ところが、結局死にきれなくて、偉い坊さんに救われ、尼さんになるわけなん
だけど、薫君は彼女を発見してはるばる見つけにいくのよ。彼女は会わない
っていってんだけど、さてどうなるか、ってところで源氏物語はおしまい。
まあ、こんな風に、フランス人が最高にいやがりそうな設定がえんえんと続く
わけなんだけど、話としてはけっこう人気の話だし、宇治市がものすごく力を
入れてることなどもあって、源氏本体よりむしろ、宇治十帖のほうが、内容と
しては有名かな。
読んでて思ったんだけど、大姫(死んじゃうおねえさん)ってのは、ほんとは
匂宮のほうが好きで、薫みたいなしんきくさいやつは妹におしつけて、自分が
匂宮とくっつきたかったんじゃないのかな。
それだってのに、薫君しか寄ってこないし、そうこうしてるうちに、妹は匂宮
とできちゃうしで、なんかがっかりして死んじゃったんだろうという気がします。
かわいそうなのは三番目のお嬢さんで、下品だとかなんだとか勝手なことを
言われた挙句、おねえさんの、かなりレベルの低い身代わりみたいに扱われて、
なんかすげえいやだったんだろ。自殺未遂はするわ、出家はするわ、しかも
薫と来た日には、いざ自分の手から逃げ出したら、途端に「萌え」てるわけ
で、これではあかんぜよ。
地図のマークのすぐそばに恵心院っていうのがあるでしょ。これは、道長が
スポンサーになって、源信のために立ててあげた寺なんですよ。ここだけ
じゃなく、日記などを見ても、道長って人はずいぶん源信にべったりしてい
たようで、これについては宇治の次にも少し書きます。
問題は、この場所なんですよ。宇治神社と、その少し上にある宇治上神社と
いうのは、祭神が菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)を祀った
神社なのですが、実はこの宇治川東岸一帯というのは、古代においては全部が
この菟道稚郎子皇子の陵墓とされていた土地なのです。
ちと休憩。
遅くなりますた。
えっと、この菟道稚郎子皇子という人ですけど、この人がどんな人物かについて
は、日本書紀の応神天皇−仁徳天皇の項に詳しくでています。いわゆる倭の五王
の時代です。
応神天皇って人は、朝鮮出兵の中心になった神功皇后の息子で、この人の時代は
河内王朝はとても安定していたようです。まあ、圧倒的なカリスマを持った母親
の息子だしね。
応神天皇って人は女好きだったようで、まあそれはそれでけっこうなことです
が、たくさんの、それも同じぐらいの年の皇子がいたようです。応神紀によれ
ば、天皇は数多い皇子の中でも一番年下の皇子、菟道稚郎子に天皇位をつがせ
たい意向だったらしく、菟道稚郎子は天皇の生前から、事実上の皇太子として
とくに朝鮮半島との戦争を、指揮していたらしいことがうかがわれます。
こんなことからもわかるように、この時代にはまだ、次期天皇を誰にするかを
決めるはっきりしたルールはありませんでした。もっとも、一番多かったケース
は「一番年長の弟」がつぐという形で、天皇が戦闘指揮官であった時代ですか
ら、この仕組みが一番合理的といえば合理的だったのかもしれません。
ただ、天皇の意向ってのはかなりの程度まで考慮されたようだし、天皇のほかに
実力者がいた場合もそうで、これが現在のように、長子相続を軸とする形に落ち
着くまでは、まだしばらく時間がかかります。
しかしまあ、いずれにしても、数多い兄をさしおいて、一番年下の弟を指名した
応神天皇のケースは、普通に考えても波乱を予感させますよね。実際に起こった
のもそうでした。
菟道稚郎子に関する日本書紀の記述は、なんともすっきりしない内容なのです
が、アバウトに書くと次のような形です。
応神天皇が崩御すると、次期天皇を選ばなければならないのですが、応神天皇
