに、
あたかも罪悪感のやうなナルシシズムを抱いてゐるかもしれず、憎悪と愛とのアンビヴァレンツを隠してゐるかも
しれない。それだけ羞恥心は、自分の内部の深いものとインティメートな感情の、隠れ家であつたかもしれない。
日本人が日本の古い習俗を「蛮風」として恥ぢてゐたときには、どこかで心の一部がその蛮風に支配されて
ゐたときかもしれない。心のみならず、自分の生活感情や社会意識に、ひそかに、そんな蛮風が影を落してゐた時
かもしれない。


文明人がプリミティヴィズムを内部に蔵してゐるのは、何と素敵なことであらう。蒼ざめた都市生活者であること
よりも、noble savage であるといふことは、現代人として何と誇らしいことであらう。一国の文化の底の底を
掘り起しても、何ら原始的な生命の根に触れえないやうな「文明国民」とは、何と十九世紀的で、何と時代おくれな
ことであらう!

三島由紀夫「序(矢頭保写真集『裸祭り』)」より
453名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 09:18:45.13 ID:+NjyLdAJ
不思議なことに色気の感じられる女は、昔から単に陰性な、内気一方の女ではなく、どこかに凜とした男まさりの
ところがなければならない。


性的魅力において自分よりすぐれてゐると思はれる女を、男に紹介するバカな女はゐないのである。


ひたすら男性の嗜好に合はせて長い訓練を経て形成された色気といふものに対して、女はある本能的な敵意を
持つてゐるものであるらしい。


多くの女に色気があると言はれてゐる男は、概して男の世界では顰蹙と軽蔑の対象である。もちろんその中には
羨望や嫉妬がまじつてゐないとは言へないが、そのやうな男は概して男の理想的なイメージとはなりにくいのである。
なぜならば、男がみづから克服したいと思つてゐる欠陥を女は愛するからである。勝利者にあこがれる女よりも
敗北者にあこがれる女のはうが圧倒的に多い。

三島由紀夫「女の色気と男の色気」より
454名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 09:31:57.82 ID:+NjyLdAJ
体操といふものに、私は格別の興味を持つてゐる。それは美と力との接点であり、芸術とスポーツの接点だからである。
ほかのスポーツのやうに、芸術の岸から見て完全に対岸にあるものでない。
(中略)
はいつていきなり遠藤選手の床運動(徒手)を見たが、ひろいマットの上の空間に、ジョキジョキよく切れる鋏を
入れて、まつ白な切断面を次々に作つてゆくやうな美技にあきれた。私たちはふだん、自分の肉体のまはりの空間を、
どんよりと眠らせてはふつておくのと同じことだ。
あんなに直線的に、鮮やかに、空間を裁断してゆく人間の肉体、全身のどの隅々にまでも、バランスと秩序を
与へつづけ、どの瞬間にもそれを崩さずに、思ひ切つた放埒を演ずる肉体。……全く体操の美技を見ると、人間は
たしかに昔、神だつたのだらうといふ気がする。といふのは、選手が跳んだり、宙返りしたりした空間は、全く
彼の支配下にあるやうに見え、選手が演技を終つて静止したあとも、彼が全身で切り抜いてきた白い空間は、
まだピリピリと慄へて、彼に属してゐるやうに見えるからだ。

三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より
455名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 09:32:24.95 ID:+NjyLdAJ
(中略)
われわれには苦行である倒立でさへ、その一点で休むことができるとなれば、蝙蝠(かうもり)のやうなものだ。
スポーツの奇蹟は、人間の肉体といふものが、鍛へやうによつては、どんな思ひがけないところに、どんな
思ひがけない楽園を発見するかわからないといふ点だ。常人の知らない別世界の感覚の発見……。酒や阿片とは
反対のものだが、スポーツがやめられなくなるのは、やはりそれがあるからであらう。
(中略)
さつき神のやうだつた選手は、かうして会つてみると、風貌、態度のどこにも人間離れのしたところはない。
むしろ休息時の選手の顔に浮んでゐるその平均的日本人の日常的表情と、あの神業との間をつなぐ、「練習」といふ
苛酷な見えない鎖が感じられる。それは神と人間をむりやりに結びつける神聖な鎖なのだ。

三島由紀夫「合宿の青春 『美と力』の接点――体操の練習風景」より
456名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 09:29:41.70 ID:F9HuHbJr
オリンピックの非政治主義は、政治の観念の浄化と見るほかなく、政治を人間の心から全然払拭することはできまい。
さて、今日の初日の第一戦は、昨日の抽選組合せによつて決つたことだが、韓国の鄭申朝選手と、アラブ連合の
H・ファラグ選手の対戦であつた。(中略)
「オリンピック東京大会、第一日目を開始いたします」
といふアナウンスのあとで、登場したこの二人の試合は、アラブ連合がしばしばスリップダウンをし、韓国が
判定で勝つたが、判定を待つあひだ、レフェリーを央にして、選手が二人直立して正面に向つてゐた姿は、プロ・
ボクシングを見馴れた目には、すがすがしく、気持がよかつた。
これで最初の日の勝敗が決まつたのであるが、韓国選手の謙虚な勝利者としての表情と共に、アラブ連合選手の
心を思つて、私はシャルル・ビルドラックの「兵卒の歌」の最後の聯を思ひ出して、一種の羨望を感じた。
「私は、むしろ私はなりたい、
戦争の第一日目に
第一に倒れた兵卒に。」(堀口大学氏訳)

三島由紀夫「競技初日の風景――ボクシングを見て」より
457名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 09:30:41.43 ID:F9HuHbJr
何といふ静かな、おそろしいサスペンス劇だらう。(中略)
それは冷たく、鉄の敵意にみちた重量を保ち、ものすごい圧力を放射してゐる。人間が「物」の世界と、一対一で
対決するのだ。一番重量あげに似てゐるのは、あるひはロック・クライミングかもしれない。
だから、もちろん選手がバーベルを高くさしあげたときの感動もさることながら、私は、いよいよバーベルに
とりつく前の選手の緊張に興味があつた。多少ともウエート・トレーニングをした人間には、この瞬間の恐怖と
逡巡がわかるはずだ。韓国のキン・ヘナム選手は必ずバーベルのぐあひをたんねんにしらべ、ポーランドの
コズロスキー選手は、手をかけてから長いこと腕の筋肉をふるはせ、日本の三宅選手は相撲の仕切りのやうに
長い時間をかけて、何度か天を仰いだ。
これはおのおのの就寝儀式のやうなものであつて、それをやらなければ安眠できない。

