ひぐらしのなく頃に 妖津部編 其ノ六

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15名無しさん@お腹いっぱい。
 園崎本家には、ろくな時に招かれた記憶がない。
 本当に小さかった頃、まだ私たち姉妹が、自分たちの姓の園崎にどういう意味があるかもよくわからずにはしゃいで居た頃を別にすれば。
 …親族会議などの、胃が痛くなるような時にしか、園崎本家には訪れた記憶がなかった…。
 車は本家の表門でなく、裏手に停まった。
 表門から入るのは後ろめたくない人間だけということだ。
 車を降りると、出迎えはお姉ひとりだった。
 気さくに声をかけようとしたが、その冷たい目つきを見てそれを引っ込める。
「…お久しぶりですね詩音。新年以外に会えるとは思いませんでした。」
 背中にぞわぞわしたものが登ってくるくらいに、お姉は他人行儀だった。
「魅音姉さまこそご機嫌麗しゅうございます。新年以外にお顔が見れて、三文くらいの徳を感じます。」
 私も精一杯の嫌味を込めて、他人行儀な言い方で返してやる。
「頭首は大変ご立腹ですよ。どう釈明されるか見物です。」
「…………私がするような釈明なんて、別にないですし。」
 釈明も何もない。
 学園に耐えられなかったから抜け出して来た。
 それ以上に何の言い訳もない。
「詩音、来なさい。皆、待っています。」
 魅音を先導され、私たちは歩き出す……。
 家でなく、庭に向かう。
 …そして、広大な庭のずっと奥の森を目指すに至り、私は自分がどこへ連れて行かれるかを察した。
 この奥の森は、私たち姉妹がまだ幼くて何も知らなかった頃、絶対に近付くなと強く言われていたところだ。
 ………この奥に何があるかは、…私も漠然とした噂では知っていた。
 秘密の地下の入口があり、園崎家に刃向かう者を苛め殺すための拷問室があると言われている。
 園崎本家にまつわる黒い噂の数々を知れば知るほど、その噂は信憑性を増していく。
 …だが、それでも心のどこかで半信半疑だった。
 それを今日、自らの身をもって知れるとは、…あの頃は夢にも思わなかった…。
 やがて、鬱蒼とした深い森の中が大きく盆地になっているところにやってきた。
 そのすり鉢の底に、まるで防空壕を思わせる鉄扉があるのが見える。
「……これが噂の、地下拷問室ってやつですね?」
 自分で口に出してみて驚く。
 …私の声は、少し震えかかっていた。……今の私は、自分で思っている以上に、…怯えていた。
 私のそんな問い掛けにも、魅音も含め誰も相手にしない。…ただ、張りつめた空気が痛いだけ。
 …双子は生まれたら直ちに間引くべし。…園崎家の家訓ではそうなっている。
 私は、…………ひょっとして、…間引かれる?
 指の一本くらいで許してもらえるだろうと思っていたのは、覚悟でも何でもなく、…単なる甘えに過ぎなかったことに気付く…。
 自分は園崎本家のことを恐ろしい恐ろしいと、言葉の上では理解していても、本当の意味では理解していなかった。
 だって、…鉄扉を潜った中の空気は、…これまでに一度も嗅いだことないような恐ろしい空気で、……なのにそれでいて、紛れもない現実であることを突きつけていて。
 …怯えの感情を、一度でも自覚してしまったら駄目だった。
 憎まれ口を叩いて、空元気を内に灯したくても、いつの間にか唇はこんなにも乾いてしまって。……指先も落ち着きをなくしているのがわかった。
 細い廊下を進み、何度か階段を下り。
 再び大きな鉄扉をくぐり。
 …………その部屋へ私は来た。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:40:09 ID:???0
 そこは…広い部屋だった。…そして、これまでに見たこともないような奇怪な部屋だった。
 その部屋は左右の半分でまったく違う趣になっていた。
 まず、片側半分はお座敷になっていて、…そこには親族会議の上席を陣取る10数人の親類たちが、不気味なくらいの無表情で皆、座布団に座っていた。
 そして、もう片側半分は、まるで大きな公衆シャワールームを思わせるように、床や壁がタイル張りにになっていた。
