『馬鹿という奴が馬鹿だ』という言葉がある。
これは主に幼い子供が使う言葉で、自らを「馬鹿」と罵られた時に使われるものだ。
大抵は自己のアイデンティティを守る為であり、虚勢を張る意味合いで使われる。
まぁ基本的には負け惜しみだ。
しかしこの言葉は本当に唯の負け惜しみでしかないのだろうか?
「馬鹿」と言った人間は本当に馬鹿なのではないのだろうか?
他人を「馬鹿」と罵った人間はなにを持ってしてその人を「馬鹿」だと判断したのだろうか。
例えばある人がテストで0点を取ったとする。
自分がそのテストで90点を取った場合相手を「馬鹿」だと罵りたくもなるものであろう。
しかし0点を取った人間は本当に「馬鹿」であっただろうか?
そんなことは判るはずが無い。それがその人の全てではないからだ。
たまたま調子が悪かっただけかもしれない、他の教科では全て100点を取っているかもしれない、
ひょっとしたら100点を取る実力を持ちながら相手を欺く為わざと0点を取ったのかもしれない。
いくつもの可能性がある中、テストで0点を取った相手を安易に「馬鹿」などと言ってのける事は、
実は大変愚かな行為ではないだろうか。対象のごく一部の劣悪な部分だけを見て全てを知ったつもりになっているのだ。
この愚かな思考は「馬鹿」と呼ばれるのに相応しいものではないだろうか。
また、多くの人は他人から好かれたいという感情を持っている。程度の差はあれど例外は無いと考えていいだろう。
他人を「馬鹿」と罵ることで相手は"自分を罵った相手"に嫌悪の念を抱かずにはいられないだろう。
人間の性を考えればそういった感情を抱かれることは精神的にも実質的にもまずプラスにはなりえない。
しかし他人を「馬鹿」と罵る人間はその一瞬の優越感のために相手からの好感を代償にしている。
当人はそれに気付いているのだろうか?否気付いていようはずがない。
自分への"嫌悪感"は一瞬の"優越感"よりも遥かにマイナスの要素が大きいからだ。この順位は価値観が律するものではない。
断言できる。相手を罵ることで得られる優越感の価値など相手から嫌悪され拒絶される時の感傷からすれば無いに等しいものだ。
好感を代償に優越感を得ることが"得"だと考えている人間がいたとしたらその人間は間違いなく「馬鹿」と称されるべき人間だ。
そしてその代償に気付くことなく軽率に相手を「馬鹿」と罵るようならその人間もまた「馬鹿」と言わざるを得ない。
以上を持って私は主張する。馬鹿って言う奴が馬鹿だろm9(^Д^)プギャーーーッ