//NYY55//松井秀喜128〜A's,Angelsを打ち崩せ
【小学生】秀喜が小学一年の時のこと。
クラスに日本人のお父さんと外国人のお母さんをもつ児童がいた。
肌の色が違うことで、いじめの的になっていた。その時に、
「いじめちゃだめだ」
とその間に入って止めたのが秀喜だったのだ。秀喜は身体は大きかったが
腕力にものをいわせるような子供ではなかった。
『ひでさん』光文社
【中学生】ヒデキが最上級生になった時、そのクラスの編成替えで、女性の先生が
「ヒデキを私のクラスへ」と希望したそうです。
ヒデキがクラスにいるといじめをする生徒もいないし、
学業が遅れている生徒にはヒデキが放課後教えていたそうです。
「あんなやさしい生徒はいなかった」というのが、その女性教師の言葉です。
『MODESTY』 講談社
【高校生】最上級生となって、チームメイトに「絶対にいじめをやめよう」と
話したことがあった。野球に限らず、体育組織では先輩後輩関係の厳しさがエスカレート
しがちだけれど、最上級生となった秀喜は自らそれをチームメートに戒めた。
『バットマン松井秀喜の真実』
【ヤンキース時代】
http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/special/matui/index.html
【巨人時代】
そんな時、いじめをなくすための本に、ヒデキ君がメッセージを送っているの
を見つけたことがあります。
いじめられているみんなへ
神様だって、いつまでも君を見捨てはしないはずだ。
今の苦しみに勇気を持って立ち向かおうじゃないか。
自分がいじめられているという事を、親や先生や友達に言うのは嫌かもしれない。
でも、頑張って相談すれば、必ず良い方向に行くと思う。
一番勇気のないことは、自分の人生を全うしないことだ。
神様は君がこの世で生きていけると判断したから君は今ここで生きているんだ。
それでも勇気が持てないのなら僕に言ってくれ。
手紙でもいいから相談して欲しい。
何か君に出来ることがあれば、一緒に頑張るよ。
君のこれからの素晴らしい人生の為に。
松井秀喜
このメッセージに手紙をくれた子供もいた、と松井は話してくれた。
手紙の返事もちゃんんと書いたそうだ。いったい何人の子供たちがこのメッセージに
勇気付けられたことだろう。私はこのメッセージを見て、松井と少し話し合ったことがあった。
「いいメッセージだったね。きっとたくさんの子供が勇気付けられたと思うよ。
私が言うと、松井は照れくさそうにうつむいた。
『MODESTY』
【巨人時代】
なぜいじめが起きるのだろう。
ボクも小学生の頃、むしゃくしゃして人にあたりちらそうと思ったことがあった。
でもそんなことは言えなかったし、出来なかった。
相手の気持ちを考えたとき、どれだけ傷つくだろうと思ったからだ。
今、この世の中のいじめがなくならないのは、たぶんいじめをすることによって、
自分の存在価値を示したり、いじめが自分の欲求を満たすものだと勝手に思い込んでいる
人がいるからだと思う。
いじめをした人たちが大人になって、ふとその時のことを振り返ると、いじめなんてしなきゃ
よかったと必ず思うのではないだろうか。
人は夢を持っていると思う。
若ければ若いほど、夢もたくさんもてると思う。
ボクの夢は野球そのものだったし、甲子園に出場することが夢だった。
いじめることが夢なんて人は一人もいないはず。
かなう夢、かなわない夢があると思うけれど、いじめは自分の夢の遠回りになっている。
いじめをやめること、夢をかなえること、どちらもチャレンジだ。
ボクも夢に向かってチャレンジする。
みんなも夢に向かって、一緒にチャレンジしよう。
松井秀喜
【ゴロキングと言われてた頃】
そして、何より気になるのが、連続試合出場という記録が続いていることで、監督やチームに