 この座敷と浴場が混在したような空間は、それだけでもう充分に異常だ。
 …そして、…いや、そしてなんて形容の仕方はおかしい。
 それはここに来て真っ先に私の目に飛び込んだからだ。
 部屋の半分が座敷で浴場で…なんてものよりも遥かに最初に。それでいて、……一番最後まで意識したくない。
 …………足が、藁になる。腰が崩れてへたり込みそうになる。
 だが、へたり込むこともさせてもらえなかった。
 この部屋に入ると同時に、私は若い男ふたりに両腕をがっちりと組まれていたから。
 シャワールームの壁には、……初めて見るのに用途の想像が付く、奇怪なものたちが並べられていた。
 ………あぁ、奇怪なものたちなんて言い方がそもそも潔くない。
 私は、そのものたちを、単に何と呼べばいいかわかっているはずなのだ。
 ……あぁあぁぁぁ…、分かっている、認めている。
 私はそれらが、…この世のものとは思えないくらいに奇怪で歪な形をした、……拷問具たちであることを理解している…。
「だぁほが。どの面下げて戻って来たん思うとっとと…。」
 座敷の一番前に座っていた鬼婆が、…聞く者全てを威圧せずにはいられない恐ろしい声で、…まるで染み入らせるかのように、じっくりと告げる。
 その後、何やら恐ろしいことをまくし立てていたが、訛りがひどくて、何を言っているかはよくは聞き取れなかった。
 …でも、全ては聞き取れなくても、…何を言おうとしているかは理解できた。
 …鬼婆は、学園を抜け出したところまでは大目に見るつもりだった。
 だが、自分が園崎詩音であると、警察に告げたのではどうにもならない。
 園崎本家としては、頭首の命令に背いたことが明らかになった以上、詩音を罰しないわけには行かない…ということなのだ。
 ………そして何よりも。
 鬼婆が一番、不愉快に思っていること。
 ……それは、私が悟史くんを庇ったことらしかった。
 …北条家は、ダム戦争の時、村を裏切った裏切り者の一家。
 その烙印は悟史くんと言えど免れていない。
 その北条家の悟史くんと、園崎家の私に縁があることが、面白くなかったというのだ。
 それは…私にとってひどく意外なことだった。
 私は、鬼婆の決めた学園から逃げ出してきた。
 だからこそ鬼婆の逆鱗に触れているのだと思っていた。
 …だが実際にはそうではなく、……私と悟史くんの取り合わせが不快だったと、そう言っているのだ。
 私は信じられない気持ちでいっぱいになった。
 …ダム戦争の時、悟史くんの両親が村を売るような行為をして、槍玉に挙げられていたのはよく知っている。
 でもそれは……悟史くんの両親のことであって、その息子である悟史くんに問われる非ではないと思っていたからだ。
「……そんなの、…悟史くん、関係ないじゃないですか…。悟史くんの親は分かるとしても、悟史くん個人には何の責任もな…、」
「しゃあらしいわあッ!!!!」
 鬼婆に一喝され、私は言葉を最後まで言い切ることが出来ず、すくみ上がる。
 鬼婆は口汚く北条家の悪行を罵り、悟史くんもその汚い血を引いている裏切り者の子供だと言い切る。
 …それを聞く内に、私は…憤りを感じ始めていた。
 悟史くんが一体を何をしたというのか? 悟史くんにどんな非があるというのか?
 気付いた時、私は心の中で思ったことをそのまま口にしていた。
 私は鬼婆の目が、憤怒に染まっていくのを見て、自分が何を口にしたかをようやく知る。
 だから、自分の意思で口にするために、…もう一度同じことを口にすることを決意する。
「……鬼婆、あんた何言ってんの? 黙って聞いてれば言いたい放題。」
「ああぁん?! なんばねすったら口の聞きぃ!!」
「やかましいッ、終いまで聞きなよ鬼婆ッ!!!!」
 私は鬼婆の怒鳴りすら一喝し、声を張り上げた。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:40:33 ID:???0
「大体、あんたは悟史くんの何を知ってるの?! 悟史くんのことをよく知りもしないくせにまるで彼を害虫みたいに言い捨てて!!!
 悟史くんがどんなにいい人か、私はよく知っている! 彼が北条だからいけないの? ばっかみたい!! 時代錯誤も甚だしい!!