に指名され、皇太子としてそれなりの政務も行っていた菟道稚郎子は、固辞し
て天皇位につかず、仁徳天皇に天皇の座をゆずるといい、仁徳天皇は仁徳天皇
で、応神天皇の指名だからといって、やはり天皇位につくことを固辞します。
そんな具合で、誰も天皇にならない時期がしばらくつづくのですが、ここで、
他の兄たちが、屯倉の支配権を握ろうとして内乱がはじまってしまいます。
仁徳天皇と菟道稚郎子は、二人で組んで、この内乱の鎮圧に成功します。元々
応神天皇は、仁徳天皇に菟道稚郎子の後見人として、摂政に近い役割を依頼し
ており、この点はまあいいとして、鎮圧に際しては菟道稚郎子は戦闘司令官と
してなかなかの活躍をしているような感じです。
二人の活躍で鎮圧(というか、実際には粛清だろうけどね)はほどなく成功し
ます。ところが、ここで、菟道稚郎子が突然自殺してしまうんですよ。
その理由というのが実に奇妙なもので、自分が生きているかぎり、兄であり、
すばらしい人格者である仁徳天皇は天皇位についてくれないだろう。だから、
自分は死ぬし、仁徳天皇に天皇位についてほしい、とまあそんな理由なのです。
仁徳天皇は、その死後、ほどなく天皇位につくことになるわけですが、これは
いかにも変な話で、実際の過程がこんな風だったとは、ちょっと考えにくいん
じゃないかと思うんですが、どうでしょう。
当時は、どうやら都がふたつあったといっていい状況だったみたいなんです。
ひとつは、いわゆる河内王朝というやつで、今の堺かその近辺にあったもの。
もうひとつが宇治にあったやつで、上掲の宇治神社っていうのは、そのときの
宮廷のあとだろうともいわれています。
そして、なんだかよくわかりませんが、仁徳天皇は、まるで消極的なだけの
ような書かれ方ながら、いつの間にかライバルであった兄弟たちを、そっくり
殺すか自殺するかで滅ぼしてしまい、一時的にきわめて安定した権力を作りま
す。
これが相当なものだっただろうことは、かの広さとしては世界最大規模の、堺
にある仁徳天皇陵のことを思えば、漠然とながら想像できますよね。
一方で、自殺したとされる菟道稚郎子は、宇治の全域といっていい広大な規模
の陵墓をあてがわれ、ここには専属の管理者もつくのですが、それ1.3キロ
×1.3キロという、それは広い領域で、宇治の東岸一帯が全部お墓に指定さ
れたわけです。
まあ、今でこそずいぶん開発されて住宅とかもできていますが、ずいぶん長い
あいだ、この宇治陵は荒れたままに放置されていたようです。
というのは。。 この土地に建物を建てようとしたり、開発したりしようと
したりすると、決まって祟りがあったんだそうなんですわ。
おかしな光がとびかったり、奇怪な音ともに地面がゆれたりするのは日常茶飯事
で、なにかしようとすると呪い殺されるというんでは、誰もそんな場所には手を
つけないですよね。
それやこれやで、宇治川東岸は、いまだに未開発のゾーンが多く、それが宇治の
景観を守っているともいえるわけですが、宇治十帖の舞台になったのは、まさし
くその宇治陵そのものなわけなんです。
宇治川の東岸一帯が菟道稚郎子を祀った宇治陵であるのに対し、西岸は、今も
平等院があることからもわかるように、藤原氏の土地でした。といっても、
藤原氏自体が、そんなにむやみに古い氏族ではありませんし、宇治の土地を
手に入れて、そこに広大な領地を展開したのは、道長とその子頼道の時代です。
先ほど恵心院の話を書きましたが、道長が恵心僧都源信に依頼したのは、
どうやらこの菟道稚郎子の鎮魂だったらしく、横川にいて、滅多に外に出ない
源信を何度も無理やりひっぱりだしては供養させています。
当時は菟道稚郎子がらみの怪異が、まあずいぶんあったらしいんですね。
さて、この日本書紀の物語は、紫式部にとって、ずいぶん強い印象があったもの