三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より
458名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 09:31:41.69 ID:F9HuHbJr
ひとたび眠ることができれば、完全に眠ることができれば、眠りの中では、丸ビルを持ち上げることだつて
可能だらう。精神集中の究極の果てに、一つの自由な空白状態がポカリと顔を出すのだらう。そのとき力が、
おそらく常の人間の能力を超えるのだらう。
地球を負ふアトラスの忍苦に似た、あくまで押へに押へぬいた努力のいるこのスポーツは、たしかに日本人の
一面に適してゐる。三宅選手は、リングの上ではむしろのんきに見え、豪放に見えるが、こんなに綿密な力の
計算を積み上げてゆくには、青空の下のスポーツとちがつて、研究室の中の科学者みたいな内向的な長い努力が
いつたはずだ。彼は金メダルを本当に計算づくでとつたのだと思ふ。鉄のバーベルの暗い、やりきれない、
うつたうしい圧力と戦ひながら。
(中略)
金メダルを受けた三宅選手は、実に自然なほほゑましい態度で、そのメダルを観衆の方へかかげて見せた。彼は
そのとき、あの合計397.5キロの鉄の全量に比べて、金のたよりない軽さを感じたかもしれない。美麗の
その黄金の羽根のやうな軽さを。

三島由紀夫「ジワジワしたスリル――重量あげ」より
459名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 20:35:36.48 ID:F9HuHbJr
家庭にはひりこんでくるテレビの威力の前に、子どもたちを守らうとしても、もうむだです。よい言葉やよい
しつけについては、おとなでさへ忘れてしまつてゐる時代です。何がよいことで、何がわるいことか、子どもたちは
わかりやすい簡単な基準を与へてほしがつてゐるのですが、それを与へることのできない親たちは、子どもたちを
しかる資格さへ失つてゐるのです。


ある形に結晶し完成された生活や道徳は、その安定した美しさで、別の美しさを誘ひ出します。一つの美しさは
別の美しさと照応し、一つの美しさによつて別の美しさが誘ひ出される。これが美の法則でもあり、道徳の法則でも
あります。美しさは「誘ひ出される」のです。もしこれが確信を持たぬ不完全な美なら心をうちますまいし、
またもしこれが風土に根ざさぬ抽象的な高遠な人類愛のお話なら心をたのしませないでせう。遠い歴史と風土の
中に咲く花であつても、小さく咲いた完全なえにしだは、日本の可憐な夕顔の親せきになり、われわれの心に、
忘れてゐた夕顔の美しさを誘ひ出すのです。

三島由紀夫「序(セギュール夫人作 松原文子・平岡瑤子訳『ちっちゃな淑女たち』)」より
460名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 20:36:47.74 ID:F9HuHbJr
日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から何ものかを汲まねば
ならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の文化がつひに死滅するときであらう。

三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より


政治に暗く、経済に暗く、社会に暗く、しかしその暗い全景の一部分に、丁度ルネッサンスの風景画のやうに、
啓示のやうな光りを強く浴びてゐる部分がある。そこだけ草が輝き、羊の背が光つてゐる。そこだけ木立は光りに
あふれた籠のやうに見え、そこだけ流れは光彩を放つてゐる。そここそは、女だけに特権的な、不可侵の情念の
領域なのだ。

三島由紀夫「詩集『わが手に消えし霰』序文」より


まじめで良心的なのも思想だが、不まじめで良心的といふ思想もあれば、又、一番たちのわるいのに、まじめで
非良心的といふ思想もある。

三島由紀夫「あとがき(『行動学入門』)」より
461名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 15:47:15.70 ID:0YW44Nob
偉大な作家には、おもてむきの傑作と、裏側の傑作があるらしい。顕教的顕仏的傑作と、密教的秘仏的傑作と
言ひかへてもよい。

三島由紀夫「『眠れる美女』論」より


天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の諸特質や、その後
発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。

三島由紀夫「解説(『新潮日本文学6谷崎潤一郎集』)」より


性の拒否が最高の性のよろこびに到達する大詰の童話の結婚式は、あらゆる童話における、
「それから王子様と王女様は世界でいちばん倖せに暮しました」
といふ決り文句の、ほとんど猥褻なひびきを伝へるものでなければならない。至福の猥褻さは、死の猥褻さに
似てゐる。現世離脱は、同時に、自己からの離脱である。

三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
462名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 15:47:53.68 ID:0YW44Nob
男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。男性の女性化とは、男性の
自己保全であり、なるたけ安全に生きよう、失敗しないで生きようとすることを意味します。

三島由紀夫「『複雑な彼』のこと」より


私は自分のものの考へ方には頑固であつても、相手の思想に対して不遜であつたことはないといふ自信がある。
これが自由といふものの源泉だと私には思はれる。

三島由紀夫「『尚武のこころ』あとがき」より


言葉で表現する必要のない或るきはめて重大な事柄に関はり合ひ、そのために研鑽してゐるといふ名人の自負こそ、
名人をして名人たらしめるものだが、さういふ人に論理的なわかりやすさなどを期待してはいけないのである。

三島由紀夫「あとがき(『源泉の感情』)」より
463名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 20:02:02.28 ID:c3NFLwQn
日本の選手の出ない飛び板飛び込みの決勝から見たが、体操でも、この飛び板飛び込みでも、落下のほんの瞬間に、
人体が地球の引力に抗して見せるあの複雑な美技には、ほとほと感嘆のほかはない。あの落下の一秒の間に、
花もやうを描いてみせるその人間意志のふしぎな働きとその自己統制力は、自然(引力)へのもつとも皮肉な
反抗であり、犬が人間にじやれつくやうに人間がきびしい自然にじやれつく最高の戯れだらうが、十二日ソ連から
打ち上げられたウォスホート号もまた、引力に対するかういふ人間の反抗の究極的な形であつて、われわれは、
もう人間であると同時に、自然に対して従順さを失ふといふわけだ。その意味でオリンピックはやはり「文化的」な
お祭りであり、スポーツもまたホイジンガの説のとほり、遊戯としての文化なのであらう。