 園崎の私が北条の悟史くんと一緒に居たのがそんなにも不愉快なの?!
 くっだらないくっだらない、馬ッ鹿みたい!!! こんな安っぽいロミジュリを自分で体験できるなんて思わなかったなー! あっはっはっはっはっはっは!!!」
 思いっきり強がって言っても、声はかすれる。
 涙もぼろぼろこぼれて顔はぐしゃぐしゃだ。でも…ここで感情の吐露をやめる気はしなかった。
 …たとえこの義憤が一時、恐怖を忘れさせてくれるだけのものだとしても。
 鬼婆は、まさにその呼び名そのままの形相で、肩で息をしながら私を睨み付けている。
 私も同じように肩で息をしながら、鬼婆を目線だけで食い殺そうと睨み付けていた。
 ………やがて。…鬼婆が私と悟史くんの仲にこだわっていることに気付き。
 ……単に私たちが一緒に居た以上のことを咎めていることに気付き始めた。
「……そっか、…魅音がそういう告げ口をしたわけか…。」
 魅音は能面を貼りつけたように無表情。私の呪うような目線にも動揺しなかった。
 ……鬼婆が本当に不愉快に思っていること。
 …それは、私が悟史くんに恋心を持っていることなのだ…。
「あははははははははは! あっははははははははは!! 確かに私、自分が園崎家だとか、悟史くんが北条家だとか、
 そんなの全然興味ないし、園崎家の面子がとか世間体がどうとか全然関心ありません! えぇ認めますよ認めます!!
 私は北条悟史くんが好きです。彼の事が大好きです! それっていけないことッ?! 人が人を好きになるのに、何か理由が必要ッ?!」
 鬼婆の後ろの親族たちが、取り返しの付かなくなった様子に、小さく首を振ったり、俯いたりするのが見えた。
 その中には、…私を一番庇ってくれたに違いないお母さんの姿も見えた。
 お母さんはもう私を見てはいなかった。
 ただ沈黙を守って、畳を見ていることしかできなかった。
「後ろのあんたたちも聞こえてるでしょ?! 私おかしいこと言ってる?!
 あんたたちだって悟史くんをよく知れば、彼がどんなに素敵な男の子で、私が好きになるのがおかしくないことがすぐに分かる!!
 なのに、なんで相手の人格も知ろうとしないで、一方的に…、」
 魅音はもう喋るなというように、手をかざして私を制した。
 そしてゆっくりと私の元へ歩いてくる。
「……………もう結構です詩音。あなたの言い分と覚悟はよくわかりました。」
「………………………。」
 そして、魅音は額がぶつかりそうになる位に顔を寄せ、私にしか聞こえないくらいの小声で言った。
「……詩音の覚悟はよくわかったよ。……でも、ここまで言い切っちゃったら、誰にももう庇えない。…詩音がけじめを付けて見せるしかない。」
「……………けじめ?! 何で私が!! 私が何でそんな馬鹿な、」
「詩音。」
 魅音がもう一度、冷酷な次期頭首の顔に戻り、…諭すように言った。
「……あなたの言う個人の理屈は多分正しい。……でもね? あなたも理解していると思うけど、…ここは雛見沢で私たちは園崎家なの。
 御三家の末席で、…今や事実上の雛見沢の筆頭家。そしてあなたは仮にも、園崎家次期頭首である園崎魅音の双子の妹。…それが、」
 魅音に最後までは言わせない。それを断ち切るように、私は言い分をぶつける。
「あんたとは、こっちに帰ってからどうもその辺りの話が食い合わないですね。大人の事情みたいなことばっか! 雛見沢? 園崎家? だから何?! 私はそんなの全然興味な、」
「聞きなさい!」
 魅音もまた、私がしたように最後まで言わせず断ち切ってくる。
「…………詩音は今日まで興宮で生活するにあたって、…どれだけの人の世話になってる?」
 …背筋をぞわりとしたものが這い上がる。
「………葛西さん、奥の牢屋にいる。」
「な、……なんで葛西がッ?!」
 本当は驚くには値しない。
 ……私が捕まった時点で、私を匿ってくれた人たちはみんな同じ運命だ。…園崎家の頭首に背いた罪はまったく同じ。
 私は…まだ扱いがいい方かもしれない。
 …奥の牢屋にいるという葛西や、もうじき連れて来られる義郎叔父さんなどは、……もっと乱暴に扱われていると思っていいだろう。