迷惑をかけているのではないか、ということだった。
「打てなければ外されても仕方ないのに、その記録のためだけに使われるのであれば…」
思い悩む松井選手を見てトーレ監督は
「ヒデキはチームに貢献してくれている。新聞の記事やオーナーの発言は気にするな」
と言ってくれるが、その言葉に甘んじていいのだろうか。自分の成績に比例するように、チームの
状態も悪くなっていく(5月は11勝7敗)
そんな松井選手をチームメイトはどうみていたのだろうか。
マスコミの記事を見る限り、どちらかと言えば、同情的な見方をしている選手が多いように感じられたが
、実際は、「何で、あんな打てない選手を使い続けるんだ!」批判する選手もいたのは事実だ。
「どうしたらいいのか…何か良い方法があったら、教えて欲しいよ」
食事をしていると、松井選手の口からぽつりと、こんな弱音の言葉が出た。
確かに、日本でも何度かスランプにおちいったことはあるが、ここまで弱音をはく
松井選手を見るのは初めてだった。
(略)そんな松井選手にとって唯一のなぐさめは、日本の子供たちから寄せられるファンレターだった。
ひらがなだけで書かれたものや、色紙に寄せ書きしてあるもの。おそらく、幼稚園児や小学生が
書いたものだろう。中には、中学生や高校生の書いた英文の手紙まである。それを読んでいるときは、
いつもうれしそうだった。
特に、ある養護学校から「がんばれ、松井選手」という文字の刻まれたプレートが届いたときの
喜びようといったらなかった。「みんな、僕のために一生懸命に作ってくれたんだね、ありがとう」
そう言って、大事そうにかかえながら、自分のロッカーの、いつも見える位置に飾ったのである。
『松井秀喜 僕には夢がある』広岡勲
それまで仲良くしていたクリス・レイサム選手に突然、自由契約が言い渡された。
自由契約はトレードとは違い、他の球団が取ってくれないかぎり、アメリカでは野球ができなくなる。
「これから、どうするの?」心配そうに聞く松井選手に、意外な答えが返ってきた。
「たぶん、日本でプレーすることになると思う。それも、ヒデキのいた巨人で…」
帰りのバスの中、松井選手はレイサム選手の隣に座ると、すぐにペンとメモ用紙を取り出した。
そして、巨人のこと、メジャーと日本のプロ野球の違うところ、さらにはおいしいレストラン…
ときおり、絵を交えながら説明しはじめたのである。
終わってみれば、びっしり書かれたメモ用紙が4枚にもなっていた。
「ヒデキ、ありがとう。これから、おたがいにがんばろうな」
というレイサム選手に、「日本は、とてもいいところです。巨人もヤンキースと同じように、
いい人ばかりです。思う存分、野球を楽しんできてください」
松井選手はそう言って、手をさしのべた。
『松井秀喜 僕には夢がある』
「松井は年がら年中野球のことを考えていますね。だから、あのようにメジャーで
成功できたんでしょう」
「何がすごいかというと、V旅行に行った時、なぜか松井と二人部屋になったんです。」
「それで、V旅行中のある晩、俺がベロベロになって帰ってきたら、松井がいなくて、
「まだあいつ飲んでるのかな」と思ったんです。それで、そのまま寝ようと思ってベッドに
横になったら、外からドスドス音が聞こえてきました。カーテンを開けると、そこで松井が
スクワットをやってるんです。
しかも、トランクの中にはバットが一本。「こいつ、違うわ」と思いましたね。
やはり、すごい努力をしていますね。
あのことを思い出すと、今の松井の活躍は当然だなと思います。あそこまで力のある人間が、
あそこまで努力してるんですから、あのヤンキースでプレーしているのも不思議じゃないと思いますね。
プロ選手はみんな努力してるっていうけれど、さすがにX旅行のときまではしてないと思いますよ。