三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より
464名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 20:02:37.79 ID:c3NFLwQn
重量あげなどの、ジワジワと胸をしめつけるドラマチックな競技とちがつて、水泳競技は、単純なまつすぐな
人間意志の推進力を、美しくさはやかに見せるだけだから、その印象はひたすら直截で、ドラマといふより、
青いプールを縦に切るあの白いロープのやうに、一行の激しい白い叙情詩だ。女子百メートル背泳の決勝で、
ただ一人日本人選手として登場した田中嬢は、白い長いガウンに水泳帽、その長い髪のほのめくさまが、遠くからも
見えた。プールぎはの朱いろの椅子にかけた嬢は、つつましく膝をすぼめて、どの選手よりも優雅に見えた。
しかしガウンを脱ぎ捨てて黒い水着姿になつた彼女は、その強靭な、小麦色の体躯に、こまかいバネがいつぱい
はりつめてゐるやうな感じで、それはただ一人決勝に残つた日本女性の、しなやかな女竹のやうな姿絵になつた。
田中嬢が泳ぎはじめる。もうあと一分あまりの時間ですべての片がつく。

三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より
465名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 20:03:51.52 ID:c3NFLwQn
彼女は長い長い練習の水路をとほつて、ここにやつとたどりついた一艘の黒い快速船になる。水しぶきの列のなかで
帰路、彼女の水しぶきは少し傾いて、ともするとロープにふれる。……それにしても八本のコースに立てられた
八つの水しぶきが、みんな女の腕の立てるしぶきだと思ふと、すさまじい。これは女性八人のもつとも崇高な
おしやべりといふべきだらう。
泳ぎ終つた田中嬢は、コースに戻つて、しばらくロープにつかまつてゐたが、また一人、だれよりも遠く、
のびやかに泳ぎだした。コースの半ばまで泳いで行つた。その孤独な姿は、ある意味ですばらしくぜいたくに見えた。
全力を尽くしたのちに、一万余の観衆の目の前で、こんなにしみじみと、こんなに心ゆくまで描いてみせる彼女の
孤独。この孤独は全く彼女一人のもので、もうだれの重荷もその肩にはかかつてゐない。一億国民の重みも
かかつてゐない。
田中嬢は惜しくも四位になつたが、そのときすでに彼女はそれを知つてゐたにちがひない。

三島由紀夫「白い叙情詩――女子百メートル背泳」より
466名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 10:16:20.57 ID:bvKedSEa
日本選手でただ一人決勝に残つた佐々木があらはれて、プールぎはの朱色のプラスチックの椅子に脱衣する。(中略)
かういふ日常生活の動作は、こんな晴れの舞台でも、実に孤独なものだ。紺と白のパンツをつけた、きつね色の
よく引き締つた裸体があらはれる。ここからやうやく、輝やかしいオリンピック選手が、日常性のモチから
身を引き離して出発するのだ。
スタート台の上で、一コースの選手をチラと見てから、手首を振る。両手を楽に前へさしのべたフォームで、
柔らかに飛び込む。競技はこんなふうに、どんな会社よりも事務的にはじまるのだ。
水が佐々木の体を包んだ。それから先は、彼はもう重い水と時間と距離とを、一心に自分のうしろへかきのけて
ゆくしかない。
高い席からながめてゐると、八つのコースの選手たちの立てる音は、さわさわといふ笹の葉鳴りのやうな水音に
すぎない。ひるがへる腕は、みんな同じ角度で、褐色のふしぎな旗のやうに波間にひらめく。
――四百メートル。
佐々木は大分引き離された。ターンするところで、あと残つてゐる回数の札を示される。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
467名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 10:17:06.85 ID:bvKedSEa
その大きなあきらかな数字は、おそらく水にぬれた目に、水しぶきのむかうに、嘲笑的に歪んで映るのだらう。
出発点の水にぬれたコンクリートの上には、選手たちの椅子が散らばつてゐる。佐々木の椅子には、赤いシャツと、
足もとの白い運動靴とが、かなたに水しぶきを上げて戦つてゐる主人の帰りを、忠犬のやうにひつそりと待つてゐる。
これらの椅子のずつとうしろには、記録員たちが控へ、さらに後方に、今日はすでに用ずみの飛込用プールが、
いま水の立ちさわぐメーン・プールとは正に対照的に、どろんとしたコバルト・グリーンの水をたたへてゐる。(中略)
――六百メートルに近づき、佐々木は六位を保つてゐる。
出発点へ選手が近づくたびに、大ぜいの記録員たちはおのがじし立ち上り、ぶらぶらと水ぎはへ近寄り、
スプリット・タイム(途中時間)を記録し、また、だるさうに席へ戻る。必死で泳いでゐる選手と記録員とは、
こんなふうにして、十五回も水ぎはで顔を合せるわけだ。そのときほど、この世の行為者と記録者の役割、
主観的な人間と客観的な人間の役割が、絶妙な対照を示しながら、相接近する瞬間もあるまい。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
468名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 10:18:07.48 ID:bvKedSEa
――千メートル。
オーストラリアのウィンドル、11分16秒3といふ途中時間のアナウンス。
千五十メートルのところで、あと九回といふ9の札が示される。
佐々木はひたすら泳ぐ。水に隠見する顔は赤らんでみえる。あの苦しげな、目をつぶり口をあいた顔、あのぬれた顔、
ぬれた額の中に、どんな思念がひそんでゐるか? あんな最中にも、人間は思考をやめないのは確実なことで
「ただ夢中だつた」などといふのは、嘘だと私は思ふ。それこそ人間といふ動物の神秘なのだ。たとへそれが、
一点の、小さな炎のやうな思念であらうとも。
最後の百メートル。真鍮の鈴が鳴らされ、選手はラスト・スパートをかける。
佐々木は六位だつた。平然と上げてゐる顔を手のひらで大まかにぬぐひ、出発の時と同様、左の手首をちよつと振つた。
それが彼の長い旅からの、無表情な帰来の合図だつた。この若者はまた明日、旅の苦痛を忘れて、つぎの新しい
旅へ出るだらう。