 私のわがままに付き合ってくれた人たちが、…みんな犠牲になっている。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:40:50 ID:???0
「………詩音がどういう目にあっても、詩音本人は覚悟があるからいいだろうけど。お世話になった、葛西さんや義郎叔父さんがどうなるかまでは考えが及ばない…?」
 頭の中にいっぱいに広がった熱湯のような感覚が、どんどんと退いていく。…私の威勢は、もうとっくに失われていた。
 私一人がどんな責め苦に遭おうとも、きっと私は耐えられるだろう。
 だが、園崎本家に逆らい、私のためにひと肌を脱いでくれた人たちに、…迷惑を掛けるのだけは躊躇われた。
「……詩音。婆っちゃに謝って。けじめをつけて見せれば、詩音ひとりだけの話で全部済む。…誰にも迷惑を掛けない。」
「でも……でも、魅音…。私、間違ったこと言った…? そんなにも悪いこと、…した…?」
 ……私にけじめを付ける覚悟がないことを見て取った魅音は、わずかばかり見せた仏心を引っ込め、…元の冷酷な表情に戻る。
 そして、私に背を向けて座敷の方へ戻っていく。
 ………私は威勢よく鬼婆に喧嘩を売った。
 …自分は悪いことをしていないと言い張った。
 ……だが、今日までの生活でお世話になった人たちを巻き込んでしまっている。
 …これは言われるまでもなく、私の責任。
 …私ひとりが受けるべき咎で、…彼らには何の罪もない。
 ……そう、悟史くん本人に、何も罪がないように、葛西や義郎叔父さんにも罪がない。
 その時、……その胸中を全て読み切ったかのように、…魅音が振り返り、………小さく頷いた。
 葛西や叔父さんのように。
 ………何の罪もない悟史くんまで、……巻き込まれるかもしれないよ?
「ま、…………ま、待ってお姉……!!」
 そんなの、…絶対だめ…。悟史くんは…じゃなくて、……みんな関係ない。私ひとりで済むことなら、みんなを許してあげて…!
「……何ですか、詩音…?」
「…………………ご、……………、」
 私のくしゃくしゃの顔に、涙が幾筋も流れて落ちる。
 ……もう、私の安っぽい見栄とかそんなもの、どうでも良かった。
「………ごめんなさい…。私が間違っていました。…許してください頭首さま。」
 鬼婆の気に入るように言ったはずだ。…なのに、鬼婆はなおも不愉快そうな顔をする。
 ……それもそうだ。
 …鬼婆は、親族たちの目の前で私に罵倒された。…私をこのまま許すことなんてできるはずもない。
 そんな鬼婆に代わって、次期頭首である魅音が口を開いた。
「では詩音。…どうやってけじめをつけるつもりです?」
「け、……………けじめって、…………どうすれば…………。」
 壁に立てかけられた恐ろしい拷問器具たちに囲まれて、けじめという言葉を口にさせられることほど恐ろしいことなどない。
 …私は、その単語の恐ろしさに、改めて震え上がるほかなかった。
 私が震えながら立ちすくんでいると、見かねた魅音は鬼婆に何か囁き掛けた。
 …鬼婆はそれに頷き返す。
 そして魅音は若いのを呼び寄せると、何か指示を出した。
 そして、彼らは部屋の壁にぶら下げてある物騒な器具の内のひとつを持って来た。
 …そして、私の前に机を運び、その器具をそこに載せる。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:41:07 ID:???0
「………………なに、………これ……。」
「……爪を剥ぐための道具です。使い方はわかります?」
「わ、……………わかるわけ……ないでしょ…………。」
 わなわなと震えながら……机の上の、薄気味悪い器具に目を向ける。
 それはちょっと見たところ、とても大きな爪切りのような形をしていた。
 ……おそらく、…先端のくちばしのような部分を……爪の間に差し込み、……把手の部分を強く握ると…くちばしが開いて、爪をがばっとめくれて剥ぐ形になるのだろう。
 その用途を頭の中で思い描くだけで……指先が震え、体中に悪寒が走り抜けた。
「爪1枚ずつで、詩音が掛けた迷惑のそれぞれのけじめとします。………園崎詩音。どの指でも構いません。自らの手で、3枚の爪を剥がして見せなさい。」