遠征先ならまだしも、みんな日本一になって浮かれている時に、あいつは練習してたんですからね。 」
『クセ者 元木大介自伝』 双葉社
【日本一になった時のエピソード @ 】
優勝に大きく貢献し、年の瀬に故郷へ戻るとき、小松空港には多くのファンが秀喜の帰郷
を待ち構えていた。報道陣の数も多い。
両親もいったん、空港に向かっていたものの、人の多さに自宅に戻って待つこととした。
そんな凱旋帰郷した秀喜の気配から、父・昌雄は一瞬、「秀喜が天狗になっているのではないか」
と感じたという。
帰宅した秀喜に昌雄は、早速その思いを語った。父の言葉を秀喜は、何も言い訳せず、じっと黙って
聞いていた。そんな父子の様子を見ていたさえ子は、
「あれではまるで説教だ。かわいそうに。一年頑張って優勝して帰ってきたのに、いきなりあんなことをして」
と昌雄を責めた。
昌雄はそんなつもりなど全くなかったというのだが。
『バットマン松井秀喜の真実』
【日本一になった時のエピソード A 】
秀喜がタクシーを降り、周囲を一瞥し、手を上げた瞬間、私はドキッとしました。さりげない動作の
中に、天狗になっているというか、スター気取りというか、嫌な雰囲気を感じ取ったのです。
秀喜の瞳の中には明らかに驕りの光が宿っていました。
「(略) 秀喜は自分では気づかないだろうが、あの態度は少し変だ。お父さんにはまるで凱旋将軍のよ
うに感じられました。第三者には見えなかったかもしれませんが、お父さんには、はっきり見えました。
シルエットにおごりがにじみ出ていました。
自分を見失ってはいけない。常に謙虚な気持ちでいないと、挫折したときのショックは
計り知れないですよ。」秀喜は終始、黙って聞いていました。
彼はこういうとき、途中で口を挟んだり、反論したりはけっしてしません。
わたしの話にじっと耳を傾けています。私が話し終わると、秀喜は、何ら言葉もなく黙ってその場を
立ち去りました。
私は理解してくれたかどうかわからず、その夜は不安でよく眠れませんでした。
朝、パジャマ姿の秀喜と顔を合わせました。
「おはよう」「おはよう」
彼の笑顔は少年時代同様、屈託のないものでした。
(よかった。昔の秀喜に戻った。)私は胸を撫で下ろしました。
彼は彼なりに一生懸命考え、わたしのいったことを理解してくれたのでしょう。
『秀さんへ 息子・松井秀喜への二一六通の手紙』
【日本一になった時のエピソード B】
「僕はじっと聞いた。そして時間も経ったので自分の部屋に入った。はじめは何を言われているのか
わからなかった。よく考えてみて、やがて、僕の態度がいかにも傲慢にふるまっていたようだ、とい
うことに気がついた。毎日僕を見てきた父だからこそ、気がついたことだった。
そうか、こんなことですごいことを成し遂げたような気になってはいけないのだ。
僕はハッと目が覚めたような気がした。こんなことはきっと、言われなければ永遠に気がつかない。
そして、父以外に気がついて、言ってくれる人はいないのだ。」
「とても言いにくかったことを言わせてしまったことを、僕は反省した。
そして、僕を信じて言ってくれた父の愛情に、僕は感謝した。」
『 翔ぶ 』松井秀喜 著
秀さんへ 1999.5.18
第7号ホームラン、おめでとう!打席内の秀さんの目つきで、出そうな予感がしました。
ピッチャーに向かっていく闘争心が眼に出ていました。今年は初めから、秀さんの顔に闘争心が
消えていたことが不安でした。闘争心こそ、秀さんの昔からの持ち味。野球人生の原点です。
ところが、今年の秀さんの打席は仙人を連想させます。仙人は山の中で一人鍛錬しますが、バッターは
相手との戦いです。いまの秀さんは技術こそ一流かもしれませんが、闘争心は三流くらいでしょうか。
昌雄
秀さんへ 2003.4.24