三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
469名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 16:48:56.21 ID:1GS4awZT
陸上競技はオリンピックのもつともオリンピック的なものであらう。それは明るい青空の下で、人間の影を大地に
小さく宿して、整然と、明朗に、数学的に進行する。もちろんスポーツだから、熱狂はある。情熱はいる。
必死の闘志はいる。それは競技場高く、淡い黒煙を引き、雲を背景に風にあふられてゐる聖火の炎が代表してゐる。
その白昼の炎は、この理智的な世界の、唯一の許された狂気なのだ。
(中略)
競歩ははじめて見たが、これはいかにもユーモラスでおもしろい競技であり、日本人選手も小柄で、出場者は概して
アスリートらしくなく、全体が商店連合会の運動会といふ感じがする。駈けるに駈けられぬその厄介な制約は、
ちやうど夢の中で悪者に追ひかけられるときの動きのやうで、上半身は必死に急いでゐるのに、下半身はキチンと
一定の歩度を守るのだ。
この一群が、喝采に送られながら北口から出てゆくと、やがて、今日のハイライトである百メートルの決勝が
はじまる。

三島由紀夫「空間の壁抜け男――陸上競技」より
470名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 16:49:32.98 ID:1GS4awZT
三時半、フィールドはもう三分の一ほど影の中に包まれてゐる。走路の手直しのために多少時間がおくれ、
四十分ごろ、アメリカのヘイズが第一コース、ドイツのシューマンが第二コースに、といふぐあひに、選手たちが
スタート・ラインについた。
それから何が起つたか、私にはもうわからない。紺のシャツに漆黒な体のヘイズは、さつきたしかにスタート・
ラインにゐたが、今はもうテープを切つて彼方にゐる。10秒フラットの記録。その間にたしかに私の目の前を、
黒い炎のやうに疾走するものがあつた。しかも、その一瞬に目に焼きついた姿は、飛んでもゐず、ころがりもせず、
人間の肉体の中心から四方へさしのべた車輪の矢のやうな、その四肢を正確に動かして、正しく「人間が走つて
ゐる姿」をとつてゐた。その複雑な厄介な形が、百メートルの空間を、どうしてああも、神速に駆け抜けることが
できるのだらう。彼は空間の壁抜けをやつてのけたのだ。
しかし、十秒間の一瞬一瞬のそのむしろ静的な「走る男」の形ほど、金メダルの浮彫の形にふさはしいものは
なかつた。

三島由紀夫「空間の壁抜け男――陸上競技」より
471名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 10:36:52.41 ID:fIwug+ZM
体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ちぎはにあるものがあらうか? そこではスポーツの海と芸術の陸とが、
微妙に交はり合ひ、犯し合つてゐる。満潮のときスポーツだつたものが、干潮のときは芸術となる。そして
あらゆるスポーツのうちで、形(フォーム)が形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。どんなに
美しいフォームでも、速さのためとか高さのための、有効性の点から評価されるスポーツは、まだ単にスポーツの
域にとどまつてゐる。しかし体操では、形は形それ自体のために重要なのだ。これを裏からいへば、芸術の本質は
結局形に帰着するといふことの、体操はそのみごとな逆証明だ。
十月二十日の夜、東京体育館の記者席から、まばゆい光りの下、マット上に展開される各国選手の、人間わざとも
思へぬ美技をながめながら、私はそんな感想を抱いた。
双眼鏡で遠い鉄棒の演技をながめてゐると、手を逆に持ちかへるときに、掌にいつぱいまぶしたすべりどめの粉が
パッと散る。それは人体が描く虚空の花の花粉である。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
472名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 10:37:28.03 ID:fIwug+ZM
徒手体操では、人体が白い鋏のやうに大きくひらき、空中から飛んできて、白い蝶みたいに羽根を立てて休み……
ともかく、われわれの体が、さびついた蝶番(てふつがひ)の、少ししか開かないドアならば、体操選手の体は、
回転ドアのやうなものだ。そして、極度の柔らかさから極度の緊張へ、空虚から突然の充実へ、力は自在に変転して、
とどまるところを知らない。もつともバランスと力を要する演技が、もつとも優美な静かな形で示される。そのとき、
われわれは、肉体といふよりも、人間の精神が演じる無上の形を見る。
ポオル・ヴァレリーが「魂と舞踊」の中で、肉体が「魂の普遍性を真似ようとするのだ」と書いてゐるのは、
この瞬間であらう。
「おお、とうとう彼女は例外の世界にはいった。ありえないもののなかへ突入したのだ!」
「理性そのものが見る警戒と緊張の夢! (中略)夢ではあるが、左右均斉の妙をきわめ、すべてが行為であり
脈絡である夢!」

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
473名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 10:38:01.89 ID:fIwug+ZM
――しかしスポーツとしての体操は、意地のわるい減点による競技であり、批評による競技なのだ。
小野は徒手で、遠藤はあん馬で、見のがしえぬミスをやつたが、実際、人間なら、あやまちを犯すはうがふつうで、
あやまちを犯さないのは人間ではない。それらのミスにこそ、むしろわれわれと共通した人間の日常感覚が
ひらめいてゐる。ほんのちよつとよろめくこと、ちよつと姿勢が傾くこと、ほんのちよつと足があん馬にさはること、
ほんのちよつと演技の流れが停滞すること……これこそわれわれが「人間性」と呼んでゐるところのもので、
半神であることを要求される体操競技では、人間性を示したら、たちまち減点されるのである。
この世に、ほんの数秒の間であらうと、真のあやまりのない秩序を実現するのはたいへんなことだ。体操選手たちは、
その秩序を、少なくとも政治や経済よりはるかに純度の高い形で、人間世界へもたらすために努力する。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
474名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 10:38:43.29 ID:fIwug+ZM
遠藤選手のあん馬のあとで、十数分のものいひがついたあと、五月人形のやうな無邪気な顔と体をした三栗選手が
登場して、おちついた、正しい演技を示して九・六五をとつたのには感服した。
小野選手の右肩の負傷にめげぬ敢闘にも心を搏たれ、同じ三十代の私は、年齢と肉体のハンディキャップを
越えたその闘志に拍手を送つた。練習時間のあひだから、鉄棒は彼の肩を冷酷に責めてゐた。そのとき肩は、
彼の目ざす秩序の敵になり、敵軍に身を売つたスパイのやうに彼を内部から苦しめてゐた。
優勝者遠藤さへ、退場の際、心なしか暗い目をしてゐたのを考へると、体操選手を悩ます「完全性」の悪夢が、
どれほどすさまじいものであるかがうかがはれる。