 3枚。………葛西。義郎叔父さん。…そして、………悟史くん。
 …その数字はこれ以上なく、妥当だった。
「ほ、…………本当にそれで……………他の人は許してくれるんですか………。」
「……………………。」
「約束して……。私がちゃんと自分の爪を剥げたら……他のみんなは許すと約束して……。」
「これはあなたのけじめであって、取引ではありませんよ。……この方法が気に入らないなら、」
「やるから待って!!! 待ってよ……やるから……、……やるから…。」
 私は震える左手を……小指を、…器具のおぞましいくちばしに当て、…爪の間に………………割り込ませる。
 もし爪が短かったなら、うまく出来なかったろう。
 …だが、私の長い爪は、金属の無慈悲なくちばしを大きく広くくわえ込み、…実に綺麗に、器具に噛み合っていた。
 すると若い男たちが器具と私の左手を別の拘束器具でがっちりと固定した。
 ……確かに、このくらいがっちりと固定しなかったら、…指が逃げて、うまくできないだろう。
 男たちが無抵抗な私の左手を、バチン、バチンと革ベルトのようなもので締め付けていく過程のひとつひとつが、…今、目の前で起こっていることが現実であることを思い知らせ、…そしてどんどんと逃げ場を無くしていく。
 こんな状況であっても、…私は未だ心の中のどこかで、洒落で済ませてくれないかと甘えていたのだ。
 そんな甘えなど、もうとっくに捨ててたと思ったのに…。
 こうして少しずつ追い詰められるに従って、ないと思っていた甘えがどんどん胸から押し出され…涙になってこぼれていく。
 それはまるで、残りわずかの歯磨き粉のチューブを締め出して、最後のわずかまで絞り出そうとしているかのような無慈悲さだった。
 …そんな受け身の時間さえも甘え。
 やがて私の手をしっかりと拘束したことを確認すると、私に何かを強いるような、寒々しくて痛々しい沈黙が訪れた。
「……で、……ど、……………どうするの…………。」
 若い男がこのお化け爪切りの把手を示し、そこを握るか叩くかするように告げる。
 ……思い切り叩いて一気に行った方が、むしろ痛みは少ないかもしれませんという忠告付きで。
 あとは、もう誰も強制しなかった。
 私の流れ落ちる汗の音以外には何も聞こえない、痛いくらいの沈黙。
 私が自らの爪を剥いでけじめを取るところを見守ろうと、立会人たちがじっと…沈黙を守りながら見つめている。
 …鬼婆も、そして魅音も。……私が自らの手で清算するのをじっと待っていた。
 ………このまま、震え続けて拒否することもきっと選択肢のひとつに違いない。
 …だが、それをしたら、私のけじめにならない。
 けじめというのはつまり、…私ひとりの罰で罪を贖えるということ。
 …もしそれをしないなら、…罰は私を助けてくれた、親しい人たち全てに及んでしまう。
「は、………は、………はぁ………はぁ………。」
 呼吸が荒ぶってくる…。
 わかってる。自分で自分の爪を3枚剥がして見せれば誰にも迷惑を掛けない。
 きっとこれは破格の条件。
 …私だから爪3枚で済まされてるのだ。
 ……葛西たちだったら、爪でなく指や、あるいはもっと悲惨な目で清算されるかもしれない。
 わかってるわかってる。
 学園を逃げ出したのは私のわがまま。
 それを快く手伝ってくれた葛西に何の罪があろうか。
 わかってるわかってる。
 興宮に戻って来た私に、バイト先を紹介して生活費を工面してくれた義郎叔父さんに何の罪があろうか。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:41:32 ID:???0
「はぁ……はぁ……はあ……はぁ!」
 鬼婆たちが北条家を未だに毛嫌いしていることはよくわかった…。
 だから私がここでけじめを付けてみせなかったら、…悟史くんがどんな酷い目に合わされるか、想像も付かない…。
 あるいは、……悟史くんもこの部屋へ連れて来られて、同じようにこの器具を与えられるのだろうか。
 ……それで、引き換えに私を許す…みたいなことを言われて、悟史くんも自らの爪を剥がさすよう強要されるのだろうか……?