のようです。紫式部って人は、日本書紀がえらくお気に入りで、紫式部なんて
名前で呼ばれるようになる前は、日本紀の局とよばれていたぐらいですから、
相当読み込んでいたんでしょう。
思うに、上のほうに書いた中納言敦忠の話と、ここの仁徳天皇の話とが、彼女
のイマジネーションの中では複雑に結びついていたんじゃないのかな。そして、
俺自身は、光源氏のモデルとして、一番重要なのは、実はこの仁徳天皇なんじゃ
ないのかと思ってるんです。
まあ、こんな検証不可能な仮説はどうだっていいのですが、宇治十帖において、
大姫が中姫に薫をゆずった挙句に自殺に近い死に方をしたり、これは宇治十帖
ではないですが、今上天皇が光源氏に位をゆずろうと何度も本気で提案したり
する、その元になったのが、日本書紀のこの話であることは間違いないと思い
ます。
さらに空想すれば。。 源氏物語は、その最初の構想においては、天皇が自殺
することで光源氏に譲位するという、そんな内容の物語だったんじゃないで
しょうか。ただ、いくらなんでもそんな話を書けば、紫式部は宮廷から追放さ
れないではいられないでしょうから、意識的にか無意識的にかは知りませんが、
こうした結末は早い段階で放棄されはしたでしょうけどね。
でも、放棄はされたものの、この原型的イメージは無意識的にはいつまでも
残り、それが源氏の中で何度も繰り返されるモティーフになっていくので
しょう。すなわち、一方における、相手(多くは光源氏)に譲るというモテ
ィーフであり、もう一方における、失った者の本人ではどうしようもない
怨霊化です。
先ほども書いたとおり、俺はこうしたイメージの原型を、中納言敦忠が道真
の呪いで衰弱死した話と、この菟道稚郎子と仁徳天皇との、実態不明の物語
とにあると考えています。源氏が、他のさまざまな目的を見事に実現しなが
らも、本質においてオカルト物語でもあると考えるゆえんです。
今日はこんなもんで。宇治十帖を含めて、源氏を読んでる人にはけっこう面白い
話だったと思うんだけど、フランス人はいかが?
それはそうと、ノータリンちゃんが漫画で読んでるって話を書いてたよね。源氏
を漫画で読むのはいいことだと思うし、そもそもそういう発想で書かれているん
だから、もっと早く漫画化されてもよかったと思うぐらいです。
で、これに関してひとつ。国宝になってる「源氏物語絵巻」ってのがあることは
みなさんご存知だと思います。女の人が、源氏の浮気を知って凍りついたりする
シーンなんて、なかなか素敵だけど、あれについて少しだけ。
源氏物語絵巻ってのは、実にきれいな絵巻なんだけど、くわしく調べてみると
ふたつの層があるんだそうです。
ひとつめの層は白地に墨一色で描かれた部分で、これはとても達者な筆致で
描かれていて、あきらかに一流の絵師によるもの。
もうひとつの層はその上に塗られた極彩色の層で、これはとてもきれいでは
あっても、線からはみ出ていたり、へんなところにとんでいたりして、素人
の仕事であることがあきらかなんだそうです。
つまり、源氏物語絵巻っていうのは、塗り絵なんですよ。うまい絵描きさんが
下絵を描き、それに、宮中で中宮とか、女房とかそういう人が色を足していって
完成させたわけです。
そういえば源氏の中に、紫の上が「光君」をお内裏さまに見立てて、雛人形遊び
をするシーンがありましたが、お姫さまたちが、そんな風に源氏を楽しんでいる
姿を空想するのはなかなか楽しいですよ。
今日はこのへんで。
,:'"゙:、
,:' :
;'゙ 、 ,,,..,,.,.,.,,,,,, ,:' ;
; ,:''''" ゙゙' ;
;,:" ○ 、,:'
; ''"´ * ;'
:  ̄ ;'
: ;′
゙:、 ,: "
゙:, :
,:' :、
ヒマだから1から読んでみた。
無性に上げたくなったがsageといた。
上げても良かったか?