三島由紀夫「完全性への夢――体操」より
475名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 20:13:03.09 ID:XdmI+3R/
選手たちの登場。宮本がそのすらりとしたからだと、栗鼠を思はせるかはいらしい顔で、機械人形のやうに
おじぎをする。
東側の選手家族席では、宮本のおとうさんがなくなつたおかあさんの大きな写真を膝に抱いて観戦してゐる。
練習がはじまる。お祭りの風船のやうに、たくさんのボールが空に浮ぶ。七時三十分。琴の音楽がはじまり、
いよいよ日本のアマゾンたちと、ソ連のアマゾンたちとの熱戦が開始される。
バレーボールの緊張は、ボールが激しくやりとりされるときのスリルにあることはいふまでもないが、高く
投げ上げられたボールが、空中にとどこほつてゐる時間もずいぶん長く感じられる。そのボールがゆつくりと
おりてくる間のなんともいへない間のびのした時間が、実はまたこの競技のサスペンスの強い要素なのだ。ボールは
そのとき、すべての束縛をのがれて、のんびりとした「運命の休止」をたのしんでゐるやうに見えるのである。
第一セットでやや堅くなつてゐた日本は、第二セットでははるかにソ連を引き離し、余裕のあるゲームを見せたが、
なかんづく目につくのは河西選手の冷静な姿である。

三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より
476名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 20:14:01.14 ID:XdmI+3R/
彼女が前衛に立つとき、水鳥の群れのなかで一等背の高い水鳥の指揮者のやうに、敵陣によく目をきかせ、アップに
結ひ上げた髪の乱れも見せず、冷静に敵の穴をねらつてゐる。ボールは必ず一応彼女の手に納まつたうへで、
軽くパスされて、ネットの端から、敵の盲点をつくやうに使はれる。
河西はすばらしいホステスで、多ぜいの客のどのグラスが空になつてゐるか、どの客がまだサラに首をつつこんで
ゐるかを、一瞬一瞬見分けて、配下の給仕たちに、ぬかりのないサービスを命ずるのである。ソ連はこんな手痛い、
よく行き届いた饗応にヘトヘトになつたのだつた。
しかしソ連のルイスカリ選手はすごかつた。この、金髪を無造作に束ねたクリクリした少女、大きな胸を突き出した
少女は、いつも赤い炎の矢のやうに飛んできて、強烈なボールを返した。
――日本が勝ち、選手たちが抱き合つて泣いてゐるのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあつたが、
これは生れてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である。

三島由紀夫「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」より
477名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 11:41:48.06 ID:1rFrDYfO
スクープ!緊急特集 韓国・鬱陵島レポート

http://www.youtube.com/watch?v=SWD81-c3Ys4
http://www.nicovideo.jp/watch/1312794689
478名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 23:46:33.44 ID:z3f51g2W
どうしても心の憂悶の晴れぬときは、むかしから酒にたよらずに映画を見るたちの私は、自分の周囲の現実を
しばしが間、完全に除去してくれるといふ作用を、映画のもつとも大きな作用と考へてきた。大スクリーンで
立体音響なら申し分がないがそれは形式上のこと、それで退屈な映画では何にもならぬ。(中略)これを一概に
「娯楽」といふ名で呼ぶのは当を得てゐない。私の映画に求めてゐるのは「忘我」であつて、娯楽といふ名で
括られるのは不本意である。私はただの一度も、映画で「目ざめさせて」もらつた経験もなく、又目ざめさせて
もらふために、映画館の闇の中へ入つてゆくといふ、ばからしい欲求を持つたこともないのである。
官能の助けを借りながら、知的探究をさせてもらふ、といふ、怠け者の欲張りが、いはゆる芸術映画の観客の
大半なのであらう。目に見えるものはいやでも官能に愬へ、しかも音が加はり、色彩が加はりすれば、どんな
知的な映画でも、その複合的効果を免かれることはできないのである。

三島由紀夫「忘我」より
479名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 23:47:42.84 ID:z3f51g2W
そして忘我とはこれ又複雑な要素を含み、エロティシズムや恐怖といふ感覚的衝撃も十分忘我の材料になりうる
けれども(因みに、笑ひはたえず人を目ざめさせるから、忘我のたのしみには適しない)、知的なパズルも亦、
しばし自分の頭脳を他人のなかなか隅におけない頭脳の支配に委ねるといふ快感において、忘我のよすがになる
わけであるから、私が喜んで見る映画は、おのづから限られてくる。そしてこれらすべての条件を具備したものが、
他ならぬヒチコック映画なのであるが、今度の「トパーズ」を含めて、ヒチコックの近作に、往年の色艶が褪せて
来たことは淋しい。
美しい人間が出てくる、といふことも映画の与へる忘我の大切な要素であり、「トパーズ」にもやはりキューバの
地下組織の代表者として、目もあやな美人(カリン・ドール)が現はれ、その死までも華麗を極めてゐる。
美しい人間といふものは映画にしか出て来ない、といふのがわれわれの年齢の人間の、幼時から温めてきた信仰で
あつた。逆も真なりで、映画に出る人なら美しい人間に決つてゐた筈であつた。

三島由紀夫「忘我」より
480名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 23:48:29.53 ID:z3f51g2W
ところが人間の肉体に対する信仰がどこかで崩れ、肉体の「偉大さ」が信じられなくなつてしまつた。これが
スター・システムの崩壊につながつたことは言ふまでもないが、美貌のみによつて偉大である、といふシンボル賦与の
役割を映画がすでに果さなくなつたことと照応してゐる。
その代りにタブーが取り去られ、「性」が映画の中央にしやしやり出てきて、どんな無気力な性を描いても、
性が主人公である映画が続出するやうになつた。現在氾濫してゐる二流映画の中で、私が感心したのはギリシアの
「猫の舌」ぐらゐのものであるが、面白いことには、性が前面に出てくればくるほど、スターは不要になり、
この面からもスター・システムの崩壊は推し進められてゐることである。
スターは性的シンボルであつたが、それは覆はれた性的シンボルであり、性の無名性の逆説であつた。

