【いろいろあるけど】広島市立大学17【まあどうにかなるだろ】
812 :
糞ヨハンはつぶれろ:
ヨハンのような新興宗教の中は情報遮断・教祖への服従・疑問を
持ったり批判をしたりといった ことが禁じられる・・・
まるで北朝鮮である。北朝鮮から脱出することを脱北(だっぽく)という。
カルト化した新興宗教をやめることを脱北をもじって「脱福(だっぷく)」
というのである。 2ちゃんでは何年も前から使用されている単語である。
■ なぜ、ヨハンにいると、普通の思いやりに欠けたり、普通の常識、
良識からずれてきてしまうのか
正確には、私は、この問題はヨハンだけではなく、他の似たスタンスの
キリスト教会や、キリスト教以外の信仰者にも見られうることだと
思っています。
私は、この一番の理由は、ある種の「宗教」が、「普通」を、「世間」を、
ナメているからだと思っています。
普通の人の普通の生活を、上から目線で見下しているんですね〜。
現役者さんの(例をとってしまいますが、彼だけではありません。
かつての自分への自戒も含め)、脈絡もなく「明日は礼拝です!」とか、
「クリスチャンでない方はわかりにくいかもしれません、
イエスキリストを信じてみてください!」「これがクリスチャンの
ダイナミクスです!」・・・etc. の言葉にも、わたしにはそのような
「宗教者」にありがちなゆがんだ特権意識を感じます。(こういうのを、
イエスが糾弾した「ファリサイ人」というのだと思うのですが・・
いかがでしょう?)正直、ここ数日のあなたの書き込みは
「クリスチャンってなんか違うなぁ、私も信じてみたいな」と思わせる
ようなものではないと思うのに、ところ構わず「イエスキリスト」と
叫んでみることが、純粋な信仰だとカンチガイしている人、けっこういます。
(繰り返しますが、あなただけ、の個人攻撃ではありません。
あなたの人格ではなく、一つの性質そのものに対する、個人的な嫌悪感を
言っています)
あとは、実際自分の生活がヨハン関連で埋め尽くされていき、
それ以外の社会に触れる時間が狭まって行く、という要因もありますが、
もっとも根深いのはこの「上から目線の特権意識」だと私は思っています。
一度「信仰者」になってしまうと、過去の自分自身も含めて、人や物事を
「クリスチャンかそうでないか」「キリスト教(聖書)的か、そうでないか」
という基準が何より先に、立ってしまうのですよね。それで、そうでない人や
物事を、「(まだ)知らない人」「(まだ)見えない人」
「(まだ)わかっていない人」→→「(これからは)コッチ側の人間に
生まれかわらせてあげよう!!」と、教え導いてあげる対象としてキャッチして
しまう。(でもこの認識は、「自分も経験したこの喜び、幸福、愛を
この人にも・・」という殊勝な善意と汗と涙でコーティングされているので、
本質的な高慢には本人はなかなか気付きません)
813 :
糞ヨハンはつぶれろ:2010/05/11(火) 15:03:02 ID:ce1eo6pO
■ちょっと’特別’なレンズ
それが最もよくあらわれているのが、自分たちへの「批判」に対する
反応です。
自分たちへの、NO!! や、、WHY?? に対して、真正面から受け止めて
しまえば自分たちの根本(信念や、活動)が揺らぎかねないものに対しては、耳をふさいだり、
見ない振りしたり、もみ消したり、という反応しかできなくなる。
現役者さん個人に見られる一つの例としては、自分たちへの批判に
対しては、「ほんとに事実なの? そうだとしても、それって組織の問題なの?」
というのに、ヨハンを肯定する自分の経験に対しては見るレンズが変わって
しまうのか、「自分の経験は、多くのうちのひとつかもしれない。
自分は経験していないけど、中にはいやなことを経験している人も
いるかもしれない」と相対化することができなくなってしまう。
その結果、「ネットは信用できない」「言葉が独り歩きして、
あらぬ誤解を受けている」。
でも、考えてみてください。あなたの否定するネットは、確かに悪意や無責任が
日常茶飯事、どこにでも転がっている。でもその一方、本音が語られやすいと
は、思いませんか。中には悪意や誤解もあるかもしれないが、これだけの量が
もう何年もずーっと継続して多数の人間から寄せられている。
この事実を普通の人(ヨハンに特別な感情を持っていない人)が見れば、
「中にはデマもあるかもしれない、うのみにはできないが、いくらかの事実は
そこに含まれているのではないか」と思うのではないでしょうか。
でもあなたは、・・どう思っていますか?