遠征ご苦労様です。久々のヒット、おめでとう!アメリカ全土を駆け巡っているような遠征で、
しかも初めての体験ですから大変でしょうね。食事、睡眠、時差。まことに過酷な毎日でしょうが、
きっと充実した日々を過ごしていることと思います。しんどいと感じれば苦しさに苛まされますし、
得がたき体験と思えば無性に幸せを感ずるのではないでしょうか。
いつもお父さんは思いますが、秀さんは夢の世界に飛び込んだわけですから、本当に幸せ者です。
前にも書きましたが、忍耐、反省、感謝を忘れないでください。
昌雄
『秀さんへ 息子・松井秀喜への二一六通の手紙』
秀さんへ 2004.1.8
2004年、秀さんへ初めてのメールになります。昨年は未経験の、過酷なメジャーリーグへ踏み出した
年でしたね。あれから1年、秀さんはヤンキースの一員として全試合に出場。本拠地開幕戦で満塁
ホームラン、オールスターゲーム出場、ワールドシリーズ日本人初ホームランなど、大活躍の一年でした。
秀さんの幸せは何と言ってもトーリ監督というメジャーを代表する指揮官に出会ったことです。
秀さんのひたむきな姿、日々の努力が認められたのだと思います。
今年こそ、ワールドチャンピオンを目指してください。
お正月、わずかな再開でしたね。家族はもちろん、郷土のファン、全国のファンが太平洋を隔てて
応援してくださっていることを忘れないでください。
いってらっしゃい、秀さん
昌雄
『秀さんへ 息子・松井秀喜への二一六通の手紙』
「秀喜が日本のプロ野球界に在籍した10年間、わたしと家内は178通の手紙を書き、彼の
部屋にFAXを送り続けました。アメリカへ行ってからはそれがメールに変わりました。」
私の教育観は昔もいまも替わりません。
「父子といえども、対等の関係。真剣勝負です。」
そんな考えは、いまは亡き母の言葉がベースになっています。
「子供というのは、あなたのものだけど、あなたのものではない。神様から預かったもの。
だから、気を張って育てなきゃいけません」
わたしは子供たちを独立した人格を持つ人間として遇してきました。秀喜のことは
「秀さん」、3歳上の長男・利喜のことを「利さん」と呼ぶのも、そのせいです。
手紙は全て「秀さんへ」という書き出しで始まっています。わたしと家内はたくさん手紙を出しました
が、秀喜からの返書はあまりありません。プライベートなことでお説教をした際、次のようなFAXが届きました。
両親へ 1997.1.18
FAX、見ました。僕にはまだまだ時間が必要です。いろんな、経験、体験、勉強をしなくてはいけ
ません。素晴らしく洗練された大人に成長できるようがんばります。また気づいたことがあれば、
言ってください。身体には充分気をつけて。僕もがんばります。
秀喜より
『秀さんへ 息子・松井秀喜への二一六通の手紙』
「手紙にはいろんな野球評論家の人たちのコメントが出てきました。
おやじ、わかってるよというときもありましたが、反対に、なるほどと感じることも多かったんですよ。
子供じゃないんだから、細かいことで送ってくるなよ、なんて思ったことは一度もありません。」
「遠征先には必ずパソコンをバッグに入れて持ち歩き、深夜ホテルで開いています。
時にはありがたくないメールもありますが、遠いアメリカの田舎町にきても両親がそばで見守って
くれてるようで、不思議な感じがします。
ぼくはちょっとずつ階段を上がっていくタイプだと思っています。急激にすごい数字を残すとか、
すごいものを身につけたりとか、そういうことはおそらくない人間です。一進一退をくり返しながら、
ちょっとずつ階段を上っていきたいと思っています。」
松井秀喜
「巨人の松井君は、僕から見ると、ほんとうにプロ意識の塊のような選手だ。
/松井君との勝負は、初球の入り方がものすごくむずかしかった。初球をドンピシャリと当てら
れたら、一発でスタンドに運ばれる。