止めとけ。
>>844 よっぽどヒマだったんだな。場中でなけりゃ、別に上げてもいいよ。たいした
ことは書いてないしさ。
,-、 ,.-、
./:::::\ /:::::::|
/::::::::::::;ゝ--──-- / /、._/:::::::::::::|
/,.-‐''"´ / / \:::::::::::|
/ / / ヽ、::::|
/ / / ヽ|
l / / l
.| × / / |
l // // / / × l
` 、 (_/ /人__丿 // // /
`ー 、__ / / /
/`'''/ /ー‐‐──‐‐‐┬'''""´
./ / / __ l __
l / / ./ / |/ |
`/ /ー-< / ./ ./
`ー‐--{___/ゝ、,ノ
さて、明日はあんまりいないんで、今日はちょっとまとめてカキコして
みますか。
いちおう、源氏に関しては今日で終わりの予定です。それなりに風変わり
な話を集めてみたつもりなんですが、そもそも源氏に興味がないっていう
人には、かなりつらい感じだったかと思います。
前に少しポリフォニーについて書いたことがありますが、源氏を含めたすぐれた
文学テクストは、同時にたくさんのことを実現しているのが普通で、その多様性
が、あたかも「自然に存在しているもののもつ複雑性」のような錯覚を読者に与
え、それが作品に「現実感」を付け加える、というのがバフチンによる分析なの
ですが、これは、源氏にはとりわけ当たってると思います。
テクストとしての源氏物語は、少なくとも5種類の読者を想定して書かれていま
す。すなわち、
中宮定子→お后のメンタリティについての感情教育と、元々のファンとして
藤原道長→口説きとして
清少納言など→自分の文才や教養で圧倒させる
女房など→作家がふつうのファンに対するような感じ
そして、何より自分自身です。
自分自身にあてて書いているというのは、源氏には、追憶、瞑想、あるいは
純然たる恋のモノローグのような要素がふんだんにあり、紫式部はそれを、
なにも読者が読んでくれようがくれまいが、かまわずに記しているようなと
ころが、うんとたくさんあるという意味です。
その代表的な部分が、空蝉に関する部分と、光源氏の後半生にかかわる部分
だと、俺自身は考えているわけですが、それ以外にもうんとたくさんの箇所
が、彼女が自分だけのために書いた場所だということができるだろうと思い
ます。
こうした複数の読者を、彼女は執筆に際して、かならずしもつねに、同時に
想定していたわけではないでしょうが、バルト式にひとつひとつの文脈を、
これは誰あて、ここは誰あてなんていう風に分析するのもつまらないですし、
式部はつねにそういう人たちを念頭においていたと考えたほうが、生産的で
はあります。
読者の視点の想定において、これほど複雑な源氏物語は、目指す内容において
もかなり複雑です。
元々は嘉祥物語として構想されたはずだということは書きましたが、これに
加えて、お后の感情教育、口説き、女性にとっての瞑想、大鏡などと似た実際
のスキャンダルなどの婉曲な匂わせ、さらには、なんらかの政治的な意図すら
なかったとはいえません。。
こうしたことを、過去の彼女の思い出や、大好きな日本書紀のヒーローやヒロ
インたち、それまでに書き綴ってきたたくさんの物語や、読んできたそれ以上
にたくさんの物語や詩(漢詩と和歌の両方)を背景に、ドラマツルギーと、読者
からのリアクション、それに、その時々のティピカルな話題をふんだんに盛り
込んで作ったもの。俺は源氏をこのような物語だと考えているわけです。
まとめはこのぐらいにして、オカルト的な部分に戻ります。
源氏物語の最終部である薫と匂宮の物語の大半は宇治で話が進行していきます
が、その最後は再び京都に戻ります。
その場面をすでに読んだ方は思い出してください。身勝手な二人の公卿、薫と
匂宮の両方と関係をしてしまい、思い詰めた挙句身投げをするはずだった、
一番下のお嬢さん(浮舟)は、偉い坊さんにひろわれて、比叡山の麓あたりで
出家してしまいます。そこに薫がたずねてくるわけですが、彼女は会いたがら
ない。。 源氏物語は、そんな感じで終わっていますよね。
まあ、子供のころの紫式部は、わりとこの土地に親しんでいたわけですから、
ここが取り扱われていても不思議はないのですが、問題は、その記述に従う