結局、あなたの書き込みに、「(批判は)事実かもしれない。
ヨハンにも、何か問題はあるのかもしれない。そしてそれを、ヨハンは
本当に認め改善しようと努力しているだろうか」という自問が見られない
のは、あなたが普通のレンズではない、何か特別なレンズを通して
それを見ているからではないかと、私は思っています。
それが、あなたの「余裕のなさ」ではないかと、私は思うのです。
事実をそのまま見て、ヨハンを擁護できるのなら、そうしてください。
でもそれではできないから、特別なレンズを通して、あるものを見ない
振りしたり、ねじまげたりしないとかばえません。だから私は、これまで
出会ってきたヨハンを擁護する人たち(ネットだけではなく、実際に何人
も見聞きしています)に、感銘を受けたことがない。自分の中の、
望ましくない仮定が否定されて、ホッとすることができたことが、
一度も記憶にありません。むしろ、その人たちがヨハンを擁護しようと
すればするほど無理が出てきて、また、人の醜い部分が露わになり、
信じたかった自分の心は、裏切られ続けてきました。もう、何年も何年も。
信じようなんてせずに、きっぱりさっぱり離れることができたのなら、
私が受けた爪痕はもっと浅く、もっと薄く済んでいたでしょう。
私は、誰にだまされたのでない、自分で神様がこの教会に導いたと信じ、
その信念(信仰)でこれまで奇跡を幾度も見てきたのだから、
できればヨハンにとどまりたかった。でも、もうできなくなったんですね。
自分なりに努力してみたけど、もう限界だったんですね。
ここでもう私は、「笑うことができない」から、去るしかなくなったんですね。
そんな時、ヨハンのだれが、自分を救ってくれたか? 誰も。
皆。一人も。自分の人生を本当に尊重してくれる人々は、
ヨハンにはいませんでした。
■何故か(「信仰」の行き着く先)
結局、彼ら「純粋で熱心な信仰者」は、傷ついた貧しい人の心よりも、
自分の救い(教会と信仰)を、選ぶからです。イエスを、贖いを、
愛を叫びながらね。
あなた方の持っているその信仰は、そういう構造に、なっているのです。
でも、それが本当に、イエスが訴えた信仰なのでしょうかね・・
それがあなた方の、致命的な「偽り」です。
814 :
糞ヨハンはつぶれろ:2010/05/11(火) 15:06:24 ID:ce1eo6pO
最後に
こんなに長く、また、現役者さんの名前を挙げて、きついことを並べたことに、痛む気持ちもあります。
誤解しないでほしいのは、あなただけに、個人攻撃で正直な感想をつづったのではありません
。今、ヨハンにいることを自分で選んでいるすべての人に、伝えたい正直な
考えと思いを、この場を借りて述べさせていただきました。
この中には、わたしの誤解や、間違いもあるかもしれません。
ただ、一つ主張させていただきたいのは、生意気を言っているのは
承知していますが、自分のヨハンやその他宗教に関する洞察は、
それを主張するだけの血と汗と涙と年月を通して得たものであると
言うことに、自分は一片の迷いもないということです。
最後に。
私は、こう確信しています。
「ヨハンの本当の姿は、それを通り、’抜けた’者でなければ分からない」。