「老人と海」(福田恆存訳)を読んでいるんだけど、そこからの引用をしてみる。
老人が来る日も来る日も空の小舟で帰ってくる事のを見るのが、少年は何よりも辛かった。(5P)<少年視点>
この男に関するかぎり、なにもかも古かった。ただ眼だけがちがう。それは海とおなじ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせていた。(5P)<神視点>
これまで老人は少年に魚をとるすべを教えてきた。そして少年は老人を慕っていた。
(6P)<少年視点>
「一つでいい」と老人はいった。かれのうちには、希望と自信とがまだ燃えつきていない。それがいま、風とともに新しくたちかえってきた。
(9P)<神視点>
「すまないな」と老人はいった。かれは単純な人間だったので、いつから自分はこうも人に気がねするようになったかなどと考えはしない。
しかし、いつのまにか自分は人に気がねするようになったとおもう。同時に、それはなにも不名誉なことではない。
本当の埃をいささかも傷つけはしないと考えていた。(9P)<老人視点>
おおざっぱに言えば
老人の状況→少年の内面→老人の外見→神視点での老人描写→老人と少年のやりとり
→老人の内面→老人と少年のやりとり→老人の内面→少年の内面
などと続いている。視点が色々に振れているようにも見える。
視点ってこういう事ではないかなぁ?
もっと詳しくまとめれば、
ttp://www.litrans.net/v/romance/point-view.html ttp://tenmyo.s58.xrea.com/cre/?(w)%BE%AE%C0%E2%A4%CE%BF%CD%BE%CE%A4%C8%BB%EB%C5%C0
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1310516778
たとえばスポーツを外側から観る立場でも楽しめたり感動したりもするだろう?
アスリートやプレイヤー自身の視点ではなくても描くことはできるはずだ。
神視点というのは、言い換えれば「すべてを見通せる全知全能の神の目」。
神はどんな人間の心の中も覗けるし、どこか知らない場所で起こっている
出来事でも理解して見通すことができる。
小説でいえばストーリーに登場するあらゆることについて追及して書く
こともできるわけだ。
スポーツを観戦するのも苦手というのは、その競技のルールそのものを
よく知らなかったりするからじゃないかな。
ところで幹事来てたんだね。
今日はなんとか間に合ったw
>>53 創作文芸板の人かな?ググってみたらまとめがあったので、転載。
視点 描写範囲 向き 不向き 小説以外の身近な例 読者の立場
一人称 語り手の主観 心理描写 細かい動作の描写 ラジオドラマ 語り手への共感者
二人称 語り手の語り 手紙・ホラー・伝奇 スピーディーな描写 手紙・電話 聞き手そのもの
三人称・ カメラ 目や耳で感じられるもの 推理小説 恋愛もの 野球中継(解説除く) 観察者
三人称・一人 カメラ+ある一人の心理 特になし 特になし 不明 傍観者
三人称・神 無制限 不明 不明 プロジェクトXとか? 観察者
三人称一人っていうのが三人称一元視点で、三人称神ってのが三人称多元視点だと思う。
こんな感じになってて、神視点が難しいって言われるのは、それぞれの心理の深さと客観的な視点とのバランスを取る必要があること、
それに加えて、読者が読み手としてのどこに居ればいいのかわからなくなってくるという居場所の無さが生まれてしまうって事なのかな?
一人称だと、通常は登場人物の誰かの内側に居座って物語を体験する事になる。
三人称でも一元視点の場合は、同様だ。自由間接話法とか使うと一人称とあんまり変わらないかもしれない。
三人称カメラはまさにスクリーンの前に座っているようなもの。
三人称神視点は、物語の中に入り込み、カメラマンとともに移動しているので、忙しい。
背後零とか、いう概念もどこかに書かれていたよね。
物語を俯瞰したり、全員の関係性について知り得たり、それぞれの心のうちを知ることが出来たり。
物語全部を見回す事が出来るのかなぁ?神視点だと特定の人が居ない場所でも描写出来るという利点もあるけれど、
読者の考えている事や、読者が知りたがっている事、書きながらでも読者の思考の動きを先回りして書くことが必要なのかもしれない。