と、小野の中でもかなりとんでもない場所になってしまうことなのです。
地図を見てもらえばわかるとおり、ここで十字にマークした場所は、京都の
北東、比叡山の北側の麓から、八瀬をぬけ、大原を越えて福井につづく、
通称「鯖街道」とよばれる道の、京都側の起点とでもいうべき位置です。
このあたりの記述をはじめて読んだ時、俺がすごく不思議に思ったのは、
なぜ比叡山に登ろうとする薫が、他のルートをとらずに、わざわざこんな
北側に迂回したのかということでした。
というのは、比叡山にはいくつか登山口があるのですが、普通は中納言敦忠
山荘跡の横にある「きらら坂」を使うか、曼殊院横の唐櫃越えという道を通
るか、さもなければ、北白川から山中町を抜けてのぼる山中越えという道を
通るかするんであって、わざわざ大原経由で行く理由がよくわからなかった
のです。
これはきっと特別な理由があるにちがいない。。 そんな風に思って調べて
みた結果、「特別な理由」は俺のカンチガイだったことがわかりました。と
いうのは、薫が向かっていたのは、比叡山でも横川とよばれる地域であり、
今でこそ「比叡山」としてひとまとまりのようですが、当時は西塔や東塔と
横川では仲が悪く、しかも比叡山の山内での通行がとても不便だったため、
横川に行こうと思う場合は、大原まで行って、そこから登るというのが、
普通のルートだったということがわかったわけです。
このふたつの神社が、なんといってもくせものなんです。
まず崇導神社ですが、この神社は崇道天皇こと、あの早良親王をお祭りした
神社で、源氏を読むかぎり、浮舟さんが住んでいたのは、ほぼこのあたりで
あると考えられます。
早良親王のことはすでにご存知ですよね。映画「陰陽師」で、真田さんに
よって封印を解かれて呼び出され、都を壊滅させそうになった挙句、kyon2
と抱き合って昇天してしまった、にっくきあいつです。
映画ではよくわかりませんが、この人のお墓は二箇所あり、ひとつは淡路島、
そこであんまり祟りをおこされるので、今度は長岡京に改葬され、映画の設定
ではいちおう長岡京から飛んでくるみたいな感じになっていたようです。
ちなみに、kyon2がうろうろしていた竹やぶは、大原野か、さもなければ岩清水
八幡宮の近くのやつだろうと思います。とにかく、このあたりの竹やぶってい
うのは、本当に見事に管理された美しい場所ですから、おひまな人は一度どうぞ。
今時分はたけのこのシーズンですから、むやみに入り込むとおまわりさんに
突き出されますが、とてもきれいなところです。
この早良親王が、どうして京都の鬼門の入口にお祭りされているのか、それに
ついては調べてみたのですが、どうもよくわかりません。ただ、ふたつのこと
がヒントにはなりそうです。すなわち、よりにもよってこの神社の境内で、
小野氏の祖先である小野蝦夷(妹子の息子)の墓が発掘されたこと、そして、
この神社の氏子が、鬼の子孫とよばれる八瀬童子であることです。
この八瀬童子とよばれる人たちは、平安時代以来ずーっと、天皇の葬儀には
欠かすことのできない人たちで、天皇の遺骸を乗せた篭は、彼ら以外には
触れることもゆるされないという状態が、なんと大正天皇の葬儀まで続いて
いました。
昭和天皇のときも、古式にのっとってやるためにはどうしたらいいのかと、
かなりモメたらしいのですが、結局、葬列の車に八瀬童子の人たちがつき
従うという形で古式に配慮されました。
なんでも、八瀬童子以外の人たちが天皇の遺骸に触れようとしても動かないの
だというのですが。。
あくまでこれは俺の推測にすぎず、なんの根拠もないのですが、平安京のはじ
めに、桓武天皇が、早良親王の亡霊に対して、自分および自分の子孫の遺骸は
あなたの好きにしてよい、すなわち、王城と天皇家の霊的支配者としての特権
を譲り渡したのではないのでしょうか。
そして、その早良親王の怨霊に使える民として指定されたのが八瀬童子であり、
それゆえに、過去の風習の意味がわからなくなってもなお、天皇の遺骸が彼らの
ものであるという、誰にも変えられない信仰だけが残ったのではないかと思って
いるわけです。(ただし、根拠はないですよ)
一方、対岸にある御蔭神社ですが、ここは、賀茂神社の祭神である賀茂別雷命
(かもわけいかづちのみこと)が降臨した場所とされるところで、どうして