三島由紀夫「忘我」より
481名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 23:49:18.90 ID:z3f51g2W
すなはち性的対象が一つで、こちらが不特定多数人だとすれば、たつた一つの性的対象に対してできるだけ多数の
不特定人が集まれば集まるほど、経済的効率は上るわけであるから、そのためには宣伝が必要になり、宣伝の
公共性がスターをいやが上にも有名にすると共に、性の無名性(性的独占の条件)はますます薄れ、人々は共有の
法則に従はざるをえなくなる。そこに神聖化が行はれ、幾多の処女伝説が発生した。しかしブルー・フィルムでは、
この事情は逆になる。俳優は無名であればあるほど、性的独占の対象として直接性を帯び、それはいかにも任意の
対象といふ風情をそなへ、観客と俳優は一対一で映像の性関係に入ることが容易になる。そのためには、公共性を
必然的に持つ宣伝は、すべてを阻害することになる。
未来の映画は、すべてブルー・フィルムになるであらう。そして公認されたブルー・フィルムの最上の媒体は、
ヴィデオ・カセットになるであらう。なぜならそれは映像の性的独占を可能にするからだ。

三島由紀夫「忘我」より
482名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 23:51:23.25 ID:z3f51g2W
これはもう予期された結末であるが、それといふのも、映画は性を扱ふ時に圧倒的な効果を発揮するにもかかはらず、
劇場映画に要する厖大な制作費の条件は、性を無名性と個人的独占から遠ざけるやうにしか働らかないからである。
かういふことをうすうす感じてゐるからこそ、若い監督たちはあのやうな難解な映画を次々と作るのであらう。
どんな形而上学的主題も、或る巨大な性の影に包まれてゐるといふのが映画の本質であるのに、性を前面に扱へば
扱ふほど、かつてのやうなスターといふ存在のシンボル操作による、あの性の万能性・公共性・象徴性・神聖性は
失はれたのである。従つて、映画は或る巨大な性の影の庇護下にあらゆることを語りうる媒体であることを自ら
諦らめねばならず、一方では文学的演劇的な形而上学的主題へ逃げ、一方では芸術映画に特有な、汚ならしい
男女優による汚ならしい性的シーンの氾濫になつたのであらう。
かくも忘我から遠いものはないために、私は、これを見定めて、忘我を与へてくれさうな映画を見るとき以外に、
映画館へ足を運ばなくなつたのであつた。

三島由紀夫「忘我」より
483名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 10:03:23.91 ID:dWJByakk
何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない。酒の上だと云つて、無礼を働らいたり、
厭味を言つたり、自分の劣等感をあらはに出したり、又、劣等感や嫉妬を根にもつてゐるから、いよいよ威丈高な
嵩にかかつた物言ひをしたり、……何分日本の悪習慣で「酒の上のことだ」と大目に見たり、精神鍛練の道場だ
ぐらゐに思つたりしてゐるのが、私には一切やりきれない。酒の席でもつとも私の好きな話題は、そこにゐない
第三者の悪口であるが、世の中には、それをすぐ御本人のところへ伝へにゆく人間も多いから油断がならない。
私は何度もそんな目に会つてゐる。要は、酒席へ近づかぬことが一番である。酒が呑みたかつたら、別の職業の
人間を相手に呑むに限る。
何かにつけて私がきらひなのは、節度を知らぬ人間である。一寸気をゆるすと、膝にのぼつてくる、顔に手を
かける、頬つぺたを舐めてくる、そして愛されてゐると信じ切つてゐる犬のやうな人間である。女にはよく
こんなのがゐるが、男でもめづらしくはない。

三島由紀夫「私のきらひな人」より
484名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 10:04:11.62 ID:dWJByakk
(中略)
私が好きなのは、私の尻尾を握つたとたんに、より以上の節度と礼譲を保ちうるやうな人である。さういふ人は、
人生のいかなることにかけても聰明な人だと思ふ。
親しくなればなるほど、遠慮と思ひやりは濃くなつてゆく、さういふ附合を私はしたいと思ふ。親しくなつた
とたんに、垣根を破つて飛び込んでくる人間はきらひである。
お世辞を言ふ人は、私はきらひではない。うるさい誠実より、洗練されたお世辞のはうが、いつも私の心に触れる。
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
お節介な人間、お為ごかしを言ふ人間を私は嫌悪する。親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものが
あるものだが、お節介な人間は、善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。善意のすぎた人間を、いつも
私は避けて通るやうにしてゐる。私はあらゆる忠告といふものを、ありがたいと思つてきいたことがない人間である。

三島由紀夫「私のきらひな人」より
485名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 10:04:50.09 ID:dWJByakk
どんなことがあつても、相手の心を傷つけてはならない、といふことが、唯一のモラルであるやうな附合を私は
愛するが、こんな人間が殿様になつたら、家来の諫言をきかぬ暗君になるにちがひない。人を傷つけまいと思ふのは、
自分が(見かけによらず)傷つき易いからでもあるが、世の中には、全然傷つかない人間もずいぶんゐることを
私は学んだ。さういふ人間に好かれたら、それこそえらいことになる。
……ここまできらひな人間を列挙してみると、それでは附合ふ人は一人もゐなくなりさうに思はれるが、世の中は
よくしたもので、私の身辺だつて、それほど淋しいとは云へない。荷風も、一時は無二の親友のやうに日記に
書いてゐる人間を、一年後には蛇蝎の如く描いてゐるが、それはあながち、荷風の人間観の浅薄さの証拠ではなく、
人間存在といふものが、固定された一個体といふよりも、お互ひに一瞬一瞬触れ合つて光り放つ、流動体に
他ならぬからであらう。好きな人間も、きらひな人間も、時と共に流れてゆくものである。