しかも、彼の場合、高めのフォークを待っているときがある。僕と対戦する打者はほとんど例外なく
直球を狙ってくるから、松井くんの志の高さにはビックリすると同時に感心した。
『大魔神伝』佐々木主浩
「スプリングトレーニングが始まったばかりのレジェンド・フィールドのクラブハウスで名詞を
渡すまで、一面識もなかった。
松井秀喜=ホームラン打者 と同様に、松井秀喜=優等生 という確固たるイメージがついて
回っていることは、もちろん承知していた。ニッポン球界でいう『優等生』は必ずしも褒め言葉で
ないことは周知の通り。むしろ、面白みのないヤツ、人間性を見せないヤツ、といったネガティブな
使われ方をする。だから、期待は抱かないようにしていた。」
「結論から書けば、この一年間で松井のイメージは見事に覆された。」
「驚きというほかはなかった。メディアへの対応には人一倍神経を尖らせるヤンキースにあっても、
松井は特別だった。「アンビリーバブル」ある時そのことを話すと、メディア・フレンドリーで
知られるバーニー・ウィリアムスでさえも驚きの声を上げた。
『NUMBER』2003-2004 12月25日号
「人間・松井秀喜の研究を書いてみたい」。彼にそう告げた時の第一声が忘れられない。
「短気なのが、ばれちゃうかもね」
/しかし、少年時代の思い出から、宗教との関係、夢の中身まで、いくら話を聞いても、「短気」
であることを示す逸話は出てこなかった。
取材メモを、熟語に置き換えてみると「努力」「一生懸命」「自然体」「普通」「謙虚」「真面目」などが
浮かんでくる。どれも、従来の松井のイメージを復習しただけではないか。
酔ったら本性をさらけ出すかもしれない。そんなもくろみも、失敗に終わった。
「松井さんがいってることはきれいごとすぎる。つまらない」。
先にこちらが酔いつぶれて、何度、暴言を吐いたことか。それでも、彼は声色一つ変えず、最後まで
丁寧に、一つひとつの質問に付き合ってくれた。
周辺でも、松井がいら立ったり、相手に不快感を与えたりした場面を記憶している人は、容易にみつからなかった。
「松井は美化されすぎではないか」
最後に、父親の昌雄を強めに揺すってみた。以外にも「その通り」という答えが返ってきた。
「秀喜が一見、優しそうに見えるのは、自分が逆のものを持っているからでしょう。その裏返しだと思う。
逆のものを見せたくないから、本能的に優しい姿を見せるんじゃないですか」
「逆のもの」とは?
「そりゃあ、すごいですよ。彼が怒りだしたら本当に怖い。暴力を振るうわけでもないし、相手をむちゃくちゃ
に言うわけでもないですが、怒りの世界に入って、相手をにらんだときの目がすごい。子供のころ、よくそういう
姿を見たね。お兄ちゃんとけんかした時の、彼の目の据わり方といったら半端じゃない。」
/息子にだって、他人の立ち振る舞いに怒り、悪口が舌先から滑り落ちそうになる時がある。
ただ、自己コントロールの術を知っているから、沸騰しない。そういう具合にできている。父親はそういった。
日経『ヒデキマツイ』
あまり知られていないが、松井はかなりの読書家である。
私が会社を辞めたときに送ってくれたのがセルバンテスの言葉であることからもお察しいただけると思うが、
松井の本棚には野球の本を含め、小説やらノンフィクションやらがズラリと並んでいる。
自分から食事に誘ったりすることもほとんどない。これはジャイアンツ時代からのことだが、特に
相手が後輩だった場合、食事に誘うことは全くと言っていいほどなかった。
なにも後輩を嫌っているからというわけではない。むしろ、後輩を尊重しているからこそのことだ。
自分の立場や影響力を考えると、後輩たちは誘えば断ることができない。それではお互いのためにならない、
と考えていたのだ。
『プロの流儀』 義田貴士