こんなに重要な神社が向かい合って存在しているのか、それはよくわからない
のですが、両者が無関係であるとも考えられません。
さらにいえば、この土地は三宅とよばれる土地であり、京都に都が出来る以前
から、ここには武器庫だのがおかれていたことも間違いないでしょう。
この土地が小野であり、小野氏(オニ氏)が長く本拠地にしていた場所である
こと、また、中世には出雲氏とよばれる氏族がこのあたりの支配者として、
祭祀を行っていたらしいことについてはすでに書きました。
さらにいえば、比叡山の有名な千日回峰行、あれの発祥の地もこのあたりなの
ですが、これは賀茂氏の祖先とされる役小角(えんのおづぬ)をならったもの
であって、仏教とは直接の関係はない、別途の山岳信仰が習合されたものです。
当時の京都が、怨霊騒ぎがもっともたかまっていた時期であることは、他でも
ない、安倍晴明その人がこの時代の人間であることだけでもおわかりでしょう。
その最大のスターが、早良親王であり、菅原道真であり、あるいは菟道稚郎子
だったわけですが、夕霧物語以降、宇治十帖にいたる源氏物語は、この3人に
あまりにもゆかりのある土地でのみ話が展開していくのです。
これが偶然であるはずがないことは、わざわざ力説するまでもないことです
よね。俺は、その背後に何かがあるにちがいないと考え、かなり丹念に追跡
したことがあるんです。
ていうか、それが今回のテーマそのものなわけなんですけど、その際、前回
から引き続いて出てくる人物、比叡山横川の哲人こと、恵心僧都源信が重要
な役割を、当然担っているはずだと考えたわけです。
最初に立てた仮説は、光源氏=光の天使=救済者であるというテーゼにたっ
た上で、浄土宗の原型のようなものがあって、その神話(仏話?)の一種と
して源氏は構想されたのではないかというものでした。実際、源信っていう
人は、日本仏教史では、浄土教の発端みたいなところに位置付けられる人で
すからね。
しかし、今ではこの仮説は放棄しています。先ほどポリフォニーにからめて
源氏物語の全体構造について少し書きましたが、源氏というのは「薔薇の名前」
ばりに統一的なイデーに還元できるものではなく、それぞれ個々の部分につい
ては、探れば典拠がちゃんとあり、意外なところに出たりはするものの、それ
ぞれの材料が緊密な関係を持っているわけではなく、いわばパッチワーク的に
つなぎあわされているのではないかと考えています。
その中で源信の役割なのですが、俺は最初、この源信こそが紫式部のイデオローグ
であると考えていたことは説明の必要はないでしょう。
しかし、現時点ではそう考えてはおりません。そうではなく、当時の紫式部の
周辺で、源信という人が圧倒的な人気を集めており、それゆえにここに登場さ
せたのではないかというほうが本当ではないかと思うのです。
たぶんですが、源信という人は、我々が現在「教科書的知識」として知ってい
るような、横川に隠棲していた寡黙な学者としてではなく、江戸時代の祐天和尚
のような、きわめて強力な霊能力者として、当時の人たちの目にはうつっていた
のではないかと思います。
そして、だからこそ道長があれほどいろんな場所に引っ張り出したのであり、
そのお礼に僧都の位をもらってあげたのであって、道長のような人物が、すぐ
れた学者であることそのものに、特別な価値を見出したとはとても思えません。
その際、源信に祈らせたのは、なんといっても、定子など自分の娘が皇太子
を産むことでしょうが、宇治での様子を見ると、怨霊にも相当参っていたよ
うだし、糖尿病というのが本当なら、自分の健康問題だの不老長寿だののこ
ともあっただろうと思います。
紫式部としても、自分の雇い人が崇拝している人物ではあるし、道長の糖尿病
が治ってくれないことには、いくら両方がその気でも肝心のナニができません。
この二人、日記の感じを見ただけでも、けっこういい感じであることはわかり
ますから、これはなかなか深刻だったのかも(w
しかし、一方で紫式部という人は、文章博士の父を持ち、自身も非常にすぐれ
た知識人でしたから、源信が本質的に学僧であって、呪術師ではないことは、
知っていたのではないでしょうか。源氏に出てくる源信をモデルとしたらしい
僧の描き方が、ほんの少し茶化し気味なところなどから、そんなことを想像し
ているのですが、いかが?