三島由紀夫「私のきらひな人」より
486名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 10:05:28.20 ID:dWJByakk
とまれ、誰それがきらひ、と公言することは、ずいぶん傲慢な振舞である。男女関係ではふつうのことであり、
宿命的なことであるのに、社会の一般の人間関係では、いろいろな利害がからまつて、かうした好悪の念はひどく
抑圧されてゐるのがふつうである。
第一、それほど、あれもきらひ、これもきらひと言ひながら、言つてゐる手前はどうなんだ、と訊かれれば、
返事に窮してしまふ。多分たしかなことは、人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると
考へてよい、といふことである。私のやうな、いい人間をどうしてそんなにきらふのか、私にはさつぱりわからないが、
それも人の心で仕方がない。ニューヨークの或る町に住むきらはれ者がゐて、そいつは悪魔の如く忌み嫌はれ、
そいつがアパートから出てくると、近所の婆さん連がみんな道をよけて、十字を切つて見送るといふ男の話を
きいたことがあるが、きらはれ方もそこまで行けば痛快である。私も残る半生をかけて、きらはれ方の研究に
専念することにしよう。

三島由紀夫「私のきらひな人」より
487名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/23(火) 22:53:12.04 ID:itu3x740
テスト
488名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 22:54:29.68 ID:dLEbYGXi
489名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 12:22:42.29 ID:vZUEU0G5
映画も芸術の一種と仮定すると、人間の芸術的感受性が、映画のおかげで低下するといふものでもないので、
むしろこのごろの若い人は、われわれが少年時代に、小説の耽溺に際して働らかせた分量の感受性を、映画に
向けてゐるとも云へるのであるから、十代のお客だつて、たとひ小学生のお客だつて、ジャリなどと呼んで
甘く見るべきではない。このあひだ「恋人たち」のカットに積極的に賛成したといはれる某映画批評家などより、
かういふジャリのはうが、よつぽどコンモン・センスに富んでゐる筈だ。

三島由紀夫「映画見るべからず」より
490名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 11:31:53.21 ID:hV1aq3e6
491名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 09:55:21.66 ID:ML11CyQ6
すばらしい
http://www.the-a-room.com/
492名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 09:38:03.52 ID:ZfKPtZt3
サン・サーンスは、作曲家としてよりも薔薇作りとして有名だつたさうだが、私も小説家としてより、人斬りとして
有名になりたいものだと思つてゐる。

三島由紀夫「『人斬り』出演の記」より
493名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/25(火) 14:10:04.69 ID:Bsby/a9d
若松孝二最新作「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=xNIb4kvabIQ
494名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/13(日) 11:19:21.90 ID:LtQAeOhj
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。男は愛することにおいて、無器用で、
下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに無恰好である。どうしても「愛する」コツといふものが
わからないし、要するに、どうしていいかわからないのである。先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、そこには何か
有無を言わせぬ力がある。男の「有無を言わせぬ力」といふのは多くは暴力だが、女の場合は純粋な精神力である。
どんなに金目当ての、不純な愛し方をしてゐる女でも、愛するといふことだけに女の精神力がひらめき出る。
非常に美しい若い女が、大金持の老人の恋人になつてゐるとき、人は打算的な愛だと推測したがるが、それは
まちがつてゐる。打算をとほしてさへ、愛の専門家は愛を紡ぎ出すことができるのだ。

三島由紀夫「愛するといふこと」
495名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/28(月) 14:00:48.57 ID:d9LQHgCI
496名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/05(月) 22:11:34.65 ID:oedM4gga
きのふの風 けふの風
恋の風 金の風
夢も涙も 吹きとばし
人でなしでも 人の子さ
からつ風野郎 あすも知れぬ命

ムショの風 シャバの風
恋の風 金の風
情しらずの ワナをかけ
惚れはさせるが 惚れはせぬ
からつ風野郎 あすも知れぬ命

ハジキの風 ドスの風
恋の風 金の風
独り笑ひの 口もとを
すぎる殺気の うそ寒さ
からつ風野郎 あすも知れぬ命

三島由紀夫「からつ風野郎」
497名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 15:02:19.53 ID:LY7IySzM
´
498名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 11:20:45.64 ID:RDu21UJe
499名無しさん@お腹いっぱい:2012/01/21(土) 03:06:00.66 ID:AfWbLr/T
ありがとう
http://www.the-a-room.com/
500名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/09(木) 23:38:45.00 ID:6VAH6gWh
500
501名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/27(月) 14:17:44.57 ID:+/9l59J3
502名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/10(土) 23:49:20.65 ID:HUdqHY+M
保守
503名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/11(水) 19:25:25.21 ID:fhUDMCym
504名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/06(日) 10:54:49.80 ID:WRZp+hgu
人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する。

三島由紀夫
横尾忠則への言葉
505名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/22(火) 23:17:42.09 ID:DNogw1Kp
505
506名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/27(水) 03:37:57.44 ID:xt3W8Arh


【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】

507名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/27(水) 18:28:05.33 ID:d49mCNhh

アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。

【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。

508名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/29(金) 19:59:43.63 ID:aUCBPaXu
509名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/05(木) 05:44:06.63 ID:JhDiBRGw
510反現代死jlだflskfヵlskd:2012/07/19(木) 19:37:54.70 ID:VESLbHW5
三島由紀夫より反現代死だ!!!!111111111111111111
廃いゆー子 反現代死 殴り合い流血ライブ 七夕
http://www.youtube.com/watch?v=UHeoTK27wDM
511名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/18(土) 14:25:59.18 ID:XP4RNx1H
南方の貧困には、都会のみすぼらしい物ほしさうな貧困とちがつて、何かしら高貴なものがある。
南方の貧困には敗北のかはりにはじめからの放棄や忍従があり、とりもなほさず自然との
親和があるからだ。ここでは、高貴も貧困も、くさぐさのめづらしい果物の種類のやうに、たまたま
ちがふ味、ちがふ薫を放つ果物として、同じ資格で、太陽と海に捧げられてゐるやうに見えるのである。

ひつきりなしに通る市内電車の屋根には、夕影にはまだ遠いのに、鮮かなスパークの閃光が時折目に入る。
電車の窓から、乗客の女のふさふさした髪の項が見える。そのイタリー女がどこかへ電車で買物に行き、
かへつてくるころには私はもう機上の人なのである。それを思ふと、人間の生死も、ある地点における
在不在の、距離を延長したものにすぎないやうな気もする。