「……はぁ……はぁ……はぁ……はあ…はぁ!」
 …悟史くんなら、…剥ぐ。
 ……悟史くんなら、自分の犠牲で誰かを救えるなら、躊躇なくやってみせる。
 顔中に汗が浮き、それらが鼻筋にそって流れ、……鼻の頭から雫になって、ひたひたと机の上を濡らしていた。
 ………やろう、…やろう。
 ……たかが爪が3枚じゃないか。
 ……痛いかもしれないけど、別に死ぬほどのことじゃないし、傷だって爪が生え変われば元通りだ。醜い傷が一生残る…なんてほど悲惨なものじゃない。
 そう、だから恐れちゃいけない。
 …私だからこの程度で許される。
 私が拒否すれば、…みんなはもっと酷い方法で清算させられる…。
 葛西や義郎叔父さんや、…悟史くんに迷惑を掛けちゃいけない…。
 私が、ひとりで責任を負うんだ……。
 だから、……だから…これから受ける痛みを耐えて見せよう……。
「はぁ、……あぁ、………あう、……あぁ……!」
 もうそれは呼吸音じゃない。
 呼吸とも喘ぎとも付かない、弱々しい雄叫び。それは、多分、悲鳴と類されてもいいもの。
 そうだ、……一気に行こう。
 これは拷問じゃないんだから、痛い瞬間を緩慢に引き延ばすことなんかないんだ。
 ……一気に、一度に行こう。その方が痛くない、その方がちょっぴりだ、その方が怖くない……!
 ……右の拳を握り、振り上げる。
 ゆっくりなんかじゃなく、素早く。
 こういう感じのものは、一度に綺麗に決まった方が痛くないと決まってる。
 …むしろ、し損じた方が痛いに違いない…。
「はあ、…はあ! はあ!! ………………………、」
 最後の息を止める。
 全身が凍りつき、体の内側から窒息するような苦しさと、毛虫に撫でられるような悪寒が込み上げてくる。
 恐れるな、私。
 …体の表面積全てを思えば、爪の部分なんて1平方センチ程度の狭い部分じゃないか。……耐えられる、私は耐えられる…!
「えぉああわあああぁあぁあああぁああッ!!」
 私は振り上げた拳を、……拷問具の把手に、叩きつける。

「……………ッッ!!!!」
 ビツッという音が、空気でなく、私自身の体を伝わって鼓膜を響かせ、まったくその音と同時に、私が生まれてから一度も味わったことのない角度からの痛覚が襲いかかって来た。
 遅れて、心臓の鼓動のようなドクンドクンという脈打つ激痛までが加わる。
「……ぅううぅううぅ、……うううぅううぅううぅう!!!」
 歯を思い切り食いしばる。
 奥歯が欠けそうになるくらい! 瞼も思い切り食いしばる。眼球が潰れてしまいそうになるくらい!!
 痛みは薄れたりはしなかった。
 むしろ脈動し、私の指を痛みで風船のようにパンパンにして破裂させるかのようだった。
 私は…恐る恐る目を開けた。
 ……私の左手の小指は、……血で真っ赤ということはなかった。もちろん血塗れだったけど、この痛みとはあまりに釣り合わないくらいに、下らない出血だった。
 私の爪は、……ほら、…車の前のボンネットってあるじゃない? あれを…がばっと開けたみたいになってて……。それはあまりに信じられない光景。痛みだけでなく、恐ろしさまでが私に襲いかかる。
 しかも、こんな痛みと恐怖の中だからこそ、…私はまだ3つの義務の内の1つしか果たしてないことを気付く。
 …こんなことを、あと2回も?
 薬指と、中指も、…こんなことをしないといけないの…?
 許しを乞うように、鬼婆と魅音を見る。
 ……でもあいつらにとってはこんなの、ちょっとした余興に過ぎなくて。…退屈そうな顔で見守っているだけなのだ。
 そこにはわずかの同情も読み取れない。
 …こいつらは許す気なんかない。
 爪を3枚と言ったら絶対に3枚!
 あと2枚、こんな思いをして爪を剥がさなければ許す気なんかないんだ…!