以上、この項は、源氏らしく余韻を残して終わりです。
496KBを越えてるとかいう警告が出たところを見ると、そろそろ次スレの
用意をしないとならないのかな。どうやら、このスレは、ひさしぶりに1000
まで行かずにおわりそうだ。
次は、源氏の関連で能の話をちょっと書くつもりでいるんだけど、フランス人
は泣いちゃいそうだな(w
ウッ!
.∧_∧
キ━━(* ゚∀゚ )━━タ!! ___
( つ∩と) ... .|\__\ < パンパン アンアン
.と ___Y____) . _| |r――t|
いきなりお能の話をはじめる前に、さっきニュースで北海道で桜が咲いたとか
やってたことだし、桜の話を少しばかり。
俺、ずっと長いこと、なんであんなに桜ばっかりもてはやされるのか、それが
よくわかんなかったんだ。花としては梅のほうがきれいな気がするし、匂いも
梅のほうが断然いいでしょ。実も食えるし。まあ、さくらんぼのなるタイプな
ら食えるわけだけど、普通のソメイヨシノだと実もならん。
ソメイヨシノってのは、江戸時代末期に、上野公園でみつかった木のクローン
なわけで、日本中どれでも遺伝子は同じなんでしょ?(突然変異をのぞく)
しかも不妊の木なわけで、それが日本中を一気に埋め尽くしていくっていうの
は、いったいなんなのだろうって、こないだまで住んでたところのわりと近く
にある「哲学の道」を歩きながら、そんなことをけっこう考えてたことがあん
のね。
第一、桜って花自体そんなに好きじゃない。まあ、一番の理由は、桜の満開の
時期に自殺した友達がいるせいなんだけど、あの花って、夜見ると薄気味悪い
んだよ。
しかも、桜の見方っていうのは、ちょっと他の花とはちがっているような気が
する。哲学の道なんてのは典型だし、造幣局の通り抜けにしろ、上野公園でも
そうなんだけど、桜は「花の下」で見るものでしょ。さもなければ、山全体が
桜一色に染まるのを眺めるもので、一本だけで見るなんていうのは、京都で
いうなら祇園の枝垂桜とか、フランス人は知ってるかな、三春の滝桜とか、
そういう巨木で、しかも枝垂桜のケースが多い。まあ、ソメイヨシノの歴史が
そんなに長くないから、ソメイヨシノの本当の大木っていうのがないせいも
あるけどね。
なんでこういうことになってるんだろうと思って考えた挙句、俺は、桜には
その根底に一人の人物の美学というか人生の全部が重ねられていて、それを
追憶するのが「本当の花見」なんじゃないのかなって気がしてきたんですわ。
その人物は、いうまでもなく西行です。
西行っていう人については、知ってる人もけっこういると思うけど、俗名を
佐藤義清(のりきよ)といって、鳥羽法王の北面の武士として仕えた人です。
時期は平安時代末期で、平清盛その人が、彼の同僚だったということを思えば、
なかなかの家柄だっただろうことは当然推測できますよね。
実はこの人、大英雄、俵藤太こと藤原秀郷の直系の子孫なんですわ。この人は
平将門を討ったことで著名な人物で、その直系の棟梁ですから、西行も、源氏
や平家とならんで、「武家の棟梁」になりうる有資格者の一人だったわけなん
です。
実際、西行って人は弓矢がうまかったらしいし、のちに鎌倉で源頼朝と会った
ときには、数日間に渡って秀郷流の武術を講義したぐらいで、なかなか立派な
武士だったようです。
しかし、彼が重宝されていたのは、なんといっても歌人としてで、荘園を持った
武士だけに金は持ってるし、貴族的な考え方には敬意を払うしで、自分より
だいぶ身分の上の人たちからも、けっこう大事にされていたらしいことがうかが
われます。