三島由紀夫「外遊日記」より
512名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/01(月) 20:29:55.42 ID:wrtgWGIm
513名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/19(月) 19:14:13.02 ID:kdt+A3E9
俳優の自意識はつねに不安にみちてゐる。
だから俳優は酒を飲み、スピード運転をし、女とこつそりつきあつて、一人になると不安でとても
たまらないから、友だちをつれていつしよに飲んで歩いて、ますます孤独になる。
小説家にはそんな孤独がないから、なるたけ一人でゐたい。それは、小説家といふものは、多勢と
つきあつてゐなくても、ここにかうやつてゐるのは自分にきまつてゐるのを、知つてゐるからなのだ。
逆の意味で、小説家はそのことに飽きる。いつも茶の間に坐つてゐるぼくが、ぼくであるといふことは、
ちよつとたへられないことである。
逆説的といはれるかもしれないが、ぼくは昔から、ぼくの知らない世界、ぼくと逆の世界があるのでは
ないかと考へてゐた。物理学でいふ反陽子の世界みたいなものに、いつも憧れてゐた。ここにゐるぼくが
ぼくではなくて、スクリーンの中にゐるのがぼくであるやうな事態が起つたら、愉快ではないか。

三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より
514名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/22(火) 19:33:41.88 ID:LpPGh2Tu
515名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/19(火) 23:30:30.19 ID:wrDbUast
「デーモン閣下の邦楽維新Collaboration デーモン閣下が三島由紀夫の楯を突く!」: NAGIの小箱
http://nagibox.air-nifty.com/nagi/2013/03/collaboration-c.html
516名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/22(金) 10:37:28.80 ID:B8+vBnvQ
517名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/26(火) 01:40:29.60 ID:9Qs+CyAf
エホバの証人→虐待教
創価→犬作ファンクラブ
幸福の科学→オカルト
パワーストーン→ただの石ころ
パワースポット→気のせい
自分探し→探してどうする
自分磨き→虚栄心の言い換え 努力は認める
ヨガ、ピラティス→ただの体操
518名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/01(月) 18:03:44.31 ID:JQDBLYzE
「センスとはデリカシーなり」三島
http://www.youtube.com/watch?v=L31OvDsxV-w
519名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/03(金) 14:15:48.80 ID:78aorsxz
三島って軍艦マーチの指揮も振っていたんだってな
読売交響楽団にて


[ ● ]
520名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/03(金) 15:36:23.20 ID:78aorsxz
あ、
読売日本交響楽団ね

…さあて、僕はオブジェクトになりたいなあ…っと
521名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/07(火) 09:17:12.45 ID:JyIzWi7F
 「三島はうっとうしい」


  村上春樹 談
522名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/15(水) 00:42:45.32 ID:qMFjmzGS
ソンテチャクは珍走や珍力を使って爆音や付き纏いをやめてください
523名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/15(水) 06:39:07.05 ID:zAfX0StX
>>>>
524名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/20(木) 01:45:14.01 ID:88UUeXhS
三島さん、抱いて
525名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:SePkYNEn
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている
526名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:1DY7ZWg0
ネトウヨとは・・・
人格に問題があるため社会に適応できない人種
そのため周囲に対して自分の存在を誇示するためのステータスが一切ない
唯一の拠り所が「自分は日本人」ということのみである為
ネット上で在日韓国人・朝鮮人を叩いてわずかな優越感を得ることでアイデンティティを保っている
また昨今では嫌韓流思考が顕著であり、またネトウヨ自身が社会と接する機会が少ないこともあり、
「韓流ブームは全て嘘」と本気で信じている。
その思考が右翼にも似ている為、ネトウヨと呼称される

@社会的地位:下層
A経済力:低収入、または無収入。
 高い収入を得る人間に対しては、例え在日以外にも異様なまでの敵対心を持つ。例:公務員叩き。東電叩き。ステマ叩き。障害者叩き。
B対人関係:不得意。
 匿名の掲示板以外では何も話すことは出来ない。その分ネットには莫大なエネルギーと時間を費やす。
527名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:r5Bsve0Y
528名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 13:10:59.17 ID:ApvhFdJS
age
529 忍法帖【Lv=5,xxxP】(1+0:8) :2014/01/19(日) 07:56:56.08 ID:H+FLEO0q
あけおめ!
530名無しさん@お腹いっぱい。:2014/02/11(火) 09:40:03.65 ID:xxW6878w
おめでとうございます
531名無しさん@お腹いっぱい。:2014/02/18(火) 14:47:12.21 ID:dE2L5RSQ
かもめんたるに似てる
532名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/03(月) 10:56:49.82 ID:59VXYfPT
マジかよ!?
533名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/04(金) 10:19:32.13 ID:WujZs1BQ
age
534名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/17(土) 09:31:45.73 ID:IZ4Rkb6l
age
535名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/24(土) 09:12:58.39 ID:iyWS+cVs
age
536名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/26(木) 12:43:11.75 ID:2nqUs+Io
ママイマ
537名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/23(水) 08:16:28.30 ID:4UGagGa/
三島が美智子妃殿下とお見合いしてたってほんと?
538名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/24(木) 23:30:14.00 ID:S++R/ysR
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
> 小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている。
539名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/03(日) 10:09:14.38 ID:qU2RL5ze
イラストレーターで収入が少ないからと30代後半で漫画家になろうとする、ひきこもりのバカ発見。
足立区に住んでいるそうだ
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html
540名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/22(月) 12:51:24.70 ID:GH/xnvws
age
541名無しさん@お腹いっぱい。:2014/10/09(木) 13:40:00.24 ID:QPcIIOVp
保守
542名無しさん@お腹いっぱい。:2014/11/02(日) 01:28:35.36 ID:/ejauWe6
30代後半で女と交際した事ない、ひきこもりのキモい童貞を発見。
自称イラストレーター。足立区に住んでいるそうだ。
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html
543名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/14(日) 22:28:26.27 ID:fCTKyM+l
由紀夫、抱いて!
544名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/06(火) 02:11:58.36 ID:HcrP6RsW
age
545名無しさん@お腹いっぱい。
age