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:41:58 ID:???0
「………魅音、………これで、…許して…………。あのね、…あのね、……これ、…本当に痛いの……、すごく痛いんだよ……。
 ほら、…私の顔を見れば…わかるよね……? …本当にさ、……痛くて、………えへ、…えへへへへ………、」
 魅音は冷酷なままの表情で、答えてくれた。
「…………詩音。………もう、……無理?」
 もう無理なら許してあげるよ、という意味ではない。
 …無理なら、残る分は他の人に清算させてもいいんだよ、そういう意味。
 そんなこと……言われなくても…わかってるって…。
「や、…やれるよッ!!! こんなの全然楽勝だって……!! このサディスト共がぁ!! はあ、…はぁ!!
 こんなの怖くない、こんなの痛くない…、ああぁあぁああぁあぁぁ…!!!」
 私は右手で拷問具のくちばしを動かし、手早く次の薬指の爪の間に差し入れる。
 …そして何の躊躇もなく拳を振り上げて、わずかの間もなく振り下ろした。

 …それは潔い速さというよりは、…落ち着きのない性急さや、眼前の恐怖から少しでも逃れようとして足掻く暴走に違いなかった。
 そんなやり方では、うまく行く訳もない。
 拷問具は私の爪を捲らず、爪の先を少し欠いただけだった。
 でも、痛さは先程と変わらなかった。痛さよりも信じられなかったのは、これだけ痛い思いをしたのに、爪が剥がせていないことだった。
 ……やり直し?!
 薬指、…もう一回やらないと駄目なの……? また、やるの…? また、……また……?!
「………………詩音…?」
「やだ、…………ぇぐ、………やだぁああぁあぁあ!!!」
 もう駄目だった。…私は恥も外聞もかなぐり捨てて、泣き叫んだ。
「もうやだやだ!! もう無理なの本当に痛いの…!! もう許して、本当に許してよぉ!! ごめんなさいごめんなさい、謝りますから許してください!!
 ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
 私の叫びなど、座敷の親類たちには届いていないようだった。
 …私と彼らの間に、声を遮断する空気の壁でもあるんじゃないかと思うくらいに。
 彼らは私に同情などしていなかった。ただ園崎家の人間として、この儀式を私がやり遂げられるかを見届けているだけだった。
 だから、私の醜態に同情するどころか、むしろ呆れているように見えた。
 魅音が私に歩み寄ってくる。…そして泣きじゃくる私に囁く。
「……詩音。………あとちょっとだから、がんばって。」
「やだやだやだやだ!!! 本当に無理、本当に痛いの…、痛いのぉおお!!
 うっく、……えぐ、……わああぁああああぁあぁああああああぁああ!! うわあああぁああぁあぁああぁあぁあぁ!!」
 魅音は小さく首を横に振ると、若い男たちに顎で合図を送った。
 ………男たちは、私の後ろに来る。
 そして突然、ニット帽のようなものを深く被せて来た。それは帽子状の目隠しらしかった。
 視界を奪われた次は、後ろから誰かに羽交い締めにされて、自由をも奪われた。
「やや、やめてよやめてよ!! いやぁ嫌あああぁああぁああ!!!」
 暴れても、組み付いた男の力には抗えない。
 そうしてる間に、私の左手に違和感。
 …もうひとりの男が拷問具をいじっていた。
 …そして、…痛む薬指の爪の間に…あの残酷なくちばしを…ぐっと差し入れて………。
「やああぁあぁあぁあ!!! 助けて、おかあさん……おかあさああぁあん!! あああああああぁああぁああぁああああああ!!!」
 もともと左手は拘束具で固定されていて、大した抵抗はできない。
 …だけど、そんな左手すら、乱暴な手のひらに痛いくらいに押しつけられて、震える自由さえも奪われた。
 …あと、間髪なんかなかった。
 自分以外の人間が執行する刑が、これほどに無慈悲であることを初めて知る。
 目を奪われた私には、襲い来る痛みに対し歯を食いしばることもできなかった。
 もし、…後に感謝することがあるとしたなら。
 ……執行者が手練で、綺麗に二度で2枚の爪を剥がしてくれたことだった。
 痛みと絶叫は、脳内を麻痺させる麻薬を分泌させるのだろうか。……私の意識は、叫び続ける内に、どんどん希薄になっていった………。